一
――― 最期まで道連れにして差し上げます。
それは馬鹿馬鹿しいくらい、人によっては狂気のような言葉。
けれど、目の前の東域の都で陰陽師を勤める青年は、真顔で言ってのけた。
片や東の風の代表とされる精霊。 片や陰陽師とはいえただの人間。
一方は時に上級精霊として、そしてこの東にあれば時よってはカミとして恐れられるもの。
それにたかが人間の、十八そこらの男が言うのだ。
「妻になって下さい」
馬鹿馬鹿しい。 実にくだらない。
そう、考えるのが普通だった。 身の程を知れと言っても良かった。
けれど、
「良いわ。 その言葉が本当なら、なってあげる」
そっと片手を伸ばし、差し出されていたその手を取った。
それが、始まり。
*** ◆◇◆◇◆ ***
「それで。 私は言っておくけれど家事なんてしないわよ?」
東雲はそう言って、東域と北域の特徴を掛け合わせたような薄桜の衣、その裾を揺らした。
浅黄色の長い髪を掻き揚げ、深い森の緑をした瞳が、目の前でにへらっと笑み崩れている自身の“夫”を見遣る。
夫は首の後ろで一括りにした黒い髪に、この東域では一般的な活動着である狩衣という服装で、瞳は黒曜石のように黒く、十八という年齢よりも大人びて見える要素の一つなのかもしれない。
一般的に、この東域に生息する人間は他域の人間よりも顔立ちが幼いのだが、目の前の幸せそうに微笑んで自分を見つめてくる男性は実年齢よりも大人びている……というか、マセているように東雲は思った。
何しろ先日、東雲はこの”夫”にプロポーズされて、それを受けたのだから。
「構いません。 自分のことくらい自分で出来ます」
「そう。 なら良いわ。 けれど、ねぇ、それで私が居る意味はあって?」
「勿論。 居てくれるだけで私にとって十分」
何故か自信満々で言い切る夫に、東雲は軽く溜息をついた。
本当に変な者だ。 こういうのを変人というのだと東雲は初めて理解した。
「私に、どうしてほしいのかしら?」
「何も」
「?」
夫は笑う。 幸せそうに。
「何もしなくても、良いのです。 ただ居てくださるだけで。 いえ、ずっと此処に居ろとも言いません。 貴女は貴女の自由に」
「……意味がわからないわ」
妻になってくれと言ったくせに、何もしなくて良いなんて。
よくは知らないけれど、人間の夫婦というのは妻となった女性が夫の世話を焼くものだろうということくらいは知っている。
なのに、それをしなくて良いと言うのだ。
それならば何故。
世話焼きをして欲しいのではなくて、何故この自分に妻になれなどと願ったのか。
何故だか腹立たしくて睨みつけるも、やはり幸せそうにへらへらしてる。
「貴女のことが大好きだということですよ」
「…………」
本当に訳がわからない。 なんでこんなに苛々するのだろう。
その笑顔を見ると、無性に腹が立つ。
ぷいっとそっぽを向いて東雲は簀から庭へと降り、軽く地を蹴った。
それだけでその身体はふわりと浮き上がる。
風の精霊である彼女には至って普通のこと。
「お散歩ですか? いってらっしゃい」
笑顔で見送るように見上げる顔に、風の塊でもぶつけてやろうかとさえ思ったが、それすらも癪だったので何も言わずにそのまま風に乗る。
何故こんなに、苛立つのだろう。
「それはねぇ、うふふ、シルフィがぁ、そのついなさんにぃ恋をしているからだよん」
「ビオル、ついにボケたの?」
東西南北をそれぞれの大国が治める大陸「ハルト」
その中心である狭間と呼ばれる地域は精霊も妖も人間も全てが交わり合う完全な中立地域。
どこの国からも干渉されず、どこの国の干渉も許さない。 絶対的な治外法権の場所。
その森の中で布の塊のような人物が言った言葉を、東雲はすっぱり切って捨てた。
実はその布の塊のようなものが風の精霊を束ねる長でもあるのだが、つまり風の精霊である東雲もその部下のようなものなのだが、すっぱり。
「ボケてないよん。 酷いねぇ。 あははん」
袖を唯一布から見えている肌である口許へと添えて笑う布の塊。
東雲は腕を組み脚を組み宙に浮いている。
「ボケよ。 だって恋なはずないわ」
「なんでぇ、そう思うのかねん?」
「恋はもっと楽しいものでしょ」
人間の語る恋は、それこそ楽しくて胸が躍るものだと聞いている。
時折暇に飽かせて宮廷の女房たちの恋愛話などを聞いたり、それでなくても普通の庶民の少女たちの話も、恋とはそういうものだという。
間違っても苛々したりいじめてやろうかと思うようなものじゃないはずだ。
「うふ。 さてねぇ? 楽しいだけが恋じゃないっていうのも、よく言われることだよん?」
「……ともかく違うわ。 認めない」
こんなのが恋なんて。
しかも、それなら相手はあの夫ということになるじゃないか。
東雲がツンと顔を逸らしたのを見て、布の塊が小首を傾げる。
「それならぁ、なぁんで妻になることに了承したんだいぃ?」
「馬鹿だったからよ」
きっぱり言った言葉に布の塊が黙る。
それは続きを促しているのか、それとも二の句が継げないのか、どちらだろうか。
「道連れにして、最期まで一緒にいるなんて馬鹿なこと言うから、ちょっと面白いかと思っただけ。 人間でそんなこと言ってくるやつなんて初めてだったし、だからちょっとくらい観察したら面白いかと思っただけよ」
面白そうだから、人間の夫婦の真似事でも付き合ってやろうかと思った。
そんな気まぐれだ。
断じて、恋じゃない。
「…………何? ビオル」
布の塊が何か頭痛でもするかのように片手を額に当てている。
「うーん……あのねぇ、そのぉ……うん、 まぁ……」
うんうん唸っていたが、結局その布の塊は力なく首を横に振った。
「しばらくぅ、一緒に暮らしてみると良いんじゃあないかねぇ。 そうすればぁ……多分、わかると思うよん?」
何が、とは言わなかったけれど、なんとなく一番最初の問いの答えだと思った。
どうしてこんなに苛立つのだろう、という。
「一緒に暮らす、ね……」
あの顔を見るとイライラするのだけれど、何故かその言葉に不快感は起こらなかった。
狭間から帰った東雲を、夫は変わらず幸せそうな笑顔で出迎えた。
「おかえりなさい」
「…………」
頭沸いてるんじゃないのかというほど、幸せそうで。
だから東雲は呆れたような顔で口を開いた。
「ただいま」
真似事の夫婦。
人は家に帰ったらそう返すのだと聞いたから返しただけ。
なのに、夫となったこの青年はとても幸せそうに笑うのだ。
「……そんなに楽しいの?」
「はい?」
「こんなやりとりが」
「はい」
ほわんとした笑顔で頷く様子に、居心地が悪くなる。
東雲は溜息をついて邸の中へと上がり。
夕刻で非番だからか、夕餉の支度が出来ている膳を見る。
二つの膳。 明らかに夫とそして自分の分だ。
三日ほど帰っていなかったのだが、まさかその間も自分の分も用意していたのだろうか。
そうでなければ自分の分までいつ帰るか知れないのに用意できないだろう。
「……私が食べると思うの?」
「食べられませんか?」
精霊が人間と同じように食事をすると思うのかと聞いたのだが、返ってきたのはそんな少しずれた言葉。
「食べられるわよ。 けど、別に必要ないわ」
人間の食事はいわゆる嗜好品の感覚だろうか。
取らなくてもなんら問題ない。
「では、ご一緒に」
食べましょう、と夫は膳を勧める。
向かい合って座り、膳を食す。 永い時の中では退屈で興味本位でやってみることがあった正座と、この地域の食事の仕方が役に立った。
箸の使い方なんて知らなければ突き刺すだけにしか使えそうにも無い。
ふと視線を感じてそちらを見ると、夫が匙を渡そうとしていたようだが、箸を使えるのを見てどうしようかと固まっていたようだ。
「……あるなら最初から渡していれば良いでしょう」
固まるくらいなら、と東雲はさっさとその手から匙を取り、箸置きに箸を置いて匙を使う。
「何?」
何故か夫がとても嬉しそうで、思わずじと目になった東雲に彼はにこにこ笑顔のまま首を横に振った。
「なんでもありません。 私の妻は可愛いなぁと思いまして」
物凄く腹が立つ。 何故かはわからないけど、物凄く。
「どうしました?」
へらへらと笑う夫。
知らないと返して。 しばらくその羹を匙で口に運んだ。
特に会話があるわけでもない食事を終える。
膳を下げたその姿を視界の端に見送ってから、再び庭へと降りた。
紺碧の夜空に散らばった砂礫ほどに膨大な大小の光粒。 人はこれから自分達の行く末を紐解けるのだという。
精霊である自分にはまったくわからないものだが。
「絶対、恋なんかじゃないわ」
ならば、これもあの夫は運命だと読み解いていたのだろうか。
だからあんな馬鹿げた途方も無い荒唐無稽な事を言ってのけたのか、と。
それならば、やはりこれは恋などではないのではないか。
読み解いた先がそうだったからならば、それは運命というものだとしても恋ではない。
自分のあずかり知らぬ所を読み解いて先回りされるのは決していい気分ではない。 だからだろうか。
こんなに苛々するなんて。 そう呟いて夜空へと舞い上がった。
「食事の支度もしなくて良い。 どこでも自由にいって、居たい時に居てくれれば良い、ですって? バカにしてるの」
人間の妻の役目くらい知っているのに、どれもしなくて良いなんて。
腹立たしい。 苛立たしい。
それじゃ今までと何も変わらないではないか。 夫婦となればもっと距離が近くなるものじゃないのか。 勝手に読み解いて先回りしたくせに。
それとも、やはりあの時は勢いであって、今になって立場の差を感じているのだろうか。
「…………あれが?」
自分で考えておいてあれだが、とてもそんな謙虚な考えが浮かぶもんじゃない。
「いつも笑ってるけどそのくせ実は中身なんて興味向いたやつ以外には欠片も塵ほどもなくて」
陰陽師としては呪詛の依頼なんかもあって、いつも断わっているけど表向きの善人みたいな断り文句の裏、その真実は「なんで貴方なんかの為に私が命はらなきゃいけないんですか? 人を呪うなら返されたときに代償が奪うのは術者の方なんですよ。 貴方なんかに命かけられません。 そもそもやっかみで人呪うくらいなら自力でのし上がって蹴落とすとかまず試さないって自分を振り返りやがれこのボンクラ」なんていうようなものがたっぷり含まれてる男が?
「無いわ」
ありえない。 もし万が一あったとしても、はっきり言えばきもい。
「やっぱり、バカにされてるのかしら」
先読みして、勢いでプロポーズしたけど今になって立場に恐々とするなんて、あの夫に関してあり得ないとしか出てこないから、後は考えられる可能性としてはそれだけなのだが。
バカにされているのだとしたら、むかっ腹ではないか。
あんなへらへら幸せそうな男に、先回りされて、バカにされるなんて。
「…………何も出来ないと思っているのかしら」
何もしなくていいというのは、何もどうせ人間の生活に関わる事などわからず出来ないと思っているからなのだろうかと、そう思った。
「………………」
それは、あまりにも業腹だ。
■ ■ ■
目が覚めて朝餉の仕度をしなくてはと床を出たついなは夜着のまま釜のある厨に向おうとして、はたと動きを止めた。 いい匂いがする。
「朝餉の支度ならあるわ。 食べなさい」
「東雲……?」
匂いの元はいつも食事をする間。 二人分の朝餉の膳が用意されていて、ほかほかと汁物からも湯気が立っている。
思わずちょこんと膳の前に座ったついなは、まじまじとそれらを見た後、急に東雲の手を取ろうとした。
「な、なによ」
「怪我はしていませんか? 火傷は」
「無いわよ」
「嗚呼、でしたら……」
よかったとホッと息をつく。
それから一転、にこにこと笑顔になり。
「私の為に作ってくださったのですね。 ありがとうございます。 さっそく頂きましょう」
そうして箸を手についなが食べ始める様子を、東雲も向かいに座り眺めながら自分の作った膳に手をつける。
強飯という硬く炊いたご飯が一般的な占唐の食卓だが、朝から食べるのにそれもどうなのかと思ったし、先のついなの様子をみていると朝は急いでいるのかそれともそういう性情なのか、しっかり噛み締めているようには見えなかった。 なので用意したのは水飯というおかゆよりはまだ硬さのある程度の柔らかいものだ。 本当の水飯はおかゆと大差ないのだが、そこは好みに応じたと思えばいいだろう。
根菜の汁物はちゃんと中身の具も柔らかく煮えているし、甘葛で甘く味付けた玉子焼きに漬物。
ついなの箸がそれらに伸びる。
失敗なんてしてない筈だ。 風の長に作り方を教わり、そして実際つくったものを味見して貰ったのだから。
ちゃんと大丈夫だと太鼓判も貰った。
大丈夫……なはず。
そんなことが頭の中でぐるぐると巡っていた所為か、意識していない東雲の眉間にはぎゅっと皺が寄っていた。
「とても美味しいです、しのの…」
名前を呼ぼうとしてその表情を見たついなはキョトンとした顔で目を瞬く。
酷く深刻そうな顔で眉間に皺を寄せていた東雲の顔が美味しいと言った瞬間にほっと安堵して緩んだのだ。
「……? ……何よ」
自分では意識していないことなのだろう。
東雲がついなの様子に訝しげに首を傾げる。
慌ててついなは咳払いをしつつ首を横に振り、なんでもありませんと返した。
内心そんな東雲の様子がとても可愛いなんて思ったのだが、言ったら怒られそうだ。
食べ終わった朝餉に手を合わせ、何だか危なっかしい手つきで洗い物をしようとする東雲についなは不安になりつつ、ひとまず出仕の仕度を終え、再び洗い場を覗き。
「…………東雲、無理なさらなくても……」
そこには、どうやったのか床……というか土間の地面が濡れていて、器が転がっていたりするという光景があった。
「う、うるさいわ! ちょっと手が滑っただけよ!」
呆然とその光景に固まっていたのは引き起こした当人のはずの東雲。 ついなの声に東雲はサッと顔に朱が差しそういい返す。
真っ赤な顔で一緒に片付けようというついなの申し出を突っぱねる東雲に、ついなは、ほにゃとした笑みに少しだけ心配そうな色を滲ませたものの大人しく引き下がった。
「食器はどうでも良いので、怪我だけは気をつけてくださいね」
邸の門まで行き、外へと出る前についなはゴツンと額を扉にぶつけてそのまま縋りつくように座り込んだ。 というか、悶えた。
「……可愛い」
陰陽寮にて後に“吉野様”と呼ばれる陰陽師は、そんな言葉と共にふるふると震えていた。
明らかに、安堵したり慌てたりしているのに素直じゃない反応。
自分の感性を異常という輩がいても構うものか。 文句なしに自分の妻は可愛い。
「……幸せです。 貴女がいてくれるだけで」
それは嘘偽りない心。
少し意地っ張りで、プライドが高くて、素直じゃない。 そんな君が愛しいのだと、言ったら絶対怒られる。
それでも、想わずにはいられないほど、好き。
傍から見てもおかしい男だが、そもそも他人にどう見られているかなんて気にする者でもない。 少しは気にしなければ人として何か大切なものが欠けているような気がするのだが、本人にとってそんなものは無用の長物でしかないのかもしれない。
自分に必要なものは、自分で決める。
何とか体勢を立て直し出仕するために戸を開けたついなは、一度振り返る。
彼女は、自身が女性として愛するただ一人の女。