第二章 迷う愛でも嵐呼びます(その2)
「ふむぅ、ここに悪霊が襲来したと?」
「ええ、そうなんです……猫明神の象が壊されたのです。あの神聖な象を壊すことができるのは……遙か昔この地を襲った鬼が復活したに違いありません!」
「ふ、ふむぅ。鬼ねぇ……まぁ、何にしろ、私にお任せあれ」
「ありがたいことです。べつの神社から聞いたある霊能力者にお願いしていたのですが……貴方はその方の弟子とおっしゃいましたか?」
「左様。実力は我が師匠に及びません。だが、昨今の戦いは私が出る事が多くなっています。つまり、戦いのカンは鈍ることなく研ぎ澄まされる一方…… 我の体はいつも臨戦態勢にあると言っても過言ではありません」
「それは…・・・たのもしいですね」
「我が力の片鱗をお見せしましょう。私が力を込めた神具を取り出します……凄まじい力を秘めているので、常人だと恐れ戦き、気を失ってしまうかもしれませんが…………ほ、ほら! どうですか、これ! だ、大丈夫ですかの?」
「大丈夫、というのは?」
「この神具を見て、何か感じませんか……そのなんというか、不気味な力の波動的な……」
「何も感じませんが?」
「ん? 背筋が寒くなったり、元気がなくなってきたりとか?」
「……」
「ま、まぁいい、この神具を使う為には儀式が必要なのです。私の師匠も言っていたとは思いますが……若い巫女が踊らねばいけませぬ。それでテンションを……ウオッホン、神通力を高める必要がありますな。巫女服は、カタログをご覧になればよろしい」
「我が神社にも、数少ないながら巫女服はありますが……」
「いや、この儀式は特殊故、特殊な巫女服が必要なのです。それを買わねばいかぬのです!」
「これは、なんというか、妙に布が少ない巫女服ですね。これでないと駄目なのですか?」
「それが良いのです! 他では駄目なのです! あっ、これは失敬……」
「かわりのお茶を……」
「いや、大丈夫です。問題ないでござ、ござらん。もし、その巫女服を着た若い女性が居なければ……別の神具を用意しなければいけないので……その遺憾ながら…………その、ねぇ? わかるでしょ?」
「はぁ、わかるというのは?」
「ようは、料金が上がると言う事です」
「なるほど……悪霊退治も一筋縄ではいかないのですね」
「ちなみに、巫女服を着て踊る女性も当方でチェックさせていただくので、写真を送付してください」
「今日、ここに訪れた女性二人に、そのお手伝いをお願いしようかと思っていたのですが……」
「なに! それは話が早い。すぐに面接しましょう! 善は急げです」
「しかし、その女性達にはまだ仕事の詳細は話していませんし……承諾をいただいたわけでもありません。それに踊れるかどうかも……」
「踊りがぎこちなくても、それはそれで良しなのです。ともかくですね面接をしてから……」
廊下でそのやりとりを聞いていた俺達。ふすまは薄く聞き耳を立てるまでもなかった。
ふすまを開けるジェスチャーをしつつ傍らの女性陣に目を向ける。多分、今俺は芽依子さんと同じく何とも言えない表情をしていると思う。琴美は呆れと軽蔑が交じった眼差しをふすまに向けていた。
俺はふすまをゆっくり開けていく。途中まで開けた時に「彼女等を、お呼びですかね?」と、中に声を投げかけていた。
部屋とそこに居る男達の様子が明らかになっていく。
そこは十畳ほどの座敷で、座布団の上で二人の男が向かい合っていた。
神主の正面に座っていた男は、平安時代の貴族の様な格好をしていた(服の名は狩衣というらしい)。その時代錯誤でどぎつい紫色の服を着た男……いや少年は、巫女服を着た琴美の足を見た。そのままゆっくり視線を上げていく。
少年の顔に過ぎった違和感は、琴美の身長に対する物だろうかと思う。それがすぐ驚愕に代わり、その後、彼の感情が恐れ一色で塗りつぶされるのがありありと分かった。
「なにやってんの……山之上」
少年の……山之上の口はパクパク動くだけで声が出ない。認めたくない現実から逃げるようにさまよった視線が、俺と芽依子さんの存在を確認して、そして彼は完全に硬直する。
(半年前からバイトを始めているのだ。……『演技』という名の力を……生かした仕事だ)
確かに……自己陶酔という彼の才能を生かした仕事かもしれない。『演技』としてやっているつもりなら犯罪って事になりそうだが……
(俺は新たなる才能を発掘してしまった! 俺の霊能力者としての素質だ)
……山之上の場合、自分を本物の霊能力者と思い込んでいそうな気がする。
それはともかく、と俺は固まった高校生の膝先にあるトランクに視線を移す。
頑丈そうな紫色のトランクが二つ並んでおり、そのうち一つが開かれていた。その中央に鎮座しているのは……犬の陶器製置物が二つ。一見愛らしいそれを視界に納めた時、その圧倒的存在感に目を逸らすどころか瞬きすらできなくなった。
空間さえ歪ませて見せるそのまがまがしさと存在感。
作り手が誰であるか俺にはすぐにわかった。足を震わせる琴美も同様に気付いていると思う。
「なぜ山之上さんがここに……? 霊能力者?」
芽依子さんの目は開かれたトランクに向けられていた。
しまった。と臍をかむ。ここを開けたのは、山之上がやろうとしている事の正体を見極めようと思ったからだ。奴は巫女アルバイト志望の二人とすぐに面接したそうだったし。俺が自らの行動の過ちに気付いたのは、トランク内の犬の置物を見た時だった。
盗み聞きした会話に出て来た「神具」という単語、それが指す物は……
「ああ、彼女等がお手伝いを頼もうとしていた娘達です。この神社にある巫女服を試着してもらっていたのですが……」
「山之上さん。私その像に見覚えがあるわ……もしかして、私が作った像? あの像は、全部琴美の叔父さんにあげていた筈なのに……これのどこが神具なの?」
先程の会話の内容から導き出される答えはただ一つ。琴美の叔父は……芽依子さんが作る犬猫像の不可視の力を利用していたのだ。「霊能力者」という商売の要として。その先兵としての任が、山之上の「バイト」なのだろう。
「え? 芽依子さんが? おかしいな……確かこれは師匠が念を込めて造ったって聞いたんだけど」
さっき私が力を込めた……とか言っていなかったっけ? という突っ込みを胸の中で留め俺は「その師匠って、いつも紫色のシャツを着ているか?」と聞く。
頷く山之上。推測が更に確信に近づく。それにしても、コイツあの猫痛車で運ばれてきたのか……急用ができたってのは、嘘じゃなかったんだな。
「ねぇ、山之上さん。どうして、これが……」
「な、何の事だか私にはわからないな。隣の友達に聞いてみたらどうですか?」
山之上の言い逃れには疑問を挟まず、芽依子さんは傍らの琴美に顔を向ける。
「さ、さぁ私にはよくわからないなぁ?」
頑張れ、誤魔化せ――、琴美にだけ聞こえるように後ろから小声を出していたら、肩越しに睨まれた。一番悪いのは紫シャツ事、琴美の叔父。だが、今は芽依子さんに真実を伏せるのが最優先事項なのだ。
「陶芸部の人に渡せば答えてくれるかもよ」
裏切り者! とばかりに眼差しに力を込めると、琴美に「ふ」と鼻で笑われた。山之上がほっと息を吐いたのが気にくわない。お前も元凶の一人だろうが。
「この神具、貸してあげよう」
山之上の言葉を受けた芽依子さんは、部屋の中央まで踏み入って犬の置物を一つ手に取る。そして彼女は廊下に戻ってきた。俺は思わず一歩下がってしまったが、それ以上は不審な行動をとらないように笑みを顔に貼り付ける。
「ねぇ、和馬さん。これのどこが……」
芽依子さんは犬の置物を俺に差しだそうとしたところで動きを止めて、表情を曇らせた。
「もしかして……私の作った置物は」
「霊退治の先生。この娘達は先生の知り合いなんですかね?」
「……左様。それがしの弟子です……」
落ち着いたというよりは開き直った様子の山之上を見た時、俺は嫌な予感がした
「今回の神具は我が弟子に命じて作らせたモノです。どちらとも、ありとあらゆる妖怪、怪異に対して効力を発揮しますが……犬像は特に猫の妖怪に、猫像は犬の妖怪に対して有効です。犬の妖怪に犬像を使うと、逆に力を増幅させてしまうので注意しないといけません。猫像もしかり。これは私でも扱うのが困難な程の力を持った神具。一般人がそれに近寄ると……ほれ芽依子、小僧にその手のモノを渡してごらん」
顎で俺をさす山之上。なぜか素直に従って「はい」と俺に置物を渡す芽依子さん。思わず受け取る俺。
「ほれ、この通り」
「なにが……このとおり……なんだか」
「カズ……声が震えているよ。顔が青ざめているよ。もう、隠さなくても良いんじゃない……?」
琴美の溜息混じりの声。芽依子さんは悲しみを湛えた眼差しをこちらに向けていた。
「あの時……私が作ってしまう置物に変な力が宿ってしまうのね……」
幸か不幸か、現代科学では説明が付かない現象を芽依子さんはすぐに理解していた。
「和馬さん。そんな厄介な物の後始末いつもしてくれていたのね……ごめんなさい」
芽依子さんは淡々と語りつつ、俺の掌の犬像を元の場所に戻した。芽依子さんは、琴美の父親発見の衝撃も冷めやらぬ所に、自分が暴走の末に生み出した物の実態を知ることになってしまった。彼女の虚ろな瞳が、その心の傷の深さを物語っているように見えた。
「芽依子さん、優しいから……」
イトコとはいえ他の家庭の事情で変なトラウマが生まれてしまった芽依子さん。そうなったのは彼女が優しいからだ。それ故に俺は、その像の始末も、像の力の隠蔽にも躊躇しなかった。
「カズ。それフォローのつもり?」
言いたいことは分かるけど、と継ぎ足す琴美、
「先生、ともかくですね。あの部屋に巣くっているであろう鬼の悪霊を退治せん事には……猫明神の新しい象を立てられないのですよ。猫明神の象を祭っている祭壇に、何度か職人を呼びましたが……どの人も気味悪がったり幽霊を見たとか言ったりして、仕事を受けようとはしませんでした。どの者も信仰心が足りません。私ならそんな邪悪な気配を全てはねのけることができるのですが」
はねのけているんじゃなくて、この神主さんただ単に鈍いだけ……霊感が全くないだけなんじゃ? なんて事を思っていると「別に、祭壇に呼ぶ必要はないんじゃないか?」と山之上がもっともな事を言った。
「いえ、あの祭壇に相応しい像を造ろうと思えば、まずあの祭壇を見て触り、猫明神の神々しさを身に浴びて……それでこそ場にそぐう物が作れるというものです。前の象は、猫明神が犬を殴打している様子でしたが、そんなモノでは生ぬるい。今度の象は鬼の手下たる犬を懲らしめている猫明神にしたいのです!」
叫ぶように言った後、神主は懐から写真を取り出した。
「ほらこれが以前の像です……」
「むぅ……」無意味なうなり声と顰めっ面で、写真を受け取る山之上。
「先生、私も拝見してよろしいでしょうか?」
俺はそう言うや否や、返事を待たずに部屋に踏み入って「先生」の後ろに回り込む。少し眉を潜ませたものの山之上は何も言わなかった。「私も、拝見させてください先生」そう言って琴美が後ろ回り込んだ時には、彼女の服装を見て「うむ……」と声を漏らしていたが。
写真に写っていたのは二メートルもありそうな猫の石像。その一部分に見覚えがあった。
「芽依子さん……ちょっとこっちに来てこれを見てくれ」
反応からして琴美は気付いていない。だが、芽依子さんなら。
「これって……」
「どういうことですか? もしかして……この石像を壊した犯人に心当たりがあるとか?」
写真を覗き込んだ芽依子さんのわかりやすいリアクションに、神主が食らいついてくる。
「いえいえ! これに似た像が何処かにあるなーと思ったんですが、よくよく見ると結構全然ちがいました! ねぇ、芽依子さん」
「う、うん。確かによく見ると全然違うね」
写真には二メートルもありそうな猫の石像が写っていた。猫の両手は掲げられ、それぞれが一回り小さい犬の石像と、人間の石像の上にのせられている。俺には猫が犬と人を撫でているように見えて、少なくともその像から「猫」「犬」「人」の仲違いは連想できなかった。
……見覚えがあったのはその猫の頭だ。おそらくだが、あの定食屋に置かれていた風呂敷の中身と一致するんじゃないか?。
「そして、私が考案した……新しい猫明神の像がこれです!」
次に見せられたのは写真ではなく、一枚の紙。そこに描かれていたのは……
モアイ? いやいやいや、それはおかしい。
俺は話の流れを反芻しつつ、眉を寄せてわかりにくい絵を凝視した。……どうやら、猫が犬を踏みつけている石像らしい。猫明神の頭に乗っている小さいのは人間だろうか?
『この!痴れ者めが!』
頭に声が響いたのはその時だった。
誰だ? と周りを見回しても神主、山之上と俺達三人以外には人影も気配もなくて、気のせいか? でも俺以外の人も同じようなリアクションをしているから―― いや、神主だけは「皆なにをきょろきょろしているんだ?」と言いたげな顔をしている……
天井から突風が吹きつけて神主の手から紙が離れた。「あぁっ」と情けない声を上げる神主。
『このような物など!』
手を伸ばす神主の前で突風は吹き荒れて、紙は右へ左へと揺れる。まるで見えない手が紙を殴り飛ばしているようにも見えた。
「私の力作が!」
『何が力作か!!』
「アレは……」
そんな声を初めに上げたのは芽依子さんだった。
彼女の視線を追っても、そこには謎の突風が吹き荒れているだけで何も見えない。
芽依子さんは何を見ているんだ? あの不自然な風は何なんだ? そんな事を考えていると……何か白い物体が空間に滲んだような気がして、俺は目を凝らす。
あれは……猫? 白色の猫が空間に浮かんでいる……輪郭が滲み半透明で、二本の尻尾が生えている猫……目の錯覚か? それとも本物の幽霊? あるいは妖怪の類……なの、か?
「ギャーーーーーーー―ッ」
悲鳴が上がった。いや、上げたのは俺……か? そんな思考を最後に意識が途切れた。
「カズ! カズ!」
「和馬さん、大丈夫?」
意識が戻った時に見たのは、天井とこちらを見下ろす二人の女性の顔だった。
「俺は……」
上半身を起こした俺は、宙に浮かぶ猫と目があった。二本の尻尾が揺れる様も見えた。
「う…………うおっ」
飛びそうになる意識を何とか引き留めて、姿勢はそのままで後ろにさがる。後頭部が壁に当たり、痛みと共に我に返る。
『愚かな人間よ。だが我の恐ろしさを知るほどの頭はもちあわせているようだな』
その頭に響く声に喜悦の気配を感じたのは、気のせいだろうか?
『真に愚かは身の程を知らぬ人間。我の恐ろしさに気付かぬ人間。我の存在や声に気付かぬ人間など……無知蒙昧の極みよ』
頭に直接語りかけるような声……これはあの猫が喋っているのか?
その半透明猫は紙を掴んだ神主に向かって手を振るう。
「ああっ、また!」
その途端に突風が吹いて、神主の手からまたもや紙が離れる。
「この不自然な突風……もしや?」
猫が宙に浮かんだまま、音もなく神主の側に移動する。僅かに傾いだ体は人間なら「身を乗り出す」に相応する仕草なのかも知れない。
「もしや……私の鍛錬が、信仰心が高みに達したのか? 私が描いた猫明神の絵、そのものが不可視の力を発揮しているのだろうか?」
『戯けがっ!』
再度風が吹き、神主が描いたモアイ……じゃなくて猫の像が天井近くまで舞う。それを見つつ神主は感極まったという様子で拳を握りしめた。
「紙に描いただけでもこれだけの力を持つのだ。これが石像になった暁には……もうなにも恐れることはない。猫明神、待っていてください」
『たわけ……』
前足を振り上げた姿勢のまま、その猫は動きを止めた。その後、下ろされた前足は僅かに震えているようにも見えた。なんだか可哀想だ、などと思っていると、こちらに向けられた猫と俺の視線がまた絡み合う。空中を音もなく移動して近づいてくる半透明猫。
「う……おおおおおおっ!」
体が勝手に壁伝いに逃げる。気付けば部屋の隅に追いやられていた。廊下と反対側に逃げてしまった事に気付いても時遅し。もう逃げ場がない。
視界を遮ったのは大小二つの背中。芽依子さんと琴美が俺を守るように前に立つ。
「そういえば、カズは幽霊とかてんで駄目だったんだよね、動物の、に限定されるだろうけど」
「これでも克服の為の特訓をしているらしいわよ。とにかく、和馬さんに手出しはさせないわ」
どこかから、動物の……猫の鳴き声が聞こえてきた気がして、なぜか心が落ち着く。
『貴様は……そうか。なるほど。なぜそのようなことをしているのかわからないが……今は捨て置こう』
?? 何のことだ?
「ふっ、このゴーストバスターの出番がやって来たようですな……」
わざとやっているのか? と思ってしまうほど胡散臭い台詞と表情の山之上。力は例の像に頼っていても、妖怪討伐の実績は嘘ではないのか、彼は存外落ち着いていた。だが「出番って?」とでも言いたげな神主の顔を見て、山之上のやる気は少ししぼんだようだ。
「先生のお弟子さん等は……一体何をしているのですかな?」
「あー、まぁ、悪霊退治のイメージトレーニングでもしているんじゃないですかね」
やる気と緊張感のない山之上と神主のやりとりを尻目に、俺は半透明猫を凝視する。
「アンタは……猫明神、なのか?」
そう問いかけたのは琴美だ。勇気のある奴だと思う。
『さてな、我が神か妖怪か、決めるのは貴様等だ』
改めて見ると……猫明神(便宜上こう呼ぼう)は普通の成人猫のサイズだった。
『だが……我は人間が嫌いだ。虚構と欺瞞に満ちて騙し合う人間がな。貴様等に災いを与えてやろう。封印から解き放たれてから初めての部外者。その不運を嘆くが良い』
ニヤリと笑う……猫明神。背筋が粟立っている俺だが、ちょっと可愛いと思ってしまった。さっき神主が言っていた「職人」は、どうやら部外者にカウントされていないようだ。
『ただし、我が封じ込められていたあの石像、アレと同じ物を作るというのなら……少し慈悲を与えてやろう。アレの中は居心地がよかったものでな。あの愚か者の企み通りの物を作ろう物なら……容赦はせぬ』
「容赦はせぬって、具体的にどういう事をするつもりなの?」
物怖じしない琴美の問いには答えず、俺達を順に見遣る猫明神。
神主はともかく、山之上は人外の眼差しに気付いたが、相変わらず緊張感のない様子だった。幽霊が見えない客の存在にやる気がしぼんでいたのはわかる。だが、バイトにしろ妖怪退治の専門家らしき事をやっていたのに、ここまで緩んで良いのだろうか?
『お前にする』
猫の二本の尻尾がゆらりと揺らめいた後、ピンと伸ばされた。尻尾の先にあるのは緩みきった陰陽師コスプレの高校生。
猫の尻尾でさされた時、ポンという音と共に山之上にネコ耳と尻尾が生えた。
「な、なんじゃこりゃ?」
自分の体の異変に気付いた山之上は、焦れったそうに猫耳を撫でて声を荒げる。
「化け猫……お前の仕業か……小さいなりで調子にのりやがって。みてろよ……」
懐から鍋掴みの様な分厚さの手袋を取り出し、慣れた様子で手にはめる山之上。
「くそぅ、こんな筈じゃぁ……急に入ったバイトだったから断わればよかった……簡単な客だって聞いていたのに……適当に報酬をつり上げて上前を撥ねて、あわよくば巫女コスプレを堪能しようと思っていたのに、なんでこんな面倒な事に……」
お札や護符をそこかしこに貼り付けた手袋で、山之上は犬の置物を掴む。
「俺に霊能力なんてないっつの。俺と師匠が偽物でも、あの像の力は本当なんだ。うまく師匠の目を盗んで俺独自でも稼ぐつもりだったのに……像と共に霊能力者を歌って、例の霊感が強いという凜香ちゃんともお近づきになる予定だったのに…………芽依子さんが作った? ホントなのかそりゃ? でも芽依子さんは嘘をついているようには見えない。師匠は……イトコの子があの像を作っているって言ってたな。その子のトラウマをそのままにする為に、ある子の母親の居場所を知りつつ隠しているって言ってたぞ……ヤバイ、これは言うわけにはいかないぞ。いったら琴美にどんな目にあわされるやら……」
山之上は自分に集まっている視線に気付いた後で「あ、あれ。俺は何を口走っているんだ?」なんて事を言った。
『我は欺瞞に満ちた人間が嫌いだ。そう言っただろう?』
猫明神が自称ゴーストバスターの本音を語らせたって事か?
「詐欺師の先生だったってわけですか……」
「藤四郎叔父さん……私の母さんの事……知っていて隠していたんだ。そんな理由で」
神主と琴美の弾劾を受け、山之上は言葉に詰まる。さまよっていた視線を自分の手元に向けて、彼はやり場のない感情と共に手の中の像を掲げた。
「この、化け猫がっ」
犬の置物を向けられた猫明神は、たじろいで天井近くまでさっと避難する。
『ぬぅ……その像は……』
「ふははっ、俺は偽物かも知れんが、この像の力は本物だ! お前のような小物、取るに足らん」
「悪霊退治のイメージトレーニングってわけですかね……」
「やかましい! この霊感ゼロのへたれ神主。イメージトレーニングじゃない、今繰り広げられているのは実戦だ! あんたにはこの大スペクタクルが見えないだろう! 一生霊とは関係のない世界で暮らしていくが良いわ」
「霊感ゼロ? この私が? 霊感通販サイト、ゴールドライセンスを持っている私に向かって、霊感ゼロとは……笑わせてくれますね。貴方、詐欺師ではなくて漫才師の方が向いているんじゃないですか?」
にらみ合う男達の頭上では、猫明神が犬の置物に少し近づいてはまた離れ、近づいては離れ……を繰り返していた。
『ぬぅ……うぬぅ……近づけん、近づけんぞ……』
首をもたげてくる違和感。それを疑問に変えて俺は呟く。
「なぜ、近づこうとしているんだ?」
苦しげな声(?)から、猫明神が像を嫌がっている事は明白だった。破壊する為に近づきたいと考えれば筋は通るんだが、なぜかそれは違うんじゃないかと思う。
「ふん。そこまで自分の無能さに気付かないのもある種の才能だな。いいじゃないか、ご自慢の霊能力グッズで悪霊を退治すれば。俺はもう引き上げさせてもらう」
そう言いつつ、下ろした像を鞄にしまおうとする山之上。彼が蓋に手を掛けた時、それを遮る動きがあった。
「なにを、するんだ?」
神主が鞄の蓋を押さえつけていたのだ。
「この像の力は本物だって言いましたよね。無能な貴方が持っても効力を発揮するなら……才能に溢れる私がもてば、鬼に金棒ですね」
「猫に小判、だ」
強引に鞄の蓋を閉じようとする山之上。蓋が閉まるより僅かに先んじて、神主が犬の置物を抜き取とった。
「あっ、この野郎!」
「猫明神。待っていてくださいね! すぐに行きます!」
『こやつ……』
「この泥棒! 和馬、そいつを止めてくれ!」
俺に向かって叫ぶ山之上。戸惑う芽依子さん。少しの躊躇を挟んで、俺は動こうとして……
一番素早かったのは琴美だった。さっと立ちふさがる所までは良かったが、中途半端に掲げられた両腕がよくない。山之上の言葉に従う事に迷いがあるようで何とも頼りがない。
「カッ!」
対照的に神主の動きには一切の躊躇が無かった。気合いと共に翳された犬の像。眼前へと像を突きつけられた琴美は大きくのけぞり姿勢を崩す。
敷居を跨ぐようにして倒れた琴美を軽々と飛び越し、神主は淀みない動きで奥へと駆ける。
神主を追おうとする俺が立ち上がった琴美ともみ合っていると、俺達二人とふすまの隙間をすり抜け、芽依子さんが猫のように俊敏な動きで走っていく。
遅れて続く俺と琴美。駆け出す直前、俺は部屋の中を一瞥した。……鞄に挟まった手袋を抜こうと四苦八苦する山之上の姿は、手袋から手を抜けばいいんじゃ? なんて突っ込む気もなくなる情けない姿だった。
俺は芽依子さんと神主を追って走る。渡り廊下の向こうにある大きな両開きの扉。その前で二人は対峙していた。
神主の背にある扉は微かに開いていた。その重そうな扉は開くまで時間がかかりそうで、俺達が追いつけたのはそれが要因だろうと思う。
「和馬さん、どうする??」
俺に背を向けたまま、芽依子さんが問いかけてくる。
「詐欺師の弟子達、私の邪魔をしますか」
そう言いつつ、見たことあるようで見たことのない構えをとる神主。俺はさっき見た山之上の哀れもない姿を思い出した。今は、眼前の神主の方がよっぽど霊能力者らしく見える。
「そういえば……つい追いかけて来ちゃったけど、私達にこの人を止める理由はないよね?」
「いや、ある」
隣から聞こえてきた琴美の問いかけに即答の俺。彼女の戸惑う気配を感じて補足の説明をする。
「神か、妖怪かはわからないけど……命を無下に奪うなんて事はあっちゃいけない」
「命って、生き物じゃないでしょう?」
「それでも、だ」
「この中に居るのは石像を壊した存在……鬼が使わした犬の悪霊ですよ」
微妙に食い違う神主と俺達の認識。それでも、と俺は言葉を重ねていく。
「悪霊でも何でも、そんな一方的に命を奪う……じゃなくて、存在を消したら可哀想じゃないか。俺は霊の事とかよくわからないけど、その存在が納得いく形で消してやらないと。それは成仏って形になるのかな?」
『貴様……』
そう喋った後、猫明神のうなり声が頭に響いたような気がする。
「貴方の言う事も一理あります。だが、私は早く猫明神を助けたい。今は悪霊を救うことまでに気を払ってられないのです。退治した悪霊は私が供養しましょう。それで納得してください」
神主は像を抱えたまま、背中で大きな扉を押す。
「カズ、どうする?」
「和馬さん……」
投げかけられる二人の女性の声。
「二人は何もしないでくれ」
神主を止めるとしてもそれは男の役目だと思った俺は、芽依子さんの前に出てじりじりと間合いを詰めていく。
「一対一なら、相手がゴリラでもない限り心配いらないだろうけど……芽依子さん。向こうには例の像があるから」
芽依子さんが苦々しく頷く。彼女等は申し合わせたように、神主の左側と右側から回り込み始めた。俺は再度「何もするなって」と言ったが彼女らは聞く耳を持たない。
「頼む、待ってくれ。落ち着いて俺達の話を聞いてくれ……」
「この後ろの扉、開くのに時間がかかるんですよ」
喋りつつ近寄っていく俺。ぽつりと声を漏らす神主。口調とその内容に安心しかかった時、神主の瞳に決意の色を見た。
「壊さないように気を遣いつつ、ならですがね!」
言うや否や背後に跳ぶ神主。大きな扉がその衝撃を受け止めたと思えたのもほんの数瞬。開くじゃなくて倒れるという表現そのままで扉は傾く。
「猫明神っ、今お助けしますっ」
傾ぐ扉の上を走る神主の動きは見事の一言に尽きた。すぐに追いかけたようとした俺達は倒れた扉の衝撃にたじろぎ、たたらを踏む。
『ぬうぅぅ』
頭に響いた苦しげな声が、俺の焦りを増長させる。
古色蒼然とした板間はキャッチボールができそうな程には広かった。そこを滑るように駆ける痩身の男。
目の前で動物の命(?)が奪われようとしているのに! 俺は心中で吠える。動物病院でもさすがに霊は看れないのだ。
間に合わないと思いつつも床を全力で蹴る。神主が首なし猫像まで後数歩までに迫った時。
『甘いわっ!』
脳内に響く怒号。石像から吹いた叩き付けるような風は、俺の足を止めるどころか押し返して、さらには宙に浮かす。後ろに転がる直前に、俺は二メートル程浮き上がった神主の体を見ていた。
『その程度で我を滅しようなど!!』
背中から床に落ちて後ろに転がっている時に、俺は陶器が割れるような音を聞いた。
「カズ!」
「和馬さん! 大丈夫?」
駆け寄ってくる琴美と芽依子さん。後ろに居たせいか、二人は吹き飛ばされずにすんだようだ。
「俺は大丈夫だ。それよりあの人を……」
おそらくは俺の倍近い距離を飛ばされた神主。力なく倒れる体はぴくりともせず、意識どころか……命の火まで消えていないかと焦る。すぐ先で倒れている神主を指さして言うと、躊躇いつつも頷く琴美。「芽依子さん、カズは大丈夫そうだから」と琴美が促しても、芽依子さんは神主と俺を交互見遣るだけで動こうとしない。小さく溜息をついて神主に駆け寄る琴美。
足を撫でる芽依子さんの前で、俺は体の痛みをおして腰を上げる。そして、いつしか虚空に浮かんでいた猫明神の前に立ちふさがった。神主と琴美を隠すようにして。
「もう、これ以上は……いいだろう」
『こんな事で我の気が済んだと思うのか? ふざけた像をつくるだけでも万死に値するものを、我を滅しようとするとは……』
「だけど、この神主さんは猫明神を…………えっと、猫明神って呼んでいいの、か?」
『好きに呼ぶがよい』
「……猫明神を助けようとしたんだ、この人は。それに免じて許してやってくれないか?」
『フン。その男は婿養子とはいえ、この神社に関係する者だから今まで大目に見てやって来た。だがもう容赦はせぬ。それに我は人間が嫌いだと言っただろう? 人間共が我が領域で嫌な匂いをまき散らしよって……』
脳内にそんな台詞が木霊した後、膝下あたりの高さを薙ぐように、一陣の風が吹き抜けた。
どうする? 芽依子さんが作った像があれば……退治とまではいかなくても、牽制や交渉の材料に使えるかも知れない。
そう思った俺は、左右に視線を巡らせたが、例の犬の置物は見つからない。発見できたとしても……あの突風の中で神主の手から離れたとあっては無事だとは思えない。変な力を持っているとしても、耐久力は普通の陶器とおなじなんだ。砕けた音を聞いたような気もするし。
「カズ、この人息はしているよ。だけど意識が……」
医者でもない琴美には神主の容態は分からないだろう。早く病院に連れて行かないと大変なことになるかも知れない。時間を稼げば……山之上が来るかもしれない? あの部屋にもう一つあった犬の像を取りに行くか?
それとも、無謀でも逃げ出す? その際は神主をどう運ぶかが問題になってくるが……
『まぁいい、まずは貴様等からだ。そこの無能神主は気を失っているからな……貴様等三人、初めに浄化される者を選ぶがよい』
「どういう、ことだ?」
『察しが悪いな。先程のあの男の有り様を見ただろう』
「猫耳と……尻尾」
『我が力が発揮された時、体の一部が変貌するが、それはついでのようなものだ……』
「浄化、ね。それを拒否する権利はないのかな?」
『そんなもの、あるわけないだろう。貴様ら三人、どいつもこいつも他の人間に隠していることがあるようだな。本当に人間はくだらない……千年前と何一つ変わらない。本心を隠し、互いを偽る……醜い。本当に醜い。見ていて苛立つ……体もろとも命を吹き飛ばしてやっても良いが、我の慈悲で貴様等の心を少しでも清めてやろう』
更に高く浮いた猫明神が俺達をなめ回すように睥睨する。
『特殊な事情がある奴がいるようだがな。正確には三人じゃなく……そんな事はどうでもいいか』
「その浄化ってのをされるのは、俺一人だけってわけにはいかないかな?」
『フン、そうだな……』
俺の隠し事と言えば……今は琴美に対してだろうか? 俺は彼女に対して……ずっと隠しているというか、騙しているとも言える事がある。いつかはと思いつつも全然打ち明けられなかった大事な話が。
芽依子さんに対する隠し事。犬猫好きなのに作る像が不可思議な力を持ってしまう……それは既にばれてしまっているから、そういう意味では安心だった。
「だ、だめだよカズ。絶対駄目」
立ち上がる琴美に対して心の中で詫びつつ……ふと思う。もしかしたら凜香に対する隠し事を琴美に語ってしまうかも知れないな、と。
「しかし、女の子に恥をかかすよりは……」
「駄目」
俺の所に詰め寄ってくる琴美。吊り上がった眼差し、逆立った柳眉。
「それなら、わたしよ。私が犠牲者になる。」
険しい顔。張り詰めた表情なのに……なぜか、彼女が今にも泣き出しそうに見える。
「しかし……」
「……カズ、ごめんね? 同じ結果になるかも知れないけど、私は……」
結果が同じ? 何のことだ?
「私がプレゼントしたペンダントは?」
鞄に仕舞うつもりでポケットに入れたままだったペンダントを取り出して掲げると、琴美はそれをとって俺の首にそっとかける。
ここでは、犬関連の物は禁止……なんて事を言う雰囲気ではなかった。
『貴様……貴様、それは……』
猫明神が何か言ったようだが、間近の琴美に集中していた俺の意識は逸れなかった。
首にペンダントをかけた後、吐息がかかるぐらいの距離で俺と琴美の視線が交わる。刹那の停止時間。琴美が俺の方にゆっくりを顔を近づけてくる。微かに震える唇から目を逸らすことが出来ない―ー
『……ッ!!』
動物の鋭い叫びが……懐かしい音がどこからともなく聞こえてきたような。
「和馬さん駄目ッ!!」
我に返った俺の耳朶を叩いたのは、芽依子さんの叫び声。その大声に驚いた俺だが、対照的に琴美は冷静だった。俺から顔を離し芽依子さんに向ける彼女の表情は、こちらからは見えない。
「危なかったねぇ……め、い、こ、さん?」
「……?」
何に対して「危なかった」のかわからない。少なくとも俺と琴美がキスしそうになった事を指しているわけじゃない――直感的にそう思う。
二人の女性の間で、未だかつて無いほど膨れあがる緊迫感。
「ごめんねぇ、芽依子さん。私、貴方の事を知っていたの。多分私が犠牲者になったらその事も明かしてしまうと思うけど……ごめんなさいね」
嫌みにまみれた声と、むき出しの敵意。滅多に見ない琴美の態度に俺はただ戸惑うばかり。
「離れの隠し厨房と、ハンバーグ。と言えばわかるかしら?」
疑惑、不安……我が身をかき抱き、眉を寄せて瞳を曇らせる芽依子さん。
ややあって大学生は目を見開いた。彼女の疑問が氷解したのが傍目でもわかる。その解が導き出した物が何だったのか―― 彼女の顔が焦りの一色に染まっていく。
「……っ、い、いつから知っていたの? なんで! どうして?」
「まぁ、初めに芽依子さんが来た時、タイミングが良すぎるとは思っていたんだけど……わからないのは姿格好が、どうして……」
「わかった、わかったからやめて! 和馬さんの前でっ!」
「それか、貴方が犠牲者になる? カズ、私は大体推測がついてるけど……芽依子さんからは色々面白い話が聞けると思うよ」
焦りを徐々に怒りに変貌させて、射貫くような視線を琴美に向ける芽依子さん。余裕を持ってそれを受ける琴美。
疎外感を抱きつつ俺が二人を見守っていると『くだらん、相変わらず人間はくだらんな……』という猫明神の声が脳内に木霊した。
お互いをにらみ合う二人の女性を尻目に、俺と猫明神が視線を交錯させた時「和馬! これを使えっ!」という声が聞こえてきた。
入り口を振り返った俺は、トランクを砲丸投げの要領で飛ばそうとしている山之上がみえた。大仰な動作でトランクを投げた後、その反動でこける演劇部部長。
その動作の長さに比例せず、トランクの飛距離は短いの一言につきた。
素早く動いたのはまたもや琴美。俊敏な時とそうでない時の差が激しい芽依子さんは、身じろぎ一つしなかった。
「琴美! 駄目だ」
トランクに向かう琴美の背中に俺は声を投げかける。琴美は足を止めて、訝しげな眼差しをこちらに向けた。彼女の心中を代弁するかのように芽依子さんは叫ぶ。
「和馬さん、なんで!? このままじゃ……、このままじゃ」
「神か妖怪かわからないけど、滅ぼしたら可哀想じゃないか」
「カズ、あんたねぇ……」
『……そういえば。貴様は我を救おうとしたな。そこの男のように勘違いしたわけでもなく。そのような物で滅ぼされる我ではないが…………貴様はもう失せろ』
再び吹く風。踏ん張りつつ風の行く先を目で追うと、柱を掴み飛ばされまいと堪える山之上が見えた。失笑の響きと共に、風が激しさを増す。余波で俺の服や芽依子さんの長い髪がはためく。
「ぬうぅぅぅぅぅ……この雑魚妖怪がっ」
柱を掴んだままで山之上の体の足が浮き、続いて体が浮く。
ひるがえる鯉のぼりのように風に翻弄される高校生。見るからに運動不足な腕が限界に達するより……「おぼえてろぉーーーーっ」……柱が壊れる方が早かった。掴んでいた所が壊れて剥がれ、風に攫われて飛んでいく山之上の体。
『……で、最初に浄化される者は誰だ?』
山之上が視界から消えた少し後に、脳内に猫明神の声が響く。
お互いを見合う琴美と芽依子さん。その後、二人は申し合わせたように同時に俺を見る。彼女らの眼差しの鋭さにたじろぎつつ、俺は猫明神に向き直った。
『……ふん、まぁいい。気が変わった。その小僧に免じて猫祭りの日まで待ってやる。猫祭りの日に我の力は最大限まで高まるからな。浄化も望み通り貴様等の内一人にしてやる…………ただし、条件がある。猫祭りの日まで我の像を直せ。直っていなければ、貴様等のみならず、この村の人間全員に対して我の浄化の力を振る舞う』
「わかった。猫祭りの日まで、あの像を直せば良いんだな?」
『言うまでもないが、あの愚か者が新しく作ろうとしている像など問題外だ。我は今のあの石像が気に入っているのだ』
淡々と声を響かせつつ俺を――正確には俺のペンダントを凝視している猫明神。
『我が浄化してやる方が、人間の為になると思うがな。愚かな人間はそれを嫌がる』
そんな事を言いつつ、猫明神は宙を滑って俺に近づいてきた。
なんだ、近寄られても平気じゃないか。俺も大分免疫ができてきた――なんて思ったのはほんの数秒。
「う、うおおおおおおおおおおっ」
口から溢れる情けない声。勝手に逃げる体。
『我が恐ろしいのはわかるが、待て』
「カズ……アンタさぁ、まぁ、私も物の怪に慣れているわけないんだけど、そりゃ怖いわけなんだけど……でも、そこまでねぇ、あんなにちっこいのに」
「和馬さんだから、しかたないよ……」
俺は部屋の隅に追い詰められていた。なぜ外に向かって逃げなかった―― と、自分を責めてもどうにもならない。
猫明神は、今俺に危害を加えるつもりはなさそうだ――そう考えているのか、女性二人は呆れた声を出すばかりで、先程の様に俺を庇ってくれない……かと思いきや、小さな影が滑るように俺の眼前に躍り出た。茶色の艶やかな髪がなびく。
『貴様、なぜそのようなことをしている……? その体弱き者を守る為、か?』
「……」
体弱き者? 俺の事か? 確かに俺はゲームのゾンビ犬すら倒せないが……それは心の問題であって……体はそんなに弱くないと思いたいんだが。
言葉とは裏腹に、庇うように俺の前に躍り出た芽依子さんの背中を見ながらそんな事を思う。
『……我はその小僧に危害を加えようとしているわけではない。住まいの確保だ』
「す、住まいだって?」
芽依子さんに情けないところを見せたくない俺は、彼女の背後から一歩踏み出しつつ言う。目線の高さまで下がっていた猫明神までの距離は、約二メートルといったところだ。
『そうだ。我の依り代だ。あの石像が壊されてから、代わりとなる物が見つからず、我はずっと休めていなかった。力も本調子ではないので依り代無しではこの神社から出られない』
「和馬さんに乗り移るつもりなの?」
『…………ふん、まさか。我はそんな事はしない。乗り移るのはその男が持つ像だ』
「まさか、これか」
心当たりは先程注がれていた眼差し。俺は琴美に貰った犬の首飾りを手に取る。
「犬の形をしているけど、いいのか?」
『いい加減、この状態でいるのも疲れた。この際だ、我慢してやろう』
そう言うや否や、半透明の白猫が俺の所に……正確には俺の胸元向けて飛び込んできた。その速さは先程までの動きの非じゃない。
「うおっ!」
勢いよく飛び退ろうとした俺は、足をもつれさせて間抜けに尻餅をついた。眼前に迫る半透明猫に背筋が総毛立つ、そして俺の意識はまた飛んだ……。
俺が目を覚ます頃には、琴美は病院に連絡を入れ終わっており、数分後ここに救急隊員がやって来た。病院に行くほどじゃないと言う神主を苦労しつつ説得する。
(ふふ……そうか、私の力が強すぎて……悪霊も、跡形もなく吹き飛んだだろう……)
神主の解釈では、自分の才能と像の力が合わさった結果があの風らしい。自らの強大な力を制御できなかったと思っているようだ。
救急隊員は、ぶつぶつ呟く神主を担架で運ぶ事に何の異論も挟まなかった。気の毒そう見ていたので……頭を打っておかしくなったのか? とか思っていたのかもしれない。
(悪霊は退治したから、新しい像を作らないと……)と神主が言った時『そのようなことは、許さぬと言っておる!』という猫明神の声が響き渡って、驚き焦ったものだ。
先程までの頭に響く感じではなく、肉声に近い音になっていた。音質の変化もあってか、発生源はわかりやすくなっており、皆の視線が俺の胸元に集中する。
俺は「これ、声が出るおもちゃなんですよ」という苦しい言い訳を口にする羽目になった。
「で、これからどうするの?」
「そうだな……こまったな。このままじゃ村の人全員が猫耳尻尾付になってしまう……」
「和馬さん、口が笑っている……」
「ちょっといいかもとか、思っているでしょ?」
「そんな事は思ってないよ。すごくいいかもとは思ったけど……あの副作用が無ければ、大手を振って歓迎する所なんだけどなぁ」
「……多分、カズの思う副作用が、メインの効果で主成分なんだと思うけどね……まさかアンタ。それが目的で猫明神の退治を阻止したんじゃないでしょうね?」
「そんなわけないけど、そうだったとしても許してくれ」
「カズは結構人として危ういところにいるわ……」
ふー、と琴美は溜息を吐く。そして俺を睨み付ける。
「で? ………………どうするの? カズ?」
同じ言葉がさらなる威圧感と共に紡がれた。今の琴美には釘バットが似合いそうだ。
「もう、今日ここであったことを忘れて、当初の予定通り旅館に行こうよ……」
『ならんぞ、カズマとやら。そんな事をしたら村人がどうなるか考えてみろ』
うんざりした顔を、琴美は俺の胸元に向けた。
ペンダントに宿った猫明神が喋っていると、飾りの犬の目がビカビカ点滅するという素敵仕様だ。「声の出るおもちゃ」という言い訳に、信憑性を与えてくれる演出だと思う。
初めてその仕様に気付いて驚いて感動していた時も、琴美は今のように冷ややかな眼差しを俺に向けてきた。俺達三人になった直後に琴美曰く「なんで幽霊なら気を失うほどなのに、乗り移った後のそれで、カズはそんなにうれしそうなのかな?」
ごもっともな意見だと俺も思う。
神主が救急車で連れて行かれた後、俺達は神社入り口の側にある手水舎で佇んでいた。
残念ながら、芽依子さんと琴美は巫女服ではない。元の服に着替えていた。
『貴様等に一つ条件を追加する。我の像を壊した奴を探せ』
「像を壊した奴。ねぇ」
『あの不届きな人間め……あの時は、眠りから覚めた直後だったから、我の力もうまく作用しなかった。奴の姿は猫に変貌した筈だが……』
そうか。と内心で合点がいった。この猫明神の力が変に働いたから、あの店長は……琴美の父親はあんな有様になってしまったのか、と。
『貴様、その男を知っているな』
「いや……」
『我は嘘や隠し事が嫌いだ。力を使わなくても嘘をついているかぐらいわかるぞ?」
「探し当てた後は、どうするの?」
俺が言葉に詰まっていると、芽依子さんが猫明神を追求する。彼女はその飾りに向かって喋る事に抵抗は感じていないようだった。
『わからん』
「命を奪ったりしない?」
『ふん、命……か。仕方がない、この犬の飾りに免じて、命だけは助けてやろう』
「おてやわらかにたのむよ。猫明神。確かに俺は、俺達はあの石像を壊した犯人に心当たりがある。お願いがあるんだけど……その犯人を元に戻してやってくれないかな?」
『駄目だな』
「石像を元に戻しても?」
『くどい。石像を戻して犯人を見つけた時は、村人に対して力を振る舞わないでおいてやる。それ以上でもそれ以下でもない』
「どんどん面倒な事になってくるわね……」
そう言った琴美は、額をおさえつつ大きな溜息を吐いた。
『約束はしたが、しかし人間は……やはりお互いを欺きたいのだな。我々のように本音で生きれば楽なものを』
「人間は、そんなに単純じゃないんだよ」という琴美。
「本音で、か……」と呟く芽依子さん。
「確かに、猫の心も犬の心もまっすぐで人間みたいに複雑じゃない。それは美しい物だと思う」
芽依子さんは知らない。こんな俺が昔は動物嫌いだったことを。それを知っているのは……家の両親以外と杉浦一家以外では一人だけだろう。だけどその子は知っていても「俺に気が付いていない」もし、この体に猫明神の力が流れ込めば、昔動物嫌いだった事も話してしまうんだろうか?
「だけど、俺は人間の心だって美しい物だと思うけど」
そう思えるようになった切っ掛けは、あの子が作ってくれたんだった。
『我にはとてもそうは思えんがな』
「……とにかく、石像を壊した犯人を見つける事。石像を元に戻す事。この二つをクリアしないと楽しい猫祭りが惨劇に変わるぞ」
「人間の本音がぶつかりあう、か。確かに悪い事ばかり起きる訳じゃないと思うけどね」
その琴美の言葉に、芽依子さんが疑問のまなざしを向ける。苦笑しつつ琴美は言葉を継ぐ。
「まぁ、わかりやすく言うと、新たに誕生するカップルが居る一方、分かれるカップルも居るって事。やはり後者が多くなると思うけど。どうしても人間が本音でぶつかるとねぇ」
「……さて、それじゃ。まず、そのうちの一つの条件を達成しにいきますかね。芽依子さん、琴美、いいかな? 昼ご飯を食べたところに戻るけど」
「そうだよね。琴美の父さんを何とかしないと……」
そう言ってキッと虚空を睨む芽依子さんと、仕方ないわね、と言うかのようにのっそりと動き出す琴美。
時刻は午後三時。あの猫店長を見られると思うと頬が緩みそうになる。事態の深刻さを再度頭に叩きこみ、俺はにやけないように注意しつつ神社の外へ向かうのだった。
琴美の母親はまだあの店にいるかも知れない。居たらどうしよう? でもあの人が見つかった事はタイミングをみて、芽依子さんと琴美には話すつもりだったから……まぁいいか。
そんなことを思いつつ神社を出て角を曲がると、定食屋の看板が見えてくる。
「あの人……もしかして」
そんな声を上げたのは芽依子さんだった。遠目にでも気付いたのだろう。琴美は覚めた眼差しを窓ガラスに向けていた。
しかし、あれからずっとここに居たのか。弟子入りするとか言っていたが……
『あの建物の中からは……我の気配の残滓があるぞ……』
「手荒なまねはしないでくれよ……」
『小僧、カズマとかいったな……あの中に入れ!』
「何もしない、って約束するなら」
『貴様、物を頼める立場だと思っているのか?』
胸元から聞こえてきた声が、猫明神の感情が爆発寸前である事を伝えてくる。それと同時に考える。今、この像を離れてあの猫店長の所に行けないんだな、と。そういえばさっき「依り代無しでは神社の敷地内から出られない」とか言ってたな……
『今、貴様に我の力を働かせてやろうか?』
「……」
『貴様だけじゃない。二人の娘も対しても、だ』
「俺に対しては何をしたって良いから、この二人は勘弁してやってくれないか」
「しれっと格好いいこと言うんだから。私の彼氏は……カズ。私の事は気にしなくて良いよ。さっき一度ハラをくくったとこだし。ただ、芽依子さんは……」
「わ、私だって、大丈夫だよ。大丈夫……」
さっぱりしたようすの琴美の声と、自分に言い聞かすような芽依子さんの台詞。
しばらく俺達の間に言葉はなかった。その間、俺は窓から店の中を覗き込んでいた。店の中を掃除しているのは琴美のお母さんだった。あの人、本当に弟子入りしたのだろうか? 何て事を考えながら俺は佇んでいた。
『……わかった。今は何もせずにおいてやろう。今はな……だから早く入れ』
「ありがとう」
『フン』
「やっぱり、あの人……千沙さんね」
俺は剣呑な色を湛えた大学生の茶色の瞳を恐る恐る見る。気のせいか、髪の毛が少し逆立っているようにも見えた。
「ごめん、琴美、芽依子さん。俺さっきここに戻って……琴美の母さん見つけたんだ」
「なぜ……すぐに教えてくれなかったの?」
「いやぁ、後で言おうと思っていたんだけど……タイミングが」
「とにかく、行きましょう……」
フーッと荒い息を吐きつつ、定食屋に向かってゆっくりと進んでいく芽依子さん。
「まさか……一年以上も見つからなかったのが、一日に二人いっぺんに見つかるとはね」
自分の身内のことなのに、他人毎のように語る琴美。その言葉に大きく頷きながらも、芽依子さんとは対照的に大人しすぎる琴美の反応にも不信感を抱く。
「でも、おかしいな。あれ? 私の親は一緒に働いているの? 一緒に暮らしているの? 分かれて別々に出て行ったはずなのに……」
それがな……と説明をしようとしたが、なんだが疲れてきた。俺は「とりあえず中に入ろう」とばかりに、定食屋の入り口を指さすのだった。
「いらっしゃ……い」
掃除をしていた女性は、店内に入った俺達を見て硬直した。
琴美の母親は俺を見据えたまま近づいて来て、顔を寄せてくる。それは琴美と芽依子さんの姿を無理矢理視界から追い出そうとしているかのようにも見えた。
眼前の女性は、猫コスプレじゃなく普段着にエプロンという普通の格好になっていた。
「かずまくーんー、どうして琴美を連れてきたの~? 芽依子も一緒だし」
「いや、あの、その……って、どのみち貴方は琴美の所に戻らないといけないから、遅かれ早かれ会うでしょう?」
なぜ俺が弾劾される立場に? そんな戸惑いからか、しどろもどろな返答になってしまった。
『あれは……我の……』
猫明神の呻きが胸元から聞こえてくる。おそらく、店の隅に置いてある石製の猫頭に気付いたのだろう。琴美の母が猫明神の声に気付いた様子はなかった。
俺が「頼むから大人しくしておいてくれよ」と祈っていると、芽依子さんが俺と琴美の母親の間に割って入ってきた。
俺はゴクリと唾を飲み込む。琴美の母がひぃっとのけぞる。漆黒のオーラが立ち上り芽依子さんの髪がフワッと舞い上がったような気がした。
「千紗さん……私の言いたい事分かりますよね?」
「ご、ごめんなさいよくわからないんだけど……か、かずまくーん」
助けて、とばかりにこちらを見る琴美の母。琴美の所にすぐ戻るとか言えばいいのにこの人は、わからないって……呆れつつ眼を細めていると。彼女は片手で俺を拝むようなジェスチャーを繰り出す。
「芽依子さん、少し落ち着いて……とにかく座ろう。あの人にはさっき会った時、数日の内に琴美の所に戻るように言って聞かせたから」
震える芽依子さんの背中に手をやりつつ、俺は捜す。約一年ぶりに再会した親とまだ一言も喋っていない少女を。
「琴美。元気して……」
そう言い終わらないうちに、琴美の母の額を突き刺した一本の矢。
いや、よく見るとその矢…… 傘の先は、女性の額の寸前で止まっていた。その隙間は指二本分ってところか。一見当たったように見えた。
「……今は、これで勘弁しといてやるわ」
突き出した傘を下げながら琴美は目をぎらつかせる。
「あらあら、乱暴ね。そんな娘に育てた覚えはないのに……」
「……勘弁してやろうと思ったけど、やはり気が変わったわ。放置された一年で私がどれだけ女らしく成長したか……見せてあげようか?」
傘を上段に振りかぶりながら琴美は小さく笑う。そのポーズから「女らしさ」のアピールにどうやって繋げるつもりなのか……俺には皆目見当が付かない。
「和馬君、助けて~」
琴美の母親はおどけた声を出しつつ俺の背中へと回る。
「こ、琴美。落ち着け。落ち着け……」
いつもなら、落ち着くのはアンタでしょ? なんて突っ込みが入ってくる所だろう。だが、琴美は血走った目を俺の背後に向けるばかり。
琴美から傘を取り上げて、俺は琴美を強引に席まで誘導する。そして、激情冷めやらんという様子で立ち尽くしていた芽依子さんも強引に移動させる。
二人を椅子に座らせた後、俺は背後から背中をつつかれた。
「和馬君……」
そこには深刻な顔をした琴美の母。
「ありがとニャン♪」
大袈裟なほど暗かった表情を急にほころばせ、ウィンクして丸めた拳でポーズをとる女性。
「なにやってんですか……あなたは」
年甲斐もなく、という言葉は何とか外に出さず飲み込んだ。……猫コスプレのまま今の動作をされていたら、また自らを殴る羽目になったかも知れない。
「あれ~、さっきはあんなに激しく反応してくれたのに……まぁいいや、メニュー持ってくるわね」
と言って去るかと思いきや、琴美の母は引き返して来て「それまでに二人をなだめておいて。やさしく、ね」と俺の耳元で囁いてから去っていった。相変わらずマイペースな人だと思う。
物思いに沈み込んでいる芽依子さんの前で、大きく息を吐く琴美。俺はそんな彼女の隣にそっと座る。
竹を割ったような性格の琴美でも、一年近く家を空けた母との再会には心が揺さぶられたようだ。芽依子さんほど強烈な激情が生まれた訳じゃない……ように見えた。
芽依子さんは琴美とその家族の事を本当に心配しているのだ。……それが行き過ぎた憂いで、多少盲目になっているのは否めないが……家族が一緒に暮らす事。それに対して芽依子さんは強い思い入れでもあるのだろうか?
自分の彼女を放置して、芽依子さんをなだめる為にその隣に移動しようと腰を上げかけた時、俺を引き留めるように琴美は声を上げた。
「そう言えばカズ、さっき母さんが激しく反応したって言っていたけど…… 後学の為に詳しく聞いておきたいとこなんだけどね」
あっけらかんとした表情でそんな事を言う琴美。
「和馬……さん? 数日の内に戻るようにって……なんであの人を今すぐ琴美の家に返さないの? 激しく反応したって何?」
それに釣られるように、物思いに沈み込んでいた芽依子さんも弾劾の声を俺に向けてくる。
「ああ、あれじゃない? 母さんスタイルが良いから……」
火に油を注ぐようなことを言う琴美。おかげで俺は芽依子さんをなだめるのに苦労する羽目になった。
「さわがしいが、ちゃんと接客できているか?」
ようやく芽依子さんの漆黒オーラが薄れだした頃、奥から現れたのは猫頭店長。途端に俺を中心にブワッと一陣の風が吹く。
「ああ、大丈夫です。彼等はコーヒーを頼むようなので、私にやらせてください猫師匠!」
唐突の風、原因がわかっていても驚きのけぞる俺と琴美。間近で立っていた琴美の母親のスカートが激しくはためく。だが大人の女性は怪現象を物の見事にスルーしていた。
「猫を付けるな、猫を……ったく。それに弟子にしたつもりはないからな……でもまぁ、そうだな、それならコーヒーを入れてみろ。俺の分もな。その出来次第では弟子入りを考えてやらないこともない」
『あの男……あの男だ……』
「えーと、まだ何も頼んでいないんだけど?」
猫明神の声に被せるように、琴美が早口で言う。
「いいっていいって、サービスするから」
弟子はおろか、まだ正式な従業員でもないだろうに……そんな勝手なことをしていいのか? 俺はそんな事を思いつつ、開いたメニュー越しに芽依子さんの様子を伺っていた。
「琴美、芽依子ちゃん、コーヒーサービスするから許してね」
まさに余計な一言。大きく肩を上下させていた芽依子さんの動きがピタリと止まる。そんな彼女の事を気に止めず、奥に消える琴美の母親、顔を見合わせる俺と琴美。
「和馬さん。どうしよう? 喜べばいいのか……それとも、こらえている琴美の代わりに、私があの人を怒鳴りつけた方が良いのか……」
「よ、喜べばいいとおもうよ。なぁ琴美? 怒鳴りつけるなんて女性のやる事じゃないよ。そうそう芽依子さん、なんか頼むかい?」
そんな事を言いつつ、俺は芽依子さんにメニューを差し出す。。
琴美の父親が見つかった時は、向こうがこちらの存在に気付いていなかったのもあって、芽依子さんは驚きうろたえるだけだった。だけどその母親の時は違った。一日に二回目となれば、免疫ができて自分の感情を出す余裕が生まれたのだろうか? それとも琴美と芽依子さんに気付いても自分のペースを崩さず、さほど悪びれず……と言った様子が彼女の逆鱗に触れたのか。
いつの間にか櫛を取り出した芽依子さんは、その櫛ごと俺の服の袖をギュッと握ってきた。
「ごめんなさい。和馬さん、ちょっとだけ……お願い」
「お、おう……どーんとこい」
それだけで察して、俺は芽依子さんの手から櫛を取る。そして席の横に中腰になり彼女の髪を剥きだした。
「隣に座ってあげたら?」
「はは、次の機会にするわ……どうせなら琴美も隣に座らせて両手に花状態にしたいな」
「その状態でカズが私以外の女を見とれたりしたら、その体に赤い花が咲くかもね?」
「素敵だぜ、素敵だぜ……杉浦 琴美。もうお前以外の女しか目に入らないぜ……」
「それ……絶対わざと言い間違えているよね?」
そんな事を喋りつつも、俺は手の動きを止めない。机に突っ伏した芽依子さんの茶色の髪を撫でていく。さらさらの髪は、所々色が濃いところもあって縞々のように見えなくもない。
「ふー、ありがとう和馬さん。ちょっと落ち着いたみたい」
「昔三人で店をやっていた時も、カズよくそれしていてあげていたよね~」
「ああ、ずいぶん……久しぶりだな」
数日前、琴美の店でやったとは言わなかった。
その後、訪れた微妙な沈黙を破ったのは琴美の母親だった。お盆を持って歩くその様は、長年レストランで働いていたせいか、かなり様になっている。
「はーい、コーヒーおまちどうさま」
「あの……おばさん。琴美の所に帰ってくれるんですよね?」
「うーん、それが今は駄目なの」
少し前の俺との約束があっけなく反故されてしまった。固まる芽依子さんを見て慌てる俺をよそに、育児放棄の母親は顎に手をあてて言葉を継ぐ。
「だってさぁ、健一さん酷いのよ。猫より犬の方が好きだなんて……それはわかっているんだけど、だけど……くやしい。このまま帰ったらなにか負けたみたいじゃない? 猫が犬より可愛いって事を健一さんに認めさせた上で帰りたいの。そのためには……この店、この店長のコスプレ術をマスターする必要があるの」
「あのぅ、家に一人残された琴美の事は?」
「芽依子ちゃんが居るじゃない!」
言い切った! うわー母親失格だこの人。
「お、おばさん……私はそんな……琴美さんの所にずっと行けるわけじゃないんです。もうすぐ離れた場所に行くかもしれないんです」
「え?」
「芽依子さんそうなのか? 初耳だけど……でも今一年生だろ? 大学はどうするんだ?」
俺の質問に、「追求しないで」と言わんばかりに目を逸らす芽依子さん。
本当なのか? 芽依子さんが大学卒業まで俺達の側にいるって保証はないのか……
「おばさん。琴美は表に出さないけど、強がっているけど……お母さんが居なくて寂しがっているんです。早く……今すぐにでも帰ってあげてくれませんか?」
「うーん、ちょっとまって。コーヒーをあの店長に渡してからね? 早くしないと怒られちゃう。ここで雇ってもらえなくなっちゃう」
芽依子さんの真摯な眼差しも震える声も、暖簾に腕押し。琴美の母はスキップしそうな勢いで、店の奥へと戻っていった。
俺達の間に訪れる沈黙。再度俯く芽依子さんを見て、どう声をかけようかまごついていると
『フン。大体の状況ははわかったが……』
「あんまり大きな声を出さないでくれよ。猫明神」
『あの二人の事情を話せ、命令だ』
「…………ぬぅ」
「カズ、アンタ言いように使われているわよ……」
『嘘だな』
「…………」
『あの女は嘘をついている。本心では旦那が猫犬どちらの方が好きでもかまわないと思っているはずだ。戻る切っ掛けがないだけだ』
「さ、さようですか」
「絶望的なまでに、くだらないわね……」
コーヒーを出した琴美の母が買い出しに行った後(どうやら、猫店長に何か出来ることがないか聞いた時、そんな用事を与えられたようだ)猫明神はそう断言したのだった。
『嘘だな』
「………………」
『あの男は嘘をついている。本心では妻が猫犬どちらの方が好きでもかまわないと思っているはずだ。戻る切っ掛けがないだけだ』
「に、似たもの夫婦ってわけですか」
「大きな子供ね……それじゃ、芽依子さんのトラウマの意味って……」
「あ、こら琴美それを言うな」
「……なんで、私達に相談してきたのか、な?」
「知り合いに似ているからって言ってたじゃない?」
「知り合いそのものと思わないところが不思議だな。俺達名乗った方が良かったかも知れないな……」
……だが。そう言った後でやっぱり名乗らなくてよかったと思う。母親の方の説得でもこれだけ疲弊している芽依子さんにこれ以上の精神ダメージを与えるのは……父親の方は俺が後で一対一で話をしようかな……。
アンタ等あの女どう思う? 雇うべきかどうか……?
琴美の母親が居なくなってからしばらくして、猫店長がそう声をかけてきたんだ。
曖昧な答えを返しつつ、ちらちら芽依子さんとペンダントに目を配る挙動不審な俺。琴美は終始あきれ顔だった。
アンタ等なんか他人の気がしないんだ……。
そんな風に話を繋げてきた猫店長。口にしたのはその妻が語ったのを同じような内容で……犬より猫が好きなんて言う妻が許せなくて、改心させたくて。猫神社の側で露骨な犬びいきの店を繁盛させることが出来れば……妻を心変わりさせる程の「何か」を掴めるんじゃないか? という談だった。
ちなみに、ここは彼の古い知り合いがやっていた店で、その知人が怪我で入院している間だけ借りているらしい。
俺が神社と猫明神の石像の事に話を向けると、店長はわかりやすいほどに狼狽えていた。猫明神に指摘されるまでもなく犯人が確定して、怒りの突風がまた店内に吹く事になった。
何もしない。という約束は破られていたが、人的被害がないだけ俺はよしとした。
立ち替わり、入れ替わり俺達に話しかけてきた杉浦夫婦。その内容はどちらにも似たり寄ったりで、『……くだらないが……我の力をあの二人に振るってやろうか?』猫明神のどこか疲れた声には、哀れむような響きが混じっていたのだった。
「カズ、そうしようよ。あの二人の場合嘘偽りない本音をぶつけ合ったらすぐに解決するよ」
『しかし、あのような男に我が像が壊されたのか。猫好き妻に対する八つ当たりで壊されたのか……実にくだらない……しかもなぜ奴は頭を持ち帰ったのだ?』
脱力した感じの猫明神の声。このテーブルに居る三人+一匹?全員が何とも言えない無気力の海に漂っているようだった。
「本音で……かぁ。はぁ……いっそ私も……」
頬杖を付き、珍しく愚痴っぽく言う芽依子さん。
「いっそ、私達三人ともそこの神様の力を受けましょうか? みんなで大暴露大会ってのも面白いかもね?」
『でかい小娘が……神と呼ぶのは勝手だが、我の力を都合良く扱えると思わないことだ……ふむ。おい、カズマ。貴様等の内一人に我の力をふるってやろうと言っていたが……変えてやろうか?』
どういうことだ? と首を傾げると、猫明神が説明を続ける。
『その矛先をあの珍妙な夫婦。二人に変えてやろうかという話だ』
「カズ……」
「和馬さん……」
数秒の沈黙の後、驚きと戸惑い、そして微かな希望を孕んだ声が聞こえてきた。だが俺は
「だめだ」
「和馬さん……どうして?」
「なんでさ? そうした方が手っ取り早いしうまくいくって! 本心ではお互いのことに未練ありまくりだし。それに……ずっとその本音むき出し状態ってわけでもないだろうし……」
『我の石像が直れば、元に戻してやる』
琴美の言葉を補足する猫明神。何となくその声に笑いの気配が混じっている気がする。猫明神が何を考えてそんな事を提案してきたのか、俺には皆目見当がつかない。
「元凶は、私の父さんなんだし…………それに、私達が……」
犠牲にならなくて済む。琴美の喉元まで出かかったのは多分そんな言葉だろう。
「やっぱりさ、あの夫婦にはちゃんと仲直りして欲しいんだ」
気持ちそのものをぶつけるつもりで俺は二人に話しかける。
「その為には神様の力なんか借りずにさ、あの二人の力で乗り越えて欲しいわけだよ」
短い言葉に気持ちを込めた―― でも、もし二人が反対するならどうしよう? 場を沈黙が支配している間、俺はそんな事を考えていた。
「困った時の神頼み、って言葉もあったような気がするんだけどねぇ……」
そうは言いつつも俺の説得を諦めたのか、琴美はどこかさっぱりした様子で言った。
「琴美の母さんが戻ってくるまでに考えようぜ。あの二人を仲直りさせる為の作戦を……」
「この厄介な難問を乗り越えられたら……カズと私、今後どんな困難があっても乗り越えていけそうだね」
「彼氏が浮気しても大丈夫! 困難を乗り越えて浮気相手も彼女入りさ」
「彼女入りって何それ、仲間入りでも許せないのに……」
そんな応酬を繰り広げながらも、俺は芽依子さんのねっとりとした視線を感じていた。
「芽依子さんは、どうかな? 反対? あの二人に猫明神の力を使ってもらったほうがいい?」
「和馬さんの……好きにしたらいいわ」
「そうか……ありがとう」
『どうやら、話はまとまったようだな、結局、変更なしか』
「ああ……」
俺は胸元のペンダントをじっと見たが、そんな事で不可思議存在の心中が見通せるわけもなかった。
なぜさっきのような話を持ちかけたんだろう? 琴美の父、猫頭店長に対する怒り……って訳でもなさそうだ。 猫明神の怒りは呆れへとベクトルを変えているようで、幸いと喜ぶべきなのなのだろうか?
『犠牲者は、貴様等の内の一人だな。だが、くれぐれも石像を直す大前提を忘れるなよ』
本当はこんな事を言いたい訳じゃないんだが、とでも言うかのような、微妙な抑揚。
俺と同じく、この猫も聞きたい事がありつつもそれを言い出せないでいるのだろうか?
「大暴露大会の犠牲者は、後で決めましょうよ。猫明神祭りまでに、ね」
「ああ、そうだな」
そう言いつつ、自分が犠牲者になることを心に誓っていると、琴美がまるで「アンタが考えることなどお見通しだよ」と言うような眼差しをこちらに寄こす。
「とにかく、だ、『杉浦のお父さんとお母さんを仲直りさせよう計画』開始ーー! テンション上げていこうぜーー」
「おー『向こうの中を修復したら、ヒビが入っている私達の友情を直して彼氏は彼女の機嫌をとる為に奔走する計画』略してお泊まり旅行は諦めていないぜ計画、を開始しましょう~」
「突っ込み所は沢山あるが、お泊まり旅行は諦めてなかったのか~亀裂は入ってないぞ~」
『くだらん……』
黙り込む芽依子さんがなんか怖いと感じる俺だった。
……全てが終わった時。時計の短針長針共に頂点を指していた。
「健一さーん!」「千紗!」
ひしと抱き合う、いい年こいた大人。かたやボロボロになった猫コスプレでもう片一方は猫頭のままというシュールな光景だ。
「わーーー……おめでとーう」棒読みの台詞と共に俺がぱちぱち手を叩く音が店内に響く。
『……』
ついに「くだらない」とさえ言わなくなった猫明神。俺の胸元から発生した微かな風が「どうでもいい」という呟きのように思えた。
竜巻を押し込めたのかと言わんばかりに荒れた店内。あちこちに飛び散って砕けた皿やコップ、果てには鍋やフライパンなんてものも見える。
椅子に座り机で頬杖をつく琴美の服が茶色に染まっている……顔と頭の汚れは落とせても、服の汚れは簡単に落とせないだろう。……カレーの匂いって、やっぱり簡単に取れないんだろうか? 折角おしゃれして来たのに……。
猫明神製の突風が何度か店内を吹き荒れたが、それが無くてもこの食堂の惨状に大差はなかっただろう。芽依子さんは床にペタンと座り込み、二人の大人を呆然と見上げていた。
振り回されて疲弊して、こんな遅くまでがかかってしまったけど――
『だから、我が力を使ってやろうと言ったのだ』
――猫明神の力を使えば良かったなんて微塵も思わなかった。
後悔があるとすれば、やっぱり芽依子さんを巻き込んでしまったことだろうか? こんなに遅くなってしまっては……お鶴婆ちゃんの所に行けないんじゃないか? 俺と琴美の旅館行きも絶望的な状況だった。
『カズマ、貴様は……』
その夜に最後に聞いた猫明神の声。それは奥歯に物が詰まったような物言いだった。
終電を逃し、行くも戻るもままならなくなった俺達は、杉浦夫婦の厚意に甘えて食堂の二階で泊めて貰うことになった。
俺の両親に迎えに来て貰うことも考えなくもなかったが、さすがに十二時を越えてから電話するのは気が引けた。あと数時間でも早く決着がついていれば連絡したかも知れないが。
着替えに関しては元々一泊する予定の俺達は問題なし、芽依子さんは琴美とその母親に着替えを借りてなんとか凌いだようだ。
芽依子さんに関して言えば、電話してくると言って外に出ていった後中々戻ってこなかった。一人暮らしとは言っていたが……わざわざ外泊する事を親に伝えて説得でもしていたのだろうか?
家に話を通した後、俺達三人は杉浦夫婦と共に風呂屋まで歩いて向かう。人目を憚らずベタベタする夫婦と違い、俺達は行きも帰りも殆ど無言だった。
定食屋に戻った後は、俺が二階の廊下、琴美と芽依子さんが二階の部屋という構成で布団に入った。ちなみに、杉浦夫婦は定食屋の一階まで布団を運んで寝たようだ。
俺の就寝場所が廊下になるまでに色々ごたついたが……その理由を一言で表すと芽依子さんが嫌がったからだ。押し入れでもなんでもいいから――と言って一人で寝たがった芽依子さん。俺とは一緒の部屋は絶対嫌だったようなので、なんとか琴美と一緒の部屋で妥協してもらった。
一緒の部屋だからといって俺はなにもしないのに―― 芽依子さんの要求に対して憤る琴美をなだめていれば、自分自身のそんな不満を外に出す余裕がなかった。
その翌日。朝食の後、俺達は荒れた定食屋の片付けを少しだけ手伝った。その後、神主が運ばれた病院まで琴美の母に車で送ってもらう事になった。
別の石像を建てようとする神主の野望を阻止しないと、猫祭りの日に村と俺達に惨劇が訪れてしまうのだ。
二日連続の説得劇。一日目が荒れ狂う海原だとすれば、二日目は砕けない岩が相手だった。
自分の考えを全く曲げようとしない神主。琴美の両親の時とは違って翻弄はされなかったものの一切の進展もなかった。相手がまだベットの上なのもあって三十分もしないうちに病室から出た俺達は、病院の待合室で途方に暮れる。
論破する為の武器が乏しかった事が敗因の一つだろう。「猫祭りまであと一週間しかないから、新しい像を造るのは無理だ。ひとまずあの像を修復したらどうか」という方向性をメインに話をしたが、暖簾に腕押しだった。
「俺達には猫明神の声が聞こえる、猫明神はあの像が気に入っている」という話も少しした。だが自分自身が本物の霊能力者で、俺達が偽霊能力者の弟子という決定事項が彼の中であった為、この線も全く効果無し。
『貴様、あの言葉の根拠は何だ?』
待合室の隅で、三人並んで椅子に座っていると胸元の犬ペンダントがビカビカ光る。
「どの事を言っているのかな?」
『我が犬好きだと言ったな……』
「ふふん、自慢じゃないけど、俺は動物好きの気配を察知するのが得意なんだ」
「それ以外に対しては、凄く鈍感だけどね」
琴美の言葉はスルーする。
「今、この犬のペンダントに憑依しているのが何よりの証拠だと思うんだけどな。それに、芽依子さんが作った犬の像。アレに近づきたがっていたような気がするし」
『ぬぅ……』
「嘘は、嫌いなんじゃなかったっけ?」
『嘘ではない。犬が嫌いだとは一度も言っていない。人間が嫌いだとは何度も言っているがな』
「そうだっけ?」
そして、俺は神主の説得はあきらめ、猫祭りを手伝う方向に話を持って行った。こうなったら、祭りの準備をしつつ説き伏せていくしかない、と考えたのだ。俺一人が手伝うつもりだったが、芽依子さんと琴美も名乗り出たので、結局三人で手伝う事になった。
そして、琴美の母の運転で俺達は犬猫とハンバーグに戻った。ついたのは日が暮れだす頃。遅れたのは、途中で芽依子さんを駅まで送ったせいではない。やたらと寄り道したがる琴美の母の気まぐれ性分が原因だった。
その後の説得の甲斐あって、琴美の母親はそのままレストラン兼自宅に留まる事になっている。琴美の父親は彼の友達の怪我が治るまで、あと数ヶ月あの店にいる事したようだ。




