終章 飼われた猫でも旅立ちます
「お、目が覚めたか?」
「和馬、さん?」
俺は床に仰向けに倒れており、その上に折り重なるようにして凜香の体があった。
「大丈夫か? 怪我とかはないか?」
「っ!!」
意識を取り戻した凜香は、我に返ってバッと顔を上げる。彼女は体を起こそうとしたが、プルプル震える腕では体は僅かに浮いただけだった。
起き上がる事を断念して、凜香は再び俺の上にのしかかる。交差した人影二つは、ちょっと歪んだ十字架に近く、俺の腹の上に凜香の胸部があった。
自分がどのくらい意識を失っていたかはわからない。近くの河原で催されているであろう花火の音が聞こえるから、完全には中止にならなかった祭りが、後半に差し掛かっているのではないかと思う。
「私は、大丈夫……疲れてはいるけど……」
「そうか、良かった……」
「和馬さんは大丈夫なの?」
少女は照れくささからか、顔を逸らし視界の端でちらちらこちらを見る。
先に目を覚ましたとき俺も気恥ずかしさを抱いたが、それはすぐ全身の倦怠感とって替わられた。今の状態だと、凜香が上に乗っていなくても起き上がる自信がない。
まだ、羞恥心が疲れより勝っている少女を見て、悪戯心が首をもたげてきた。
「死ぬかと思ったよ……」
俺の視界が徐々に閉じていく。首から力が抜けていく。
「え? か、和馬さん大丈夫! ……琴美さーん、何処かにいないの? 和馬さんが……」
「違うだろ『そこは。死ぬかと思った、って死んでるじゃないー』って突っ込みを入れてくれないと」
俺はうっすら目を開けて、そんな事をのたまう。
「……」
「まぁ、実際は死んでいないわけだが」
「……」
「俺、そんな突っ込みを入れてもらった後に、極楽往生するのが夢なんだ。まぁ、今回はともかく、本番になったら打ち合わせ通りに頼むぜ」
「……」
「たとえば、トラックにひかれるだろ? そして血だらけのまま立ち上がって『死ぬかとおもった……』と言った後にバッタリ。そして『死ぬかと思ったって……死んでるじゃなーい』と突っ込みを入れられつつ天国……ヘッ」
「ずいぶん……元気そうね……今すぐ地獄に送ってあげましょうか?」
白くて細い腕が伸びてきて、掌が俺の喉元に食らいついた。その後の圧迫は締め付けるという表現にはほど遠いささやかなものだった。
「ヘン、そんな攻撃ぐらいで、死ぬほどヤワじゃない……ってかそれは攻撃なのか? マッサージなのか? 俺は知らぬ間に天国に来たのか?」
「はぁ、全くもう。さらに疲れたわ」
伸ばした手を引っ込めつつ凜香が吐いた溜息が、俺の腹を擽る。
「でも、ホント、無事で良かったよ……本当によかった。ほっとした」
「ん……」
自分の上にある華奢な体、その存在を確かめたくて俺は手を伸ばす。
「大丈夫なの、和馬さん? ……傷だらけだけど? ね、ねぇってば……ちょっと……」
俺が彼女の背中をそっと撫でていると、その手をつねられた。
「いててて、何すんだよ……」
「なんで貴方はもう……こっちはこんなに……」
無事を確認するという名目で、しれっとセクハラをした手を引っ込める。
「ごめんな……」
謝っても、凜香の憮然とした空気は薄まらなくて、謝り方が悪かったのかも知れないと思う。
「すまんがそっちから離れてくれないか? こっちはもうくたくたで動けない……それに、今琴美は居ないけどその内戻ってくるだろうし…………こんな所、アイツに見られたら何回殺されるやら……おーい、凜香さーん」
「大丈夫……本番はうまくやるから……」
「っておーい、凜香さんやーい」
「死ぬかと思ったって、死んでるじゃなーい。でいいのよね?」
「果たして、琴美相手に今際の際の台詞が吐けるかどうか……即死しなければ御の字だぜ」
『ニャッ』
猫の鳴き声が聞こえてきたのはその時だった。
「あ、シャット、無事だったか。猫明神も」
「サイテー、猫の事を忘れている和馬さんなんてサイテー。動物に優しいことだけが取り柄なのに……」
「動物に優しい女の子にも優しいよ?」
「……いらないわ、そんなオマケのような優しさ」
俺は「愛って、難しいね」と呟きつつ半透明のシャットを見る。その茶トラ猫の体はいつの間にか凜香の背中の上にあった。鳴き声と近づいてくる気配はしても、凜香に触れるまで俺がシャットを見る事は適わなかった。
『カズマ、世話をかけたな……』
「猫明神、大丈夫? 今にも消えそうだけど……」
宙に浮いている猫明神は……知らずにその場所を見たら気付かなさそうな程薄れていた。
『フン、貴様に心配されるまでもない』
脳内に届く声は小さくても、暗い響きは感じられなかったので、俺は安心して笑みを返す
「しかし、シャット……正確には無事とは言えないよな」
『ニャァ……』
同意するような、か細き鳴き声。
「………………すまな」
『ニャッ』
謝罪の声は短く鋭い一鳴きで遮られた。
「和馬さん、言うまでもないだろうけど……物わかりが悪いようだったら脇腹をつねりつつ意訳してあげましょうか?」
「いや、だいじょうぶだ」
謝罪はいらないって事だな。ならば……
「ありがとう。シャット」
俺は手を伸ばして、シャットの頭を撫でようとした――。
「シャットは、化けて出るほど自分の生に未練があったわけじゃないよ。成仏出来なかったのは、シアンとシャットの死から立ち直れない和馬さんが心配だったから。動物の生死で見境を無くす和馬さんが心配だったからだよ」
――だが、俺の手はシャットの頭に触れずにそのまま突き抜ける。
結局凜香は、脇腹をつねらずに意訳してくれていた。
「シャットは死んだ後、和馬さんの前に姿をその霊体を表したんだけど……和馬さんはそこまで霊感が高くなくてシャットに気付かなかったの。だからシャットは、私にお願いしてきたの。和馬さんを助ける為に……憑依させてくれって」
触れることができなくても、俺はシャットの頭辺りを一杯の愛情を込めて撫でた。
「凜香は……シャットの言葉が分かるのか?」
「おおまかな事しかわからないから……伝わってくる気持ち、感情で言いたいことを推測するの。私はこんな有様だけど、シャットは大分人間の言葉を理解するようになったわ。私に取り憑いて人として過ごした影響かも知れないわ」
凜香が「芽依子さん」として、俺の前に現れたのは、中学三年の冬だった。
あの頃、我が家の飼い猫シャットが亡くなったショックから、俺は猫娘アイドルに走っていた。それを救い出してくれたのが、芽依子さんと琴美だった。正確には、二人と一匹と言うべきだろうか?
「シャットは凜香に乗りうつって、俺を助けてくれたのか……それにしても凜香はなんで鹿谷 芽依子って名乗ったんだ?」
「犬猫とハンバーグの裏にある共同墓地に行って……そこでシャットが憑依したところを、琴美さんのお母さんに見つかったの。泥棒――って叫ばれて……」
シャットが乗りうつった後の凜香だと、その前と比べて、瞳と髪の色も異なるし……それに体格も少し変わってしまうようだからな。
しかもそれを見たのが、思い込みが激しくて突っ走り気味なあの人ときたもんだ。共同墓地だから、知らない人が来ることもあるだろうに。泥棒って……
「だから、とっさに……芽依子って名乗ったの。そしたら引っ込みがつかなくなって」
琴美さんから、失踪したイトコの話は聞いていたから……もっと他に言い逃れのしようはあったんだと思うんだけど、と言う凜香。
「でも、芽依子と名乗って良かった。犬猫とハンバーグのお店を手伝いに来れるようになったし……料理が上手になったのは師匠のおかけだけど、ね」
「ヘンなトラウマが、植え付けられることになったし、琴美の家のごたごたに巻き込まれることにもなったけれども、な」
むう、と唸った後で俺は言った。そう、凜香にとって良いことだけではなかったのだ。
「私の像のおかげで、ヘンなことになってしまったわ……ごめんなさい。でも、迷惑をかけてしまったけど、私は自分のした事を、後悔していないわ」
『ニャア』
「シャットは、自分が乗りうつっていた事も影響しているかもって言いたそうだけど……それは関係ないわ」
「親戚でもない他人の家騒動であそこまで怒れるから、優しいんだよ。凜香もシャットも』
その優しさに、俺も救われたんだ。
そんなことは……、と言いつつ視線を逸らす凜香の上では、シャットがそっぽを向いていた。そんな一人と一匹を見て「以心伝心」なんて言葉が脳裏を過ぎる。
「墓参り、か……凜香。シャットとシアンが、あの時神社にいた犬と猫って事にいつから気付いていたんだ?」
「和馬さんの事に気付いたのと同じタイミングよ。ちなみに和馬さんは、昔、私に会っていた事にいつ気付いたの?」
一目見た時に。という正直な答えを喉元で止めて、むぅ……と唸っていると凜香が続けてしゃべり出す。
「あの時の和馬さん、ちょっと意地悪だったから凄く印象に残っていたわ「捨て猫や捨て犬は大人に言ったら保健所に連れて行かれる」なんて嘘言うし……」
「あれは……その、すまなかったな……」
「それにしても、猫にシャット犬にシアンって、フランス語のままよね? そんなので気付かないわけ無いじゃない……できるだけシャットと私を合わせようとしていたし……なんで隠したの? 言ってくれなかったの……? シアンが死んだ事を告げるのが嫌だったから?」
「ああ、そうだな。面倒を見るって約束したのにあんな事になってしまって……」
凜香が長く、大きな溜息を吐いた。
「シャットはその事で和馬さんを責めていないわ。あの白い家の前で再会したシアンは、死んだ後、わざわざ離れた場所に居る和馬さんに会いに来たのよ? あの二匹は和馬さんのことを恨んでいないと思う。可愛がってあげたんでしょ? 犬と猫を飼えなかった私と、私のお母さんの分まで……」
俺が倒れたまま頷くと、凜香がふっと小さく笑う気配がした。
「だったら、いつまでもその事を悔いないでね」
「そう、だな……ありがとう、凜香」
俺は凜香の金髪を優しく撫でると、少女は不満げにこちらを睨んでくる。
「動物に優しい女の子にも優しくするって奴? オマケのような優しさはいらないって言ってるでしょ?」
『ニャ』
「シャットは、何て言ったんだ?」
「しらない……」
動物嫌いの仮面を取っ払うことができたのは、凜香のおかげだよ。と胸中で呟いていると、胸元から大きな溜息が聞こえてきた。
「ち、な、み、に、私は、一目見てすぐに和馬さんの事は分かったわよ。あの意地悪な男の子の事は一日たりとも忘れた事はなかったから……犬猫のフランス語まんまの名前を聞くまでもなかったの」
「俺も……そうさ……初めて会った時に気付いた」
そう言った後で凜香を見ると、続きを促すような視線と遭遇した。
「まぁ、金髪の女の子なんて珍しいしな……」
「ああ、そう。珍しいからすぐにわかったのね。お母さんに感謝しなくちゃ」
さらっと言ってのけた言葉には微かな苛立ちが混じっていた。珍しいから気付いたなんて言いぐさじゃ、どんな女の子だって傷つくか……。
「まぁ、金髪じゃなくても……凜香は可愛いから見た瞬間わかったと思うけど」
フォローしなくては、と考え無しに開いた口からぽろりと本音がこぼれ落ちる。
「……」
「お世辞じゃないぞ?」
「はぁ……そう、ありがと……またさらに疲れたわ……」
取り繕うつもりがさらに滑ってしまったか? 隠すように顔を下に向けた凜香を見つつ、俺はそんな事を思う。
少しの間訪れた沈黙。それを破ったのは……幽霊猫の『ニャァ』という一鳴きだった。
「和馬さん、シャットが……もう大丈夫だよねって言っている……と思う。大丈夫ってのはきっと……」
「俺は、大丈夫さ」
俺は、凜香に二の句を継がせなかった。
「もう、シアンとシャットの死は乗り越えたし。動物の死を目の当たりにしても我を失う事は無い。俺はもう大丈夫だけど……でも、正直な気持ちを言うとどんな形ででもシャットにはここに残っていて欲しいと思う……だけど、無理なんだろうな。シャットもそんな事は望まないだろうし」
俺は、凜香の上のシャットに向かって再度手を伸ばす。シャットが悲しげに一声鳴く。
「凜香と一緒じゃないと、俺はシャットを認識できないようだけど……凜香は、来年海外の大学に行ってしまうしな……」
せっかく凜香と仲直り出来たのに……いや、芽依子さんとして凜香とは会っていたから、正確には仲直りしていた事に気付いたと言うべきなのだろうか?
「私、病気の治療があったし、ずっと海外の大学に行きたかったの。高校を飛ばして大学を受けるから、その為の勉強も一源中学じゃなくて……レベルが高い中学に通うことにしたの」
「それじゃぁ、中学三年生になってこの町の中学に転校して来たのは……」
「海外に行く前の、最後の一年は……慣れ親しんだこの町で過ごしたかったから」
「じゃぁ、芽依子さんとして、大学に通っていたのは?」
質問ばっかりしているなという自覚はあったが、凜香とシャットとは長い間、芽依子さんとして接していたから色々な疑問がわき上がってくる。
「大学に通ったのは、シャットが和馬さんを監視したがったから、シャットが和馬さんと一緒に居たがったから。それで、少しでも「芽依子」として、和馬さんと接触できる時間を増やそうとして。一源高校と大学は隣接しているし、食堂が同じで共通の行事も結構あるから……」
俺と、シャットの為に、凜香はそこまでしてくれたのか……芽依子さんが、神出鬼没になるのも無理はない。その裏で凜香は二人一役を余儀なくされていたのだから。
来年、海外の大学を受けるぐらいだから……国内そこそこレベルの大学入試試験は朝飯前だったのかもしれない。ただテストは問題なくても、二重の学生生活は困難を極めたはずだ。
『ニャッ!』
茶色の瞳で凜香を見下ろしつつ、シャットは再度鋭い声を上げた。なぜ、シャットが凜香に対して怒っているのか、俺にはよく分からない。
「ちょっ、シャット……落ち着いて……」
シャットは凜香の背中に猫パンチを繰り出す。叩くと言うよりは押すという表現が似合いそうなそれは、本気で怒っている訳じゃなくて……なにかの抗議のように見えた。
「アンタがホントのこと言わないから怒っているんじゃないの?」
聞こえてきた声の方向を見ると、琴美が柱の陰から姿を見せるところだった。
「琴美さん……」
「カズの手当をする為に道具を取りに行ったんだけどさ、戻って来てもアンタ達が綺麗さっぱり私の事を忘れているからさ、出るに出られなくなって……しかし、カズ、アンタ私と別れたその日から、洗濯板といちゃつくわけ? ひどいよ、私とは遊びだったのね……」
「まぁ、とにかく落ち着け。話してもわからなさそうだけど落ち着け。俺の体が動いて、逃げる隙が出来るぐらいまでには落ち着け」
「洗濯……板?」
「イタタタ……凜香、俺の服と肉をつまんでいるから、主に肉をつまんでいるから!?」
「私はもてあそばれたから……お返しにカズの体をおもちゃにしてあげる」
「……このおもちゃの対象年齢は、二十歳からでーす。未成年は触っちゃ駄目です」
「大丈夫、頭だけは残してあげるから。死ぬかと思ったって言ってから死にたいのよね?」
「肺とかも残してくれないと喋れないんだけど……ってそこから聞いていたのか!?」
「まぁ、制裁は後回しにするとして、さ。猫明神、ここで凜香に対して一言どうぞ」
『ん、なんだ?』
「いつも通りに言ったらいいよ、我は嘘をつく人間が~なんたらかんたらと」
『人間、嫌いだ』
「略さないでよ!?」
『ふん、くだらん』
「いいわ。私が代わりに言ってあげる……アンタがわざわざ芽依子として一源大学を受けたのは、ホントにシャットの為だけなの? 他の理由もあるんじゃないの?」
「他に、どんな理由があるってのよ……」
近寄りつつ放たれた質問に、投げやりな回答を返す凜香。
「それをおいとくとしても、さ。アンタ本当に海外の大学に行きたいの? それはアンタの意思なの?」
俺と凜香の側までやって来た琴美は「いつまでそうやっているわけ?」と言いつつ冷たい眼差しで俺達を見下ろす。「だって疲れて動けないから……」と零す凜香を琴美は軽々と持ち上げる。一声鳴いてシャットが凜香の背中から離れた。
下ろされて床に座り込む凜香。節々が痛む体を起こそうとすると琴美がそれを支えてくれた。そして俺の体に刻まれた新しい傷の手当てを開始する琴美。消毒をし、包帯を巻き直し……。そのテキパキとした動きを見つつ、俺も凜香もしばらく無言でいた。
「海外の大学に行くように言ったのはアンタの父親で、その切っ掛けはあの家出でしょ? …………去年の夏って言って、カズ、心当たりない?」
「……琴美さん!」
不意に零した琴美の言葉。やや遅れて放たれた凜香の叫び。
去年の夏? 高校一年の夏……は一生忘れることはないだろう、鮮烈な思い出が。
琴美の両親が姿を消して、俺と芽依子さんと琴美で店を支えようと七転八倒……。
「あ」
そうか、なんですぐにその事に思い当たらなかったんだ。あの時、芽依子さん……もとい凜香とシャットは泊りっきりで、店を何とかしようとかけずり回っていたんだ。凜香は弱い体で、しかも「芽依子」という嘘を俺と琴美に付きつつ働いていた事になる。
思わず凜香に目を向けると、両膝を抱えた凜香が鋭い眼光を送ってきた。
「和馬さん。謝ったら怒るよ……私は自分の意思であの店にいたんだから」
「ちょこちょこ家に連絡はしていたものの、一ヶ月近くも家を空けて……しかも戻って来たら寝込んじゃうしね。しかも一ヶ月近くどこで何をしていたのか言わないときたもんだ…………別に素直に言ったら良かったのに、カズと一緒にレストランを手伝っていたって。あの頑固親父でも、カズと一緒に居たっていうのなら、ぎりぎり許してくれたと思うんだけどね」
許しの言葉を聞くまでに、俺の血が何リットル流れるやら。
「その出来事があって……あの頑固親父は凜香を海外の大学に行かすのを決めたのよ。医療施設が充実していて、監視施設も警備もしっかりしたところに行かすってのが、大きな目的みたいね」
「なんだそりゃ。医療施設はともかく、監視と警備って刑務所じゃあるまいし……いくら一人娘が勝手に家を空けたからって……」
「凜香のお父さん、ずっと前から迷っていたのよ。娘が狙われるかも知れないからって」
そう言って琴美は、寂しそうに笑った。
「凜香の母親は……詳しくは知らないけど、フランスの怪しいオカルト組織の重要人物だったらしいわよ。あの頑固親父がどういう経緯でしか知らないけど、凜香の母親の願いを聞き届けて、その組織から脱出させたらしいの。あの人額に大きな傷があるでしょ? それは救出劇の時の負傷らしいわよ。ちなみに、凜香の母親の不思議な力は、何かものを作る時に一番強く発揮されるそうよ。娘にもその力は受け継がれているらしいの」
芽依子さんとして凜香が作った像に、あれだけの強い力が生まれるのは……その力が関わっていたのか? それにしても、琴美は凜香の家の内部事情に詳しいな。やっぱりお喋りなウメさんを味方につけているのが大きいのだろうか?
「そのオカルト組織は……今は勢力を弱めているものの、凜香が生まれた情報を何処かから入手して、奪いに来るかも知れないって。能力が一番高まる二十歳前後が一番危険だって」
手を止めて、琴美は凜香の方をみる。
「そういうわけで父親の決定事項に逆らえなかった娘がそこにいる訳なんだけど。結局の所、本当に凜香は海外の大学に行きたいわけ? その為に中学も違うのを選んだの?」
「そうよ。何度も言っているじゃない」
「凜香……」『ニャァ』『下らん』
一人と二匹の言葉が重なって聞こえた。
「な、なによ! みんなして」
「凜香、ようやく吹っ切れたと思ったのに……」
『ニャァ……』
やれやれ。首を竦めた後、俺の手当を再会する琴美。凜香から離れたのでシャットの姿は見えなくなっていたが……何となく猫があくびする気配を感じた。
暫しの沈黙。
顔を伏せた凜香の体が微かに震えだし、それからなぜか噴火前の火山を連想させる。前髪で目元は見えないが、その歯にグッと力が込められて……。
「わかったわよ! 言う! 言えばいいんでしょ! 海外なんて行きたくない! 大学なんてどうでも良いの! 私は、ここに……この町にいたいの! 中学だって……」
凜香がさっと上げた顔。目尻が僅かに光ったように見えた。
「私、決めた!! もう行かないもん!」
「頑固親父がどう言うか……」
「説得するもん! 琴美さんにも協力して貰うから!」
何かに弾かれたように顔の向きを変え、睨むような眼差しを琴美に向ける凜香。
「俺も協力するよ。出来る事なら何でもするから遠慮無く言ってくれ」
琴美の時は違いゆっくりと顔をこちらに向ける凜香。数秒後、その顎が微かに下に動いた。
『ニャァ』
「どうかした?」
「えっと、シャットがもう安心して未練がなくなったから……もう消えないといけない」
『ニャァ……』『おい、娘……』「このリアクションから察するに、アンタ、また……」
「なによみんなして、もう!」
周りの人間と猫幽霊を順にみる凜香。「俺は何も言ってないぞ」という言う意味を込めて、俺は片手を振る。
「嘘は言って無いじゃない……和馬さんのことは安心したってのは嘘じゃないわ。私のことがまだちょっと心配だって言ってるみたいだけど」
「アンタの何を?」
「体を……」
「体……なるほど、ね」
凜香さんの胸部を見遣った琴美が溜息を吐く。
「和馬、さん?」
俺が怒られるの!? 琴美の視線を追って、凜香の慎ましい胸元を見てしまったが……
「そうじゃなくて、私の足とか、アレルギーと喘息の事とか……」
「そう言えば、シャットが乗りうつっているとき、足は大丈夫なんだな。猫アレルギーも大丈夫なのか……」
「幽霊に乗りうつられて……その時、体はどうなっているわけ?」
ニャーと鳴いたシャットが凜香の体をのぼっていくのが見えた。凜香は頭の上に乗った猫の背中を撫でつつ、琴美の質問に対して口を開く。
「基本……私が制御しているんだけど、足は殆どシャット任せだったわ。私の意思では殆ど動かないから苦労したの。大分シャットは言う事を聞いてくれるようになったけど……やっぱり基本、猫は気紛れだから」
小さく笑うけど、足が別制御で動くのにそれで大学生なり、レストランの店員をやる苦労は並大抵ではなかったはずだ。
「上半身は私が制御することも、シャットが制御することも……意思が強い方が制御する感じかしら。口は殆ど私が動かしているけど……気が抜けたときとか、疲れたときとかに、シャットがたまに動かすことがあったわ」
近寄って……凜香の上の猫を撫でたい衝動に駆られた。半透明茶トラ猫を指さしつつ傍らの琴美に目を向けると、睨まれつつ包帯を乱暴に締められた。
「上半身を凜香が制御しているとき、目が青になる感じかな? シャットが制御しているときは茶色、になるよね?」
頷く凜香に対して「気付いたの結構、最近だけどね」と零す琴美に、私も制御の度合いで目の色が変わっている事に気付くまで時間がかかったわ。と言う凜香。
その後「和馬は一生かかっても気付かなかっただろう」という認識が共通である事を確認し合った二人。俺が反論できる空気ではなかった。
「シャットが私の体を動かすと、常人離れの力が出せるの。そして、私の体の制御が完全にシャットに渡った時には猫耳と尻尾が生えちゃうの……」
「シャット、ずっとここに居てくれ」
女性陣(凜香の上のシャットを含む)にじっとりとした目を向けられてしまった。
「私は大丈夫よシャット。喘息のことも、足の事も乗り越えてみせるから。和馬さんもう心配ないと思う。相変わらずなところもあるけど……そこは諦めるしかないわね」
「シャット心配するな。大丈夫だ! 凜香の足の事は俺が何とかしてやる。 喘息のことも俺が何とかしてやる!」
「どうやって? 無責任な男ってサイテー」と言ったのは琴美。
「喘息って、猫アレルギーの事も? 何とかしてくれるって事?」
「お、おう。何とかしてやる」
「無理よ……体質的なものだもの。直りっこないわ」
「直らないなら、直らないでこう……うまく付き合っていくとか、さ」
「人ごとだと思って、気楽に言ってくれるわね……」
「人ごとじゃないだろ! 友達だろ! 気楽に言うわけ無いだろ!」
「人ごとでしょ。だって、だって和馬さん……あの時から、私に遠慮するようになったじゃない。近づかないようになったじゃない」
「あの時って、まさか……」
俺と琴美が中学二年の時、凜香が小学六年の時……俺達は例年のように琴美の宿題を手伝う為に、別荘に訪れた。いつもは凜香と会うに念入りに体の猫の毛をとっておくのだが……昼ご飯の後、別荘の側で見かけた猫と少し戯れてしまった。その後別荘に戻った時、運悪く凜香はマスクをしていなかった。その年の夏、凜香はいつもより体調が悪く、周りの反対を押し切って別荘に来ていた。アレルギーとそれがもたらす喘息は……彼女をかってないほど激しく蝕んだ。
緊急入院する羽目になった凜香は、残りの夏休みを病室で過ごす羽目になったのだ。
「た、確かにそうかも知れない。だって、俺がいてお前に迷惑をかけたら……と思ったから」
その出来事があってから、俺は凜香に会う回数と時間を意識的に少し減らした。
「迷惑なわけ無いじゃない! 和馬さんの家は動物病院をやっているし、和馬さん自身は犬猫好きだし……そんな和馬さんと一緒に居て、アレルギーが完全に防げるなんて思ってないわ。私は、和馬さんと一緒に居られるなら、どんなに苦しい思いをしたってかまわないの! 一緒にいられないことが……一番辛いんだから……で、でも、和馬さんがこんな猫アレルギー持ちの面倒な女と一緒にいたくないっていうのなら……」
そして、凜香からも避けられている気がして、俺は更に会う回数を減らしていったのだ。
「そんな事思うわけ無いだろ! 俺は……俺の存在が迷惑をかけると思ったから……ちょっと距離を置こうと思っただけで、俺自身が嫌なわけ無い! 一緒にいたいに決まっているだろ!」
「だから、わたしは全然かまわないって言っているじゃない……和馬さんが嫌なら……その……」
自分が迷惑をかけてしまう。そう思って遠慮してしまったいたんだな、俺も、凜香も。
「はいはい、お互いが凜香のアレルギーの事を気にしない。それでOK?」
頭を掻きつつ琴美が少し大きな声を出す。瞳にお互いの姿を写しながら、俺と凜香はほぼ同じタイミングで頷いた。
『大きな女、大変だな』
「やっぱりアンタ大分人間くさいわね……ってか私を大きな女って言うな」
『分かった。大きな女の言うとおりにしよう』
確信犯ね。猫明神を睨みつつ琴美はそう呟いた。
「凜香がこの町の中学を選ばなかった理由に、さっきの話が関わってきてると思うんだけど」
「全く関係がないとは言わないわ。それの影響も少しぐらいはあったかも……」
「やっぱり、それが主な理由か」
「琴美さん、私の話を聞いてないわね……」
「心の声を聞いたつもりよ、私は。間違っているかしら?」
憎々しげに琴美を睨み付けながら、凜香は「間違って……ない」と唸るように声を出した。
「要は、和馬さんと会えないのが辛い、辛いからいっそ離れた場所に行ってやる~って事ね。頭良いけど、やっぱり凜香は馬鹿ね」
固く握りしめた拳を震わせる凜香。ややあってその拳を開き、彼女は人差し指を俺に突きつけてきた。琴美の論破は諦めたようだ。
「とにかく和馬さん。猫アレルギーの事で、私に対して遠慮しないでね。絶対よ」
少し涙目の凜香の言葉に、俺は黙って頷くだけだった。
『ニャア』
「アンタ……何回猫に後押しされているわけ? でも、今度こそ大丈夫でしょう。シャットも今度こそ心残りが無くなったって言ってるわよ」
「……なんで、琴美さんがシャットの気持ちを代弁するわけ?」
微かに頬を膨らませてそっぽを向く凜香、俺は苦笑しつつ口を開く。
シャットが床を蹴って俺の元へ向かう。だが、そのシルエットは凜香と少し離れると見えなくなった。
「シャット……どこだ?」
鳴き声すら聞こえなくて、俺は周囲を見回す。
「和馬さんの右足の方……」
「この辺りか?」
「そこじゃなくて……」
えーい、まどろっこしい。シャットもついて来ると思った俺は、凜香の傍らに移動する。
膝をついた俺の足元に凜香が指を寄せた時、そこにシャットの姿が見えた。
「シャット……」
昔と変わらぬ姿で、俺の足に顔をこすりつけるシャット。たとえ感触はなくても感謝の気持ちと愛しさを込めて、猫の頭と顎の下をなで続けた。
どのくらいの時間が経過しただろうか。
「凜香……シャットが……」
悲しそうに頷く凜香。ただでさえ薄かったシャットの姿が掠れている。うろたえつつ救いを求めるように周りを見やると、猫明神も同じように輪郭を危うくしていた。
宙に浮かぶ猫明神は小さく頷く。足元から聞こえてきた『ニャッ』という鳴き声は小さいながらも元気で、「心配しないで」と言っているかのようだった。
「俺が猫アイドル没頭状態から抜け出せたのも、動物の生死に取り乱さなくなったのも……シャットのおかげだ。そしてなにより、ずっと一緒にいてくれてありがとう」
目尻が熱くなってくる。凜香も震えた声で呼び掛けながら猫の背中を撫でていた。
「俺達が昔通りの三人に戻れたのもシャットのおかげだな」
「フン、昔通りの三人、ね……どうだか、私はまだ諦めた訳じゃないからね。その内、カップル二人と寂しい一人にしてやるんだから。凜香はその階梯を見届けるといいわ」
二人で悲しみに沈んでいると、琴美が明るい声を出した。
「おいおい……」
暗い雰囲気を払拭せんとして、あえて空気を読まず冗談めかして言っている事はわかった。だが、シャットの事が気がかりで、俺はぞんざいな返事しか返せない。
『ニャァ』
シャットが凜香の方に顔を向けて、一声鳴いた。
「シャット……」
悲しみに沈み、認めたくない現実に小さく震えていた凜香。潤んでいた瞳の奥に見えた意思の光がどんどん強くなっていく。シャットが何を言ったのか、どんな感情を彼女に伝えたのかはわからない。ただ、凜香はシャットに向かって大きく頷いて見せた。
頬を伝った一筋の涙。シャットを撫でていた手で目尻をぬぐい、凜香は吹っ切れた表情で琴美を見上げた。
「見届けるのは琴美さんの方よ」
凜香のその声は、少し鼻にかかっていたが力強いかった。
「私だって諦めない。だって私は……琴美さんよりずっと前から……」
凜香が手を離したので、シャットの姿は見えなくなっていた。だが、そこにいるという確信と共にシャットを撫でつつ、食い入るように凜香の顔を見る。シャットも俺と同じ方向を見ているだろうという確信があった。
目を潤ませた凜香は、白い肌を真っ赤に染めながら、こちらを見据える。
「和馬さんの事が……」
一旦口を閉ざし、少し目を伏せる凜香。
幼い頃に見た女の子の顔が、今眼前にいる少女に重なって見える。
俺は魅入られた。胸の内にある葛藤が表情を変化させる。動物たちとは違う、躊躇と迷いの心。そしてそれらを打ち消す意思の力。決断する心。動物の心の美しさと人間の心の美しさに気付かせてくれた女の子が、あの時の同じように自分の心と戦っていた。
美しいと思った。動物たちの心の有り様も、人間の心も有り様も。そのどちらもが尊いものだと思った。
再度凜香と目が合う。瞳に互いの姿が映り―― そして、凜香の口が大きく動いた。
凜香の声を聞いた琴美が上等だ……とでも言うかのような不敵な笑みを浮かべる。
『世話をかけたな。我等は共に行く……人間はくだらないな……だが、面白かったぞ……』
『ニャァ……』
ぺろりと手を嘗められた。その感触に驚き足元を見下ろすと。シャットの姿がくっきりと見えた。本当に生き返ったかと勘違いしてしまいそうな存在感。
茶トラ猫に向かって手を伸ばすと、今度は指が体を貫通することはなく――懐かしい感触が掌をくすぐった。俺が顎を撫でてやると、シャットが目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らす。
視界を歪ませながら、俺は微笑んだ。シャットは目を閉じて――その姿がスッと虚空に消えた。
シャットを撫でていた手をじっと見ていると、ささやかな風が体と頬をくすぐる。その風の元を辿ると、宙に浮かんだ猫明神が見えた。俺達三人を順に見遣った後、猫明神の体が空気に溶けるように消えていった。
猫明神が消えた後も、俺達はしばらくその場所を見ていた。
やがて、屋敷の外から花火の音が聞こえてきて、俺達はお互いの顔を見遣る。そして、お互いに微笑みを交わしあった。
戸を叩く音と共に、覚えのある声が聞こえて来る。おそらく山之上と神主さんだろう。
立ち上がろうとした俺の肩は、上から琴美に押さえ込まれた。
「もうすこしここで休んでおきなよ。あの人達には私から話しておくからさ」
チラッと凜香を見た後、琴美は両開きの戸に向かって歩いて行く。内と外の力を足したおかげなのか……固く閉ざされた戸が開いた……というか壊れた。
内側に向かって倒れてきた戸を危なげなく避けた後、琴美は外に出る。そして彼女は、事情を話しつつ大人一人と、高校生一人の肩を押して神社から離れていく。
気を利かせたつもりなのか……? いや、違うな。
俺は最後に見た、琴美の肩越しの一瞥を思い出す。
さしずめ「今日は凜香にゆずっといてやる」ってとこか……
戸が開かれて、花火の音がよく聞こえるようになった。俺達二人はしばらく物言わずその場に佇んでいた。
「花火、ここからじゃ見られないな……外に、行くか」
「あの……お願いしてもいい?」
凜香が自分の足を見ながら遠慮がちに言う。
「凜香の足の事、俺が何とかするって言っただろ? 可能な限り俺が足代わりになってやるから。遠慮すると足の裏をくすぐるぞ?」
「なによ、それ……」
俺は凜香の隣に回り込み、膝の下と首辺りに手を差し込む。そしてその華奢な体を持ち上げた。
「ちょっと……私は背負って欲しかったんだけど……」
俗に言う「お姫様抱っこ」の格好にうろたえた凜香だったが、すぐにじたばたするのを辞めてあきらめの溜息を吐いた。
「まったく、もう……和馬さんは」
そう言って、凜香はくすぐったそうに笑う。何だろう、色々な心の枷を取っ払ったせいなのか……凜香の笑みはいつにもなく無防備で、あどけなく感じる。見知った少女の見慣れぬ表情が新鮮で、俺の鼓動は自然と早くなる。
「和馬さんは……私とシャットが一緒になった『芽依子』が好きな時があったんだよね? …………私は自分の気持ちを明かしたけど、和馬さんはすぐには答えを出さなくて良いの。でも、さっきも言ったけど、私は琴美さんには負けない。芽依子にも負けないから」
少しシーズンから離れているが、六月の花火を見るのも悪くない。そう思いつつも俺の足は動かない。瞬きすら忘れて、眼前の少女の顔を見つめていた。
ずっと、ずっと見つめていた。




