93.apple
……。
すぐには、状況が飲み込めなかった。
思わず上を見上げると、存外近い距離に、エルシャスの顔がある。とろんと眠たげな蒼の双眸が、こちらを見つめていた。
……うん?
あれ?
もしや、あの。
こ、これは所謂、お姫様だっこでは?
「あの、エルシャス、自分で歩けま」
「ひめ、からだ、あついね」
「!?」
かっと顔が赤くなるのが自分でもわかった。
風邪だから体が熱いのは別段おかしなことではない。でも、お姫様だっこをされて、息がかかりそうなほどの至近距離から体温をとられるのは、非常に恥ずかしい。
確かに、ルーヴァスにも抱き上げられた。でもあの時は完全にふらついていたし、そんなことに気をやる余裕なんてなかったからか、あまり意識しなかったのだ。でも今はそうではない。
劇的に体調がよくなったわけではもちろんないが、状況を見ることができるくらいには回復しているのだろう。ひとまず、こんな抱き上げられている状況で大人しくされるがままになっていられるほど、体調は悪くない。
「わ、私は別に、あの、普通です」
「? ひめ、いつもこんなにあついの……?」
「いやそれは風邪だからで」
す、と言おうとした言葉は途切れた。
こつん、と額を当てられ、唇が触れそうなほどの距離まで彼の顔が迫ったからだ。
「ひゃ」
変な声が漏れるも、エルシャスが気にした様子はなかった。
「あついのあついの、とんでけー」
エルシャスが私の額と自分の額をすりすりと擦り合わせてそう呟く。
「え、エルシャス近い、近いです」
「?」
「っていうかそれ、「痛いの痛いの飛んでいけ」だよ……」
止めるかどうしようか迷っているらしいカーチェスがそんなことを呟くが、私はそれどころではない。
こんな小さな子に抱き上げられるなんて、っていうかエルシャス重くないんだろうか。私は細い方ではないから、絶対重いはずだ。申し訳ない。
「エルシャス、重いですよね? あの、降ろしてください」
「ううん。おののほうがおもいよ」
そんなものいつも振り回してるってどういうことなの!
「いやでも仕事でもないのにほら、私重いからその、申し訳ない……」
「でもひめ、ときどきフラフラしてる」
まぁ確かに頭痛でくらくらはするんですけれども。
「別に、自分で歩くくらいはどうってことな」
「あ、そうだ。ちゃんとした紹介いるんじゃない?」
私が何とかエルシャスの腕から逃れようとするも、そこでユンファスが声をあげた。
「ラクエスとさ、キリティアの。姫、精霊に会うの初めてでしょ」
「うっ」
初めてじゃない。
もう思いっきり何度もスジェルクというナルシスト精霊には遭遇している。
と言っていいのかわからないので、
「あ、初対面ですね、確かに……」
と曖昧に返す。
いやでも今はそんなことどうでもいいんだ。この、明らかに私より年下であろうこの子に抱き上げられているという状況を何とかしたいんだ私は。
「でも今は、」
「そうだな、確かに……、それならひとまず、姫を自室に連れて行ってから、そこで簡単に自己紹介したらいいのではないだろうか?」
さらっと今、ルーヴァスが連れて行ってからって言いましたけど、いや、そこが大問題なんですが!
「あの、私ほんとに自分で歩け……」
「へまをして階段から転落しそうだと言うことです。地下で死なれても困りますから甘えておいてはいかがですか」
シルヴィスが鬱陶しげに呟いた。
「だから、あの、恥ずかし」
「大丈夫だよ姫! エルシャスは力持ちだから姫を落とすようなことはないよ! へちちっ」
「……。まぁ、エルシャスなら落とすことはなくても潰しそうだがな」
…………。
んっ?
「あの、今なんて?」
「だってそうだろう。そいつは手で林檎をジュースに変えるんだぞ」
「……いっ」
イヤァアアアアアアアアアアアア
え、そうなの? 私潰されるの? 白雪姫のせいでも好感度の低さのせいでもなく、ただお姫様抱っこされて圧死するの? 何その間抜けな死因? お姫様抱っこによる圧死って何だよ意味わからないわ。
「え、エルシャス降ろして……降ろして下さい……」
「……。ひめ、ぼくのこときらいなの?」
「違う、そうじゃない! エルシャスのことは好きですよ大丈夫! でもほら、エルシャスたまに力加減間違えるじゃないですか!」
「……」
「そんな眼で見ないでください……」
捨てられた子犬のような眼で私を見つめるエルシャスに、罪悪感しか感じられない。ほんとごめんなさい。でも無理なものは無理、こんな形で死にたくはない。
すると、突然影が差し、再び浮遊感が私を襲う。驚いて見上げると銀色の髪がさらりとこぼれ落ちた。
「病人があまり興奮するのはよくない。エルシャス、姫はあなたのことが嫌だから抵抗しているわけではないから、安心しなさい」
ルーヴァスだった。
それを認識した瞬間、今まで感じていた羞恥や焦り、恐怖がすべて消え去る。不思議なほど凪いだ気持ちになり、私は目を見開いてルーヴァスを見上げた。しかし彼はそんな私を知ってか知らずか、エルシャスを見ている。
「……でも」
「あなたも、いずれ力の調節ができるようになるはずだ。そうすれば、姫もあなたをもっと頼るようになる。今その力を弱めることができないのなら、調節を学びなさい。あなたが力の調節をできるようになれば、きっと姫も喜ぶだろう」
「……」
エルシャスはしばらく黙って俯いていた。その表情は寂しげで、悲しげで、酷く罪悪感を煽る。申し訳なさでいっぱいになる私だったが、エルシャスはやがてコクリと頷いた。
それを確認したルーヴァスは、
「姫」
と呼びかけてくる。
「あ、はい」
「一度、自室へ連れていくが、いいだろうか?」
「わかりました」
……こんなに近くにいて、エルシャスと同じことをしているはずなのに、私は全く彼を異性として意識しなかった。むしろ安心していたようにさえ思う。
不思議な安堵を覚えながら、私はルーヴァスに抱き上げられ、自室へ戻った。
自室に着くと、ルーヴァスは私をベッドに横たえさせ、ラクエスとキリティアを呼んだ。
「姫、彼らを部屋に入れても大丈夫だろうか? 紹介は手短に済ませる」
「はい、大丈夫です」
私が了承すると、呼ばれた二人が入ってくる。
改めて見てみると、妖精と同じくやはり美しかった。
白い髪に澄んだ泉のような水色の瞳を持つラクエス。灰色の髪に燃えるような赤の瞳を持つキリティア。
「ラクエスは私の、キリティアはシルヴィスの精霊だ。基本的には我々の指示で動いていることが多い。いつもは人の形をとらず、各々、本来の姿で行動しているから、あなたもあまり会ったことはないだろう。以前あなたに手紙を運んだ白い鳥が、このラクエスだ」
ラクエスは一切口を開こうともせずに、つんとそっぽを向いている。いや、何度でも言いたくなるのだが、本当に感じが悪い。
本来の姿、というのはスジェルクが鼠の姿をとっていたのと同様の理由なのだろう。
「よぉ姫、今まで話したことはなかったけど、あんたのことはそこそこ見てきたぜ。シルヴィスはまぁ、あんなだけどよ。仲良くしてやってくれよなー」
キリティアはフランクにそう言い、「そんじゃな、さっさと元気になれよ」と部屋を後にする。それに続いてラクエスも無言で部屋を退室し、後にはルーヴァスと私だけが残った。
「……。私、大分ラクエスに嫌われてるみたいですね」
「ラクエスは誰にでもああだから気にすることはない。基本的に、彼は他者を寄せ付けたくないのだ」
ルーヴァスはそう言うと、全然減っていないピッチャーの水を確認した。
「喉は乾かないか?」
「あんまり……ものを口にする気が起きなくて」
ルーヴァスが顔をしかめる。
「人は、食事を口にせねば死んでしまうのだろう。あなたの今の栄養状態が極端に悪いとは思わないが、食事をしなければいくら風邪でも弱ってしまう。あなたが口にしやすいものを用意するから、少し口にしてくれ」
そう言ってから、ルーヴァスは、ふと何かに気づいたような顔になる。
「……どうかしましたか?」
「いや。水を冷えたものに換えてこよう。冷たいほうが口にしやすいだろうから」
と、ピッチャーを持って退室していった。
「……リオリム」
ルーヴァスの足音が遠のいたのを確認してから、私はリオリムを呼んだ。ポケットから取り出した手鏡の鏡面に、ふわりとリオリムが現れる。
『はい、お嬢様』
「さっきね……、ルーヴァスに抱き上げられた時さ。エルシャスが抱き上げてくれた時は色々落ち着かなかったのに、ルーヴァスが抱き上げた瞬間、何も感じなくなったんだ。……不思議だね」
『……それは……』
リオリムは少しだけ、表情をこわばらせたようだった。しかしすぐにいつもの柔和な笑みを浮かべると、
『不思議、ですね』
と、曖昧に返した。
何か知ってるの?
そう聞こうかと思った。
けれど、脳裏に黒い男の姿と、鏡の割れた音が蘇る。
――リオリムが隠すのは、あの時の二の舞にならないようにするためなのかもしれない。
だとしたら、聞けるはずがない。
「……風邪、やだな……」
私がそう呟くと、リオリムが、
『申し訳、ございません。お嬢様の不調に気付けず……』
「違う違う、リオリムが悪いわけじゃないよ。大体体調管理できていなかった自分が悪いわけだしね。それにこの風邪だって、そんな酷くないと思う。妙に動き回らなければ倒れることもないだろうし」
『ですが、お顔の色が』
「え、そんなに? カーチェスにも言われたな」
『……。あまり無理をされては風邪が悪化いたします。外に出るなど、絶対になさってはいけません』
「……えーと、鴉を追いかけようとしたこと、怒ってる?」
『まさか。わたしがお嬢様に怒るなどと、それこそありえません。お嬢様はわたしの全て。お嬢様あってこその、わたしでございますから。ですが……』
私が全てって、一体何がどうしてそうなっているのだろうか。
『心配なのです。わたしはお嬢様に何もできませんから。こうして言葉を交わすことしかできない。お嬢様の額に触れて熱をみて差し上げることも、水をお持ちすることも、薬を調合することも、傍でその手を握ることすらできない。わたしはお嬢様のお役には立てない。そんなことは、もうずっと、ずっと昔から、わかっていたことですが……、それでも、何か出来たらと。せめて、お顔を拝見できているのなら、不調など気付けたはずなのに。わたしは、どうして』
そこで、リオリムは言葉に詰まり、俯いた。
――彼のそんな姿を見るのは、初めてではないかと、思う。
「……リオリムさ」
『はい』
「たまにはそんな風に、ちゃんと吐き出したらいいと思う」
私が唐突にそんなことを言いだしたものだから、リオリムは返答しあぐねたようだった。それに私は笑って、
「いっつも私ばっかりリオリムに弱音吐いたり相談したりしてるから。リオリムが心配してくれてるのはわかってるんだけど、それで今凄く辛い思いさせてると思うんだけど、正直私、今ちょっと嬉しいんだ。リオリムのそういう悩んでる言葉、初めて聞いたから。ごめん、性格悪いね、私」
『……お嬢様』
「知られたくないこととかあるだろうし、そうじゃなくても私たち、制限が多い中できっとこうして話してるけど。それでもせっかく出逢ったんだから。お互いなんでも話せるように、とは言わないけど。相談できるなら、してくれて構わないからね。なんて、こんな風邪の状態で言われても、その前にさっさと治したら、って感じだけど」
『……』
リオリムは、彼にしては珍しく眼を見開いたまま、言葉もなく私を見ていた。
私はそれに無性に恥ずかしくなり、
「さて、もうひと眠りするかな! おやすみ!」
と、鏡を枕の下に入れた。瞼を閉じて眠りにつこうとすると、本当に小さな声で、こんな言葉が枕の下から聞こえてきた。
『……わたしは今、泣きたくなるほど、自分が情けなくて、それでも幸福で、どうしようもないくらい、苦しい。辛いのです、お嬢様。わたしは、あなたにそんな風に言って頂けるような人間ではない。それでも、あなたの言葉に、優しさに、ありがとうございますと、そうお伝えしても、いいのでしょうか』
私が思わず枕の下から鏡を取り出すも、既にその鏡面に優しい執事の姿はなかった。
呼びかければきっと応えてくれるのだろう。けれど私は、あえてそうしなかった。あの呟きは、私からの答えを期待していないようだったからだ。
だから、聞こえないことを判っていて、こう返した。
「……リオリムがどんなひとかはわからない。でも私は私の目に映るリオリムが好きだし、リオリムの何倍も「ありがとう」を返したいくらいだよ」
……彼には、聞こえていないだろう。それでいい。
面と向かって伝えるには、些か恥ずかしい。“好き”と率直に伝えるなんて、別に恋愛感情でなくとも何だか気恥ずかしいものだ。だから、また機会が訪れたら、その時にでもきちんと伝えよう。
私はそんなことを考えながら、眠りに落ちた。




