1.apple
「おかあさま、酷いです……」
「……」
「私、私こんなにも頑張ってるのに……お城の外にも行っちゃいけないんですか?」
「…………」
「お願いです、おかあさま! 一目で良いんです、お城の外を見てみたいんです……!」
「………………」
「お城の中の掃除も頑張りました、お庭の水撒きも終わりました。おかあさまの言うことは全部終わってるはずです……っ」
「……………………」
ええと。
これ、どういう状況なの?
まず……そう、状況把握。状況把握しないとね。意味わからないからね!
さて?
まず。私は高校三年生で、受験勉強真っ最中で? で、さっきも数学の授業を受けていて?
うん、それで教師に質問に答えろと立たされたんだよね。そこまでは覚えてる。オーケー、問題ない。
で、ここからが問題。
聞かれた問題の答えがわからず、何とか答えを導き出そうと考えて……そしたら。
突然の、立ちくらみ。
そして、冒頭に至る。
私と同じくらいの年だろう綺麗な女の子が、目の前で跪いて上目遣いで私を切なげに見上げている。漆黒の双眸に同じ色の髪、真っ白な肌、バラの花みたいに赤い唇――
美少女という言葉はこの子のためにあるのではないかというほど可愛らしいし、本当に綺麗な子だ。でも着ているのはボロボロで継ぎ接ぎだらけの、言っちゃ悪いけどみすぼらしい服。あちこち汚れてるし、袖口は擦り切れてるし、裾は所々破れているのがわかる。まぁそんな襤褸を着ていてすら、彼女の可愛らしさは全く落ちているように見えないけれど。
うん……大変理解不能だ。何だこの状況。
周りを見回してみる。明らかに教室じゃない。教師も生徒もいないしというかむしろ、私とこの子以外誰もいないし、しかも現代日本でありえないような、えー、何ていうのかな。そう、洋風の豪華なお城の中みたいな。そんな感じ。その玉座に何故か堂々と私が座っていて。
……え? 何これ白昼夢かな?
問題が分からないあまり現実逃避した結果がこれか? 待ってください、それにしてはあまりにメルヘン過ぎでは。私の脳内構造はまさかこれで成り立っているというのですか。冗談ですよね?
見下ろしてみると、私が着ているのは……あれ、何か玉座に座っていると言う状況に似つかわしくないほど目の前の女の子と同じくらい酷い服着ているんだけど。何だこれ。というかよくよく見てみるとお城の中も妙なほどがらんとしてる。内装は確かに豪華だけど、調度品の類は全く見当たらない。赤い絨毯が玉座からその向こうまでずーっと伸びていて……それしか鮮やかな色が見当たらないんだけど。
この子はこのお城の召使かなとか思ったけど、玉座に私が座っていて私の服がみすぼらしくて極めつけに彼女が私を「おかあさま」とか呼んでいるって言うことは、召使じゃなくて……うん? まさか私の娘なのか?
……ごめんやっぱりよく状況が把握できない。いや別に誰に謝らなければいけないわけでもないんだろうけど。
「おかあさま! お願いです、どうか、どうか。お城の外に」
おかあさまというのは誰のこと? この空間に私と彼女以外いないということは私だという認識でいいの? とても納得できないけどこの状況的にそういう認識で合っているの?
「いやあのうん、別に良いんじゃないですか?」
「え?」
私がやや戸惑いつつそう言うと、女の子は私を縋りつくような目で見上げてきた。
「ほ、ほんとですかおかあさま!?」
やっぱり私がおかあさまなのか。何かあの……何というか。この状況で何を言っているのかって話なんだけど、同年代の子にそう言う風にいわれるのって、その。……結構ショックだね。
というか私は子持ちの母親だったのかそうかそうだった忘れてたわ……って、んなわけあるか! 誰だこの子は!!
ダメだ予想外に飛んだ状況に理解が追い付いていない。落ち着こう。
「いやそのなんと言うか、嘘をつくほど重大なことでもないですよね?」
この城の外に彼女が出ていこうが何だろうが、特に私の知ったことではないし、心底どうでもいい。
いやむしろ、その外に出ることで、何らかの情報が得られるかもしれないし、彼女に外へ連れ出してもらうのは、そこまで悪くない案かもしれない。
と、そこで女の子は今にも泣きそうな顔でこう訴えてきた。
「でもでも、お城の掃除がまだ終わってないんです!」
「…………。…………? さっきお城の掃除は終わったって言いませんでしたっけ?」
「頑張りました! でも、お城の中は凄く広いから、私一人じゃ終わらなくて……」
え……いやさっき……終わったって、言ってたと思うんだけど、えっと、気のせい、かな?
というか、まさかこのお城の中この女の子が全部掃除してるのか? 召使は? いないの? ええ?
というかこの大きな城に住んでいるのに、何で私たちはこんな貧乏の極みと言わんばかりの服を着てるんだ。着るものを質素にするんだったら住むところもさ、お城なんかに住まずに堅実に小さな家とかにしようよ、ねぇ。
と、彼女に言ってもおそらく仕方ないのだろうと思われたので、私は首をかしげて先ほどの彼女の嘆願に答えてみた。
「ええと判りました。頑張ったんだったら、まぁ、良いんじゃないですか? 城の外で気晴らししてきたら、少しは気分変わると思いますし」
彼女に外まで案内してもらおうかと思ったけど、何だか言っていることが噛み合っていない気がして、やめておくことにした。
まぁ噛み合っていたにしても、とても私の娘であるとも思えないわけだし、完全に信用していいとも限らない。
まぁそんなわけで私はイマイチ状況がわかってないから、情報整理するためにも一人にして欲しいので、彼女には城の外へ行くよう勧めた。
とりあえずこの状況を何とか理解して打開しなけりゃならないし、この子に構っている暇はない。
まかり間違って私がこの子の母親だとしても、である。知ったことか。私はこんな子を知らない。私はごく普通の高校生だった。断じて子持ちではない。そも、受験勉強真っ最中の私が子供を持つ余裕とかない。その前に子供を持つような相手もない!
「でも、お掃除がまだ終わってないです……」
女の子は困ったようにうつむきながら、小さくそう言った。
正直そんなに掃除なんて気にしなくても良くないかな……?
大体一人なんだし、こんな広い場所の掃除なんて終わるわけがない。私とこの子が力を合わせても多分、この場所全部の掃除とか無理だ。何せ本当にお城のようなのだ。もしこれが私のただの夢なのだとしたら、どんだけ私の頭はメルヘンなんだって私自身が聞きたいくらいに立派な城なのだ。調度品は何もないけど。とりあえずそんなバカでかい場所の掃除なんか二人で終えられるわけもなく、まして私が今ここに座っているということは彼女一人で掃除をしていたということなのだろう。無理に決まっている。それくらい、頭があれば誰だって判るだろう。っていうかむしろそんなに掃除しなくていいよ。無理だよ。やめておいた方が賢明だって。もっと有効なことに時間使おう。ね。
「そんなに掃除が気になるなら私がやっておきますよ。全部できるとは思えないですけど、少しくらいなら……」
まぁ、彼女はともかく私に関して言うならば、掃除しながら少し気持ちを整理して、ちょっと辺りを見回るのもいいんじゃなかろうか。
あんまり期待出来ないけど、誰かほかに人がいるのならその人にでも助けを求めて……それから身の振り方を考えよう。
それにほら。これは夢かもしれない。あの、安っぽいエンディングにある夢オチってやつ。こんな理解不能な状況なら、そういうこともあり得るんじゃないだろうか。
なんて、現実逃避に走りかける頭を緩く振る。――そうだったらどんなにいいか。私が座っているこの椅子の感覚も、じめっとした陰鬱なこの空気も、夢じゃないとしか思えないからこんなにも悩んでいるというのに。
何にせよ、今現在彼女をここに縛り付けておく必要もないだろう。状況はいまだによく判っていないが、わからないなりの親切心で私が「掃除は私がやっておく」と言った途端、何故か女の子は凄まじい剣幕で私に怒鳴りつけてきた。
「はぁあァ!? 何言ってんのよあんた!! ……そんなのいけません! お継母様は女王さまなのですから! 私一人が辛い思いをすれば良いんです! お継母様がお掃除なんてなさることないです!」
……え? ……なんか一瞬鬼女のような顔にならなかった……?
っていうか今明らかにあの……「あんた」とか言った……ような、気が。
……え、なに? 私とこの子、どういう関係? 本当に親子? これ私の娘? え、何それ怖い。私は一体どういう育て方をしたんだ。何をしたらこうなるんだ。どう育てられたんだこの子。
いや違うよ待て落ち着け私。これは私の娘じゃない。考えてもみろ、私はさっきまで教師に当てられて問題を解こうとしていた真っ最中だったじゃないか――
そこからいきなりどこの馬の骨とも知れない男と結婚して子供ができてその子供が鬼女に育ってって、そんな急展開な話があってたまるか。
若干私は顔を引き攣らせつつ、
「? ええと、よくわからない……けど、うん、掃除しなくて良いっていうのはわかりました。で、私ちょっとあの、一人になっていいですか」
はっきり言ってあなたの存在が軽く恐怖です。
「あぁ! お継母さま、やっぱり私はお外に行ってはいけないのですね? うぅ……っ」
突然泣き崩れる女の子。いや私、外に行くなとか一言も言ってないと思うんだけど……
……もしかして、ちょっと頭が危ない子? 鬼女の上に頭が危ないとかもうどうやって扱ったらいいのかわからないよ。
「あの、そんな泣かないでもいいと思うんですけど……。あと私外に行くなとか一言も」
「ご、ごめんなさい! お見苦しい所をお見せして、ごめんなさい! お掃除してきます……!」
女の子は悲痛そうな表情をしたまま顔を両手で覆い、走り去って行った。
……。
…………。
あの、私、どうすればいいの?
まぁとりあえずその……一応は一人になれたわけだし、状況を把握しようか……
訳がわからぬまま玉座で考え込みかけた、その時だった。
『あ、君はこっち見なきゃいけないからね、こっちこっち!』
背後から声が聞こえてきて、私は思わずそれに立ち上がって振り返った。
でも、見たところ何もないし誰もいないようで。
目に映るのは石造りと思われる灰色の壁と、玉座の後ろの壁にかかっている黒いカーテンだけだ。というか色が城の壁と同化していて今までカーテンの存在に気付かなかった。後ろから光が差し込んでいるようにも見えないから多分、窓もない。何だか目的がよく判らないカーテンだが、とりあえず人が隠れているとも思えなかった。
……つまるところ。
「……気のせい?」
『気のせいじゃない気のせいじゃないから。カーテンの下だよ、カーテンの下。カーテンどけてみてー』
と再び聞こえてきたので、私は一応。
無視を決め込んだ。
確かお化けとか幽霊の類って、反応したらいけないんだって聞いたことがある。声に反応して応答したりすると、調子に乗るとか何とかで、とりあえず反応はNGらしい。詳しくは知らないけれども。
それにまぁ何というか、まともに反応するのも面倒くさいから放っておこう。
そんな幽霊だのお化けだのに付き合ってられるほど楽観視できる状況下でもないし……
と、玉座に座りなおし、物思いにふけろうとした所で。
『ちょっとー。ちょっと君ー。お願いだからこっち見てー。イジワルな継母は鏡にこう聞かなきゃいけないじゃない? “Magic Mirror on the wall,who is the fairest one of all?”』
残念でしたお化けさん。私は英語が苦手だからあなたの言った言葉の意味がわからないごめんね!
と、軽そうな声音に完全無視を決め込んでいると、背後から溜め息が聞こえた。
『……はぁ。何か君、冷たくない?』
無視だ無視。大体、体温のないお化けに冷たいとか言われたくない。
『……。まぁいいや。っていうか僕としたことが順番間違えた! 女王様ー。あのさー。そこにバルコニーあるでしょ。そっち行って外の様子見てみてー』
まぁ玉座にいつのまにか座っている所からして薄々感づいてはいたんだけど、私、女王なのね。なんと面倒な……
というか、外の様子?
この言葉に少し興味を引かれた私はカーテンの方を見向きもせずバルコニーの方へ歩いていった。
バルコニーから見えたのは、こんなに生えなくてもいいだろう少し落ち着けよと言いたくなるくらい雑草が滅茶苦茶に生えている巨大な……庭?と、
「あ、さっきの子」
高速移動したとしか思えない。さっきの危ない女の子がそこにいらっしゃった。
あの、ここ大変高い位置にある部屋なんですけど。多分六階くらい? ……どうやって今までの時間でそこまで行ったんですか?
などという私の心の中の真剣な質問が届くわけもなく。
女の子はどうやら井戸で水を汲んでいるらしかった。
あぁ、もしかして花壇とかに水を撒きに行くのかな? 掃除しなくてもいいと一応言ったつもりだったんだけど、きちんとやるんだ。偉いな。やっぱり私も手伝いに行こうか……
とか、私が感心した所で。
「っもう!!」
突然女の子が、バケツいっぱいに汲んだ井戸の水をそこらにぶちまけた。
「何でこんなに始まるのが遅いの!? 大体紹介もまだじゃない!!」
「…………」
……。うん?
突然ヒステリーを起こした女の子にドン引きし、言葉を失ったところで、私はふと視線を女の子の後ろに向けた。
「……男の人?」
草ぼうぼうの中をかきわけながら、なにやら高そうな王子様みたいな服を着た男の人が女の子の方へと向かっていた。金の髪をなびかせなが颯爽と歩く姿は優雅と言えば優雅だけど……
私が呆然としている間にも、男の人は女の子の方へと腹が立つほど優雅に歩み寄っていく。
……軽そうな男だな。
「…………何じゃありゃ」
その足音が聞こえたのかもしれない……というか足音というよりは雑草をかき分ける音だろう、とにかく男が近づいてくることに感づいたらしい女の子は、後ろをチラッと振り返ると、慌てて井戸の水をくみ出した。
先ほどぶちまけた水のせいで辺りはびしょびしょだけどいいのかそれで。良かったね、雑草ぼうぼうで。これが石畳とかだったら不自然な水たまりに首傾げられてたところだよ。
とりあえず女の子が井戸を覗き込んでいると、男はそれに近づいていき――何故か男も井戸を覗き込む。その途端女の子は弾かれたように井戸から顔を上げて男を見た。
男は女の子に笑いかけたように思われたが――ここからだと正直よく見えないが雰囲気とか男の仕草的に刺々しくはなかった――その途端、女の子は高速移動でお城の中に逃げ込んでいった。
……え、もしかしてあの男不法侵入者? なんか変なことでも言われたの? だったら撃退しないといけないんじゃ……
と私が注視していると、男は女の子を追いかけ、庭から彼女に語り掛け始めたようだった。やばいこれが所謂ストーカーという奴かと思い始めた頃、女の子はいつの間に移動したのか私のいるバルコニーより少し下にある小さなバルコニーから男をうっとりと眺めていた。
そして男はそれに歌を歌いながら熱烈なさして中身のない愛の告白――
……心底どうでも良いな。
何だか見ていて無性に疲れたので玉座に戻ろうとした時、
『はい、女王様は嫉妬しました! で、鏡を見るんだ。そして“Magic Mirror on the wall,who is the fairest one of all?”って……』
「おばけさん」
私が呼びかけると、『何?』とカーテンの向こうから返事が返ってくる。あぁやってしまった。お化けに話しかけてしまった。でも私悪くないよね。だって相当鬱陶しいよこの声。うるさいし。
「私馬鹿なのでその英語わからない。ごめんね。寝るね。おやすみ」
『待った待ったそこで寝ないでお話が進まないから! さっきのは“鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだぁれ?”っていう決まり文句。英語の方が格好良いかなって……』
「判った。で、寝て良い?」
『全然判ってないからね君ね。もう判るでしょ? 君は白雪姫の継母なの! だから鏡に「一番美しいのはだーれだ?」って聞かなきゃ……』
何なんだほんとにうるさいなぁ。
私がカーテンをぶわっと開くと、随分立派な壁掛け鏡が現れた。私の身長よりも高いし幅も私三人分くらいはあるし、随分豪奢な彫りの額に収まってるし、とりあえず無駄に高いんだろうなこの鏡。売ればいいと思うよ。
でもそれより問題はその中だった。
鏡の中で、真っ赤な髪にさながらピエロのような格好をした男が笑顔で手を振っていらっしゃった。
『おはよーう。初めましてー。僕はねー』
シャッ、とカーテンを掛け、私はそのまま玉座に戻ろうと――
『待って待ってカーテンどけて。これじゃいくらなんでも話し相手の顔が見えなくて淋しいんだけど』
「おやすみグッバイさようなら」
『お願いだから話聞いてー』
鏡の中で男が悲痛な声をあげる。
私は溜め息をついてカーテンを開けた。
「まだ何か用ですか?」
『いやまだ全然用を言ってないというか君の役目はこれからだからね! 君はもう少し混乱しようか。普通なら「ここはどこ? あなたは誰? きゃーっ!」って騒いで……ごめんごめんお願いだからカーテン閉めないで!』
再び男が悲痛な声をあげる。ほんと、何なんだろ。
「結局、何の用ですか」
『淋しいなー。そう言う反応が一番傷つくんだよー。まぁいいや、本題に入るよ。白雪姫って知ってるよね? 君はその世界に転生しました! わーいどんどんパフパごめんほんとにカーテン閉めるの止めてなんか地味に心に来るの!』
……白雪姫の世界に、なんだって?
『はぁ……ここまでリアクションに乏しい子って久々だよ……。暴れるのも考え物だけど無反応って結構地味に傷つくなぁ。で、それで。君は継母の役割なんだけど』
「継母?」
『さっき女の子がいたよね? あの子が白雪姫。で、君が継母』
あぁ、あの危ない子か。それの継母……母……
ん? 誰が?
「聞き間違えたようなので、もう一度言ってもらえますか。私が、何ですって?」
『君が、継母。あの子の』
「……私あの子と同じくらいの年齢なんですけど?」
『継母だから何でもありだよ! ここの城主がロリコンだったと思えばさして問題ないよね!』
そういうものですか?
っていうか問題大ありだよ。私結婚してるのか。そのロリコンのおっさんと。
……嘘でしょ。
『で、城主である君の夫は死んだんだけど』
あ、ロリコンさんは死んでるのね。助かった。
『そんな訳で君がここの城主なわけ』
「はぁ。それで女王とか言われてたのか」
『うん。状況は読めた?』
「まぁ一応?」
『オーケーオーケー。で、ちょっと認識との差を修復しておきたいと思うんだ』
……認識との差?
『まず、城内だけど。随分がらんとしてると思わない?』
「まぁ、随分質素ですね。良い城主だったってことですか」
『あ、そういう発想になる? 普通は貧乏だって言う発想にならない?』
「ならない」
『わーい話が進まなーい。まぁいいや、とりあえずここのお城は貧乏なんだ』
お城に住んでるのに貧乏なんですか。
いや地味になんとなーく感づいてはいたんだ。私が女王という立場で、おそらくその娘という立場であろう彼女が直に掃除をしているということは、貧乏なんだろうなって。でも自分が貧乏とか認めたくないよね。よくわかんない場所で「さぁ貧乏生活レッツスタート☆」とかふざけんなって思うよね。
『まぁ、白雪姫のせいなんだけど』
「…………はい?」
私が思わず男をまじまじと見ると、男は「あはっ」と笑った。何が「あはっ」だ、何が。
『ちょっとあの子、妄想癖があってね。自分は不幸だけど世界で一番美しい娘で、いつかは必ず幸せになれるって思ってるの、多分』
……はぁ?
何それどういうこと……あぁ、白雪姫だから、ってことですか。
いやでもそんな自分の美しさに自信のある白雪姫とか嫌味すぎて凄く嫌だわ……
私がげんなりしているのには構わず、男は笑ったまま話を続けた。
『で、自分の不幸は継母である君のせいっていう、そういう結論が頭の中でできているらしいんだよね。ちなみにあの子は結構お洒落さんで、街にショッピングに出かけてはすっごい豪奢な服をいっぱい買ってきて、お城の財産食いつぶしちゃったんだ。で、まー、何ていうの? こわーい男の人がお城にきて、まぁ代償としてお城の調度品とか全部持ってっちゃったんだよねー』
それは所謂借金取りという奴ですね。ってかそれ買ってないよね。強奪だよね。
「そういえばさっきお城の外に行かせてって泣きついてきてたけど?」
『あれは演技。ほんとは継母さんすごい良い人なんだけど、彼女が「掃除するなよ? するんじゃねぇよ?」って感じで牽制して、自分が一人でお掃除してるー、みたいな格好を取ってるわけ。まぁ残念ながら彼女は掃除なんかしないんだけどね。その証拠にお庭、草ぼーぼーだったでしょ?』
あの庭の惨状はそういうことか。
『あの子は悲劇のヒロインからハッピーエンドを目指す主人公なの。君はだから所謂悪役だね。王子様とハッピーな白雪姫に嫉妬しなきゃいけない』
待て。
「なんかおかしくない? 借金けしかけたのがあの子なら、どちらかと言えばあの子が悪役だよね?」
『主人公は悪役になれないんだよー。お約束って奴だね!』
っていうことは、つまる所?
「私に嫉妬しろと?」
『うん』
「で、最終的に小人達に殺されろと?」
『うん』
……。
「理不尽だ!!」
『まぁまぁ。それを回避する為に、この鏡が』
それを聞く前に、私はカーテンを思いっきり閉めて、カーテンの上から鏡を蹴っ飛ばした。
ガッシャーン!!とけたたましい音がして、ばらばらと鏡の破片がカーテンの下に散らばる。
乱暴なことをしたという自覚はあるけれども、悪いことをしたという自覚は不思議とわいてこない。あまりの理不尽さに心がついていかないでいるのかもしれなかった。
というかそう、あまりにもここが現実味がない。つまりこれは夢なのだ。ちょっと「お城の中で私が女王様♪」とかどこまで私の頭はめでたいのかと愕然とするけれども、夢だというのなら何でも許される。そう、夢ならね。
いずれにせよ、とりあえずは。
「寝よう」
「ちょっとちょっと! 鏡割ったらお話が進まないんだけどー」
玉座に戻ろうと踵を返したところで、目の前に人影が現れた。それには当然ながら見覚えがある。先ほどの赤髪の男だ。
ただ、全体が透けている。足までちゃんとあるのだが、向こう側が透けて見える。どうやら本物のおばけらしい。薄気味悪い。
「あ、やっぱり透けるなぁ……はぁ」
男は何やら残念そうにため息をついたが、知ったこっちゃない。
というか私はおばけが嫌いだ。大嫌いだ。
「私おばけと友達になる趣味ないから。ごめんね。地獄か冥府に可及的速やかにお帰りくださいそしてそのまま永眠して下さいさようなら」
「いやあの僕おばけじゃないから。地獄にも冥府にも帰らないし永眠しないから。っていうか何でその二択? 地味に傷つくからやめてね」
「知りません」
私がにべもなく返すと男は一瞬固まったが、すぐに気を取り直したように笑顔で私の背後の鏡を見遣り、
「っていうかさっきの君の鏡を割るって言う凄まじい凶行のせいで鏡の精さん御昇天なさったんだけど」
「それはご愁傷様です。あなたが鬱陶しいのが悪いです。はぁ本当に鬱陶しいな」
「いやさすがにそれは嘘だけどさ。っていうか僕への扱いが相当ひどくない? ねぇ。お願いだからちゃんと話聞いてー」
男は困ったようにそう言う。
困ってるのはこっちだよ心底困ってるよこんな訳の判らん場所にふっとばされて。
もちろん現実であってほしくはないし、もしもこれが夢なのだとしたら、私は相当メルヘンチックな頭の中身をしていたという事実に本当に衝撃を隠せないんですが。
そこまでめでたい脳内構造をしていた覚えはないんですけど。
「私死にたくないんだ。だから毒林檎持っていって『アーハッハあたしがこの世で一番美しいィ!』とかって死亡フラグわざわざ立てるほど物好きじゃないの。わかるよね? わからないわけないよね? わかんなくてもわかれ。ってことで他当たってくれる?」
「配役が君だから君しか頼れないんだよ! っていうか君がうまくやれば死ぬ必要無いからね。大丈夫だから」
男はそう言いつつ、玉座に戻ろうとする私を必死に阻止する。まぁその阻止も、そもそも体が透けている男じゃあまり意味をなさなかったけれど。
男の体をすり抜けて先ほど通りに玉座に座ると、男は眉をハの字にして私を見てきた。
「折角助けてあげたのに、この仕打ち……ひどくない?」
知りませんけど、助けてあげたとか、恩着せがましいにもほどがないですか。というかそもそも、
「あなたとは初対面だと思うんだけど?」
「君にとってはね。僕は一応君のこと知ってました」
……ん?
……待て、それはあの、ええと、つまり、所謂、
「……ストーカーか!! さっきの金髪と同類、」
「発想が苛烈すぎるよ君。流石にそこまで酷くないから。っていうかストーカーじゃないよ名誉棄損で訴えるよどこで訴えれば聞いてもらえるのかわからないけど」
「地獄で裁判所でも探せばいいと思います。閻魔様が聞いてくれますよ。舌引っこ抜いてからね」
「ねぇ僕おばけじゃないからね? 泣くよ? そして彼もストーカーじゃないよ王子様だよ。……せっかく君が教師に問題答えるよう言われて、困ってたのを見かけたから、君をこの配役に当てたのに」
訳がわからない。
というか、この男は私の元いた世界を知っているのね。
というかそもそもこいつが転生の元凶なのね。
へー。ふーん。
……すっごい迷惑だ!!
「何かよく判りませんけど? 何? あなたが私を転生させた張本人?」
「え? あ、一応そうな……」
「で、それでなに? このまま死ねって?」
「いやだから僕死ぬ必要があるとはまだ一言……」
「こんの…………ストーカーがッ!!」
私が怒鳴りつけると、「わっ」と男がやや怯んだ。
「こっちはね!! 高校三年なの! いい? 一つの授業休んだらどれだけダメージあると思ってるの? 内申に響くんだからね!?」
「いやあのとりあえず僕はストーカーじゃな」
「私が志望してる大学、私の今の成績じゃギリギリなんだから! なのに私の成績下げさせる気!? 何なの!?」
いきり立って男をにらみあげると、彼は困惑したような表情を見せた。
「ここそれで怒る所かなぁ……?」
首をかしげて悠長に疑問を口にする男に、私は再び怒鳴りつけた。
「とにかく帰して! 元の世界に戻して! 早く!!」
「えーと。ごめんね。それは、無理かも」
男は言いつつ頭を掻いて「てへっ☆」と笑った。
「……ふざけてるの?」
「ごめん怒らないで何かオーラがどす黒いよ怖いよさすが悪役に配役されただけのことはあるね!」
失礼なことを平気で吐いてくれた男に蹴りを入れたい気分だったが、この男透けてるし、多分蹴っても意味無いだろうな。さっき私がこの男をすり抜けたみたいに、蹴っ飛ばしてもすり抜けるだけだったら、何だか私が凄く馬鹿みたいだしやめておこう。脳内で好きなだけ殴ってぼこぼこになった男を妄想するにとどめておこう。
というか“配役された”じゃなくて、こいつが勝手に私を悪役に“配役した”んだよね、多分。腹立たしいことこの上ない。
「ここは乙女ゲームの世界なの。で、彼女が主役に転生した子なんだけど……ちょっと主役に配役されたって言うのを履き違えちゃったみたいなんだよね」
「……はぁ?」
履き違えた、というところに反応したのではない。乙女ゲーム、というところに引っかかって思わずこぼれたのが、この喧嘩腰の声だった。何を馬鹿馬鹿しいことを言っているんだこの男。
苛立ちを隠していない私の声に男は「殴らないで」と言わんばかりに両の手のひらを私に突き出すと、
「僕も彼女のことはよくは知らないんだけどさ。あの子が城の財産食いつぶすわ何だかんだしてくれたの。それ見てたらなんか、継母さんが可哀想で。だからこの事態を覆してくれる、英雄的な継母を連れてこようと思ったわけ。そしたら何か継母さんと顔の似てる君見つけたから配役してみたの」
ここまでオーケー?と聞かれたので、半眼で睨み付けてやる。男はそれに、力なく「……はは……」と笑ってみせた。怖いよ、なんて言葉は聞こえない。
とにかくここで思い浮かんだ言葉はこの二文字だけだ。
「迷惑」
むしろそれ以外の何でもない。
「えーと……だろうね。てへっ。…………。いやでもここ乙女ゲームの世界だからイケメンがいっぱいだよ! やったね、今流行の逆ハーレム! 嬉しいでしょ!」
「全然。普通に大学に入学できるほうが何倍も嬉しい」
「……。クールだね、君って」
男はしょげたように俯く。
逆になんでそれで私が喜ぶと思ったのか心底問い詰めたい。逆ハーレムとか言われてもそもそもピンとこないし、その状態になるとしたらどう考えても白雪姫だし、私殺される側だし、大体がイケメンだろうが何だろうが顔も知らない男に囲まれて喜ぶほど馬鹿でもない。とりあえず男がいれば嬉しいだろって何だその短絡的思考は。
つまり私が喜ぶ要素はまったく、ひとかけらもないわけだ。
しかし何故か男は突如開き直り、
「まぁいいや、君を配役したからには今更変えられないし、このまま話を進めるよ」
いやいやおかしい。
「やめてほしいんですけど」
「どの道君は元の世界に帰ることは多分できないから、死なない方法をこの世界で選ぶしかない」
帰れないんだ。酷すぎる。私はこんなこと欠片も望んでいなかったのに何でこうなった。
お母さんお父さん親不孝な娘でごめんなさい。あなた達の娘に生まれて普通に生きてこられて私は幸せでした。どうかお元気で。私はこの世界で死に……ん?
……死なない方法?
「死なない方法、一応あるんですか」
「それ、さっき言おうとしてたことだから。遮ったの君だからね、僕悪くないからね」
「早く話してください」
「……うぅ。だから……攻略対象である、七人の小人を惚れさせれば多分完全にオーケー」
……はい?
「君を殺すのは、七人の小人たちの役目です。いい? 判るよね? 悪い継母は、魔女になって白雪姫に毒林檎を食べさせて、眠りにいざなう。でも小人たちがその魔女をやっつけて、で、歌を歌ってるだけの王子様が白雪姫にキスして白雪姫ハッピーエンド! 良かったね! っていうのがクライマックスだったよね」
「あー、まぁそうですね……?」
きちんと覚えてはいないが、確かにそんな内容ではあったと思う。
だけど幾らなんでもその話し方は身も蓋もない気がする。まぁ身も蓋もなかったところで私は全く困らないんだけども。
しかしこうして言われてみると、なんて中身のない話なんだ。そもそも何で白雪姫と王子は結婚するほどお互いを好きになったんだ。理解不能。
「つまり。君は小人たちに殺されなければ良い。ならどうすべきか? 小人の所に白雪姫が転がり込んできても、彼らが白雪姫を受け入れなければ良い。でも、とても親切な彼らは普通に考えれば不法侵入者な白雪姫を平気で家の中に入れてくれる。裏を返せば、白雪姫と接触したら、小人たちは彼女に惚れて悪役の君を殺しにかかってくる」
怖っ。小人さん怖っ!
「何でそんなあっさり白雪姫を信じられるのか全然わからない。小人はどんだけ無防備なんだ」
「あ、それね。小人さんのせいじゃなくて、白雪姫の体質というか、なんていうの? ……『決まり事』? 白雪姫と眼が合ったら、特定の人物は一定の条件の下、洗脳されちゃうんだよね」
「もう継母じゃなくて本人が魔女ですよねそれ」
「うんそれ僕も思った。怖いね」
その怖いところに私を放り込んだのは誰ですか?
「だから、その前に小人たちを君がメロメロにすれば良いわけ。そうすれば小人が白雪姫に惚れることはない。そこまでの力はないはずだからね。オーケー? 簡単だよね! さぁ、小人の所にレッツゴー!」
ちょっと待ってください。全然簡単じゃないだろっていうかその前に、
「女王は白雪姫を殺そうとして、でも狩人が白雪姫を殺せなくて……だから白雪姫は小人の所に行ったんですね? だったら、女王が狩人をけしかけなければ良いんじゃ?」
そうだよ。私が狩人さんにもう依頼してるにせよ、「ごめんなさい、殺さなくても良いんです」って頭下げて断ればいいんじゃない?
しかし私が名案を思いついたように言っても、男は困ったように眉尻を下げるだけだった。
「えーと、君失念してない?」
「何を?」
「君、城内のもの、鏡とカーテンとカーペットと玉座以外、全部取られるくらい財政が逼迫してるんだよ? 見てのとおり、使用人を雇う金も無い。まぁ、使用人は白雪姫が全部解雇したんだけど」
使用人さんたち、うちの白雪姫がごめんなさい。新しい職業は見つかりましたか? もし見つからなかったら本当にごめんなさい。一緒に就活やりたいくらい申し訳ないです。進学希望の高校生だから就活やったことないけど。
「つまるところ、狩人を雇う金ももちろんない。そもそも継母は良い人だったのでそんな血なまぐさいことはしません」
「じゃあ白雪姫が小人の所に転がり込む必要は全くないよね?」
「あー、だから。彼女にとって自分は「悲劇のヒロイン」なの、判る? 自分は「継母に殺されかける」という恐ろしい目に会わなくちゃいけないの。そして、王子様にめぐり合ってハッピーエンド」
……。はぁ。
「だから、狩人は「存在しなければならない」。「存在していなくても」ね。小人たちの所に転がり込んだ彼女は「自分は継母に殺されかけてる!」ってアピールする。そのお話の中で狩人が存在するだけ。だから白雪姫を実際殺そうとした狩人も、白雪姫に逃げろと言った狩人も実際には存在しません。彼女の頭の中以外には」
……白雪姫想像力豊かなんだな。でもその豊かさは別のところに活かしてほしかったし、そもそも私を巻き込んでほしくなかったよはた迷惑極まりない。
「小人たちは不法侵入した彼女に何故か一目惚れして、彼女の不幸話を聞いて、ある日普通の林檎を齧って寝た白雪姫の姿を見て死んだと勘違いして「女王打倒!」になる。で、君はどこに逃亡しても多分小人に見つかって捕まえられてシナリオ通り、崖から落とされ、白雪姫、めでたしめでたし、になると」
まったくもってめでたくない。
何? 私なんにも悪いことしてないじゃない。さっきの話を聞いてると、継母は毒林檎とか渡してないじゃない? 白雪姫がそこらから普通の林檎とってきて食べて死んだフリして王子様のキス待ってハッピーエンドじゃない、私関係ないじゃない!
ふつふつと怒りを感じていると、男が再び話しかけてくる。
「さぁ、小人たちを惚れさせに行こう! で、そのためにこの鏡があったんだけど……はぁ」
男は後ろの鏡……の破片を見て溜め息をついた。
「割っちゃダメでしょ~」
「腹立ったんだもの。主にあなたの顔が」
そこ全然強調しなくていいよ、と男が眉根を寄せた。いや、でもそここそが一番大事なところだろう。譲れない。
大体、突然こんな意味の分からないところにふっとばされたのだ。イライラもするし混乱もする。鏡一枚……本来なら元凶であるこの男の顔面が終了するくらい、なんてことはない代償ではなかろうか。
「割ったら何か困ることが?」
「これお話に必要なんだよ……鏡の精がいなきゃ、小人たちの所に辿りつけないし」
「どういう意味ですか?」
「小人たちの家は、迷いの森の中にあるの。迷いの森って言うのはその名の通り、滅茶苦茶に人を惑わせる森。白雪姫が逃げる時、物凄く森の中で迷ってなかった? とにかく森を抜けようとする彼女が行く先々で木に引っかかったり引っかかったり引っかかったりしてたよね」
「……木に引っかかってるだけですよねそれ?」
「まぁそれ以外何とも言いようがないしねぇ。彼女自身、行くあてがあったわけじゃないし。まぁ、とりあえずその森の中だと迷うの。白雪姫はシナリオにあるから最終的には小人の家までたどり着けるけど、君はイレギュラーだからね。着けるかどうか判らない。だから真実を答える鏡に道のりを聞こうと思って……あーぁ」
男は頭を抱える。
切実に申し上げたい。あなたの顔面が大変腹立たしいものでなければ、鏡はこうはならなかったと。
「……仕方ないなぁ。あんまりこういうことはしたくないんだけど」
そう言うと、男は前に手の平を突き出した。
「天と地の狭間より、赤き道化師は君の名に、罪と夢を裁かんとす。奏でる音は断罪を、途切れた弦は罰を謳え。我、世界の行く末に、神と人との果てを見る」
男がそう言った瞬間。
「え……」
男が突き出していた手の平から光が溢れ出し、一枚の手鏡が現れた。
「……はぁ。まぁ、あんまり大きいことすると怒られるし、これで勘弁してね」
男は頭を掻きながら手鏡を私に手渡してくる。
私はそれを受け取りつつも、気になったことを単刀直入に聞いた。
「今のどういう原理ですか」
「え?」
「どうやって鏡を出しきたんですか?」
これいわゆる魔法という奴じゃないか。その原理が分かれば私も元の世界に戻れるんじゃないだろうか!!
少し食い気味に私が問いかければ、男は不審者よろしく目をうろうろさせた後、
「え……あー……えっと……内緒♪」
にっこりと笑って、
「……じゃあね☆」
と突然掻き消えた。
……。
…………。
……ちくしょう。逃げられた。
何にせよ。……結局私、この鏡をどうすれば良いんだ?
何気なく手鏡を見てみる。燻したような鈍い金色の台に嵌められた鏡は磨き抜かれたように美しい。台そのものも、緻密な彫りが美しく、しかし主張しすぎない辺りがとても上品な品だった。
私は目利きでも何でもないけれど、これ、相当高価なものなのではないだろうか。
しかし今そんな高い鏡を売ってお金が手に入ってもほぼ役に立てられる気がしないので、男の言葉に縋るように鏡の精を呼んでみた。
「……鏡よ鏡。誰かいるー?」
試しに手鏡にそう聞いてみると。
『はい、ここに』
突然鏡の中に一人の男が浮かび上がった。鏡はもはや私を映さず、男の後ろには何もかもを飲み込んでしまいそうな闇だけがある。
「……執事さん?」
『ええ。お嬢様にお仕えする身ですから、正装が良いかと』
鏡の中に現れたのは、水色の髪を肩口で結わえた執事姿の綺麗な男性だった。年のころは二十代中盤くらいじゃないだろうか。中性的な顔立ちをしているためか長髪もよく似合っていて少し不思議な雰囲気の人だった。
「えっと、鏡の精さん? で、合ってますか?」
『はい、その通りでございます』
男性はふわりとやわらかく微笑んだ。それは何故かとても慈しみに満ちた、ひたすら温かい微笑だった。
「七人の小人の所に行きたいって言って、意味通じます?」
『ええ。お嬢様を殺めるかもしれない小人のことですよね?』
あやめる……あ、殺すってことか。ん? お嬢様? まさか私のこと……?
「全然お嬢様じゃないけど……まぁいいや、そんなこと言ってる場合でもなさそうだし。その小人の家に行く道筋を教えてくれませんか?」
『わたしでよろしければ僭越ながらご案内いたします』
男性は綺麗に一礼をしてみせる。
親切な人だな。助かります。
『まず、隠し出口から城を抜けましょう。表には白雪姫と王子がいるはずです。お嬢様が逃げたことを知ったら、白雪姫はすぐに小人のところへと向かうでしょう』
「え、嘘」
『本当です。わたしは真実しか申し上げません。ですから、隠し出口からこっそり抜け出しましょう』
「隠し出口ってどこにあるんですか?」
『地下牢の更に下にある、船着場の奥です。船が一艘ありますから、それで城の外の川に出ましょう。川に出たら森はすぐそこです。早速参りましょう』
鏡の中の執事さんは的確に指示を出してくれる。そこは右へ、とか左へ、とか。一番奥の牢に入って、中に置いてある木箱をどけて隠し扉を開いて、そこにある階段を降りて、とか。降りた先に見つけた船に乗って、船を楔から解いて…………そんなこんなで、全く知らない場所だけど、精霊さんのおかげで普通に城の外まで出ることができた。
「……花畑?」
城の地下に流れる川を下っていくと、右手に花畑が見えてきた。その奥に森があるのが判る。木々の隙間からちらちらと零れ日が差し込み、森の中は暗すぎず、柔らかな印象を与える。それは森の外から見ているだけでも、とても美しい光景だった。
「もしかして、あれですか?」
『そうです。やはりお嬢様は御聡明であらせられますね』
鏡の精は微笑んで頷く。
……うんまぁ、この状況下であれば馬鹿でもこの森だろうなっていう察しはつくと思うのだけれども。
私が少し複雑な気分でいると、鏡の精はそれを知ってか知らずか、穏やかな口調で説明をしてくれる。
『あれが迷いの森になります。ですがご安心下さい。わたしがご案内いたしますので、約二十分ほどで小人の家に着くはずです』
二十分って……迷いの森の名が泣くな……鏡の精に頼ったら迷いもしないなんて。
「そんなに簡単に行けるなら、迷わない人も多いんじゃ? 他の人でも何とか突破できそうですけど」
『いえ。ここの森は少々面倒な場所で、長い年月を経た木々が自らの意思で外部の者を拒むのです。外部の者、つまり森に住んでいる小人以外のもの全て、ですね。ですから錯覚に陥り、森に入った筈なのに元の場所に戻っているという事例が多発し、人々はここに近づかなくなりました。まぁ全ては白雪姫のために生まれたことなのですが』
「でも白雪姫は拒まれないんですか? あんな悪女なのに?」
『ええ。たいそうな悪女ですが、主役であると言うのは事実ですから。脇役はシナリオに沿わなければなりません。お話の中に、突然全く関係の無い人間が現れては困るでしょう? 例えば、白雪姫が継母から逃亡している時にばったり誰かと出会う、とか。シナリオがぶち壊しですから。ですから、木々はそう言った邪魔な人間を拒んでいるのです』
まじですか。白雪姫凄い。というか、主人公凄い。悪女でも主人公は守られるのか。羨ましいね。
……あれ? そういえば。
「継母は森の中で迷う可能性があるんですよね? じゃあ毒林檎を渡すのも無理ですよね?」
『ええ。だから白雪姫は普通の林檎を拾ってきて食べて死んだフリをするんです。そして元々白雪姫からあなたの評判を聞いていた小人たちが狂乱してあなたを殺しに来る。それが正しいシナリオです』
おう……いや、死ぬんだろうなっていうのは想像してたけど、何というか、色んな意味で凄いですね……。小人は何で正しいシナリオ通り世界が回ってないんだろ。まぁその方が助かるんですが。
というかほんとに小人怖いな。何で初対面の白雪姫をやすやすと信用した挙句、人殺しをしようという発想になるんだ。わけが判りません。
『お嬢様、船から降りてください。森の方へ参りましょう』
鏡の精がそう言ってきたので私はそのまま船を下り、一応近くの木に船を括りつけておいた。いつか使うかもしれないからね、こういうことはきちんとしておかないと。
結び終えて森の方へ向き直ると、鏡の精から指示を下される。
『お嬢様、あちらに比較的大きな木がありますね。あの木の左側から森へ入ってください』
「……え?」
突然の細かい指示に私は唖然として鏡を見た。鏡の精はいたって真剣そのもので、どうも本気で左側から回れと言っているらしい。
『通り道を間違えると、小人の所へは行けません。ですから、わたしの言う通りに歩いて頂けないでしょうか』
「そういうものなんですか」
『はい』
何て面倒な森なんだ……!
私は苦い顔をしながら鏡の精霊の指示に従って歩き始めた。