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第三章 祭りの夜でも晒されます(その2)

「渡君、どうした!?」

「ちょっとね……それよりカズの早く手当を……」

 実行委員でもある老医者は、鞄を持ってテントの外に出るところだった。

 放送の効果あってか、テントには他にも誰も残っていなかった。この人はこんな暴風の中……祭りの参加者の為にここに控えていたんだろうか?

「ぬ……わかった」

 老医者の迷いを見て取った俺は……彼が一瞥した方向を確認した。

「他に怪我人が出たんじゃないですか? そっちに向かってください。俺は大丈夫ですから」

 老医者が診た方向からは、一筋の煙が立ち上っていたのだ。

「しかし……」

「血は出ていますが、死ぬほどの怪我じゃないです」

「すまん、向こうは意識不明の重体らしいんだ。救急車は呼んだらしいんだが……心配だ」

「自分で、手当できますから」

 老医者は謝りつつ、包帯、消毒液、ガーゼ等の道具を鞄から取り出して琴美に渡した後、慌ただしく神社の入り口方向に駆けていった。立ち上る煙は竜巻が時折出していた稲妻の被害かも知れない。

「琴美は、凜香の所に……」

「やだ、だめ。私が手当てする」

「凜香が心配じゃないのかよ!」

「今は、カズの手当が先! さっさと上着を脱ぐ!」

「ぬぅ……」

 うまいかどうかはさておき、琴美は暴風の中でテキパキと手当をしてくれた。その手つきに迷いはなく、俺が痛みに呻いても彼女は気に止めない。

「猫明神、自由に動ける? もし逃げられるんだったら……そのペンダントから離れた方が良いんじゃない? その方が、カズも安全だし……」

 いつのまにか半透明白猫が一匹、テントの側まで来ていた。眼光鋭く毛を逆立てている猫からは友好的な気配はまったく感じられない。

『…………フン、業腹だが、貴様の言うとおりかもしれないな。こんな依り代から離れるか……元は我の力だ、我が恐れる必要はどこにも……ない』

「嘘は、嫌いなんじゃなかったのか?」

『なんだと?』

「今は暴走した力の影響で力が弱っているんじゃないか? いや……力そのものは増大していても自由に使える力は小さくなっているのか? さっきも危なかったよな?……本当に俺が手助けしなくても良いのか?」

 ポケットがまた振動した。こんな時に……と思いつつ携帯を取り出そうとして手が滑る。携帯が地面に落ちた。

「カズ……あの白猫がもう一匹やってきた……ここに集まってくるんじゃないの?』

『くそ、あの紛い物霊能力者の……犬の像があれば』

 あ、

「琴美! アレだ!」

 指さしたテント奥のテーブル。そこに「忘れ物係」と書いた席表がおいてあったのを覚えている。テーブルの上には忘れ物を入れる二個の段ボールがあり、その隣には紫入りのトランクがあった。その中に入っていたのは……

 頷いた琴美は、俺の上半身に包帯を巻き付けた後、素早く移動してそのトランクを持ってくる。そして俺の少し前方にトランクを置いて蓋を開けた。中にあったのは山之上が神具と呼んでいた犬の像だった。

『フニャッ!』

 ぞわっと溢れる威圧感。鳴き声に目を向けると二匹の白猫が先程よりも離れた位置にいた。

 確かに、アレは猫幽霊に対して効果がある……頷き合う俺達。

 琴美が手当を続行する。ズボンの裾が上げられ、思わず呻き声を漏らした時……落とした俺の携帯が振動した。

「どうする? 出るなら渡してあげるけど……」

 琴美が消毒スプレーを噴射しながら言った台詞に「頼む」と返すと、彼女はさっと携帯を拾って俺に渡してから、手当を続行する。

『和馬? 今お前も猫神社に来ているのか?』

「お前の仕業か……?」

 山之上の勢い込んだ台詞に、ゲンナリしてしまう。

『な、何のことだ?』

「時間がないんだ!!」

『う……わかった。手短に話す。あの猫妖怪の退治を師匠に頼んだんだけど……師匠はありったけの像を使ったけど、間違えて猫像のほうを使ってしまったみたいで、猫明神を退治する所かその力を増幅させてしまったんだ』

 使う前に確認しなかったのか。という突っ込みは飲み込んだ。今更言っても仕方がない。

『師匠は犬の像を取りに戻ろうとしたんだけど……稲妻に打たれて今は意識不明の重体みたいなんだ』

 老医者は琴美の叔父の所に元に向かったのかもしれない。

しかし、このままだと祭りは確実に駄目になるな……御輿もここに戻ってこれずに……まぁ、今すぐ中止になってもおかしくない状況ではあるけど。

『今俺が犬の像を三つ運んできたけど……それではやっぱり足りないと思う? 師匠が本殿内でぶちまけた猫の像は十ぐらいあったらしいんだけど……』

 俺はテントの外を見る。再度終結しつつある白猫は今三匹。トランクを中心に距離をとっている猫達は、時折近づこうとしては離れてを繰り返している。明らかに芽依子……じゃなくて凜香が作った犬像を意識しているように見えた。

「そのぶちまけられた猫の像。それを全て壊せば……この事態は収束するのか?」

『そうだと思いたいところだ。で、だ……知ってのとおり俺は演技力しか取り柄がないんだ。手伝って、くれるか……?』

「今持ってきたって言う、三つの犬の像を貸してもらうぞ」

『そうか! やってくれるか! よし、それならお前もあの人の弟子になれるように交渉してやるよ』

「イラネーって奴だよ。それにお前の雇い主はもうすぐ廃業だぜ……」

 俺は竜巻の中心たる本殿に目を向けた。

「もう、凜……芽依子さんの作る像から、あんな変な力は出なくなるんだから」

 そうさ。杉浦夫婦が仲直りして、凜香が犬猫の論争で感情を荒ぶらせる事は無くなるんだ。

『そうだな……もう師匠も廃業だよな。俺もあれから師匠に本当の事を聞いたよ。すまなかったな和馬。琴美と芽依子さんにも俺が謝っていたって伝えておいてくれ』

「自分の口で伝えろって奴だ。昼、あの場所に来いよ。そうでないと芽依子さんお手製弁当、お前の番でも俺が食っちまうぞ?」

 そう。「バイト」がばれてから今まで、山之上は俺達を避けていた。昼休みいつもの場所に現れずに、学校ですれ違っても二言三言話すだけ。電話をかけても出ずに、メールを送っても殆ど反応無し。完全に無視しているって訳じゃないが。

『お前酷いな……異性の大学生のお手製の弁当。お前にはそれがどれだけの価値を持つのか分かっていないな。俺が芽依子さんファンクラブの連中にどれだけこの事を自慢して……』

「で? 今お前はどこにいるんだ?」

 話が長くなりそうだったので、俺は山之上の声を強引に遮る。

『……もうすぐで、神社の正面入り口に着く』

「カズ、私が取りに行くわ……」

 漏れ聞こえる声から大体の内容を察したのか、そう言いつつ琴美が腰を上げた。

「しかし……」

 キッと睨み、俺の傷口に向かって拳を振り上げる琴美。思わず身構えた時、俺の全身に痛みが痛みが走った。上げた拳を下ろし、ほれ見たことかと荒い鼻息を吐く女子高生。俺は傷を抑えながら「頼む……」と声を漏らした。

「今から、琴美が取りに行く。お前の役目はそれで終わりだ」

『え……でも』

「……お前の運動能力はよく把握しているからな。お前はその師匠とやらについてやれ」

 ちょっと走っただけで死人のような顔になり、歩いてでもマラソン完走が困難な男がいても、正直足手まといだとしか思えない。

『そう、か……すまない』

「ふん、琴美に頭蓋骨へこむまで殴られた後でもそうやって謝れるかな?」

『まぁ、その時は偽霊能力者じゃなくて、本物の幽霊としてデビューした後に謝りにいくぜ……』

「そうなったら、謝りに来ずに素直に成仏してくれ。いったん切るぞ、山之上」

 俺は電話を切った後、琴美に向かうべき場所を告げると、彼女は不安げに眉を寄せた。

「でも、その犬の像を手に入れた後は、どうするつもりなの?」

「それを盾代わりにして本殿に入り、ばらまかれた猫の像を壊す。壊れたらあの像の変な力も無くなるはずなんだ」

「……壊れたら効力を失うってしっているのなら、どうして今まで壊さなかったの? ……ってそりゃそうか。カズが「芽依子さん」の作ったモノ壊すわけ無いか。それじゃ、ささっと取ってくるからここで待ってて」

「表の白猫に気をつけろよ? こっちに注意を向けているから大丈夫だとは思いたいんだが……それと、凜香の所に寄って彼女を安全な所まで運んでやってくれ」

 凜香は軽いから、運動神経抜群の琴美なら易々と運べるはずだ。

 琴美は頷いた後、白猫を迂回するようにテントの端から外に出て、そのまま走り出した。

 近くの猫が髭をぴくっと動かしたが、駆ける長身の少女に飛び掛かるような事は無かった。

 俺がほっと胸を撫で下ろしていると、胸元から声が聞こえてきた。

『カズマ、少し昔話を聞いてくれ…………我は犬が好きだ。人間が嫌いだ。だが、昔は……人間も好ましく思っていたのだ』

 そう。猫明神を封じた一間寺なる和尚が、巻物にその事を書き残していた。


 ある村で父と娘が暮らしていた。働き者の父親と親孝行な娘。貧しくても心清く日々を過ごす二人は、犬と猫を一匹ずつ飼っていた。

 二匹は幼い時からずっと一緒で、その仲睦まじい様子は飼い主達に勝るとも劣らないモノだったらしい。

 そんな親子と二匹の運命に暗雲が立ちこめた。

 村を通りかかった領主が娘の美しさに目を付け、強引に連れ去ったのだ。

 父親は抵抗したが、一村人が城主の権力にあらがう事など出来なかった。

 悲しさと悔しさを紛らわす為か、それとも本気だったのか――父親は自分の犬に願った。娘を取り戻してくれ、と。

 その願いを聞きとげる為かは定かではないが、犬は村から姿を消した。

 それからしばらくして、犬は村のすぐ側で見つかった。ボロ雑巾のようにやつれた体には、刃物で付けられた傷が無数にあった。娘の簪を咥えたまま事切れていたらしい。

 その少し後に、娘が城から身を投げたという噂が伝わってきた。――娘は自らの命を絶つ前に、訪れた愛犬に形見を託したのではないか? 村人達はそう囁きあった。

 一人と一匹になり、寂しくなった家で猫は日に日に衰えていった。

 言葉が通じない事は承知の上で、男は猫に言い聞かせ続けた。

 (娘も、犬ももう少ししたら帰ってくる。だからお前は死ぬんじゃないよ)

 猫が元気になった後も、男は事ある毎に猫にそう言っていた。季節が巡り、月日が流れ、年が経っても男は言い続けた。犬と娘の死を知りつつも言い続けた。

 十年経っても、二十年経っても、猫は死ななかった。

 犬と娘が帰ってくるまで絶対死なない。猫は全身でそう叫んでいるかのようだった。

 村人はあそこの猫は妖怪だ、猫又だ――と噂するようになっていた。

 そして、男はついに老いと病から床に伏せた。自分の命が残り僅かと自覚した男は猫に打ち明けたのだ。

 私は嘘をついていた。娘も、犬ももう帰ってこない。すまない――と

 嘆き怒り、狂った猫は、男を……


『我は嘘をつく、人間が嫌いだ……』

「でも、猫明神は、あの時凜香を助けてくれただろう?」

 凜香は暴走した猫明神の力で、本音がだだ漏れの状態になってしまうところだった。

『なぜ、人間は嘘をつく? お互いを騙して欺く? 愚かだ。実に……下らん』

 俺の言葉に応えず、猫明神は力なき声を出す。

「本当は、わかっているんじゃないか?」

 一匹、また一匹。徐々に増えて終結しつつある白猫。その数、今では五匹……。増える度に徐々に俺に、犬の像に近づいている気がする。

「俺は犬も従順さも猫の気高さも好きだ。動物のまっすぐな心が好きだ。だけど、それと同じぐらいに人間の複雑な心も好きなんだ。たしかに人間は……自分の心の声を隠し、偽り、本心を明かさないこともある。でも、それは相手の――他人を思っての事なんだ。もちろん、そうでないときもあるけど、さ…………迷ったり、戸惑ったりで遠回りしつつも……最後には決断する人間の心も美しいと思う」

 そう。あの子が迷ったあげく、決断した時の勇気。その時の顔は今でも鮮明に覚えている。

『人間はくだらんな。わかりにくい……我々のように生きればいいものを』

「ちなみに、飼い主の男の人は……食ったのか?」

『言うまでもない、頭から丸かじり、だ』

「嘘だな」

『……人間の真似をしてみたが、なかなかうまくいかぬものだ』

「猫明神も長生きして、大分人間に毒されたようですな。何気にさっきも嘘をついていたし」

 さっきの嘘は……俺を気遣ってのものだった。

『ふん、そのようだ…………我がくだらん人間に毒されるとは……』

 猫明神が苦笑いをする姿――俺の脳内にそんな幻が自然と描かれた。

『カズマ。娘が戻ってきたらケリを付ける。人間は嫌いだがこの祭りはそんなに嫌いじゃない。荒らしてしまっては和尚とその一族に申し訳がない。カズマ、貴様は……死ぬなよ』

「……」

 命の消滅に対する恐怖が、猫幽霊への恐れを取り除いてくれた。

 心と体が制御できなくなり、俺の体はいつもより強く、素早く――そして、危うく動く。

(獣医としてやっていけないどころか……お前、そのうち命を落とすぞ)

 父の声が、脳裏を過ぎる。

『おい!』

「あ……ああ、わかった。死なない程度にがんばるよ」

『貴様……また我に同じ言葉を吐かせたいのか? 我が人間が嫌いな理由、何度も言っているだろうが』

 自分が嘘を言っているという自覚はあった。だが、あの状態だと半ば無意識に体が動くので、どうなるか分からない―― 死なないと本心から言えなかったのだ。

 俺がそんな事を考えていた時、視界が白い閃光で染まった。稲妻が走る――。顔を守るように両手をかかげたが、それは既に稲妻が炸裂した後。

 五匹の白猫から発した光が一本の稲妻になり、トランクに座する犬の像を襲ったのだ。

 だが、像に当たる寸前で稲妻は拡散していた。見えない壁に衝突したかのように。

 ペンダントの猫明神を狙うより先に、邪魔な犬の像を潰そうと思ったのか? そして、犬の像がその攻撃をはじき飛ばした? その犬の象には少しヒビがはいったように見える。

 ……それにしても、女一人が作り上げた像がここまで強い力を持つとは……昔から霊感が強いと言われていた凜香だが……頭が良いだけではなくて彼女は妙な才能に恵まれてしまっているのかもしれない。

 微かに聞こえてきた物音に目を向けると、そこにはおかしな才能に恵まれた当の本人が居た。

「凜香!?」

 足が不自由な彼女は……首にシャットを纏わり付かせたまま、這うようにしてこのテントに向かってきていた。綺麗な着物が汚れることを厭わずに。そんな彼女の青い瞳は、熱に浮かされたように何処か虚ろだった。

「危ない! こっちに来るなっ!」

「和馬、さん……」

「くそっ!」

 琴美は一体何をやっているんだ! 安全な所まで……って頼んだのに!

『ニャァッ!』

 凜香の元へ向かおうと俺がトランクの横を通り過ぎた時、白い猫達が一斉に叫び声を浴びせてきた。その犬の像がなければ今すぐにでもお前に襲いかかってやるぞ、と言われているような気がする。

『下手に刺激するな』

「そう言っても…………凜香……こっちに来るな! 凜香ッ」

 何度呼び掛けても、凜香は細い体を引きずるのを止めない。ならば……と、俺はトランクを抱えて彼女の元に行こうとした。だが

「うおっ!」

 二歩足を進めたところで、稲光がトランクに激突した。いや、正確にはその寸前で弾かれていた。そして俺の右腕には刺すような痛みが走る。稲妻の残滓が当たったのかもしれない。

 犬の象に指の長さほどの亀裂が走る。手から力が抜けそうになる……。だが、今はこれが防衛線で生命線。落として犬の象を壊す訳にはいかない――。落とすと下ろすが半分半分。そんな挙動でトランクを置くまでが限界だった。俺は腕を押さえて荒い息を吐く。

『だから、下手に刺激するなと言っただろう? 大きな娘が戻ってくるまで待つんだろう?』

「だけど……」

『ふん、あの小さい娘が襲われそうになったら、我が何とかしてやろう……嘘ではないぞ…………それに、一応護衛がついているようだしな』

 護衛? 何のことだ?と、俺は首を傾げる。

 凜香はテントの端に向かって、集結する白猫を避けるように這いずり寄ってくる。五匹の白猫の注意はまだこちらに向いており、これなら彼女は無事にここまで来れるか? と思い始めた時、テントから少しはなれば場所で、半透明白猫を発見してしまった。

 こちらに向かって音無く駆ける白猫。その進行ルートには――地を這う凜香の体がある。

「くそっ!」

 その白猫は仲間と合流する前に足を止めた。そして地を這う少女に顔を向けて、尻尾と毛を逆立てる。その姿は見るからに臨戦状態。

 やばい―――― 体の隅々まで力が行き渡り、別の意識に体の制御を奪われそうになる。そう、生命の危機を前にして、またこの体は……俺は口端を吊り上げた。目の前の少女を助けられるのなら、悪魔に魂を売り渡しても構わない―― だから、動け俺の体……

 凜香のすぐ側にいる白猫が身をかがめたその時、『ニャッ!』と猫の鳴き声が聞こえて、そして俺は……空を飛ぶ茶トラ猫を見た。

 いや、違う。茶トラ猫は飛んでいた訳じゃない。凧のように風にはためいていたのだ。凧糸代わりにしているのは凜香の金髪。シャットはそれを二本の後ろ足で掴んで、強風に攫われないようにしていた。

 空と地上から、互いに威嚇し合う白と茶の半透明猫。――実は自由に動けない茶トラ猫のそれはハッタリに過ぎない。二匹が動かないのに徐々にその距離が開いていくのは……凜香が這って進んでいるからだ。

 俺はゴクリと唾を飲み込む。対峙開始の位置から距離が倍までに開いた時、白猫は仲間の所に向かった。合流して俺達を牽制する一団に加わる。これで集った白猫は六匹。

『ニャッ、ニャッ!』

 シャットは掴んでいた金髪を辿って戻り、また凜香の首にしがみついていた。

「凜香、お前何考えてっ! 何かあったらどうするつもりだったんだよ!」

 テントに入りトランクに近い位置まで来た凜香。俺は彼女の傍らに跪く。

「だって……今狙われているのは……」

 そう言って俺の胸元のペンダントを見る凜香。言いたいことはわかる。わかるんだが……

「だからって、お前が無事って保証はないだろ? なんで狙われている俺の所に来るんだ!?」

 上半身を起こそうとする凜香。俺は肩を支えてその動きの手助けをする。

「和馬さんはこれからどうするつもりなの?」

「今は、お前の話を…………っ、この騒動を止めるんだ……」

 俺は凜香に簡単に説明する。猫明神退治の為に本殿内に置かれた猫の像。それが白猫幽霊と嵐を呼んでいる原因だろうと。本殿内に入ってその猫像を壊せば、この騒動は収まるかもしれない。

「私が作った像が原因で…………でも、和馬さん大丈夫なの?」

「今、琴美に犬の像を取りにいって貰っているんだ。あれがあれば大丈夫だろう。ほら、今だってその犬の像に恐れて、白猫の幽霊は手出ししてこない」

 だが、徐々に距離を詰めてくる白猫達と、ヒビが入った犬の象は俺の焦りを募らせる。くそ……琴美、早く来てくれ。ここは長く持たない。そうなれば凜香が……。

「本当に大丈夫なの? だって、和馬さん、猫とか犬の亡霊……苦手なんでしょう?」

「命が……、魂が消える事を思ったら、そんな恐怖は何てこと無かったんだ。だから大丈夫なんだよ」

「和馬さん、ちゃんと無事に帰ってくる?」

 凜香の間延びした緊張感のない声。問いかけてくるのは俺の事ばかりで、イラッとしてしまって……

「俺の事はどうだって良いだろう!! それより自分の事を心配しろよ! 馬鹿!」

 凜香と知り合ってから長いが、怒鳴ってしまったのはこれが初めてだった。呆気にとられた表情を見せた後、口を結んで俯いてしまう凜香。

 言い過ぎたか。ばつが悪くなった俺は、あらぬ方向を見て頭を掻く。

「……いい加減にしてよ」

 そんな押し殺した声を聞いたのは、それから少し後だった。俺は恐る恐る視線を戻す。

「何がどうだって良いよ! 貴方に何かあったら、私も琴美さんも全然ちっとも大丈夫じゃないわよ! 前もそうよ。死にかけたじゃない! あの時私がどんな思いをしたか……」

 少女の細い手が俺の胸ぐらを掴む。押してくる、もたれ掛かってくる――。

「貴方が他の命を思うように……貴方を大事に思う人間が居るのよ、どうしてわかってくれないのよ!?」

 彼女に怒声を浴びせられたことはなかった。痩せた軽い体には大した力はない。なのにその気迫に圧倒されたのか、凜香に押されるがままに俺は後ろにひっくりがえった。

「どうして……」

 一筋の滴が、凜香の白い顔を伝って流れ落ちる。琴美と言い合っていた時は、目を潤ませつつも泣きはしなかったのに。

 俺は、君にそんな事を言われる資格はないんだ。君が俺の為に泣くことはないんだ。

 俺の身代わりとなってシアンが死んだ……あの時俺が死ぬべきだったんだ。俺は君との約束を守れなかった。

「シアンの事を、まだ気にしているの? シャットのことも…………確かにあの時、何があってもこいつらの命を守るって約束してくれたけど……」

 え? 知っていたのか、気付いていたのか?

「そんなの、和馬さんと再会した時からわかっていたわよ。お互い、なぜか隠していたわよね。変なの……いつか言おうと思っていたのに……」

 表情から俺の心中を察したのか、そう言って微笑を浮かべる凛香。自分の価値観を変えた少女の顔を、俺はまじまじと見るのだった。


 俺は昔、動物が嫌いだった。そうなった原因は、非常に子供らしくてわかりやすいものだったと思う。

 俺の両親は、一人息子が幼稚園児の時に動物病院を開院した。その運営が軌道に乗るまでには数年の月日を必要として……いつも忙しい両親の元で、子供が放置気味になるのは自然な流れだった。

 親は、俺よりも病院の患者――犬や猫が大事なんだ。

 そう思い込んだ子供は、罪無き動物達に怒りの矛先を向けるようになったのだ。

 そんな俺が変わったのは小学一年生の夏休みだったが、その切っ掛けは両親ではない。その頃も俺の親は動物病院で慌ただしい日々を送っていたから。 

 その時、琴美は親戚の所に泊まりに遊びに行っていて、暇を持て余した俺は犬猫とハンバーグに入り浸っていた。

 俺が変わる切っ掛けを作ったのは……犬猫とハンバーグの常連客だった。常連といってもその客が店を訪れたのはその夏休みの間だけだった。その間の来店頻度はそこそこ高かったが。

その客は、いつも黒塗りの高級車で駐車場に乗り付けて、店の中に入らずにお持ち帰りで注文する。

 注文するのは初老の運転手で……料理ができあがるまで、親子らしい二人は車の窓から犬猫達を眺めるのが常だった。

 何で、あの親子は犬猫をそんなに嬉しそうに……寂しそうに見るんだろう? 

 見慣れない金髪碧眼の上に印象的な眼差しの親子。気にならないわけがなかった。

 いつも三名だった車の中が、運転手と娘の二人になってから数回目。俺は初めてその車に近寄っていった。窓越しに交わされる俺と幼子の視線。年下らしき女の子は怯えて身を隠したので、俺は後ろ髪を引かれる思いで立ち去った。

 次にその黒塗り高級車が店に現れた時、俺は店の犬を一匹伴って近づいていった。

「太郎丸……」

 再び、怯えて伏せようとした女の子の動きが止まった。俺が指さしている犬と俺自身を交互に見遣る。窓が三分の一ほど空く。

「この店の犬……?」

 恐る恐るの質問に黙って頷く俺。

 それから俺とその小さな常連客は、お持ち帰りの料理が届くまで言葉を交わすようになった。

 その子の母親は、弱い体とアレルギーという理由から、好きでも犬猫を飼えないらしい。

 体が良くなったら、アレルギー対策をして犬猫を飼う――そう決意していたそうだ。

 その志は天に届かなかったのか……母親は、犬猫がいる店に入るどころか、病院の外に出る事すらかなわなくなった。

 そして、その女の子は病院から出られない母親の為に、店の料理を届けるようになったらしい。たとえスープしか飲めなくても、その動物を模した器で母が少しでも和めればと思って。

 車の中と外で会話する俺達。絵本を片手に、母と動物に囲まれた日々という未来を語る女の子。犬猫のどこが良いんだか、と俺は憎まれ口を叩いていた。母親は犬と猫のアレルギー、娘は猫アレルギーで喘息持ちだと聞いた。それなのに動物達と共に暮らしたがる理由が分からなかった。

 何度目かの邂逅の時、俺はその女の子がいつもより元気が無いのを分かっていながら、神社の軒下で見つけた捨て猫と捨て犬の話をした。

 その翌日、例によって例の如く止まったレストランの駐車場に止まった黒い車。なのにその中に女の子の姿はなく……

 女の子がここに来ていないかと……焦燥を露わに杉浦夫婦に問い掛ける運転手を見た時、俺の背筋に悪寒が走った。

 (捨てられた犬と、猫は大人に言ったら、保健所って所に連れて行かれて殺されるんだぜ。俺のイトコは動物病院をやっているから……そのへんの事をよく知っているんだ)

 俺は、まさか――と思いつつもその神社に向かって駆けた。

 (捨てられていたのは、お前が飼いたいって言っていた白い犬と、茶色の猫だったぞ)

 昨日その話をした時、予想に反して女の子の反応は鈍かった。それがあからさまな嘘に釣られていない証拠だろう。だから大丈夫だ。そんな希望的観測に反して、俺は神社のすぐ側で目立つ金髪頭を発見した。

 女の子は辛苦で綺麗な顔を歪めつつ、松葉杖を頼りに緩慢な足取りで進んでいた。

 年端もいかぬ子がどうやって親の目を盗んでここまで来られたのか? 足かせがあるにもかかわらず……俺は一心不乱に進む女の子を助けるどころか、姿を隠したままだった。そして、心の中で呟き続けた。

 やめろ引き返せ。アレは嘘だったんだ。家で飼えないんだろう? それに……猫アレルギーのお前が行ってもアイツ等を助ける事は出来ないんだ。だから、不自由な足をおして進む必要はないんだ……。

 人気がない神社の境内に入った女の子。俺が見た時とは違い、段ボールは横倒しになっており……彼女はその側にいる小さな生き物に気付く。

 女の子は足を止めた。彼女の迷いが離れている俺にもありありと伝わってくる。

 飼えないのに、アレルギーがあるのに……助けるべきか、助けられるか――。

 迷うその子は、俺より年下で足が不自由なのだ。

 俺は五体満足に動くし、犬猫に対するアレルギーはない。犬猫とハンバーグでは犬猫は大手を振って迎え入れられるかも知れないし、病院では飼い主が募集出来るかも知れない。だが俺は迷わなかった。庇護が必要な命に手を差し伸べなかった。

 俺の嫌いな動物達。自分の欲求に素直で……時には気紛れで、時には従順で……

 親に構ってもらえない寂しさを表に出さず、ただふてくされている俺とは違う。

 憎らしくて、何処かうらやましい。俺にとって動物とは……犬猫とはそんな存在だった。

 そんな存在だったのに……親のいない小さな犬猫。それがやがて……自分に重なって見えてきた。女の子の影響だろうか?

 そして再度女の子に視線を向けて……俺は魅入られた。今でも鮮明に思い出せる少女の横顔。胸の内にある葛藤が表情を変化させる。動物たちとは違う、躊躇と迷いの心。そしてそれらを打ち消す意思の力。決断する心。

 美しいと思った。動物たちの心の有り様も、人間の心も有り様も。そのどちらもが尊いものだと思った。

 犬と猫に近寄りだした女の子の体が不意に傾いだ。松葉杖に続いてその小さな体が地面に伏す。アレルギーによって喘息が引き起こされたのか、顔を歪めて苦しそうな息を吐く女の子。

 駆け寄った俺は、苦しそうな女の子の身振り手振りを元に、地面に落ちていた鞄から薬と吸引器を取り出す。薬を飲み、あてがわれた吸引器で落ち着きを取り戻した女の子は、疲れからかほどなく眠りについた。

 少女の小さな肩掛け鞄の中にあった二枚のタオルと共に、子猫と子犬を段ボールに戻した後、俺は女の子を背負って神社から出た。一番初めに見つけた公衆電話でレストランに連絡して、店からからこの子の親にも連絡して貰う。

 迎えを待っている最中、女の子は一度目を覚ました。

 「あの子猫と、子犬は?」という問い掛けに「大丈夫だ、俺が面倒を見るから。可愛がって……幸せにしてやるから」

 しつこいほど念押しをした女の子は、最後に「おねがいね……」と言って眠りについた。


 その時の猫と犬が、シャットとシアンだった。その名は、彼女が持っていた絵本からとった。

 女の子が迎えの車に乗せられて去った後、俺は神社に戻り、その時に彼女が落としていた絵本に気付いた。その絵本は俺には読めない所か、何語で書かれているかすら分からなかった。

 ただ、その時でも、外国人であろう女の子の母親が、母国の言葉を知って貰う為にこの本を娘に渡したのだろうと想像できた。なぜならば、その文字の所々の上に、拙い日本語で訳が書かれていたからだ。

 その絵本で度々登場する、「いぬ」「ねこ」は、全ページに訳が書かれていた。

 その二種類の字が、一番ぎこちなくて、一番初めに書いた訳だろうと思った。

 俺は琴美のお母さんに頼んだ。そして、それがフランス語である事と「いぬ」の下の単語は「シアン」と発音すること、「ねこ」の下の単語は「シャット」と発音する事を調べて貰った。

 犬猫とハンバーグの仲間に加えてあげましょうか? という申し出を断わり、俺は自分の両親に頼み込んだ。この犬と猫をしばらく預かる事を……もしかしたら、預かるが「飼う」に変わる可能性がある事を。

 病院が忙しいからという理由から――俺が面倒を見る事が条件として加えられたが、俺は一も二もなく頷いた。

 あの女の子が……母親と共にここに現れた時、この犬と猫を飼うか聞いてみよう。おそらく……飼いたいと言うはずだ。もし、飼わない、飼えないという答えが返ってきたら……その時は俺が飼い主になれば良いだけの話だ。

 一ヶ月待っても、女の子も、その母親も、犬猫とハンバーグに現れなかった。

 いつまでも名前が無いのは不便なので、俺は犬に「シアン」猫に「シャット」という名前を付けることにした。フランス語そのまんまだったが――他に名前が思い浮かばなかった。

 季節が巡って数年が過ぎた。その間あの親子に会うことは無く、俺は女の子に犬猫を飼って貰う事は諦めかけていた。

 俺がシアンとシャットを飼うようになってから四年目……俺が小学五年生の頃。俺の不注意で、シアンが大怪我をしてしまった。

 シアンの命が風前の灯火になってしまって……俺はシアンとシャットを救った女の子探しを開始した。過去何度か挑戦して諦めていた捜索を、狂気じみた執念と共に再開したんだ。

 様々な人間に尋ねて歩き、友人知人に調査の協力をお願いした。時には頭を下げ、時には少ない小遣いを渡し―― 助力を請う為の代価は惜しまなかった。そして何より、自分の体を使ってあちこちを探して歩いた。

 ――今夜が峠だ――

 その言葉を父親から聞いた日、友達の友達から聞いた話を元に、俺はある場所に向かった。

 少女の容姿の次に、探索のキーワードとして挙げていたのが「金持ち」だった。

 優先度が低く、手がかりとしては曖昧な言葉。

 だが、他の手がかりは全て確認済みで、他に縋るモノがなかった俺には、その場所に行くという選択肢しか残されていなかった。

 白く綺麗で、人気のない建物にたどり着いた俺が呆然としていると……父親から強引に借りた携帯電話が鳴り響いた。そして、窓ガラス越しに金髪の少女の姿を確認するのとほぼ同時に、耳から愛犬の死を宣告されたのだった。

 …………間に合わなかった。俺は約束を守れず、彼女にシアンとシャットを引き合わせる事も出来なかった。

 俺がうちひしがれていると、別荘のドアが開いて……ウメさんが押す車椅子に乗って、凜香が姿を現したのだった。

 ……あの時の凜香は、ちょっと様子がおかしかった。

 俺の周囲をキョロキョロ見ていたかと思いきや、自分の膝元を見て泣きそうになりながら、何かを撫でるように手を動かしていた。

 凜香が奇妙な動作を止めて、俺と彼女の視線が五年ぶりに交わる。何も言うことが浮かばず、でもなにか話しかけたい気持ちで一杯だった俺は、その時持っていた犬猫とハンバーグのチラシを渡しつつ言ったんだ。「今……チラシを配っていて……よかったらこの店に来てください」

 その言葉を受けた凜香は、目尻を潤ませながらゆっくりと頷いたんだった。

 彼女は……凜香は、俺と昔会っている事に気付いてないと思っていた。

 こみ上げる罪悪感を隠し……俺は、凜香とあっていたこと。「シアン」が死んだこと。「シャット」が今も生きていること。そして、可愛がって幸せにするという約束を守れなかったことを言わなかった。

 いつか言おうと思いつつも……ずっと隠したままだった。

 

「俺は約束を守れなかった。シアンを凜香に合わせることも出来なかった……」

「私、会ったわよ……シアンに」

 俺の驚愕の表情を見て、凜香が少し悲しそうに微笑む。

「母さんが死んでしまって、私は母さんとの最後の時間を過ごした家から出なくなったの。ウメさんや父さんの言葉に耳を貸さずに、死人のように何年も引きこもっていた…………だけど、ある日、屋敷の外に久しぶりに注意を向けたの。見覚えのある男の子が外に立っていて……やがて、彼の側に白い犬が現れてわかったの。五年前、ある神社であった犬だって事が」

 え……だってその時、シアンは動物病院にいて。しかも、その命は……

「あの時ほど、母さん譲りの霊感に感謝したことはなかったわ……そのおかげで、短い時間だけど、和馬さんが可愛がってくれたシアンに会うことができたんだから」

 白い家の外に出た凜香がおかしな動きをしていると思ったが……犬の、シアンの霊と会っていたのか。

「シアンは亡くなって、天に召される直前に和馬さんに会いに来たのよ? 和馬さんには見えていなかっただろうけど……そのシアンの様子だけで、あの神社で拾われてからの日々が幸せなものだった事はわかったわ。シアンは最後まで貴方の事を心配していたようだった。シャットもそんな意味の事を訴えてきていたわ」

 シャットが上げた元気な鳴き声が、凜香の言葉を肯定しているように感じる。無理に作った凜香の笑顔。何処か痛々しいそれに引き込まれてしまう。目を逸らす事が出来ない。

「他の命だけじゃない、貴方の命も大事にするって約束して。でないと絶対に離さないから…………絶対に……」

「えっと、凜香。この状況わかっているか? このままだと俺達二人ともやばいんだけど……」

「そんなの、知った事じゃないわよ……下手にその場しのぎの言葉で誤魔化しても駄目よ。和馬さんが死んだら私も後を追ってやるんだから」

「今時、そんなの流行らないと思うけどなぁ」

 押し倒された状態から、俺は彼女の目尻に溜った涙をぬぐってやる。その後、なんとなく白い頬を引っ張ってみた。

「あにするのよ……」

 細い顔ながら、ほっぺたは予想以上に柔らかかった。

「それどころじゃないんじゃなかったっけ?」

「そう、なんだけどな……」

 ふっ、と小さく笑ってしまう俺。そんな俺を憮然と見下ろしている凜香。

「わかった、誓う。約束する。自分の命を大事にする。絶対死なないからさ」

 凜香の悲しむ顔はもう見たくない。それぐらいなら怒っている顔を見ている方が良い。

「だから……行かせてくれ」

 俺が少女の頬から指を離して告げると、表情から呆れ成分を消した凜香は、少しだけ顔を逸らしてから頷いた。

 数秒の時を挟んで、視界の端から光が見えた。激しい輝きは白猫達が放ったモノで、収束した稲妻を弾いた犬象にヒビが入り――そして、砕けた。

 俺は勢いよく体を起こして、素早く立ち上がる。胸元にのし掛かっていた凜香は両腕で抱え持っていた。俗に言うお姫様だっこって奴だ。思考を巡らす間もなく猫達が光る――避ける間はない。俺は凜香を庇うように閃光に背中を向けようとした。

「カズッ!」

 俺が背中を向くより、稲妻が走るより僅かに先んじて、俺と白猫達の間に入った琴美が手を翳す。大きな手袋が握る犬の像の手前で、白い稲妻が弾かれた。

「おう、助かった! まさに危機一髪!」

「それを言うなら間一髪よ……」

 俺の肩の近くにある凜香の口が小さく動く。

「さて、さっさとケリを付けに行くわよ。……でも、今カズとその首のペンダントが狙われているんだったら、アンタが囮としてここに居て、私がケリを付けた方が良いんじゃない? もちろん防御用に犬象は何個か残していくわよ」

 俺達に背中を向けたまま、琴美が言う。

『それでも連れて行け。我が自らケリを付けたい。人間などに頼りたくない』

 俺が口を開く前に、猫明神の声が響いた。趣旨は伝わったので「俺もオマケについていくぜ!」と短く補足する。

「これだけ巻き込んでおいて、よく頼りたくないなんて言えるわね」

 嘆息しつつ琴美が一歩足を踏み出すと、白猫達の包囲網が少し開く。

「そこのトランクに石像が三個入っているわ。あと、手袋これね」

 琴美は後ろ手に一組の手袋を放り投げる。テントの奥に彼女が持ってきたと思しき紫色のトランクがある。俺の前に躍り出る前に放り投げでもしたのだろう。

「行くか。琴美は……」

「ここで待っていろ、なんて言わないよね? 一緒に行かせて貰うわよ」

「そう、だな。頼む。凜香は、ここで待っていてくれ」

 頷いた凜香を、俺はそっと椅子に座らせた。

「二人がここで何をしていたのか、後でじっくり教えて貰うからね?」

「聞いて鼻血をだすなよ?」

 俺は手袋を拾って紫色のトランクまで移動する。その俺を狙うように動く白猫達と、猫の視界を遮るように動く琴美。

「こんな状況じゃなければ、頭蓋骨へこむまで殴っているところだけどね……」

「鼻血どころか、脳汁まで飛び出そうだな……」

 トランクを開け、お札付きの手袋をはめて、トランクから取り出した犬の像一つを、凜香の傍らに置く。残りの二つを両の手それぞれで持つ。

「和馬さん、琴美さん、気をつけて……」『ニャニャッ!』

 凜香とシャットの声が重なる。俺は黙って頷いた。

「おう、早くケリを付けて祭りを楽しむぞ! シャット! 後でじっくり話をするからな!」

「行くわよカズ!」

 俺と琴美は犬像を翳しながらテントから飛び出し、風の中心、神社の本殿に向かって駆け出す。そんな俺達に六匹の白猫が追いすがってきた。

 ややあって、不意にその内の一匹が飛び掛かってきた。反射的に犬の像を差し出すとバチッと音がして、見えない壁に激突したかのように白猫は後方に跳ねる。

 胸を撫で下ろす間もなく、今度は別の方向にいる三匹の白猫が光る。その方向に右手を翳すのと、稲光が走るのはほぼ同時だったが、僅かに俺の手が早かったのか、白い光りは像の先で弾けて消えた。

 攻撃の瞬間を見ていてもこれだ。ならば、視界外からの攻撃は……

「琴美、俺の背後を……」

 言い終わる前に、左を併走していた琴美の姿が視界から消えた。その直後、背後で音と光が弾ける。

「もうちょっと早く言いなさいよ!」

「すまん……」

 おそらく、背後に移動した琴美が攻撃を防いでくれたんだろう。

「私が尽くすタイプで良かったわね」

「食らい尽くす、の間違いだろう?」

 背後を見ながら走っているだろう琴美のペースに合わせて、俺は少しスピードを落とす。

 隙あらば接近してくる白猫に対して牽制し、繰り出させる攻撃に対しては握った犬像で防御する。息つく間もなく繰り出される攻撃が、数分の時間を何倍にも長く感じさせる。

 稲光は一匹、多くても二、三匹が同時に繰り出してきたので、テントで感じた程の衝撃はなかった。だからといって、その身で受けたいとは露一つ思わなかったが。

 風が……さらに強くなってくる、本殿と開かれた扉が見えてきて――後少しだ。

 気が緩んでしまったのか、正面からの猫の体当たりを防いだ後、刹那の時間、本殿に注意を向けてしまい ……右からの光りに対して、反応が少し遅れてしまった。

「グッ!」『ぬっ!!』

 一匹の白猫が放った稲妻が俺の体に命中した時、視界が数瞬白く染まり、僅かな時間、体の感覚が消えた。直後、痺れと共に針で刺されたような痛みが全身を駆け巡る。

「カズ!」

 体から力が抜けそうになる。膝が折れそうになる――

 琴美が俺の隣により、倒れそうな俺に肩を貸す。なんとか倒れずにすんだ俺は、落ちた速度で走りつつ彼女の肩越しに光る猫を発見した。今度は三匹。一匹でもこの威力なら、三匹同時の攻撃ならどうなるか。――防御は間に合わない。

 俺は琴美の腕を掴みながら、思いっきり前に飛んだ。突然の動きに僅かな抵抗を見せる琴美。だがそれはほんの一瞬。運動神経抜群な彼女はすぐに動きを合わせてくれる。

 直後、轟音と衝撃が背中を叩く。

 前に飛んだ勢いを殺さず前回り――前方回転受け身に近い動きをする。その勢いのまま立ち上がった俺は、痛みを訴える体を遮二無二前に動かす。

 この状態のまま防御しつつ進めるとは思えない。本殿まであともう少し。一か八か――このまま逃げ切ってやる!

 意図を察した琴美は俺の肩を支えるのを止め、代わりに俺の手を引いて前を駆ける。

 手を繋いだ俺達は姿勢を低くして走る。雑な牽制として、空いた手で犬の像を雑に振り回していた。周囲が光る事、数回。爪と牙が体を掠める事、数回。

 本殿に近づくにつれて風は横殴りに変化して勢いを増す。風の抵抗で足が鈍り、俺は右肩に飛び掛かってくる白猫を躱せなかった。痛みに呻きながらも前を見る。風は本殿の周囲を回っている。後もう少しで竜巻の内側には入れるはずだ。

 予想に違わず風が弱まった。俺はつんのめりながらも前に進む。背後でまた轟音と衝撃――。またもや間一髪。俺は肩に食らいついた猫に犬の像をぶつけて剥がしつつ、琴美と共に本殿の中に飛び込んだ。

 十五メートル程離れた正面の壁。その手前には修復された大きな猫明神像があり、そこからは微かな風が吹いていた。そして猫明神像の手前には半透明白猫が二匹居る。

 さらに本殿の中央辺りの床には……散らばった猫の像達。話しに聞いていたとおりその数は、ぱっと見十個ぐらいだった。

 凜香が「芽依子さん」の時に怒りと悲しみと共に作り上げた像。それを破壊に対する迷いはもう無い。像が発する威圧感にたじろぐ事もない。

 俺達は申し合わせたように左右に飛んで、猫像をそれぞれに蹴り上げた。

 落としても壊れないぐらいに丈夫な象。だが、全力の蹴りに耐えうる程頑丈ではない。二つの破砕音と共に、それが証明された。

 像を砕いた直後。背後で威圧感が急激に膨れあがるのを感じて――後ろに翳す右手。一秒も置かずに炸裂する閃光と衝撃に姿勢が崩れる。チラと琴美を見遣ると、彼女も俺と同じように背後に像を翳して攻撃を受け止めていた。

 本殿の入り口から俺達を追って入ってくる猫達。……八匹、か? 俺が凝視していると、二匹の半透明猫の姿が、見えない掃除機に吸われるようにして消えた。その数は、壊した像の数と同じ。これならば、いけるかも――。

 いつしか、修復した猫明神像から吹いていた緩い風は止んでいた。

 他の猫像の所に体を飛ばして、振り上げた足を全力で下ろす。像が砕けた直後、俺は横殴りの風に床を転がされていた。それは突き飛ばされたと感じてもおかしくない、質量を持った風の衝撃だった。

 聞こえてきた重く鈍い音。その発生源を見た時、本殿の戸が閉じられ逃げ場が無くなった事を知った。俺は姿勢を正し、いつの間にか発生していた幅二メートル程の竜巻を見上げた。

 壊されたのか、天井の電飾がいくつか消えて薄暗くなっていた。

 先程とは逆に、引き寄せる逆向きの風が発生する。さほど強くないその風に猫像が吸い寄せられていく。

「くそっ!」

 猫像に駆け寄ろうとした俺の眼前に迫ってくる白い柱。竜巻の中央部から生えたそれは、まるで腕のように見えた。

 ラリアット気味に繰り出された腕――の様に見える凝縮された竜巻は、伏せた俺の頭上を通り過ぎる。側にあった柱がえぐれ砕け木の粉が舞い散る。伏せなかったらどうなったか何て想像したくもない。

 ――どう、する?

 もう、猫像は全て竜巻の中に集められていた。竜巻の上部は広がり、気のせいか目のようなモノも、耳のようなモノも見える。そして、竜巻中心部からは二本の――そう、腕と形容するに相応しいモノが生えていた。

 竜巻で形容された腕。その先が広がってまるで手のように見える。

 壊した像は、三つ。残り七つは固まって竜巻の中。

『ぬぅ……これは』

「カズッ、どうする!?」

 迷う俺をあざ笑うかのように、猫に似た竜巻が右手のようなものを振り上げる。天井の支柱が削れ、建物が揺れた。

「クッ!」

 俺が右に飛ぶのと手のような竜巻が落ちてくるのはほぼ同時。辛うじて躱したが……床を叩く衝撃の余波だけで身体が浮く。亀裂が走り、舞った床の破片が体を叩く。

「カズ!」

 俺の方に駆け寄ろうとした琴美が足を止めた。彼女はこちらに来るより本体を叩く方が俺の助けになると判断したんだろう。琴美は踵を返して竜巻の中心に向かって突撃していった。

「琴美っ!」

 竜巻の中心部が光り稲妻が飛ぶ。その矛先では俺ではなく琴美だった。

 腹に響く轟音。ビリビリとした衝撃が俺の位置にまで伝わって来た。

 稲妻を犬の像で受け止めはしたものの、琴美はその衝撃で飛ばされる。後ろに二、三回転がった後、素早く立ち上がったものの、その体がグラリと揺れた。彼女が持つ像にはヒビが縦横無尽に走り、壊れていないのが奇跡だと思える。

 竜巻が腕のようなものを振りかぶる。琴美ーーっ! 内心で叫びつつ俺は床を蹴る。命の危機を前にして意識が薄れそうになり、代わりに体がみなぎった。

 琴美を突き飛ばす、そしてその反動で俺は後ろに飛ぶ。その動作をどこまで無意識で行っていたかどうかはわからない。

 床の上をなぎ払うような軌道で竜巻が通過する。俺の前方と倒れた琴美の頭上を、白く凝縮された風が抜けていく。直撃ではないのに凄まじい衝撃。俺はたたらを踏みつつも何とか踏みとどまる。

 だが、床に伏せた琴美に起き上がる気配はない。今彼女が狙われたら――

 注意をこちらに向けるべく、何の勝算もないまま竜巻への突撃を開始する俺。

 視界の隅に金属の輝きが見えたのは、そんな時だった。

 俺の……ペンダント? 外れたのか?

 ブレーキをかけつつ限界まで伸ばした左手。俺の指先を金属の鎖が掠める。

 小さな犬の飾りが床に落ちた直後、竜巻が光った。犬の飾りから半透明猫が抜け出た直後、ペンダントを稲妻が直撃する。直前でその依り代から離脱したものの、稲妻の余波を浴びたのか猫明神はくるくると回りつつ入り口の方向に飛んでいく――。

 俺は猫明神の元に駆ける。必死に走る俺をあざ笑うかのように、腕のような竜巻が猫明神に到達するまでは一呼吸だった。

「猫明神っ!!」

 上昇した竜巻が滝のように落下して、直撃を食らった半透明猫が床に押さえつけられる。

『くる、な』

 脳内に響く声は苦しそうだったので、俺は足の動きを緩めない。竜巻向こうの猫は視認が難しいが、亀裂が大きくなり床が陥没していくのがわかった。

 このままでは、猫明神が……

 背筋を凍らせる想像が俺の精神を麻痺させていく。意思の欠落を代償として、全身に力が充ち満ちていく。高密度の竜巻に押さえ込まれた猫明神は、犬の像を使っても助け出せるとは思えない。だが、この状態の俺の力も足せば、もしかしたら――

 そう、消える命を見た時の苦しみを思えば。この体、この命がどうなろうと――

 もう限界かとおもった足がさらに加速し、そして意識が薄れていく……。

『くるなっ! あの娘との約束を忘れたのか貴様!』

 ……!!

(貴方が他の命を思うように……貴方を大事に思う人間が居るのよ、どうしてわかってくれないのよ!?)

 蘇った言葉が、闇に飲まれようとしていた心に突き刺さった。

 この身に何かあれば―― 俺が恐れた悲しみが彼女に降りかかるのか? 自分の苦痛ならばいくらでも堪える。だが凜香や琴美――俺が知る人たちに苦しみや悲しみを与えたくない。

「クッ!」

 それに、俺は約束を、した。したんだった!

 竜巻まで後数歩という距離で、俺は目を見開いた。両足を踏ん張って急ブレーキをかける。向かい風の影響がなかったら、風が作る白い渦に飛び込んでいたと思う。ぎりぎりで停止した俺は、前を向いたまま後ろにさがる。

 また、俺は同じ過ちをして……今度こそ取り返しがつかない事になる所だった。

『それ……いい……我の事は、捨て置け。こうなったの……も心当たりがある』

 苦しそうな猫明神の声。竜巻越しに視線を感じつつ、俺は歯を食いしばる。

 確かにあのまま突っ込むのは無謀だったかも知れない。しかし、猫明神を救う方法が他にあるのか?

『我が一番嫌いなのは……我自身だったのだ。家主は嘘をついた――だが、それが我を思うが故の嘘だった事を知っていた。知りつつも我は、家主を食らおうとした。自分の心に嘘をついて蓋をして――』

 心なしか、先程より竜巻が弱くなって……猫明神の声が鮮明に聞こえるようになっていた。

『ふん、あの攻撃が切っ掛けで、我の本心がその事を……一番に憎むべきモノを思い出したのだろう。だから、今、我はこんな有様だ。実にくだらないな……』

 まるで……猫の竜巻が、暴走した猫明神の力が「最後だから喋らせてやろう」と言っているようにも感じた。

『貴様が我を救う必要はない。命を危険にさらす必要はない』

「だからって、こんな……」

『それに、だ、人間如きが我の力を抑えられると思っていたのか? そこで見物しているが良い。もうすぐ、終わるから、な……』

 猫明神が言葉を切った後で、床が軋み砕ける音が聞こえてきた。その音に「話はもう終わりだ」と告げられたように思えて、俺は焦りを募らせる。

 猫明神を救出する手段はないものか? 猫像が集約した場所の竜巻――これの何処かに付けいる隙が、弱点が無いものか?

 並の家の二階程の高さに梁があり、その高さまで来ると竜巻は少し緩くなっていた。もしあそこに上がれたなら――

 本殿の天井を見上げていた俺は、落ちてきた天井の破片に気付いた。天井の一部が壊されて穴が空く。それは祭りの準備中俺が修理を安請け合いして、結局直せなかった場所だ。

 子供一人抜けられるか――という隙間からスルッと侵入した人影が危なげなく梁に着地する。

 獣を思わせる俊敏な動き。猫をその身に宿した彼女は、芽依子と名乗っていた。

 一人と一匹を分けたのは本殿からの不自然な風だった。今、本殿の扉は閉ざされ、風は集まり竜巻となっている。つまり、一人と一匹の間を隔てるモノは何もない。だから、シャットは凜香に憑依できたのだろう。

 無茶をする……それにしても、やっぱり天井は修理できてなかったのか。

 凜香――いや、芽依子さんがこちらに顔を向けてきて、俺と彼女の視線が交わる。

 彼女の眼差しには、迷い無き強い意志を感じた。逃げろなんて言っても聞かないのは火を見るより明らか。彼女が右手に持つ犬の像とその位置。それは、先程思い描いたプランを実施するのにピッタリだった。

「芽依子さん! 竜巻の中心に――その犬の像を落としてくれっ!」

 少し小首を傾げた後、芽依子さんは猫のように手足を使って梁を駆け出す。向かう先は竜巻の真上。

 さしたる知恵や分別を持ち合わせていない――そう思っていた猫の竜巻が、左腕――に該当する竜巻を持ち上げる。その先にあるのは芽依子さんの小さな体。

 狭い足場をもろともせず、飛ぶように進む芽依子さんは竜巻のすぐ側でバランスを崩した。ぐらりと体が傾き、梁から落ちそうになる。その髪の色は茶から金に変わっていた。凜香の肩口にはしがみつくシャットの姿があり、俺は自らの失態に気付いた。

 そうだ。あの風に近づくと凜香に取り憑いたシャットは引きはがされてしまう……。

 落ちるより先に、腕のような竜巻に飲まれそうになる凜香とシャット。俺は全力で駆けつつ右手を振りかぶる。――間に合わない。そう思った直後、猫竜巻の人間でいう肘にあたる部分に飛来した犬の像が激突した。その像がひとたまりもなく壊れると、目に見えないオーラのようなモノが振りまかれ、わずかに空間が歪んだように感じられる。

 人間が腕を下げるように竜巻の向きが変わった。俺は犬像を投げていない。その証拠に今もこの右手に掴んでいる。

「私の友達に、てぇ出すんじゃないわよ!」

 いつしか起き上がった琴美が啖呵を切った。そう、それは琴美が投げた像だった。

 凜香が梁に両腕を絡めてぶら下がるのを確認しつつ、俺は走る。

 動けない凜香、膝をつく琴美。竜巻の中心が光り、少女の眼前へ光が迫る。

「くっ!」

 すんでの所で琴美の前に躍り出た俺は、翳した犬の像で稲妻を受け止める。力一杯踏ん張っていたにも関わらず倒れそうになった所を、後ろから琴美が支えてくれる。

 何となく、猫竜巻が琴美を見たような気がしたのだ。凜香が狙われたと読んだら、この像を牽制として投げていたかも知れない。

 手の中で、犬の像が砕けて破片が下に落ちる。そして、再度竜巻の中心が光る――。俺は冷静だった。ずっとある一点を注視し続けていた。

 良いのか? こちらに注意していて? お前の頭上に居る娘は、体が小さくて力がなくても――、なかなか良い根性をしているんだ。俺も少し前にそれを知ったんだ……

 非力な凜香だと、両腕を梁に乗せた状態から這い上がれるかどうか怪しい。だが、彼女はそんな状態から片手を離し、狙い定めて手の中のモノを落とそうとしていた。

 稲妻がこちらに伸びるより、刹那の間だけ、凜香が落とした像の激突が早かった。砕ける音が聞こえて竜巻の中の光が消える。そしてその後、竜巻が割れて猫明神を押さえつけていた風も消えた。

 やったか?

 そう思えたのも束の間、砕けて弱まった風は、幾重に分かれてのたうちだした。風の巨人の変わりに、その腰までの長さの蛇が多数発生した――。と言えばわかりやすいだろうか。

 人の胴回りはある風の蛇がのたうつと、その頭上にいる凜香に接触しそうになる。

 まだ完全に破壊出来ていない。残っている猫像があるのか。このままでは凜香がやばい……

「うおおおおおぉぉぉ!」

 しびれて言う事を聞かない体を叱咤するように、俺は力の限り吠えた。足が一歩前に動く、俺は歯を食いしばる。

「カズ、行ってこーい!」

 体重を込めた張り手が背中に叩き込まれた時、全身の痺れが数秒間だけ消えた。その間隙だけで十分。駆け出して勢いがついた後なら、体の痺れなど気合いで何とかしてやる。迷い無く一直線の突撃。すぐ側を風の八岐大蛇が通過すること一回……二回……、二回目はすれすれで左腕に痛みが走った。

 俺は風の根元まで迫った。梁の上の凜香はずり落ちそうになっている。

 竜巻の根本に犬像をたたき付ければ――先程琴美がやったように、風の勢いは少し緩まる。その時に竜巻の中心部に突撃して残りの猫像を破壊する……。脳裏に描いていた道筋が砕けた。右手の中の犬像と共に――。

 先程、竜巻の攻撃を受け止めた時に、限界近い状態であった事には気付いていた。だが、あともう少しだけもってほしかった。

 勢いが弱まった足。俺の迷いをつくように、一本の竜巻が眼前へと迫ってくる。

 よけれない!

『カッ!』

 猫明神の気合いと共に、そんな竜巻の動きが僅かの間だけ鈍った。その間俺は床を蹴り……竜巻は俺の肩を掠めていく。

『いけっ! カズマっ! 我が……開く!』

 苦しそうな猫明神の声。俺は突撃する。白くて物質的な厚みすら感じさせる竜巻の根本に。

 木を削り、床を砕くそれに真っ正面から激突すればどうなるか容易に想像がつくのに、俺は……自分が死ぬ可能性を考えなかった。無謀な行動だとも思わなかった。

『カーーーーッ!』

 体が、手が竜巻に触れる直前、猫明神の気合いと共に風の檻にほころびが生じた。

「……っ」

 その時俺は……、風で聞こえる訳がないのに……俺は頭上から凜香の息を飲む気配を察した。凜香は心配かけまいと悲鳴を押し殺したのだろう。上を見なくてもわかる。つまり彼女は――

 声なき声を上げる。

 交差した両腕を突き出しながら竜巻の中に飛び込む。腕と足と胴体を切り裂く刃の気配、痺れが残っていた体に痛みの信号が走る。

 竜巻の中心の風がない空間。その床にある猫像と一瞬目があった気がした。

 ――すまん。

 俺は両足を畳み、膝から下をたたき付けるようにして、残り三つの猫像を破壊した。

 すぐに顔を上げると、落ちてくる少女の背中が視界に大きく映る。俺は両手を差し伸べる。

 ……そして、俺は意識を失った。

 凜香は無事だろうか? 最後にそんな思考が頭を過ぎった。

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