第三章 祭りの夜でも晒されます(その1)
琴美の母親が家に戻ったその次の週から、俺達三人の祭り準備の手伝いが始まった。
神社を中心に行われる小規模な祭りとはいえ、ゴミ箱や石灯籠やテントを設置したり、御輿を倉庫から出して掃除したりと手伝うことは多岐にわたった。
学校が終わってから、約一時間の距離を移動して手伝うこと数日。
山之上の残していった紫色のトランクを、祭り実行委員会の人が開けそうになって、それを危うい所で止めたりとか(トランクは祭りの忘れ物コーナーに放置することにした)本殿の天井の一部が壊れており、その修理を安請け合いした俺が、結局治せずしかも屋根から落ちそうになったりとか――。そんなトラブルはあったものの、祭りの準備事態は順調に進んだ。
俺は空き時間を見つけては神主を説得していた。商店街から選ばれた祭り実行委員会の「今から新しい像を作っても祭りに間に合わない」という口添えもあって、ようやく神主は首を縦に振った。
猫頭店長に謝らせつつ、実行委員会の手助けを借りて猫明神の頭を「犬好きの定食屋」から神社に移動させて、呼んだ石材屋に修復を開始して貰う。修復費用は猫頭店長が払った。
頭と胴体。それぞれの断面に穴を開け金属の補強材をいれ、頭部と胴体を接着材でくっつけ石と同じ色の補修剤を調色……とかする必要があったが、何とか修復は祭りの前日に終わりそうで俺達はほっと胸をなで下ろしたものだ。
『完全とはいかないが、大分ましになったな。ふん、約束通り祭りの日、村人を浄化するのはやめてやろう。祭りが終わる頃にはこの像に入って大人しくしてやろう。だが、像が作り替えられる時……すなわちこの像が壊される時、我は再び目覚めるぞ? その時はここの村人に我の力を振る舞ってやるとするか』
この解決は一時的な物に過ぎないのか。俺達は顔を見合わせてゲンナリした。
神主は祭りが終わった後に像を作り替える気満々だった。石像作り替え阻止の策を講じたが妙案が浮かばず、俺達が頭を痛めていると、祭りの二日前に猫明神からある指令が下った。竹藪の奥の小さな石碑の側を掘ること数時間。見つけた箱に入っていたのは……猫明神誕生の伝承が書かれた巻物だった。
「私が聞いた猫明神の声は幻だったんですか……やはりアレは夢だったんですね」
その巻物の内容を確認した神主は、そう言って溜息をついた。
「わかっていたんです。私に霊能力がないのは。精神鍛錬をすれば私も猫明神の声が聞けると思ったんですが……猫明神が犬の悪霊を退治する夢を、少し前に見たんですよ」
遙か昔、猫明神を封じた者が記したらしきその内容、神主が本物だと疑いもしなかったその巻物には、猫明神が犬好きだった事が記されていたのだ。
神主は猫像の新造を断念して、俺達から懸念は消えた。残ったのは、俺達の誰か一人が猫明神の力で浄化されてしまう事。覚悟を持って望むべきか、あきらめと共に受け入れるべきか―― が、俺にはもう一つ心配の種が出来てしまった。祭りの二日前……家の動物病院で俺はある人物に出会ったのだ。
「和馬君! 久しぶり。私の事、覚えている?」
ふくよかな女性は、自分自身を――――と名乗ったのだ。
そして、祭りの日が訪れた。
御輿が境内を出発してから約一時間後、俺達は神社境内の隅の倉庫にもたれ掛かるようにして立っていた。俺を挟むようにして着物の女性が二人おり、彼女等は交互にたこ焼きに手を伸ばす。たこ焼きは購入者たる俺の掌の上にあり、爪楊枝は二本あった。……もう一本付けて貰ったら良かったと何度思った事やら。
俺が買ったたこ焼きを「食べる?」と二人に聞いたところ両者とも頷いて、それで爪楊枝が二つしかなかった為……
「はい、芽依子さん」
「ありがとう」
琴美が食べては爪楊枝を芽依子さんに渡し、芽依子さんが食べては爪楊枝を琴美さんに、という動作が繰り返される。彼女等がすり寄せんばかりに身を乗り出してくるので、俺は気が気でない……。薄暗さが彼女等の肌の色をより強調しているように感じる。
こんな所見られたらやっかみの的になっただろう。食べる前に、人気がないところに行ってよかったとは思うのだが……ここはあまりにも人気がなさ過ぎだ。
ここは暗い。祭りの明かりが微かに漏れてくるだけで……そう離れていない筈の喧噪を遠くに感じる。だれが初めにこの場所に足を向けたのかは思い出せない。
ここで例の話を……ここ数日棚に上げていた話をするのだろう。俺達三人の間でそんな共通の認識があったと思う。
結局、凜香も山之上も来ずに、俺達は三人で祭りに参加していた。
祭りの準備の最中、琴美と芽依子さんは普通に喋っていたから、俺達の関係もあの猫明神石像のように修復されたぜ~ そもそも壊れてなかったんじゃ? とか思ったが、今日、二人と接してそんな自分の認識が甘かったことを思い知った。
境内をうろついている最中、周りから向けられる嫉妬と羨望の眼差し以上に、余り喋らない二人の方の方が俺には重く感じられた。
「もう十分に手伝ってくれたから……明日の祭りは、参加者として楽しんでおくれ」
実行委員会の副委員長の言葉に甘えたが、それが結果的には良かったのか悪かったのか。
駅に集合した時から俺達は殆ど無言。電車で移動中もおとなしくしていて、出店の間を歩いている時も静かだった。
俺がたこ焼き。芽依子さんが林檎飴。琴美が水風船釣り。事前に取り決めがあった訳じゃないが、申し合わせたように一人が一つの出店を買うか遊ぶかしていた。
たこ焼きが無くなった後、芽依子さんは林檎飴の包装を所在なくいじくっていた。
水風船のゴムの紐を伸ばしたり縮めたりしていた琴美が唐突に「猫祭りが終わるまでに、犠牲者を決めないとね」と声を漏らす。
直った石像を見た猫明神は『約束通り、我の力で浄化するのは貴様等の内一人にしてやろう。祭りの日のいつにするか……御輿が境内に戻ってきた時にしてやろう』と言ったのだ。
「犠牲者ねぇ……だから、元凶というか切っ掛けを作ったのは俺だろ。これはどう考えても俺が犠牲者になるべきだ」
「でも、和馬さんがここにこなければ、ここの村人が犠牲者になっていたかも知れない……」
手元の林檎飴を見下ろしながら、そっと呟く芽依子さん。
「てか、なんでここの村民でもなければ、像を壊した張本人でもない私達が犠牲になるわけ?」
バンバンと、ゴムの反動を利用して水風船を叩きつつ琴美がこぼす。
「まぁ、その代わり琴美の両親が救われたと言う事で、よしとしようぜ」
「それも、あの時私の親を犠牲者にしていれば、って今更言ってもしょうがないか。ちょっと前にカズが確認していたけど、その猫明神の力がいつまで作用するかはわからないんだよね?」
俺が首飾りに目を向けると、飾りの目をビカビカ光らせつつ猫明神は答えを返す。
『わからんな、だが、今宵の祭りが終われば、我はまたあの石像の中で眠りにつく。我を封印した和尚曰く、人間への怒りが消えて成仏するまで我は眠りにつくようだ……我が眠りにつけば、我がかけた力は弱まるはずだ。だがいつ消えるかはわからない。数刻か数日は、果ては数週間か……』
「本音をさらけ出してしまうところと、それと猫耳尻尾。それのどっちがいつまで残るか……」
それもわからない。確かそう言っていたな。
俺が琴美の言葉を心の中で補足しつつ自分の頭を撫でていると「耳尻尾は残っていても良いと思っているんでしょ?」と指摘されて、言葉に詰まってしまった。
「そんなんじゃ、カズ学校行けないよ? だからさ、そこは一番頭の悪い私が犠牲者になるべきだよ。その力が消えるまで学校を病欠するから。元は身内の不始末から始まった事だしねぇ」
「そんなの駄目だ。だからそこは俺が……」
「カズは獣医になる為に、私の及びもつかないレベルの大学を受けるんでしょ? 猫耳つけて登校なんてしたらとんでもない事になるわよ? 校内に入るどころか、下手したら病院に連れて行かれたりするかもよ?」
「まぁ、怪我をしたとか言って包帯を巻いてごまかせば良いんじゃないかな?」
「むぅ、ちょっと苦しいけど、外見はそれでごまかせるかもしれないから、私が犠牲者になるよ。学校を休むか休まないかは……迷うところだけどなぁ。大丈夫かな?」
「もう、言っている間に期末テストだから、来週とかまずいだろ! だから、俺が……」
俺の言葉を「でも」と遮った琴美は、数歩前に進んで振り返る。
「不思議な力でだだ漏れになる前に、自分の意思で言いたい事は言うつもりだけどね?」
倉庫から少し離れ、俺達と正面から向き合った琴美は、そう言って小さく笑った。何処かその眼差しが寂しげに見えて、胸が締め付けられるような思いが去来する。
「それは俺も……そうだな。猫明神の力で喋る前に、自分の意志で語った方がいいな」
「私が犠牲者になるつもりだったけど、芽依子さんがなるって言うのなら止めないわよ?」
「お、俺は?」
「アンタがやるくらいなら私が犠牲者になるって」
俺を軽く睨んだ琴美は視線を芽依子さんに向けて、悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
「大学生なら、ちょっとぐらい休んでも大丈夫なんじゃない? よくサボっているって話だしね。それに貴方は……いや、アンタはちょーっとぐらい本音を、隠している事を言った方が良いんじゃない? そのまま隠したまま……私やカズの前からは去るつもり?」
「……いつから、知っていたの?」
去ってしまう芽依子さん、その目的地を琴美は知っているのだろうか?
「はじめっから、なんか怪しいと思っていたのよね。確信したのはあの離れに忍び込んだ時、そこにあるハンバーグを食べた時ね」
「……」
無言でじっと琴美を見る芽依子さん。静かながら強い眼差し――半笑いの琴美はそれを受けて同等かそれ以上の眼力を返す。
「しっかし、わからないのはその格好よね? どうやっているの? その髪なんて作り物とは思えないわ。染めているようにも見えないし……」
琴美の視線が徐々に下がる。
「そこが貧相なのは変わらないけど……いや、ちょっとだけマシになっているのかな?」
俺は琴美の視線を追って、マジマジとそこを……芽依子さんの慎ましい胸部を見てしまった。
「……っ!」
両腕で掻き抱いた芽依子さんは、俺を見た。その顔がさっと朱に染まる。
「ちょっとだけマシになっていてもそれだからね。元は……」
俯いた芽依子さん。顔だけじゃなくてうなじまでが赤く染まっていく。その体の震えが大きくなっていく。――何かフォローを……と思いつつ俺がオロオロしていると
「ちょっとっ!!」
そんな俺の隣で……芽依子さんは怒鳴り声を上げた。
「ま、前から思っていたけど失礼なのよ! こ、琴美さんはっ! 冗談で言っているつもりかのかも知れないけど、言われている方は傷ついているのよ! しかも! いつもいつも、よりによって、か、和馬さんの前で言うんだから! 何も和馬さんの前で言わなくてもいいじゃない!」
「あー、うるいさいうるさい。べつにいいじゃん。振った男の前なんだし」
ギュッと握りしめられた小さい握り拳。俯いた芽依子さんの食いしばった歯が見えた。
「~~っ! い、一番! 一番許せないのはっ……」
そう言ってキッと前を向く芽依子さん。心なしかその茶色の瞳が潤んでいた。
「ん? なに? 何々?」
身を乗り出し、耳に手を当てる琴美。
「わ、わかっている癖に……わかっている癖に……」
わなわな震える芽依子さんは、胸中に渦巻く激しい感情を持て余しているようにみえた。怒り慣れていないという言い方の方が相応しいだろうか?
「許せないのは何?」
琴美の小さな含み笑いは、そんな芽依子さんの足掻きをあざ笑っているように見える。
「た、確かに私は、その……和馬さんのその……申し出を、その……」
「なになに? もっと大きな声で言ってくれないときこえなーい」
「申し出を、結果的には……断わったわ。断わったことになったわ、い、一旦は……」
芽依子さんの声が徐々に小さくなっていく。
「いったん~? 告白を断わるのにいったんも何もないでしょ? 断わったことに変わりはないでしょ? 他の男の時と同じように、私にお願いしたでしょ「おつきあいできません」って伝えてくれって」
「そ、それはそうだけど……考えるかも、もしかしたらあとで考え方が変わるかもとか……そんな事を相談しなかったっけ? 私……他の男と違って、とりあえずは「おつきあいできません」って伝えてくれってお願いしたよね、私?」
「とりあえず~??」
「そうよ! とりあえずよ!」
決定的証拠だわとでもいいたげに誇らしげに言う芽依子さん。
「とりあえずって何~」
「とりあえずはとりあえずよ!」
「意味がわかんな~い」
「本格的な対応は後にして、今できることをやるとか、他は差し置いてとか、今のところ、さしあたってとか、そう言う意味よ!」
「そんなのがすぐ出るところ……さすが、秀才は違うわね。もっと良い大学入れたんじゃない、って、そうか……」
琴美は俺の方に何か言いたげな眼差しを向ける。
「ご、ま、か、さ、な、い、で!」
細い足で地面を踏んだ後、芽依子さんは指を琴美に突きつけた。
「だから……どうして、どうして、琴美が和馬さんと付き合っているの!?」
「私達がどうしようと、私達の勝手でしょ? ねぇ、カズ?」
「お、おぅ?」
曖昧な答えを返す俺は、俺は自分の中でもしかして――という気持ちが込み上げてくるのを抑えられなかった。芽依子さんは俺の事が? いやでもやっぱり俺は振られているし……
変な期待を持つな、俺には今、彼女が居るんだし……と心の中で俺は呟く。
「琴美、私の気持ち……知っているくせに」
「しらないなぁ、どんな気持ち? 包み隠さず言ってみたら? あんまりため込むと体に良くないよ? あぁ……だからそんなに色々ちっこいのか」
「~~っ!」
たたき付けるような動きで、手に持った林檎飴を投げつける芽依子さん。
飴を覆っていた透明なビニールが外れたのは、もともと結びが緩かったのか、それとも芽依子さん手慰みにしていたからなのかはわからない。
「あっ……」
琴美の胸元に激突した林檎飴が、薄青の浴衣に口づけのような紅を残して地面に落ちる。
「やりやがったな、この貧相大学生……」
「ご、ごめんな……い」
「琴美! 芽依子さん謝っているから……ゆるしてやれ」
俺は芽依子さんに詰め寄る琴美の前に立ちふさがった。
「うるさい……カズが誘ったからって普通彼氏彼女の中に一人ついてくるか? 普通? カズは鈍感馬鹿だから諦めるとして……アンタは自嘲しろ!遠慮しろ! ガキらしく家で大人しくしてろってんだよ」
俺を押しのけようと力を込めつつ、琴美は捲し立てる。
「琴美、いい加減に……」
「なによ……なによこのデカ女! 貴方は可愛くないのよ!」
「言いやがったなコイツ!」
「お願い……全力、よ……」
背後の芽依子さんの呟き。その不穏な響きに気をとられた俺は、琴美に押されて体勢を崩す。姿勢を直した俺が後ろを見ると、そこに芽依子さんの姿はなく……
「そっちか!」
琴美が素早く振り返った時、その顔面に水風船が激突して破裂した。芽依子さんいつの間に……琴美の手から水風船を奪ったんだ?
「的が大きいから、当てやすかったわ……」
「ふっふっふっ……良い度胸だ……」
俺は芽依子さんの体……正確には頭とお尻を交互に凝視していた。
この身に渦巻いた熱い思いが体を撓める。俺は放たれた矢のように飛んだ。
「シャット! 会いたか……っ!!」
歓喜の叫びが途切れたのは、俺の腹に芽依子さんの下駄が食い込んだからだ。蹴られたわけではなく、彼女が翳した足に俺が自分から突っ込んだのだ。
「和馬さん……結局犬や猫だったらなんでもいいわけ?」
手の代わりに足で俺を押し止めつつ、芽依子さんは呆れたように言う。
「そ、そんな事はない、と思う……」
今も体が勝手に前に進もうとしており、自信がないせいで俺の声は尻すぼみになる。
俺の腕も指もちぎれんばかりに伸ばされる……猫耳生やし、尻尾を付けた芽依子さんに少しでも近づきたい……ちぎれんばかりに伸ばされて震える自分の腕や指。自らの肉体が軋む音が聞こえるかのようだった。そうだ。体が反射的に動くほど、狂おしいほどの愛しさと懐かしさを感じるのは、芽依子さんが猫の格好をした時だけなのだ――
「カズ、そんな女より、私の方に……」
腹に下駄を食い込ませながら、俺はその声の主に顔を向ける。着物のどこにしまっていたのか、琴美は手に持った猫耳付きヘアバンドを装着する所だった。
ぎろり。百獣の王を連想させる琴美の眼差しが俺を見抜く。
俺は何も言わず正面――すなわち芽依子さんの方に視線を戻した。
「カズ! 私だって猫のコスプレをしているのに……ってかアンタいつの間に猫耳を……」
そう。芽依子さんの頭には猫耳がついていた。しかも、めくれ上がった着物からは、尻尾が覗いていた。猫耳もそうだが、尻尾なんていつ付けたんだ? 着物の裾が長いからわからなかっただけで、もしかして初めから付けていたのか?
「前から思っていたんだけど、猫にしちゃ大きすぎるのよ。貴方」
侮蔑も露わに、芽依子さんは琴美を見据える。
「芽依子、そこを動くなぁぁぁっ!」
視界の隅に突進してくる琴美が見える。芽依子さんに足裏で突き飛ばされた俺は、よろめいて尻餅を突いた。
俺を押した反動でさがりつつ体勢を立て直した芽依子さん。そこに琴美が激突し、二人は両手をからめて組み合う。俺は驚愕の眼差しを芽依子さんに向けていた。あの小さな体で背の高い琴美と互角に押し合っている……しかも剣道テニスに本命は居合いと活動的な琴美は、女だてらに力はかなりあるのだ。
「ふん……結構、やるじゃん」
「……」
均衡が徐々に崩れていく。驚愕は実際にその体と向き合っている琴美の方が大きいだろう。
「こ、こいつ……」
芽依子さんが徐々に琴美を押し返しだしたのだ。
「シャ……わたし、がっ」
掠れた声を出した直後、芽依子さんの目が茶から青へと変貌した。瞳が茶色の時、青色の時があるのは知っているが、変わる様を目の当たりにしたのはこれが初めてだった。
急に芽依子さんが力を抜いたのか……思いっきり前につんのめる琴美。堪えきれずその体が傾いで倒れ、芽依子さんはその下敷きになった。
「二人とも大丈夫か!? ってかもうやめろって!」
琴美はすぐに膝と肘を立てて体を浮かせる。彼女の猫耳は少しずれていた。
猫耳装着の芽依子さんを前にして、俺は初めて理性を保てているんだな……と思いつつ芽依子さんをみると、その頭から猫耳はいつの間にか消えていた。倒れた時に取れたんだろうか?
「めいこ、さん…………」
琴美は躊躇いがちに小さな声を零した後、その視線を自分の腕に移動させた。芽依子さんが琴美の肘の辺りを掴み、爪を立てていた。
「どきなさいよ、このデカおん、な」
な、の言葉と同時に、琴美は片手で素早く芽依子さんの顎を掴んだ。
「サボり大学生が何を偉そうに……やっぱりアンタは見た目も中身も子供ね。いくら勉強が出来たって関係な……っ」
琴美は顔をしかめて素早く立ち上がる。芽依子さんもゆっくり体を起こした。
「いった……噛みやがったな……」
「もう、やめとけって、琴美も芽依子さんも……」
わって入ろうとする俺を片手で押し止め、琴美はもう一つの手で芽依子さんの頭を上から掴む。
「私達で話を付ける。カズは引っ込んでいて!」
「イタ、イタタタタタ……は、離しなさいよ!」
先程は力で互角以上にわかり合った芽依子さんだが、今は両手を使ってでも琴美のアイアンクローを外せないでいた。
「帰れこの野郎!」
「い、嫌だ。帰らない!」
汚れた着物を意に介さず、鋭い眼光をぶつけ合う二人。
「こっちには何もないか……ってアレ?」
「サトシ君なに、喧嘩しているわよ喧嘩」
足音と声が聞こえてきた方を見ると、二十代前半と思しきカップルがこちらを伺っていた。
「修羅場ってやつか……おい、お前止めないのか?」
茶髪の男の声を受け、俺は再度芽依子さんと琴美に向き直った。
「お二人さーん、人目もあるし止めようよ」
「うるさい! カズ、邪魔したら胴体引きちぎるわよ!」
「和馬さんは引っ込んでいて!」
「まぁ……よくわからんが頑張れ……」
投げやりな声援を残して、そのカップルは神社の中心方向に戻っていく。
「凄いわね、あの子が二股していたのかしらね……」「器用だな……俺は不器用だから、お前一人しか愛す事が出来ないんだ……」「サトシ君かっこいい~」
遠ざかっていく声を背後に聞きつつ、俺はどうしたものかと二人を見る。
「カップルの逢瀬を邪魔するなぁ!」
頭に乗せられた手を外せないからなのか、芽依子さんは琴美の手の甲と腕をつねり上げていた。
「なにがカップルよっ!! バカッ!」
芽依子さんは叫びつつ琴美の足を踏んだ。そして、緩んだ手をはねのけて琴美を押し倒す。後先考えない無謀な動き。馬乗りになった芽依子さんは、琴美の着物の裾をつかみ肩で息をする。鬼気迫りながらもその姿は何処か悲しげだった。
「だって……だってっ……私も……」
荒い息の間に吐き出される声。握られた拳とうなだれた頭が震える。倒れ伏した琴美が全く動いていない事に、俺はその時気付いた。
「私も、どうなの?」
凪いだ湖面のようにおだやかな声。
芽依子さんが顔をゆっくり上げた時、あっけにとられた表情と潤んでいる目尻が見えた。
「アンタいい加減本音を…………言ったら?」
着物の襟元から手を離し、呆然とする芽依子さん。暫しの沈黙。今更のように祭りの喧噪が微かに聞こえてくる。
『くだらん』
俺の胸元から聞こえてきたその声を引き金に、芽依子さんは何かを呟いて自分の太股を叩く。直後、立ち上がり踵を返して走り出した芽依子さん。「あ……」と意味なき音を漏らした俺とは違って……
「逃げるなっ!」
琴美は鋭い制止の声を上げていた。
倉庫の影から出る直前で、芽依子さんの足は止まった。止まったが女子大生は振り返らない。
「逃げないで。芽依子さん」
うってかわって、穏やかな声を出しつつ上半身を起こす琴美。
『実に、人間はくだらんな……』
「そうかな、俺は……人間っていいなって思っているところだけどな」
『なぜ……そう思う?』
「だって……」
俺は言葉を止めた。琴美が何か言いたげにこちらを見ていたからだ。
「カズ、聞いて欲しい事があるんだけど……いいかな?」
俺は黙って頷いた。
「ごめんね。ずっと謝ろうと思っていたんだけど、前に芽依子さんの事相談された時……絶対OKとか芽依子さんもカズの事好きだから大丈夫とか言ったけど……アレ、嘘だったんだ」
地面に座り込んだ琴美は、両腕を後ろについて体を傾ける。
「芽依子さんはカズの告白を受けないと思っていた。そう思っていたから焚きつけたんだ……芽依子さんに振られた後ならカズ、私の事を見てくれるかなって思ったから」
夜空を見上げながら、琴美は淡々と喋る。
「案の上、傷心のカズは私の申し出を断わらなかった。作戦は大成功って事。カズごめんね。本当にごめん…………騙すようなことをして……弱みにつけ込むようなことをして」
「なにを言っているんだよ……琴美が謝るようなことは何一つ無いんだ。告白したのは俺だ、俺が決断したんだ。芽依子さんに振られたのも、琴美と付き合うことを決めたのも俺なんだ。琴美が謝る事はないんだよ……悲しい思いをさせてしまってごめんな」
「てなわけで、私は二人に対する隠し事がなくなったので、私が犠牲者になるのが一番良いと思いまーす」
そう言って彼女は大きく伸びをして、地面に大の字に寝そべる。
「後……私は芽依子さんが芽依子さんじゃない事を知っているわ。カズの告白を芽依子さんが断わった理由には、それが関わってくるんじゃないかって思っている……」
琴美はそう言ってそっと目を閉じた。
「そうでしょ? 芽依子さん。色々ごめんね……」
「琴美……」
芽依子さんは少し体を傾け、肩越しに琴美を見遣る。
「カズもあんまり驚いた様子がないね」
「数日前、芽依子さんに会ったんだ……同じく、鹿谷 芽依子と名乗る人に。だから、今ここに居る芽依子さんは……もしかしたら俺が幼稚園の頃会っていた人と違うんじゃないないかって思っていたんだ」
祭りの二日前。俺の動物病院を訪れた琴美の親戚。鹿谷 芽依子。彼女は高校生の時に駆け落ちをして、それから親戚間で彼女の存在は伏せられるようになったらしい。
そんな彼女は側に寄る事があったので、ついでに昔数ヶ月だけ暮らした町にも顔をだしたらしい。
「和馬君が幼稚園の頃、少しだけ遊んであげたんだけど覚えている?」
その女の人と別れた後、俺は琴美の母親に頼んで杉浦家のアルバムを漁った。芽依子――という娘は存在しなかった事にする。親戚間での馬鹿馬鹿しい決定事項により、芽依子さんが写っている写真は全て捨てられていたようだ。
芽依子さんの写真が見つからず諦めかけた頃、琴美の母が一枚の写真を持ってきたのだ。
そこに写っていたのは……幼稚園の制服を来た俺の手を持ち、人の良さそうな笑みを浮かべる女性。あの冬の日、俺の元に猫コスプレをして現れた芽依子さんではなかった。俺が知る芽依子さんの過去の姿ではない。骨格を歪めるぐらい整形しても、同一人物になるかどうか。
その日、動物病院を訪れた女性の昔の姿としか考えられない。
「あの子が、本当の芽依子じゃなくても、私達を助けてくれた事には変わらないでしょ?」
写真を見て呆然とする俺に、琴美の母はそう言って微笑んだんだ。
俺はその日、琴美の留守を狙って杉浦家のアルバムを漁ったのだ。琴美がこの事知っているか……本人に聞けずにいた。
俺は琴美に近寄ってそっと手を差し伸べる。
「ねぇ、カズ。もう一度聞いて良い?」
「ん? おう。なんだ?」
琴美は目を開き、まっすぐな眼差しを俺に向けてきた。
「私の事、本当に好きですか?」
心の中まで見透かしてきそうな琴美の目。俺は漆黒の瞳とそこに写る自分の姿をじっと見た。
「ごめん」
短い言葉に気持ちを込めたつもりだった。琴美は大きくゆっくりと息を吐く。
「そうか……やっぱりそうなのね」
琴美は俺が差しのばした手を掴んで立ち上がり、そのまま勢いのまま身を寄せてくる。彼女の体は、俺の肩に触れるか触れないかという位置で止まっていた。
「と、友達として、なら」
間近にありながら、ぎりぎり視界に入らない琴美の顔。「友達、か」と呟いたた後、横に移動した彼女が俺の顔を覗き込む。吐息がかかりそうな程近い距離で小さな笑顔が作られた。
「でも、まだ私は諦めた訳じゃないからね」
そう言っていって、さっと俺からはなれる琴美。
「恋人未満……」
小声でそう言った後、彼女は指を俺に突きつける。口は笑っていたが瞼は微かに震えていた。
「友達以上! …………だよね?」
「ああ、そうだな……」
「あーあ、振られちゃったぜ~芽依子さん慰めてー」
少しだけ鼻にかかった声でそう言いながら、琴美は少し離れた場所でこちらを伺っていた芽依子さんに近寄っていき、その背中にのし掛かるようにして抱きついた。
「やっぱり芽依子さんは可愛いな~」
「琴美さん、私は……」
「アンタもたまには本音で喋った方が良いよ。自分の気持ちを殺してばっかじゃ、幸せを逃がしちゃうよ……周りに気を遣ってさ……父親に逆らったことないんじゃない? そんなのでいいの?」
琴美は「この」芽依子さんの事を……少なくとも俺よりは知っているようだった。
「琴美、やっぱり俺が犠牲者になるよ」
「え~、まだ押し問答を繰り返すの? もう止めようよ……」
「お前が惚れた男に、良い格好をさせてくれよ」
「やばい、惚れ直しそうよ……今、私は芽依子さんに乗り換えたところなのに……」
調子に乗った俺はフフンと笑いつつ、顎に手をあてて膝を曲げてポーズをとる。
「なにあの得意げな顔……それに変なポーズ……やばい、振られて良かったよ……」
多少痛々しさをのこしつつも、琴美はそう言って微笑んだ。
「俺も多分、二人に対して大きな秘密はないと思うからな。だから俺が……」
「わたっ、私が……なる。犠牲者に、なる」
俺の言葉を遮ったのは芽依子さんだった。
「だって、私、あと一年もしないうちにいなくなるから……」
「前も言っていたけど、それ、本当なのか?」
芽依子さんは身をかがめて琴美から離れた。そして、小さな背中がゆっくり振り返る。
「私、ずっと二人を騙してきたの。このまま居なくなるつもりだったけど……でも」
ちょうど倉庫の影から出た芽依子さんを、祭りの明かりが微かに照らす。
「もう、いいよね? …………ット」
芽依子さんが小声で呟いた直後、神社の中心近く……おそらく本殿当たりから鈍く大きな音が聞こえてきた。少し遅れて風が吹き荒れる。人が多い辺りから騒ぐ気配が伝わってくる。
『うぬぅ……こ、これは』
胸元から聞こえてくる声は何処か苦しげで、何かあったのかと猫明神に問いただそうとしたその時、俺は、呼吸、瞬きから始まる――全ての動きを止めた。
芽依子さんの変化。それのみに意識が集中する。それ以外は何の情報も頭に入らない。
茶色の髪から色がサッと抜け落ち……背は縮み、体の輪郭が小さく細くなっていく。丸みを帯びていた顔の輪郭が少し鋭利になる。眉が細くなる。
「あれ……足が……」
その女性……いや、少女は声すらも変貌していた。細くなった足から力が抜けて彼女はその場にしゃがみ込む。
『ニャーーー! ニャーーー!』
彼女の肩を掴む猫が激しく鳴く、風で体を浮かせる茶色の猫は半分透けていた。
「な、なんでシャットが私から離れているの? あ、あれ……も、もしかして」
彼女は自分の肩を流れ落ちる金色の髪を見てから、ぶかぶかになった服を見る。そして最後に自分の胸に手を置いた。お世辞にもグラマラスとは言い難かった芽依子さんの胸は、平坦に近くなっていた……といより彼女は別人へと変貌していた。俺や琴美がよく知っている人物に。
「り、凜香……なのか、それにそこにいるのは……シャット!?」
「い、嫌……見ないで……こっちを見ないで……」
我が身をかき抱く少女の肩では、茶色の虎模様――いわゆる茶トラの猫が風に揺られながら鳴き声を上げていた。
「なーるほど、そういうことだったのか。体格どころか、髪の色まで変わって、足が動くようになったのは……猫の幽霊の力だったって訳か」
「琴美!? 知っていたのか?」
「二重人格か何かだと思っていたんだけどね、ホントに何にも気づかなかったの? ……あ、そうか。凜香は霊に乗りうつられると、その霊の身体的特徴が少し投影されるんだった。カズ、あの別荘で出会った幽霊も大人の幽霊に乗りうつられた凜香だったのよ」
別荘で出会った女性の霊……あれが年齢に見合わない外見だったのも、その美しさもその下地に凜香の体があったからなの、か?
琴美は少女の傍らにしゃがむ。俺は落ち着かなく凜香とシャットを交互に見ていた。
そうか。芽依子さんには猫っぽい所行が多いなと思っていたら……本当に猫が乗りうつっていたのか。よく寝る彼女は、肉ばっかり食べて水しか飲めない。虫に見入ってしまうのも、狭いところが好きなのもそう。髪を梳くのが好きなのは……猫で言う所の毛繕いの代用? もたれて頭をこすりつけてくるのは匂いつけ?
芽依子――いや、凜香は琴美に縋り付いて、その胸元に顔を埋める。
「琴美さん…………どうしよう?」
琴美は胸元にある凜香の頭にそっと手を置き、優しげな声を出す。
「凜香、アンタはどうしたいの? ずっとそのままで、芽依子で居るつもりだったの? そのまま、私達の前から去るつもりだったの?」
「私は……」
「め、芽依子さ……じゃなくて凜香! シャットが飛ばされそうだぞ! シャット!」
凜香の肩を掴む茶トラ猫の幽霊。俺が間違う筈がない。一年半前に病気でこの世を去った家の飼い猫だ。
「あ、ごめんなさいシャット。でも、どうして、こんな……」
声なき叫びに我に返った凜香は、猫幽霊に手を伸ばしてその体を支えた後、自分の肩の上にのせる。
その幽霊……触れることが出来るのか。
もう二度と会えないとはずだった愛猫、もう昔みたいに親密な間柄に戻れないのか思っていた少女。それら二つの存在が意思を交わし会う光景を見て、嬉しいやら切ないやら。様々な感情が胸中で渦を巻く。
だが、彼女等のこの状況―― 異常な状況を生んだ原因がわからない。焦りが感情を塗りつぶしていく。
『ぐっ……なにかが、おかしいぞ……何だ?』
猫明神の苦しげな声が聞こえた直後、二組の駆ける人影が見えた。
「サトシ君! 嘘でしょ! 嘘って言ってよ」「嘘じゃない。俺が付き合っているのはお前だけじゃない……俺は三人の女と付き合っているんだ。三人の彼女中でランクを付けるとお前はその中で二番目だ!」「サイッテー……待ちなさいよコラ!」
少し向こうを駆けていくのは、さっき倉庫の裏にやって来たカップルだった。
逃げる男に追う女。逃げる男には猫耳と尻尾が生えていた。その色は両方雪のような白。
「あれは……」
神社の周囲にある竹藪。それを囲う柵の手前で女は男に追いつく。
「それにもうすぐ俺はランク一位の彼女と……結婚する予定だっ……」
ガッ、と女の両の手が男の首に食い込む。
止めないと! と、俺が足を動かしかけると……男の頭に何か見えた。
猫……?
どこから現れたのか、男の頭に白い猫が乗っていた。そしていつの間にか男の猫耳と尻尾が消えている。男の異変に気付いた女は少し手を緩めたようだった。
「ゴ、ゴホッ……俺はなんで、こんな……」
男の頭から白い猫が跳躍して正面にいる女の頭にのった。その白猫は女の体に吸い込まれるようにして消えて、その直後、女からは猫の耳と尻尾が生える。
「サトシ君、実は私結婚していて、既に二人子供が居るの……」
『我の力、だな……』
俺は倉庫の影から飛び出す。遮蔽物が無くなり体に当たる風が一層強くなる。
風の発生源たる本殿に顔を向けると、建物を包むようにして竜巻が発生していた。
竜巻が不意に光って輝く触手を伸ばした。稲妻を思わせる光りは、神社の竹藪にささって鈍い音を発する。折れた竹が倒れていく。
俺は神社の境内を素早く見回した。神社の喧噪と混乱は竜巻と稲光が原因―― 俺はそれ「だけ」が原因とは思わなかった。神社の中で白い猫耳を生やした人が二人居て、それぞれ連れらしき人と言い争い、剣呑な雰囲気を漂わせていたのだ。
「何でだ、約束が違うだろ猫明神! あの力の犠牲者になるのは俺だけだろ!?」
『我の力が暴走している……誰かが我の像になにかをしたな』
「なにかって……」
「我の力を増幅させるような、なにか、だ」
不自然な風は本殿から、あの猫像がある場所から吹いている……そこに向かうか? この事態を収められるかわからないけど……
また竜巻が光り、そこから伸びた稲妻が今度はヨーヨー釣りの出店に直撃した。
水とともに彩り鮮やかな水風船が宙に舞う……出店の人が、穴が空いたテントと真っ二つに割れた水槽をほっぽり出して逃げ出す。
その出店の破壊は、逃げ気味だった群衆の足先を決定的に揃える事となった。
『……フン、いい気味だ』
「おい!!」
『ぐっ……そもそも、我は人間が嫌いだと言っただろうが。我が人間との約束を本当に守ると思っていたのか? お笑い、種だ』
「大丈夫か、調子が悪そうだぞ?」
『うるさい……人間如きに心配されたくはない。それ……に、我に構っている暇があるのか?』
「な……」
「カ、カズッ! 凜香が……」
叫びに導かれ倉庫の角を視界に納めた時、蹲る凜香と彼女の肩口から生えている白猫の下半身が見えた。凜香の体に白い猫が潜り込もうとしているのか? それを止めるべくシャットが白猫の体に爪をたてて引っ張ろうとしている?
「この猫、屋根から飛び降りてきて……くそっ、何で凜香は掴めて私には無理なの!?」
俺の耳朶を打つ、猫と女子高生の悲痛な叫び。白猫の体が凜香の体に埋もれていく。
「嫌よ……こんなので自分の気持ちを言うなんて、私は絶対……か、和馬さん……」
凜香が自分の頭を抑える手。その手が少しずつ上に動いている……まるで頭から何かが生えているような。猫耳か?
「凜香ッ!」
動物の幽霊なんかにびびってられるか! 凜香の元に向かうべく俺が地面を蹴った時、『カッ!!』という気合と共に胸元から閃光が走り、凜香に直撃した。
『フギャッ!』
「どおぅわぁぁぁぁぁっ!!」
その直後、凜香から白猫が飛び出して俺を飛び越した。その跳躍は尋常な動きじゃない。
胸中の誓い空しく、視界を縦によぎった半透明猫に情けない声を上げてしまう俺。
凜香は意識を失って地面に倒れ伏していた。
飛びそうになる意識をつなぎ止め、「くそっ!」と怒声を吐きつつ振り返ると、白猫は三メートル程離れた場所でこちらを見ていた。その全身の白い毛は怒りで逆立っている。
知らず知らずのうちに「なぜ」と呟くと『なぜ、だろうな? ……我にもわからん』という声が聞こえた。なぜ凜香を助けてくれたのか? 嘘と欺瞞でお互いを欺き合う……そんな人間が嫌いなんだろう? 自分の力で人間の本音をぶちまけたいんだろう?
フーッと毛を逆立てる白猫に、もう一匹近寄ってくる猫がいた。体格や毛の色、ありとあらゆる要素が同一のそれは、言い争いをしていたカップルの方から歩いてきた。
欺瞞のカップルは身を寄せ合いながら、こちらに近づいてくる白猫を見ていた。その二人にはもう猫耳も尻尾もない。
さらにもう一匹、本殿の方向から一匹の猫が寄ってくる。
終結した三匹の猫は全身で怒りを表現していた。それが向けられるのは俺……じゃなくて俺の首飾りのように感じる。猫達を中心に風が渦巻きだし、バチッバチッと稲光が時折走る。
『我を敵と認識したようだな。しかも一に優先して排除すべき障害として。暴走した我の力が……よりによって我自身に向くとは。くだらんな』
この白猫が暴走した猫明神の力の表れだとして……もしかして、それがここに終結しつつあるのか? 他に祭りを楽しんでいる人が犠牲になるのは免れるのか?
『気をつけろよ。あの白猫共、攻撃してくるぞ』
「狙われているのは、こっち、か……」
《えーこちらは、猫祭り実行委員回です。ただいま、神社を中心に竜巻が発生しており危険な状態となっております……一部で小規模ながら火災も発生している為、関係者および祭りの参加者は一旦神社の敷地から避難してください……》
気にくくりつけてあるスピーカーからひび割れた音声が流れてきた。
以前止まない暴風と稲妻の脅威はともかく……白猫達の注意はこちらに向いている。白猫の危険は猫耳尻尾と秘密暴露だけじゃないかもしれない……ならば
「琴美、凜香を頼む……シャット、よければ後で話をさせてくれ」
七年間一緒に時を過ごした猫。死んでしまってもう二度と会えないと思っていたが……「芽依子さん」として俺はシャットに会っていたのか……
シャットの死から立ち直れなくて、猫アイドルに依存するようになった俺。それを助けてくれたのは……凜香であり、シャットだったんだな。
「カズ、アンタは……」
「狙われているのは……俺だ。だから……」
あえて、猫明神が狙われているとは言わなかった。
俺は身を少しかがめ、すぐに動ける姿勢を作る。ここから居なくなる前に愛猫には言っておかなければいけないことがある。次に会えるとは限らない。
「シャット、シアンの事、守ってやれなくてごめん。シャットも、もっと俺が気にかけてやれば……あんな病気にならなかったと思う。ごめんな」
『ニャッ!』
俺の気持ちが伝わったのか人間の言葉が分かるのか、シャットの鳴き声には怒りの響きがあった。それもしかたがないと思う。口で謝っただけですむような問題じゃないんだ。後で会えたら……俺はどんな償いでもするつもりでいた。
しかし、早くしないと白い幽霊猫がどんどんここに集まってきてしまう……。ひとまずここから離れて人気の無いところに行って、それからどうするかを……
そんな事を考えていた時、不意に猫の集団が光って稲妻が空間を走る。
息を飲む間こそあらばこそ、避けられる速度ではなかった。
「ぐっ!!」
視界が瞬く、焼け付くような痺れが指の先まで流れる。その衝撃は数秒にも満たなかっただろう。だがその直後躍りかかってきた三匹の半透明白猫に対して……俺は退くことが出来ずに、ただ意識が薄れていくのを感じていた。
親父の課題にもっと積極的に挑戦していれば……こんな事にはならなかったのか……?
最後にそんな思考が頭を過ぎった。
『くそっ! 大きな娘! この猫を剥がせ!』
「そんな事をいったって……このっ! さわれないんだけどっ!」
『集中力と気合いが足りない! 集中すればさわれるはずだっ』
自分の体が地面に伏しているのがわかる。すぐ側から声が聞こえる……
「てか、猫明神がその犬飾りから出ればいいだけの話じゃないの!?」
『今更言っても遅い! こいつらに齧り付かれる前なら外に出られたのだが……くそっ』
「まぬけっ!」
『うるさい! 十やそこら生きただけの小娘が……我……に意見する、な』
「助けを求めておいて、よくそんな事が言えたもんね…………ああっもぉ、私だって助けてやろうと思っているんだけど……どうして、こうっ! 触れないの! 凜香なら触れるかも知れないけど……カズもこの有様だし……」
『我が……消える……我が、こんなこと、で……』
俺はあの時……約束したんだ。あの二つの命を絶対に守るって。
だけど、俺は約束を守れなかった。
動物のまっすぐな心と命の輝きのすばらしさ、人間の心の美しさを教えてくれたあの子。動物嫌いだった俺を変えてくれたあの子との約束を……
『和尚……我は…………』
「琴美さん……」
『ニャッ!』
「凜香っ! 目がさめたの? 大丈夫?」
俺は命が、魂が、生命が消えるのは見たくない……たとえこの命が、どうなろうとも!
俺は目を見開いた。ペンダントの犬飾りに三匹の猫が群がっているのが見える。
至近距離どころか自分の体にのっている動物の幽霊……それを思うとまた意識に靄がかかりそうになった。だから俺は思い出す。シアンとシャットが死んだ時の事を。冷たくなった体の感触を。
口が何かを叫ぶ。ありったけの力を込めて俺は意味なき音を発する。
そして拳を胸元の半透明猫にぶつけようとした……が、当たる直前で俺は拳骨を止めた。手を開いて白い猫を掴み放り投げる。
そう、この白い猫にも命が……魂があるんだ。
『その猫は我の暴走した我の力の一部だ! 命や魂はない! 意思があるように見えるがまがい物だ!』
「ほんとう、だな」
『ああ、そうだ』
「ほんとうに、そうなんだな?」
声が、自分の意思とは関係のないところで発せられているような気がした。
『くどい! 我が和尚の名にかけて誓って言う! 嘘偽りは言ってない!』
その叫びには嘘の気配は皆無。なので信じることにした。
なら……全力で、排除する、だけだ。
そこから、意識と記憶が途切れ途切れになった。死に瀕している動物を見た時と同じように、体か半ば勝手に動く。途中から数を増やし四匹になった白い猫を殴ったり、蹴ったりした気がする。白猫達から反撃を食らった気がする。まがい物とはいえ、猫の形をしたモノに暴力を振るう事に対する抵抗は、飼い猫と飼い犬の死を脳裏に焼き付ける事で打ち消していた。
そして……
『ニャッ、ニャッ!』
「カズ」
急に音が明瞭に聞こえるようになった。
俺は「奴らは消えた……?」と疑問の声を出した俺だったが、記憶を探って「いや、一旦退いただけか」自分で答えを導き出した。
「猫明神は大丈夫なのか?」
『大丈夫、だ』
そうか、助かったのか……と脳内で呟いた直後、体のあちこちが痛み出す。
フーッという吐息。凜香の首根っこにしがみついたシャットが怒りで毛を逆立てている。
そんなシャットとは対照的に、凜香の目はどこか虚ろで感情がわからない。何か危うく壊れそうな雰囲気を身に纏っていた。
肩が……脛が……頭が痛む。血がそこかしこに滲んでいる。どうやら引っかかれたり、噛みつかれたりしたようだが……やはりあまりよく覚えていない。思い出せない。
足がふらつく。今ぎりぎり倉庫の影にいるが……遮蔽物の裏でなければ風に押されて倒れていたかもしれない。
『しかし、一旦は退いたが、またあいつらはやってくるぞ』
「それより、カズの手当よ! テントに行きましょう! 委員会の役員に確か医者が居たでしょう? カズ、大丈夫? 動ける?」
「ああ、急ぐぞ……」
怪我はしているけど走ることぐらい支障がない……そう思って踏み出した足がよろける。琴美はサッと俺の手首を掴んで走り出す。
「凜香はここで待っていて!」
最後にちらっと見た時、凜香は首からネックレスのようにシャットをぶら下げたまま呆然と見ていた。そうだ、足が不自由だから凜香はついてこれない……。今は俺から離れていた方が安全だと思うが……しかし、あの稲妻がこの倉庫を直撃するとも限らない。
「琴美っ! お前は凜香を見ていてやってくれ!」
「アンタを送り届けたらねっ!」
琴美に手を引かれつつ俺はテントに向かって駆ける。去り際に凜香を見ると、シャットが悲しげに一鳴きした。




