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第二章 迷う愛でも嵐呼びます(その1)

 俺達はいつも通り、共同食堂の屋上へと続く階段の踊り場で昼食を取っていた。ただしおきまりの面子ではなかった。机の隙間を定位置にしている大学生の姿がなかったのだ。

「昨日に引き続き、今日も芽依子さん姿を現さないわね……休んでいるのかな?」

「まぁ、あの人は元々大学の講座たまーにしか出てこないみたいだからな」

「その割には、大体お昼はここに来るよね……」

 食事の手を止めた琴美は、じっとりと粘り着くような視線を俺に向ける。

「芽依子さんが来なくなったのは、レストランを臨時開店した次の日からね ……カズ、何かあったの?」

 琴美の追求を防ぎきる事は出来ず……俺は喋ってしまった。

「……サイテ―」

「なになに、なんでそれがそういう話になるわけ? いい加減俺にも教えてくれよ」

 山之上に俺のトラウマとその対処療法を伝える琴美。それを眺めつつ俺は昨日芽依子さんに何をしたのだろうか? と記憶を探る。ああいう状況になった時、記憶は酷く曖昧になるのだ。

「お前――サイテ―だな。俺がお前なら、サイコーなのにこんちくしょうが~」

 昨晩、芽依子さんは……猫耳と尻尾を付けたのだ。昨日は二度にわたって意識が曖昧になった。


 あれは確か二年前の冬……俺が中学三年の時だった。

 長年共に時を刻んだ愛犬シアンが亡くなり、その死をずっと引きずっていた俺にさらなる別離が訪れた。重い病気にかかっていた愛猫シャットの命の火が消えたのだ。

 満足に寝られず食事が喉を通らない……そんな俺の衰弱にブレーキをかけたのは、両親の気遣いでも、友達の励ましでもなく―― テレビの向こう側にいる遠い人間、アイドルだった。

 今はその名前を覚えているものも少ないだろう、ほんの数ヶ月――下手したら一月を切る日数、テレビを騒がせた自称猫娘アイドル、猫のコスプレをし語尾ににゃんとつけて、下手な歌と踊りを披露する女性。。

 その芸名が、亡くなった愛猫の名前に近かったのも影響したのかも知れない。俺は病的なほど元気になった。だがその活力は、全てテレビの向こうの猫アイドルに注がれたのだ。

 シャットがメス猫でなかったら、そうならなかったのかもしれない。ちなみにシアンはオスの犬だった。

 アイツは死んでいなかったんだ! 人に姿を変えて俺に会いに来てくれたんだ!

 本気でそんな事を考えていた当時の俺は、全て捧げんとばかりにそのアイドルにはまった。

 録画した映像を何度も再生して、枯れぬこと無い情熱と声援を注いだ。学校そっちのけでイベントに参加したり、そのためにきついバイトばかりした。

 そんな俺の惨状を見かねた両親と友達は色々な事を試みた。カウンセラーを連れてきたり、別の動物に触れさせたり、催眠術を試みたり……友人知人が行き詰まりつつあった時。琴美のイトコの芽依子さんが俺に会いに来てくれたのだ。

 猫のコスプレをして、彼女は亡くなった愛猫の名前を名乗った。

「お前……猫耳を付けた芽依子さんに何をしたんだ? 具体的に言って見ろ? おお?」

「微かにしかおぼえていないんだが……」

 そう、たしか……

「いつもなら、ね。頭を撫でたり……頬ずりしたり……抱きついたり」

 ……そんな事をしたような、気がする。そして芽依子さんが何かを叫びつつ俺を突き飛ばし、それで我に返ったのを覚えている。赤くなった彼女の顔、潤んだ碧眼が記憶に刻まれている。


 今では、多少意識が残る様になったが……十年数年ぶりに再会した芽依子さんが、猫のコスプレで「シャット」と名乗るのを目の当たりにした時は、俺の理性は完全に融解し、記憶も完全に飛んでしまった。たしか、あの時は気付いたら琴美に背中を踏まれていたんだった。

 付き合いが長い琴美だが、あの時の彼女が一番怖かった。俺に木刀を突きつけるその顔は、鬼も一目散に逃げ出すんじゃないかと思わせる程の迫力があった。

 そして俺の体は、痛くないところがないというぐらいボコボコの痣だらけだった。

 そして、壁際には……衣類と呼吸を乱れさせ、半泣きでこちらを見る芽依子さんの姿があった。久しぶりに再会した人に、俺はとんでもない事をしてしまったのだ……。具体的に何をしたかは覚えていないが。琴美の乱入がなければどうなっていた事やら。


「お前、土下座しろ! 土下座してもゆるさんけど、土下座しろ! 友情は欠片も残っていないけど……どげ……」

 そんな山之上の捲し立ては「ホント、サイテーね……」という押し殺した声に遮られて止まった。眉を寄せる琴美を恐る恐る見る俺と山之上。

「私に黙って勝手な事をして……それは彼女たる私の役目になったのに。昔だって当番制で勝手にやらないようにしていたのに」

 猫のコスプレをして「シャット」と名乗る女性を見た時、俺の理性は融解し、愛猫と認識した人を猛烈にかわいがってしまうようだ。

 芽依子さんと琴美は亡き愛猫を名乗りつつ、俺が現実に戻るように徐々に誘導したらしい。モニターの中の猫アイドルが偽物で、自分達が本当のシャットである事を説明した後は、ちゃんと生活するように、学校に行くようにと説き伏せていったようだ。

 そして、徐々に「シャット」として合う回数を減らしていった結果、俺が人型の「シャット」と合うのは、今では週に一回になっている。数ヶ月前、琴美が俺の彼女になる前だと、芽依子さんと琴美が交代で週に一回「シャット」を担当していたが、今はその役目は完全に琴美担当になっていた。

 何か間違いがあったら大変という事で……彼女らの誰かが「シャット」になる時は俺が手錠を掛ける事。一人以上監視役を付ける事。という条例が定められた。……正確には俺が知らぬ間彼女らの中でそんな取り決めがなされていたのだが。

「悪かったな……そんな罰ゲームみたいなことを昔から皆にやらせていたんだもんな……」

「罰、ね……」

 思わせぶりな琴美の言葉には軽蔑の色が少し混じっていたが、無理もないだろう。俺のせいで変なコスプレをする羽目になっていたのだから。

「俺が芽依子ちゃんの彼氏になったら、猫耳付けてもらうんだーい」

「彼氏って……お前」

「……そうね、山之上なら望みがあるかも知れない」

「おおっ、女性陣から心強い台詞を聞きましたよ?」

「アンタなら、芽依子さんが直接断る可能性があると思うわ」

「……断ること、前提?」

「芽依子さん、告白されても自分で直接断らないのよ。何回私が代わりに断わったやら……カズの時だって」

「……なんだって?」

 あ、と口を開け、申し訳なさそうにこちらを見る琴美。その仕草はさらにだめ押しだと思うのだが……そう言いつつ視線を滑らせると、穴が空く程こちらを凝視する一対の瞳。

 俺は大袈裟に溜息を吐いた後、肩を竦めて言った。

「俺は芽依子さんにふられているんだよ」、と。

「冗談……だろ?」

「なんでそう思うんだよ」

「だって、えーー? まさか、本当かよ……お前で駄目なのか…………俺はてっきり……お前で駄目だったら、誰が……」

 ぶつぶつ呟く山之上に何時ものふざけた様子ではなかった。真剣な彼とは初遭遇かも?

 芽依子さんの件に関しては俺も勝算がゼロだとは思っていなかった。男友達の中では自分が一番親しい存在だと思っていたし、もしかしたら芽依子さんは俺の事が好きなのかも――と思う事もあった。

 告白したのは……今年の四月の終わり頃。

 高校はどうしていたのかは語ってくれないが……今年の四月、芽依子さんは一源大学に入学した。美しい彼女は大学生や高校生達の羨望の的になり、告白しては撃沈する男共は数知れず。(撃沈は全て琴美が代行したが)

 俺は幼稚園ぐらいの時に芽依子さんと会っていたらしいが…… その時の事は思い出せなかった。だが、芽依子さんはそんな俺の猫アイドル依存症を治す為に、度々俺の所に来てくれた。動物好きな芽依子さんは、犬猫とハンバーグにもよく顔を出すようになり、琴美ともすぐに仲良くなった。

 依存症が落ち着いた俺は、翌年一源高校に入学する事が出来た。本当は、もっとレベルが高い高校に入学して、獣医学部がある大学の受験に備える予定だったのだが……それどころじゃなくなってしまっていたのだ。

 俺の依存症が落ち着いて来て、芽依子さんとも会う回数が減りだした頃。ちょうど去年の夏に琴美の両親が居なくなる事件が起きたのだ。

 人生で一番慌ただしい夏を乗り越えた後、芽依子さんは俺に料理の教授を請うようになった。だがその実、芽依子さんが俺の元を訪れる回数は極端に減った。何かあったのか?と聞いても彼女は答えてくれなかった。

 芽依子さんへの好意を自覚したのはいつからだろうか? それはいつしか、初恋だったあの子への思いを凌駕していた。

 その翌年、芽依子さんは一源大学に入学して、俺達の会う回数はまた多くなった。

 分かっていたつもりだった。芽依子さんの人並み外れた容姿については。自分と彼女の距離が未来永劫約束されたわけじゃない。男共の申し入れに対して彼女が首を縦に振るだけで、彼女の一番親しい男ができるのだ。当たり前のことをその時強く意識し……ずっと芽依子さんと一緒にいたい。

 その思いは膨れあがって爆発した。だが、結果は。

「お前が最後の希望だ。お前なら芽依子さんも直接断りの言葉を口にするかも知れない……俺では駄目だったんだ」

 そう。断わられるにしても――他の男共と同じく、琴美の口からそれを聞くことになるとは思わなかった。目の前が真っ暗になりつつも、俺は芽依子さんにメールを送ったのを覚えている。

(いますぎうらがいったことはほんとうなのか?)

 焦りで全てひらがなとなったメールの文章。

(ごめんなさい)

 返答は短く、シンプルだった。彼女にとって自分の存在は少しぐらい特別――そう思っていた自分がたまらなく恥ずかしかった。


「一旦芽依子さんの事は置いておいて、旅行の話をしようよ。もう明後日だよ?」

「ふーん……どうせ親には友達の所に泊まっているっていうんだろ? 俺に口裏を合わせて欲しいんだろ? そういう理由なら高いぜ和馬……琴美はどうするんだ? 芽依子さんにお願いするのか?」

「大丈夫大丈夫。私はもうカズと二人で行くって言ってあるから。 カズと一緒なら家の両親なにも口を挟まないから」

「俺は一人暮らしだから……二日ぐらい開けても多分ばれないだろう……」

 俺は「別荘に火を付けてやろうか……」などと呟いている山之上を見つつ、言葉を継ぐ

「というか、お前も来るか? 何だったら芽依子さんも誘って四人で……」

 何となく嫌な気配を感じて横を見ると「なに、私と二人が嫌なの?」そこには琴美の満面の笑みがあった。

「そういうわけではないんだが……」

「芽依子さんも誘いたい訳ね? 芽依子さんと一緒に行きたいわけ」

「いや、だから……」

 行きたいのかも知れない。その一瞬の躊躇が言葉を濁らせた。そんな心中の迷いは眼前の少女に伝わってしまった、と思う。

「だ、だからその、俺と芽依子さんはいま微妙に喧嘩しているというか何というか……さそった方が俺達の友情が保たれるというかなんというか……芽依子さんはちょっと怒っているかも知れないというか」

 上擦った声で喋れば喋るほど、どんどん状況は悪くなる一方。

「私も今凄く腹が立っているんですけど?」

「すまん」

「あやまらないでよ……もう」

 そう言った後、琴美は大きな溜息を吐いた。

「あーあ、今度こそバッチリ決めようと思ったのに……また失敗かぁ……わかったわよ。芽依子さんと山之上を誘いましょう」

「いいのかよ? 琴美……?」恐る恐る言ったのは山之上。

「次はもっと用意周到にいくから。カズが絶対逃げられないような状況を作るわ」

 ニヤリ、と笑う琴美。山之上は引きつった笑みを浮かべている。俺も似たような表情になっていると思う。

「でも芽依子さんが行かないなら俺も行かないぞ。お前等二人と俺って、それどんな拷問よ」

「アンタなら、いても気にせずイチャイチャできるんだけどね」

「俺の事は空気と……エアと、ミスターエアと呼んでくれ」

 イチャイチャねぇ……どうせ……

 口に出すと本当に雷が落ちかねないそれは、心中の呟きで止めておいた。


 そして、三連休の初日かつ琴美との約束の日が訪れた。

 携帯の振動で我に返った俺が、焦りつつ時計を確認すると――約束の時間まで後数分まで迫っていた。また、やってしまったという自戒の念が込み上げてくる。

「やっと電話に出たな」

「おう、すまん」

「もしかして、ペットショップに居たんじゃないだろうな?」

 浅からぬ付き合い故見抜かれて、黙っているだけでそれを答えと見なされた。

「やれやれ。お前待ち合わせの前にペットショップに行くなって皆に言われていただろう? まぁいいや。さっきメールを送ったんだが、俺は急用ができて無理になったから~」

「え? ってお前……」

「そういう訳だからミスターエア抜きで楽しんできてくれ~ これぞホントの息抜き? なんちゃって」

 そう言い残して、山之上は一方的に電話を切った。俺は不在着信とメールが数件あることを確認しつつ駅へと急ぐ。

 ヤバイ、どう考えても待ち合わせの時間まで、予定していた電車の出発時間まで間に合わない。ひとまず連絡をとるか……立ち止まった俺は、不在着信とメールの内容を確認する。

(ごめん。遅れるし、ちょっとだけ用事ができた。私はバイクで直接行くから、北吉村、唯一の駅で落ち合いましょう)

 琴美からのメールを見た時、焦りがすこし霧散し、(ごめんなさい。急用でおばあちゃんの所に行く事になったの。三人で楽しんできて)続けて芽依子さんのメールを見た時、俺は完全に脱力した。琴美が何時に北吉村の駅に着くか確認する必要があるが、ひとまず急ぐ必要はなくなった、か。

 しかし、バイクでって……少し遅れてでも電車でくればいいのに。まぁ、アイツはつい先月中型二輪の免許を取ったばっかりだから、乗りたい気持ちがあるのかも知れないけど……

 俺は携帯――スマートフォンで次の電車の時間を確認して、掌ほどのサイズの駅を見る。今週開店したばかりのペットショップに戻りたい衝動に駆られたが……また飛ぶように時間が過ぎてしまう可能性がある。ちょっとだけ休憩していくか、と俺は傍らの小さいデパートに入っていった。

 ファーストフード店に入った俺は、店のレジ前に並びつつ思う。芽依子さんはお婆ちゃんの所、ねぇ。もしかして琴美と仲が良いお鶴婆ちゃんの事かな? 確かあの人に会いにいくのなら、俺達が行く方向と途中までは一緒だ。芽依子さんも途中まで一緒に行けば良かったのに。まぁ、山之上も芽依子さんも俺達に気を遣ったのかも知れないが。

 この店の端なら、ぎりぎり駅が見えるはずだ。そんな事を思いつつ移動すると……先客が居た。

 その時、ちょうど待ち合わせの時間になっていた。

 窓際の席で腕枕の上でスヤスヤ眠っていた女性は、どう見ても年上には見えない。先入観を除いて見ると、何とか中学生で、高校生にはほど遠く、大学生というのは悪い冗談にしか聞こえない。

 その先客は周りの客、主に男共の注目を一身に集めていた。

 机の上のコーヒーに手を加えた気配はなく、ハンバーガーは一口囓られただけだった。

 俺が女性の正面に座ると、その人はハッと顔を上げた。口の端のよだれは……見なかったことにしよう。

「え……? 和馬さん……なんで…………」

「ちょっと寝坊しちゃって、ね」

 眼を白黒させていた芽依子さんは、俺がコーヒーを三分の一飲む頃には多少落ち着いてきたようで、大きく息を吐いた後ぐでーと机に突っ伏した。顎を立ててこちらを見る彼女の眼はまだ眠そうにも見えた。

 相変わらず、よく寝る人だ。まるで……

「和馬さんが寝坊ってめずらしいね、動物関係で時間を忘れたっていうならわかるけど」

 ご明察どおり。という念を込めてニヤリと笑うと、微かに眉を寄せ、そうですか――と微かな咎め混じりの表情になる芽依子さん。

「こんな所で時間を潰していていいの? もう待ち合わせ時間だよ? 琴美さんはまだ来ていないようだけど……」

「見てたんだ」

「……見てましたよ。何か悪い?」

 少しふくれっ面になる芽依子さん。

「そこまで気を遣わなくてもいいんだ。俺と琴美は付き合っているが、それでも芽依子さんや山之上と友情には変わらないとおもう。変わっていくことはないと思う」

 もう一人の俺が、心中で「嘘だ」と言っていた。俺と芽依子さんの距離は、彼女である琴美より近くなってはいけないんだ――今の関係は多少なりとも変えていかないといけないだろう。

「だから芽依子さん。一緒に旅館にいこうよ。キャンセル料金が発生するかも知れないし」

「ごめんなさい。その、本当に、お婆ちゃんの所……お鶴さんの所に行かないといけないの……」

「そうなのか。んじゃ、途中まで一緒に行こうぜ」

「……?」

 何言っているか分からないと言った様子で首を傾げる芽依子さん。

「お鶴婆ちゃんの住んでいる場所、知っているだろ? 途中までは一緒だ」

「そ、そう。確かそうだったわね……分かったわ。途中までは一緒に行きましょうか」

「ハンバーガー、食わないのか? コーヒーも全く手を付けてないし……」

「コーヒー、良かったら和馬さん飲む? ハンバーガーも食べてくれない?」

「ハンバーガー、食べないのか?」

「だって、このハンバーグ、タマネギ入っているし……食べられるかと思ったんだけど。コーヒーもちょっと飲もうとしたんだけど……」

「好き嫌いしていると、大きくなれないぞ?」

「余計なお世話よ……」

 自分の体を見下ろして溜息を吐く芽依子さん。

「んじゃ、遠慮無くもらいまーす」

「あ……」

 俺はハンバーガーを掴んで口を開ける。直前で惜しくなったのか、芽依子さんはこちらを見て小さな声を上げた。だがもう遅い。コーヒーを飲みつつハンバーガーを平らげている間、芽依子さんはそっぽを向いて櫛で髪を梳いていた。


 俺がお鶴婆ちゃんの住所を知っていたのは、一度尋ねたことがあるからだ。出て行った琴美の両親の居場所を知らないか、その手がかりがないか探る為に。結局、収穫はなかったが。

 お鶴婆ちゃんの所まで電車で約三十分かかる。並んで電車の椅子に座る俺達。時折話題を振ったが会話は余り盛り上がらず、電車に揺られている時間は長く感じられた。

 そしてアナウンスを聞いた俺は、次に電車が止まった時、芽依子さんがホームに降りる事に気付いた。。

「…………この間は悪かった」

「この間ってもしかして、和馬さんの部屋に料理を運んだ時の事? ……あれは私が悪いのよ。和馬さんの前で猫耳つけたらああなるのわかっていたのに……琴美さんと決めていたルールを破って私が勝手にやった事だから。怒られるべきなのは私。今度琴美さんにちゃんと謝らないと」

 昨日は久しぶりに四人で昼ご飯を食べたが、何処かよそよそしい雰囲気があった。そして山之上の言葉はいつもに増して空回りしていた「俺の事は空気、ミスターエアと呼んでくれ!」彼がそう叫ぶのを数回聞いた気がする。

「でも、子犬を助ける時に心配をかけたっていう意味なら、和馬さんにも少し非があるけどね……」

 芽依子さんは微笑んでそう言った。

 この笑顔を一番多く見られるのは、将来誰になるのだろうか、と思った時

「芽依子さん、いま好きな奴とかいるの、か?」

 俺の口が考え無しに動いてしまった。

「どうしてそんな事を聞くの?」

「いや、何となく気になって言ってみただけなんだけど……」

 電車のブレーキがかかる。停車駅のアナウンスが流れる。

 表情を見れば、彼女の気持ちは大概わかるつもりだった。だが今は……無表情って訳でもないのに、彼女の心の内が全くわからなかった。

「悪い……きにしないでくれ」

「私は……」

 電車が止まり、扉が開く音が聞こえてきた。芽依子さんは自分の足を軽く叩き、何か呟く。

「早く降りないと電車がでちゃうぞ……」

 立ち上がるかと思った芽依子さんが、倒れるようにしてこちらにもたれ掛かってきた。思わず少しのけぞる俺。

 どこからか、動物の鳴き声が聞こえてきたような気が、した。

「め、芽依子さん……?」

 芽依子さんは苛立たしげに自分の足を睨んだ後、こちらを見上げてきた。吐息がかかりそうなぐらいに近い距離。

「私は……」

 電車が閉まる音が遠い世界の出来事のように聞こえた。そして

「なに、してんのアンタ達……」

 芽依子さんが弾かれるようにして俺から離れる。そして俺達は揃って声の主に視線を向けた。

 一目見て誰かわからなかった。男物ばっかり着ているイメージが強く残っていたからだと思う。少なくとも俺は……彼女が、琴美が私服でスカートをはいているのを見たことが無かった。

 Gパンを好んではいていた琴美は、今は膝上のスカートをはいていた。上半身はノースリーブで俺が見たことのない小さく可愛い肩掛け鞄がある。おまけに頭にはリボンまでついていた。

 電車は動き出したが、俺達の時間はしばらく止まったままだった。

「芽依子さん、今日は来れないって言ってなかったっけ?」

「いや、あの……お鶴さんの所に用事があって……それで途中まで一緒に……」

 琴美はキョトンとした顔で窓の外を指さしつつ「降りなかったじゃん」と言う。さすがに琴美は仲の良いお鶴婆ちゃんが住んでいる場所は覚えていた。

「そ、それより、琴美。なんでここに居るんだ? 別荘側の駅で待ち合わせって……」

「メール送ったけど気付かなかったかな? 間に合いそうだから、途中からカズと同じ電車に乗るって。バイクはお鶴婆ちゃんの所に置いて来たの」

 げ、俺は慌てて携帯を取り出す。メールが何件か来ていたが全く気付かなかった。

「まぁ、芽依子さんと楽しく会話していたのだったら、気付かなくても無理はないかぁ」

 明朗快活を絵に描いたような琴美。毒と険が混じった声はそんな彼女の物とは思えなかった。

「……ごめんなさい、琴美さん」

「それって、嫌み?」

 芽依子さんの肩がびくっと震えた。

「この間の事も謝ろうと思っていたの……」

「さっきの様子を見たら、反省しているとは思えないんだけどなぁ」

「琴美、お前……」

 芽依子さんはもう一度呟くように「ごめんなさい」と言った後、踵を返して、琴美が居るのと反対方向……電車の先頭車両に向かって駆けていった。

「芽依子さん!」

 俺の叫びでは彼女の足は鈍りさえしない。琴美に鋭い視線を送ると……彼女も先程の芽依子さんのように深く俯いていた。その表情が見えなくて――芽依子さんを追いかけようとしていた俺は勢いを削がれる。

 迷いつつ、再度芽依子さんが去った方向に顔を向けると、袖を後ろから引かれた。

「だって、だって……カズが、よ、喜ぶってクラスの子が言うから……こんな格好をしてきたのに、カズは芽依子さんと……」

 上がる顔。琴美はいつになく弱気な表情をしていた。その潤んだ瞳は俺の胸を罪悪感で締め付ける。俺は抱きつかんばかりに琴美の側に近寄り、彼女の耳元で「悪かったな、琴美」と囁いた後で一歩離れる。

「似合っているよ、その格好……可愛い、ぜ」

 それは嘘偽りない本心からの言葉だった。琴美はさっと顔を赤らめて俯く。俺も照れくさくなって目を少し逸らした。しばらく、俺は琴美が落ち着くまで待っていた。

「カズ……そのペンダントを着けてくれているんだ」

 いつしか顔を上げていた琴美が、俺の首元を見ながら言う。その声を受けて、俺は鎖を引っ張って服の裏にあった犬の銀飾りを表に出した。

「当たり前だろ。彼女がプレゼントしてくれたものだからな」

 琴美は小さく頷く。それは五月半ばの俺の誕生日に彼女がプレゼントしてくれた物だった。ちなみに四月半ばの琴美の誕生日には……渡一家からのプレゼントと言う事で、数年間未使用の俺の父の四百CCのバイクを進呈したのだった。(琴美がずっと欲しがっていたのだ)

「わたし、その……芽依子さんに酷い事を」

「お前と芽依子さんが喧嘩しているところをみたくない。二人には仲良くしておいて欲しい……いくぞ、琴美」

「うん」

 いつになく素直に頷く琴美。踵を返して足を踏み出そうとした時、後ろから手を握られた。包みこむようなささやかな力。俺はその手を強く握り返した。

 俺達は小走りで先頭車両に向かって進む。電車の中では手を繋いでは歩くにくい。だが、この手を今離したら、俺達三人の関係が修復できなくなるような気がした。

「芽依子さん!」

 まもなく次の駅に停車――そんなアナウンスが流れた時、俺達はようやく先頭車両に足を踏み入れた。

 その一番前のドアにもたれるようにして芽依子さんは立っていた。

 どう話を切り出すか――迷いつつも俺は芽依子さんに近寄る。自然と足が速まり、後ろで琴美がすこしつんのめったような気がした。俺達は少しの間を開けて芽依子さんと向き合う。

「芽依子さん。一緒に別荘に行こうよ」

 しばしの沈黙。俺がどう声をかけようか迷っていると、琴美がそう切り出した。

「この間の一件は、まだ完全に許した訳じゃないけど、今回の件では芽依子さんはそんなに悪くないし言い過ぎたわ。ごめん」

 オイオイオイ、そんなにってオイ……芽依子さんは全然悪くないだろう。

 俺はヒヤリとした。そこは素直に謝っとけよという声を心の中で留めたのは凶か吉か。猫耳の件では――やっぱり俺が悪いという話にはならないのか……。

「カズと二人で行きたいっていうのも本音だけど、芽依子さんと一緒に行きたいっていう気持ちもあるんだ。それに、この格好で二人で居るっていうのも、今更だけどなんだか恥ずかしくなってきて」

 そういってスカートをつまみ上げる琴美。ただでさえ短いスカートでそうすると太股が殆ど露わになってしまう。よくよく考えれば、この格好でバイクにまたがっていたのか?

「ねぇ、芽依子さん。一緒に行こうよ。一泊だから着替えとかは何とかなるって。私の貸してあげるから」

 芽依子さんに近寄って手を差し出す琴美。やれやれ、これで一見落着かと……俺は嘆息した。電車のブレーキがかかる。芽依子さんは琴美の手を見ているだけで動こうとしなくて、段々不安になってくる。

 一瞬、芽依子さんの視線が繋がれた俺達の手に向けられた気がした。

「ごめんなさい……」

 電車のドアが開いた。外に飛び出す芽依子さん。躊躇する俺とは違い琴美の行動は早かった。

「いくよカズ!」

 そう言いつつ外へと躍り出る琴美。俺も慌ててそれに続く。

 いくら運動神経抜群な琴美でも、俊敏な芽依子さんに追いつけるかどうか――と思っていたら……芽依子さんは駅のホームで足を止めていた。心当たりある挙動に彼女の視線を追うと、その先では一匹のチョウチョが舞っていた。

 芽依子さんには動く虫を凝視してしまう癖がある。それがチョウチョに限定されるなら女の子らしいと言えなくもない。だが、動く虫等なら種類を問わず真顔で見つめてしまう様は……ちょっと不気味だった。

 だが今は、その癖とモンシロチョウのナイスな出現タイミングに心の中で感謝をしていた。

 ハッと我に返った芽依子さんが再び足を動かそうとしたが既に時遅し、彼女は後ろから琴美に抱きつかれてしまった。俺は安堵の溜息をつきつつ、抱え込んだ頭を撫でている琴美と悲鳴を上げている芽依子さんに近づいていくのだった。


「やっぱり、今回芽依子さんは無理なんだってさ」

「ごめんね、琴美さん……」

 俺には策があった。

「んじゃ、せめて三人一緒に昼食おうぜ!」

「生き生きしているわね、動物関連だわきっと……あ、この間言っていた店に行くつもりね」

 ご明察通り。俺は琴美と芽依子さんを説得して調べていた例の店に行く事にした。各駅停車の電車で一度乗り換えつつ向かうこと三十分、俺達はへんぴな無人駅に降り立っていた。

 改めて調べると、別荘へ向かうルートからは結構な寄り道になっていた。ここからは歩いて十五分かかることを告げると、琴美はさらにゲンナリした顔になる。

「その店の事を除いても、ここには前から来てみたかったんだ」

 琴美には申し訳ないと思いつつも、俺は心が浮き立つのを抑えられなかった。

「後で猫神社も寄っていい?」

「私は別にいいけど……」

「しょうがないわね……」

 ネットで調べた情報だと、大きさ的にはこぢんまりとしたただの地方の神社。狛犬の代わりに狛犬のかわりに狛猫なる物があって、神社の中にも猫の石像があるらしい。

 その神社で開催される猫祭りの参加者は殆ど村民で、神社の周りに出店が複数並ぶぐらいのこぢんまりとしたもののようだ。頭文字に「猫」がつくからといって、別段なにか特別な事があるわけでもないようだ。近くの河原でささやかな花火が催されたりするようだが。

「それなのに、どうしてそう、うれしそうなのかなぁ……」

 説明し終わった俺を訝しげに見る琴美。芽依子さんは少し困ったような微笑を浮かべていた。

 川沿いの道を歩くこと約十分。俺達は目的の店にたどり着いた。

「なんか、すごくど直球の店……」

 『犬好きの定食屋』と書かれたみすぼらしい看板が無ければ、誰もそこでご飯が食べられるとは思わなかっただろう。

「猫神社がある所でこんな名前の店をひらなかくてもいいんじゃないかな……」

 そんな芽依子さんの言葉に内心頷く。多分猫神社はそこの角も曲がった先。ここから数分の距離にあるはずだ。

 しかし疑問なのは……犬好きの定食屋とか書き殴りつつも、入り口の脇に置いてあるのは俺の腰までもある招き猫。それにネットで見た情報では「猫好きが喜ぶ、凄く変な店を発見しました! 見てのお楽しみなんであえて詳しくは語りません……驚くこと請け合いです」的な事が書いてあったような気がする。

「いらっしゃい! 犬好きの定食屋にようこそ。空いている席に座ってね」

 ガラスの引き戸を開けた俺は、思わず自分の目を疑ってしまう。何のギャクだ? 店長の頭は……猫だった。思わず近寄って凝視してしまう。

 瞬きする店長らしき人? いや猫?……着ぐるみの類なのだろうが凄く精巧にできている。

「お客さん……どうかしましたか?」

 どうしたもこうしたもないだろう。

「いや……その、それ凄く良くできていますね」

 何のことだ? と言いたげにその猫頭が首を傾げる。体は小太りの親父で口から出るのが太い声。だがそれらを帳消しにして有り余るぐらいにその仕草はラブリーだ。

「それ? 一体何のことですか?」

 これはそういう「設定」なのか? 猫である自分は特に自分自身を変と思っていないという。

 琴美が呼ぶ声に導かれ、俺はその猫人を撫でたい衝動を抑えつつ席に着いた。

「ぞっとするわ。あの猫に扮しているのが女の人で、シャットって名乗った時の事を考えたら」

「……ああ……俺も想像したくない……」

 息が荒くなっていた事に気付いたのも、席に座ってからだった。自分がどんな表情であの猫店長をみていたかと思うと、たまらなく恥ずかしくなる。

 呆れと軽蔑が入り交じった琴美から目を逸らすようにして芽依子さんを見ると……

「ど、どうしたんだ芽依子さん……」

 彼女は青白い顔をしていた。

「え……芽依子さん、大丈夫?」

 芽依子さんの尋常じゃない様子に気付いた琴美も、気遣わしげに声をかける。芽依子さんは唸るように「大丈夫、なんともないから」と言うが、とてもそれを額面通りに受け取る気にはなれない。

「カズ、どうしよう、救急車を呼ぶ?」

「本当に、大丈夫……だから」

 と言いつつメニューを開く芽依子さん。彼女の眉は僅かに吊り上がり、眼はなにか深い情念でぎらぎら光っていた。

「私……この犬グラタンっていうのにするわ」

「あ!」

 琴美が大きな声を上げる。琴美の背後で……カップルの男の方がチラッとこちらを見遣ったのがわかった。琴美は身を乗り出して手招きする。俺は耳を寄せた。

「……芽依子さんのアレがおきようとしているんじゃないの?」

 芽依子さんから受け取ったメニューを二人で見る。そこに書かれているのは「犬好きが好きそうなスパゲッティ」「オムレツ(今なら犬の絵をかくサービス付)」「犬まんま」「犬グラタン」「ホットドッグ」名前の何処かに日本語か英語で犬の名前が刻まれていた。

 俺と琴美は眼を見合わせ、その後一様に店長に視線を向ける……たしかにこの状況はやばい。

「芽依子さん、ぐらい悪そうだし、一旦店から出ようか?」

「わたし、この店で食べたいの。お願い」

「でも、芽依子さん……」

「お願いだから……」

 虚ろな眼差しの芽依子さん。俺達は互いに目配せをして……苦々しく頷き合った。早く食べてここから出よう。

 しかし……グラタンっていろんな食材が混ざっていると思うのだが、偏食家の芽依子さんが食せるのか?

「注文は、決まりましたかね?」

 あまりにも時間がかかっているからなのだろう、猫頭の店長がテーブル脇までやって来た。

「そちらのお兄さん、さっきも私を見ていましたが……もしかして私の事を知ってます?」

「あ、いや……」

 知らず知らずの内にまた魅入られてしまっていたようだ。そんなかぶり物する奴は知り合いに一人も居ない! 内心そう叫びつつ「初対面だと思います」と言う。

「そうですか……いやね、数週間前から、昔の知人の顔が思い出せなくなっているものだからね。知り合いにあっても今わからない状況なんで……」

「はぁ」

 なんと答えていいのかわからない。

「思い出せなくなった頃から、顔をじっと見られる事が多くなった気がするんですよ」

「猫の頭をしているからに決まっているじゃないか、何をとぼけてるんだわざとなのか?」

 一瞬、自分の心の声が外に出たのかと思った。

 琴美の後ろ……隣の席に座っているカップルの男の方が罵るようにいったのだ。男の正面にいる女の人が潜める気がない笑い声を店内に響かせる。

「私の前で、猫の話をしないでください……私は猫が……嫌いなんです」

 猫頭がそう言った時、芽依子さんの肩がびくりと震えるのがわかった。


 こぢんまりとした店の厨房の入り口を見つつ、猫頭の人が動く所を脳内スクリーンに再生していると、時は瞬く間に過ぎた。

「はぁ、こりゃ、いきなり服を脱ぎ捨てるぐらいの事をしないと、カズの気を引けないのかしらね……どう思う芽依子さん……って、こっちも別の意味で重傷だわ」

 猫店長が厨房から料理を持って現れた時、俺の掌で何かが光った。それでようやく携帯のカメラを無意識の内に構えていた事に気付いた。なんで私を撮るのだろう――? と言いたげに少し小首を傾げた猫店長は、俺達のテーブルに湯気が立ち上る皿を置く。

「猫グラタン……お待たせしました!」

 芽依子さんは俯いたままで、俺と琴美は顔を見合わせる。「お前が言ってくれ」と眼で訴えかけると「嫌よ」とばかりにそっぽを向かれた。

「……あのぅ、これは?」俺が牽制球を投げると、店長の猫面に疑問符が浮かぶ。

「注文では、犬グラタンって頼んだつもりですが」

 と、言葉を継ぐと

「はい、注文どおりですよ」

 という答えが返ってきて……ええい、埒が明かない。俺はそのグラタンを指さして言った。

「ど、どう見ても猫なんですが。それにさっき、猫グラタ……」

「猫ぉ? 馬鹿言っちゃいけません、私は猫が嫌いなんです……。猫なんてみるはおろか、名前を聞くだけでゾッとしますよ……はい、猫カレーももうすぐ持って行きますよ~」

 俺の言葉を遮りつつ捲し立てた店長は、逃げるように厨房に引っ込んだ。

「変わった……店ね」

 ああ、そうだな。

 溜息を吐く琴美からは呆れのオーラが立ち上っている。俺は悪いと思いつつも、撮影した写真を携帯の画面に映して、食い入るように見ていた。

 具合が悪い芽依子さんをチラと見て考える。これを俺が知りうる猫好きのコミュニティサイト全てに投稿すれば、芽依子さんと琴美を助ける事に繋がるかも知れない。強烈な「餌」になるかも知れない。ぐぬぬ……と迷う。それはプライバシーの侵害になるかもしれない……

 結局、写真はやめて、文章で猫の着ぐるみ店長のすばらしさを褒め称える文章を投稿していった。我ながらこの時の指捌きは神がかっていたと思う。

 最後の送信が終わった後、再度写真を見ていると、隅に写っている物に気付いた。

「なんだ、ありゃ?」

 俺は厨房の入り口脇の一抱えほどの物体を見る。……風呂敷に包まれたそれは石で出来た猫の頭?

「琴美、芽依子さん……あれ……」

 何か引っかかる物を感じて、二人に声をかける。「あれが何よ」と関心が薄い琴美とは対照的に、芽依子さんはその風呂敷を凝視してなにか呟いた。

 風呂敷を見る俺達の視線を遮るように、残りの料理も運ばれてきた。琴美の前にハンバーグランチが置かれ、俺の前にはカレーライスが置かれる。

 俺、カレー頼んだっけ? と首を傾げていると「あまりにも遅いから私が勝手に決めたの。もう忘れたの?」という琴美の声。俺は「そうだった思い出した」と適当に返事しつつスプーンを手に取り、そして硬直した。

 猫の顔の輪郭を形取ったご飯の上には、眼の代わりに人参が置かれており、薄く乗せられたルーで髭と口がかかれていた。そしてルーの上には猫の足のカタチをしたご飯がのせられている。その造形美を崩したくなくて食べあぐねていると、正面から伸びるスプーン。

「あ」

 猫の右頬の一部が持って行かれた。

「な、なにをするんだ琴美!」

 琴美はスプーンの上のカレーを一口で平らげて、再度手を伸ばしてくる。

「琴美、琴美先生、琴美ちゃん止めて―」

 今度は左の足形が崩された。

「ほら、かわりに私のも食べていいわよ……」

 そう言って、琴美は手つかずのハンバーグを指さす。

 食い物の恨みは恐ろしいんだ……とばかりにスプーンを振りかぶる俺だったが、そのハンバーグの愛らしい造形に躊躇してしまう。そんな俺の迷いをよそに再度琴美の手が閃く。

「こ、琴美……」

「これは私のだもん、文句を言われる筋合いはないわ……自分で食べられないのだったら、口まで運んであげようか?」

「いいわい。葬るならせめて自分の手で……ひと思いに」

 と言いつつ、俺は顔の形も、足形も崩さないようにスプーンを動かす。口に入れたカレーは芳醇な香りと濃厚かつくどくない味で俺の味覚を震わせてきた。驚愕的な味の洗礼は、この造形美を見た時の驚きを遙かに上回る物で……家庭的な味という奴だろうか? どこか懐かしさを感じた。

「芽依子さん、大丈夫? あまり食べていないけど……」

 俺達より一足先に運ばれてきたのに、芽依子さんはグラタンに全く手をつけていなかった。

「無理して食わなくて良いよ芽依子さん。無理を…………しては」

 後半は、自分のカレーを見ながら血を吐く思いで言った。

「カズは無理をしてでも食うこと」

「ああっ!」

 また俺の猫が抉られた。俺は思わず天を仰いだ。

「ああ――っ!」

 視線を天井からカレーに戻すと、今度は少しカレーとご飯が混ぜられていた。

「静かに食べなさい」

 涙目で芽依子さんを見遣ると……意を決した彼女がフォークでグラタンをすくう様が見えた。

 あ。

 そしてそのまま、芽依子さんはグラタンを頬張ったが……

「ん~~! ん~~~!」

 口を閉じたまま苦しそうに唸りだした。芽依子さんの極端な猫舌を忘れていた。本人も忘れていたようで、涙目になっていた。

「……芽依子さんも、静かに食べましょうね」

 その後、俺と琴美は時折芽依子さんに声をかけつつ、料理を平らげた。

 一番早く食べ終わったのは言うまでもなく琴美で、その次は後半ペースを上げてきた俺(言うまでもないだろうが、猫造形の崩壊に比例して食う速度が上がってきたのだ)芽依子さんは結局グラタンを二口ぐらいしか食べなかったので、その残りは俺と琴美で分けて食べた。


 食べ終わって休憩する俺達。琴美は、俺にある事を念押ししてからトイレに向かっていた。

「カズッ! あんた何やってんのよ!」

 猫店長がテーブルを拭く様に見とれていた俺は……琴美の叫びでようやく事態の深刻さに気付いた。

 しまった! 琴美が忠告してくれていたのに……体を震わせている芽依子さん、そしてその後ろにいる男女の会話――自分のうかつさを呪っても時遅し。テーブルを振動させる程の痙攣から、芽依子さんの爆発までは残りあと少しと判断。俺は彼女の手を掴もうと体を伸ばした……だがそれより先んじて、小柄な大学生は跳ねるようにテーブルの脇に躍り出る。

「お前らぁ!」

 可憐な女性からそんな威勢のいい声が出たと言って信じるのは……俺と琴美ぐらいだろう。激しい声と鋭い視線を向けられ、隣の席に居たカップルは目を白黒させていた。

「どっちも可愛いだろうがぁ!!」

 芽依子さんを激高させたのは……カップルの会話の内容だ。

「犬の方が従順だぁ? お前は犬のように従順だと言われるのと、猫のように気紛れだと言われてどちらの方が傷つく? 犬のようにと言われる方が傷つくだろうが! 猫の気高さも愛せ! 猫の気高さを称えろ! 猫もいい!!」

 芽依子さんは男の右手を掴み、猫が手招きするような形に変えた。三十代と思われる男性の方がどう考えても力がありそうが、彼女の不思議な威圧感に押されてなすがままとなっていた。

「猫は散歩の必要がないだぁ? しつけに手間がかからないだぁ? 散歩できた方が健康的になっていいだろうが! しつけが大変でも言う事を聞いてくれた方がいいだろうが! 犬の賢さを称えろ! 犬もいい!」

 芽依子さんは女の手を掴み「お手!」といいながら自分の右手の上に乗せた。狐につままれたような表情の女も、されるがままになっていた。

 荒れ狂う芽依子さんを前にして、俺達はただ呆然としていた訳じゃない。

「カズ! 持ってきている!?」

 そう言いつつ芽依子さんを羽交い締めにしようとした琴美が、苦もなくはじき飛ばされる。

「ある……が、どこにしまっているかわからない! 琴美は!?」

「…………私はっ!」と言いつつ再度芽依子さんに飛びつく琴美。「……もってきていない」言葉の続きは再度床に転がった時に吐き出された。

 一抱えある旅行鞄の中を俺は強引にまさぐる……本当に必要になるとは思っていなかったので、俺はそれを雑に鞄に押し込んでいた。おかげでどこにあるかわからない、見つからない。

「カズ! 早く!」

「あった!」

 俺は鞄の奥から、俺は厳重に梱包された陶芸用粘土を取り出して強引に袋を破る。そしてその粘土を琴美に向かって放り投げた。

 俺達がドタバタしている間にも、芽依子さんは度を超えた力説を浴びせつつ、カップルの姿勢を変えていく。

「犬は番犬にもなるだろうが! 猫はお留守番が得意だろうが!」

「芽依子さん!」

 再び手を振り上げた芽依子さんの視界を遮るように琴美は粘土の塊を差し出す。それを強引に奪い取った芽依子さんは、粘土を真っ二つに引きちぎる。そして、再度犬と猫の長所を叫びつつ猛烈な勢いで粘土を捏ね始めた。

 テーブルの端で見る間に形作られていく犬と猫。犬を褒める時は犬を、猫を褒める時は猫を捏ねる芽依子さん。

 何度見てもこの時の彼女はまるで別人に思える。目をぎらつかせ眉を吊り上げ……背後から何かまがまがしいオーラがほどぱしっているように見える。

 俺と琴美は身を寄せあってガタガタ震えていた。

 「毛繕いをする招き猫」のポーズの男と、「柱に小便をする犬」のポーズの女は、徐々に姿勢を崩しつつも視線は芽依子さんに釘付けだった。

「犬も、猫も素晴らしいんだ! どっちが好きかで……喧嘩するなぁーーーーッ!」

 右手に猫、左手に犬の粘土細工、それらをテーブルに勢いよく置きながら少女は叫んだ。

 俺はゴクリ……と唾を飲み込む。犬も猫も一見すると愛らしい造形をしている、しているのだが……この禍々しいオーラと圧倒的な存在感は何だ?

 (去年ぐらいに彼女は犬猫が好きだって言っていたような気がするぞ)山之上の言葉がよみがえる。

 杉浦の両親が出て行ってしまった時に、芽依子さんにトラウマが刻まれてしまったのだ。


 犬猫とハンバーグ。その名前からわかるように店を切り盛りする夫婦は動物好きだった。父が犬好き、母が猫好き……そんなおしどり夫婦にある時小さなヒビが入った。切っ掛けはイトコである芽依子さんの素朴な疑問。

 (なんで、犬猫とハンバーグなんですか? 猫犬とハンバーグじゃなくて?)

 その日を境に……『犬と猫、どちらが素晴らしいか?』という議題を巡って、琴美の両親は激しい論争を繰り返すようになったのだ。猫の方が素敵だから猫犬とハンバーグに改名すべきだと迫る母親。犬の方が素晴らしいからこの名前は変えないと居直る父親。

 そして、俺達が中学二年の頃、彼女の両親は家を出て行ったのだ。無責任にも一人娘を家に残して。

 芽依子さん曰く琴美の両親はどちらも「二人を家に残して」出て行ったつもりらしく……娘と妻を残して出たつもりの父親も、娘と夫を残して出たつもりの母親も、その後一切家に連絡を入れなかった。

 その後、子供だけで店を回そうとした怒濤の夏休み終了後、琴美は叔父に金銭面で援助して貰うことになって(叔父に引き取って貰うと言う話もあったようだが、琴美は一人であの店に残ることにしたようだ)状況が一旦は落ち着いた頃、発作にも似た激情の発露と共に芽依子さんの心の傷が見つかった。

 芽依子さんは犬と猫どちらが好きか? どっちがいいか? という議論をしている人間を見ると人が変わったようにキレてしまうのだ。犬の方がいいと言っている人間には猫の良さを説きつつ、猫のポーズをとらせる。猫が良いと言う人間にはその逆の行為を行う。怒りと罪悪感が彼女に心に爆弾を作ったんじゃないかと思う。

 芽依子さんの暴走の矛先を逸らす方法は、偶然発見した。それを発展させた末に、俺達は粘土を使用するようになったのだ。その発見の切っ掛けは……確か二回目の暴走の時だった。力に勝るはずの俺達二人がかりでも芽依子さんを押さえられず、苦し紛れに猫のぬいぐるみを芽依子さんに差し出したのだ。……なぜか猫のぬいぐるみがちぎられ歪められ……犬に似た形になるという怪奇現象が生じたものの、犠牲者は一人ですんだ。

 形を変えられる何かがあれば、それを人の代わりにできるのか?

 芽依子さんが次に暴走したとき、鞄に潜ませていた粘土で人的損害を抑えることができた。見事と称せるかどうかは正直微妙なところだが。

 (すいません。私、動物がとても嫌いで……本当に自分勝手だとは思いますが……私の側で犬と猫の話をしないでください)

 芽依子さんが大学入学時、自己紹介でそう言ったのは……暴走の危険性を少しでも避ける為だろう。俺が廃部寸前の陶芸部に入ったのは……暴走状態になった芽依子さんを匿う場所が欲しかったからだったのだ。粘土を持っていても不審がられないというのも理由に挙げられるだろう。

 数日前も、暴走状態になった芽依子さんを俺は美術準備室に連れ込んだ。彼女は犬猫の良さを叫びつつ、狂気のスピードで犬と猫の像を完成させた。部屋から出るところを山之上に見られてちょっと焦りもしたが……。

 いつもその粘土の処分に苦労する。

 できあがった後、潰せばいいだけだと思うのだが……そうすると呪われそうな気がする。かといって学校に残しておくのもまずい。その異様なオーラが美術準備室の外に零れて妙な噂が立たないとも限らない。

 粘土細工ができた日の放課後、生徒があらかた帰った後に琴美の家の倉庫まで運ぶのが常だった。その道中は……道行く人には不審がられ、犬には吠えられ、猫には逃げられ……いつもさんざんな有様だ。

 幸い? というべきなのかどうなのか……芽依子さん自身は暴走中に作った犬猫粘土の異様さには気づいていないようだ……。彼女の家に運び込まれた粘土細工のその後は……どうやら彼女の叔父に渡っているようだ。彼女の生活面を金銭から支える叔父は、芽依子さんの粘土細工を気に入っているようだ。知り合いの陶芸家に頼んで焼き上げて飾ったりしているらしい。

 俺はその話を聞いた時……その叔父さんはイトコ故に彼女と同じ性質を持っているのだろうと推測した。芽依子さんと同じようにあの粘土細工が持つ異様な力に気付いていないのだろう。一見は……精密に作られたい犬と猫だから。琴美は芽依子さんと同じ性質ではないようだが。

 焼き上がった犬と猫が、その存在感でまわりに迷惑を掛けていないか心配ではある。

「カズ! 行くよ!」

 一番初めに行動したのは琴美だった。呆気にとられていた猫店長に「釣りはいいです」と言いつつ強引に代金を渡すと、芽依子さんの手を引きつつ店から出た。机の上に置かれた犬猫粘土を鞄に押し込んだ後、俺も外に向かう。

「待てッ! ガキ共!」

 ドアを開ける時、そんな怒声が耳にこびり付いた。

 像を造る時に色々な感情を発散させたのか、芽依子さんは虚ろな表情になっていたが……その危うく無防備な体から、妖艶な色気が立ち上っているように感じてしまう。山之上がギャーギャー叫んでいた理由を噛みしめつつ、俺は先に行けとばかりに琴美に向かって手を振る。

「お前等、ふざけたまねしやがって……」

 背後から聞こえてきた怒声。俺はやれやれ……と心中で呟きつつ振り向くのだった。


「カズ、大丈夫だった?」

「大丈夫、怪我はない」

 俺は定食屋の角を曲り、その先にいる二人の元へと駆け寄っていく。

 あの状態の芽依子さんを引き連れて、逃げ切れるわけがない……そう判断した俺は、激高した男を足止めさせる為にその場に留まったのだ。多少は荒事になれている風の男の攻撃を捌きつつ、相手の疲労の色が濃くなった頃に軽く足払いを掛けて逃げてきたのだ。

「相変わらず、見事なものね」

「琴美の閃光のような剣捌きに比べれば、あんなの子供の遊びのようなものさ」

 小学五年生の時、一人で留守番をしていた俺は隣家で不審な人影を見て……愛犬と共にその家に忍び込んだのだ。警察に連絡する事もなく、大人を捜す事もせず。

 迂闊な行動故に俺は泥棒と鉢合わせした。だけど俺は愛犬に守られて無事だった。

 逆に泥棒の足に噛みついた愛犬シアンは、ナイフで刺されて重傷を負ってしまった。動物病院での手術と懸命な介護も空しく、数日後シアンは天に召されてしまった。

 迂闊な行動と力不足ゆえに俺は愛犬を失った。それから俺は空手と合気道を習うようになり、琴美にも遊びがてら特訓に協力してもらっていた。木の棒で本気で俺に打ち掛かってきてもらうように頼んだのだ。

 そう、凜香が見守る中、あの豪邸の広い庭で俺達二人は良く特訓した。その時の剣――ならぬ棒捌きを見たウメさんが、琴美を弟子に誘ったのだった。

 知る人ぞ知る剣の達人のウメさんが弟子を取る事はそうないらしく、運が良かったのだろうか? それとも琴美の才能が並外れていたのか?

「それより……早く隠れよう。ここだとまずい」

 琴美と芽依子さんは、猫神社の敷地を囲う低い柵の上に腰掛けていた。この場所だと先程の男が追ってきた時にすぐ見つかってしまう。

 俺達は鳥居を潜って竹藪に挟まれた石段を上がってく……入り口前にはでかでかと立て看板が立ててあり、そこには奇妙な事が書かれていたが……今その内容を気にしている余裕は無い。

 俺と琴美は芽依子さんを両脇から支えるようにして進み、手水舎の影に座り込んだ。琴美と一緒に芽依子さんをなだめないといけないな。そう思いつつ横を見て、彼女の様子がこれまでと違っている事に気付く。

 前の暴走の時、我に返った後は顔を青くしてしつこいぐらいに謝罪を繰り返していた芽依子さんをだったが、顔色は同じでも、両腕で体を抱えるようにして俯いていた。その瞳には複雑な色の感情が去来して、まだ周囲に意識を向ける余裕がないように見えた。

 大きく息を吐く俺、芽依子さんの背中をなで続ける琴美さん。どのくらいの時間が経過した後だろうか? 芽依子さんがそっと呟いた。

「い、いたの……見つかったのよ……」

「なにが?」

「琴美さんの父さんが……」

 え?

「あの猫は……あの猫は……琴美さんの父さんよ。間違いないわ」

 俺と琴美は顔を見合わせた。「そうなのか?」と意味を込めて眼を細めると「私に分かる分けないでしょ」と言わんばかりに小さく首を左右に振る琴美。

「な、なんでそう思ったんだ……」

 問い掛けつつ俺は思い出す。何処か懐かしいと思ったあの味、そしてあの喋り方。そしてあの体格。そうか…………なぜすぐに気付かなかったんだ。

「…………あの味と、声、かしら?」

 芽依子さんのその答えに心の中で嘘だ、と呟く。

 着ぐるみを被っていたせいか声は違っていた。声が同じなら俺はもっと早く気付いたと思う。それに芽依子さんは……あの猫頭を見た時から様子がおかしくなかったか? もっと別な要因で気付いたのか?

「みんなのおかげで、琴美の父さんを見つける事が出来たの」

 困惑に首を傾げる琴美に、俺は重々しく頷いてみせる。

「えっと……私は何もしていないわよ。カズの手柄よ。私と芽依子さんの為に……ずっと探し続けてくれたもんね」

 一番先に気付くべきであろう実の娘は、俺達二人の認識に後押しされたのか、戸惑いつつもなんとか状況を飲み込もうとしていた。

「いや、俺は自分の趣味で……」

 趣味で犬猫関連の店を探し巡っていただけで、琴美の父親を発見したのは偶然だ。と続けるつもりだった。だが琴美の「その先は言うな」と言わんばかりの鋭い眼光で口を紡ぐ。

「和馬さん……ありがとう。よかったね琴美さん、これで家族一緒にまた暮らせるよね?」

 鼻に詰まった声を聞きつつ、照れ隠しの弁解もできない俺には頭を掻く事しかできなかった。

「う、うん。ありがとう芽依子さん。ひやっほー」

「やっぱり子供は親と一緒に暮らさないといけないわ……そうよ。ずっと一緒に居られるとは限らないんだから」

 琴美の「ひゃっほー」はわざとらしさの極みだった。だが、喜びで胸一杯の芽依子さんにはそんな演技も本物に見えているようだった。

 そう。約一年前に両親が出て行った時も、琴美はそこまでショックを受けていないように見えた。これを言うと芽依子さんに怒られたのだが。「悲しんでないわけないでしょ! 琴美さん私達に心配かけまいとして強がっているのよ……」内心首を傾げつつも、芽依子さんの言葉の強さに、その時俺は頷かざるを得なかった。

 一番ショックを受けて悲しんでいたのは芽依子さんで、そして琴美の両親が見つかって一番喜んでいるのも彼女だった。

 それから数分ぐらい経過した後だろうか? 俺は痩せた壮年の男の接近に気付いた。服装からここの神主じゃないかと思う。

「どうされましたか?」

「えっと、ちょっと友達の具合が悪くなりまして……」

 と答えつつ焦った。俺の鞄にはあの犬猫の像が納められて今も怪しげなオーラを放っている……近くに寄られたら不審がられるに違いない。

「それは大変ですね。ここでは何ですから奥で休んだらいいですよ」

「どうする? カズ?」

「私は、もう大丈夫だよ……」

「…………少し、休ませて貰おうか」

 そう答えつつも俺は内心小首を傾げていた。この神主らしき人、犬猫像の気配に気付いていないのか? 神社の奥に向かい始めていた神主は、立ち止まって少し思案の表情を見せる。

「まぁ……大丈夫でしょう」

 俺達は、右手側に進路を変えた神主の後についていくと、社務所らしき建物の前で、その人は振り返った。

「ちなみに、貴方達この神社のことを知ってますよね? 入り口の看板を読みましたよね?」

 看板? 顔に疑問符を浮かべる女二人。俺は彼女たちと同じ表情を装いつつ、首に掛けたペンダントをそっと服の内側に隠そうとして……。

「カーッ!」

 裂帛の気合い。俺の手は弾かれて、ペンダントの飾りは神主の広げた扇の上にあった。

「貴方は、ここがどこかわかっていない……(ねこ)明神(みょうじん)の恐ろしさをわかっていないようですね。遙か昔、鬼が使わした妖怪の犬達を退治したと言われる(ねこ)明神(みょうじん)は……犬が嫌いなのです。霊力が高い私にはそれがわかるんですよ」

「カズ……」

 琴美の非難めいた声が聞こえてきた。そう、犬猫の好き嫌いという話から、芽依子さんの発作である「犬猫どちらがいいか?」という話に発展する可能性がある。そんな危険なところに芽依子さんを連れて来た事を責めているのかと思う。だが俺がネットで事前に調べたところでは、そんな情報はなかったんだが。

「ここでは犬に関する物を持ち込むことはできません。それに、この飾りからは……なにか良くない気を感じます。これはどこで手に入れた物ですか?」

 琴美に流し目を送ると、彼女は眉を微かに吊り上げつつ目を閉じる「それは私がプレゼントした物だって!」という心の叫びが聞こえてくるかのようだった。

「ただでさえ、今は……」

「?」

「いえ、何でもありません…… とにかく、そのような飾りを付けたままでは、この神社に入る事はゆるされません」

「既に入っているじゃん」

「すいませんが、手遅れになる前にここから出て行ってください」

 琴美の言葉を聞いたのか聞いてないのか、痩身の神主はぴしゃりと言い切る。

「鞄の奥にしまっても、駄目ですか?」

「駄目です」

「カズ……もう、ここを出よう」

「いや、琴美と芽依子さんはここで休憩していてくれ。俺はこのペンダントを預けてくる。言っただろう? この側に親戚の家があるんだ」

 何を言っているかわからない。と言いたげな表情の琴美と、まだ動揺が残っている芽依子さんを残して俺は踵を返す。

「じゃ、また後で」

 あの店で出会ったカップルが居るかも知れない――多少警戒しつつ、俺は鳥居をくぐって神社の敷地内から出る。その後、琴美にメールを送る「もう一度あの店を見に行ってからその後神社に戻る。ペンダントは鞄の奥底に入れていく、きっとばれないから」

 霊力が高い。そんな言葉は俺の鞄から漂う怪しげな気配を察知できない時点で眉唾物だ。

 メール送信後、コミュニティサイトをチェックすると、先程自分が投稿した猫店長の記事に対して、いくつかのレスポンスが返ってきていた。

 琴美の父親はようやく見つかった。後は母親だけだ。これからは猫好きのコミュニティサイトの方に力を入れないといけない。犬関連のサイトからは手を引いてもいいぐらいだ。先程の猫店長の写真はネットの猫好き連中に送ってもいいかもしれない。猫好きの母親なら、あの写真を見て反応しない訳がない。

 猫店長を見た時の感想文は、短時間で打ったとは思えない程長かった。無駄に熱のこもった投稿は効果があったのか、私も行きたくなった。という反応がチラホラ返ってきていた。

 その中で「暇だから、今から行くわ」という内容の書き込みが今から一時間前にあった。書き込み者を確認すると、猫好きコミュニティサイトの中でも特に大きなサイトの管理人だった。

 確かこの人……猫のペイントが施された車に乗っているって言ってたな。その画像がサイトに上がっていたな。あれは痛車?っていうんだっけ?

 携帯を閉じて、ペンダントを外そうとしていると、一台の車が俺と神社の前を通り過ぎて、確かああいう車だったと頷く。

「え?」

 驚愕は、それだけに留まらなかった。

 俺の眼前を通り過ぎた後、少し離れた場所に止まった猫痛車。そこに乗っている二人の大人を見て言葉を失う。運転席から降りた小太りの男が俺に近づいてくる。

 俺はひとまずペンダントをポケットに仕舞ってから、その男と向き合った。

「おーい、そこな少年。ちょっといいかな?」

「……ああ、はい」

 こいつ、知っていたのか……という思いが沸き上がり、拳に力がこもるのを抑えられない。

「犬好きの定食屋って店を知っている? この辺の筈なんだけど……」

 目の前に立っているのは角刈りサングラスで紫色のシャツ。胡散臭い格好でいまいち好きになれない……琴美の叔父だった。正確には琴美の母の弟。向こうはどうやら、数回会った俺の事は忘れているようだが。

「ああ、あれね。いい年してあんな格好しているけど……まぁ大目に見てやってくれ」

 俺の視線を追った琴美の叔父は、車の助手席を指さしつつ言う。そこにいる猫のコスプレをした女性は……琴美の母親だった。

 盲点だった。その弟が存在を知りつつ琴美と芽依子さんに隠している可能性を考慮しなかった。この線から辿ればもっと早く見つけられたのに……。しかし、同日に両親共に見つかるとは。

「犬好きの定食屋は、その角を右に曲がったらすぐに見えます……」

「おう、そうか。ありがとうな、少年」

 そう言った後、紫のシャツを着た男は、神社の入り口を見て顎に手を当てる。

「少年。神社の正面入り口はこっちか?」

「そう、だと思いますけど?」

 男は「あっちは裏口だったか……まぁいいか」と呟いた後、車に戻った。

 車が角を曲がって見えなくなった後、何とも言えない脱力感に襲われて、俺はしばらくそこに佇んでいた。やがて夢遊病者のような足取りで車を追う。曲がり角の先、定食屋の前では三文劇が繰り広げられた。

「その猫の着ぐるみどこで売っているか教えてくれませんか!?」

「しつこい! 着ぐるみって何のことだ! だから俺は猫なんて嫌いなんだって何度も言っているだろう?」

 猫店長が腰にしがみついた女性を引きずりつつ、戸を開けて表に出てきた。

「そう言いつつ、猫メニューを持ってきたじゃないですか? 猫コーヒー?」

「俺は、そんな物はつくらない! ここは犬好きの定食屋だ!」

「そう……あえてそう言っているのね……深い、計り知れなく深いわぁ」

「俺が一番嫌いなのは猫じゃない……猫が好きな人間なんだ! 猫の格好をした奴は立ち入り禁止だ!」

 そう言い放って、猫店長が琴美の母親を突き飛ばす。

「……だがアンタなら、また来ても良いぞ。その格好をしていてもな……なんだかこう、懐かしいというか妙な気分になってきたぜ」

 女性の少し悲しそうな表情を見て、猫店長は少し和らげた声でそう言い残して店内に戻っていく。

 なんだか俺は無性に腹が立ってきた。知っていてやっているんじゃないだろうな? この夫婦?

「ねぇさん、大丈夫かよ。いろんな意味で心配だぜ」

 遅れて店内からでて来た琴美の叔父の台詞には、業腹ながら少し共感を覚える。

藤四郎(とうしろう)、私決めたわ。ここの店長に弟子入りする。この店の魅力を身につけられたら、あの人を猫好きに変えられる力を手に入れられると思うの」

「あっそ。とりあえずもう行こうぜ」

「ちょっと待って、この店をもう少し見ていきたいの……」

「はぁ、そうですか。じゃ、俺ちょっと行くぜ。部下も送り届けたしな。ねぇさんはで電車で帰ってくれよ」

 そう言って、男は猫のマーキングが施された車に戻る。Uターンをして来た道を引き返す車を尻目に、俺は琴美の母に近寄っていく。その傍らに立ち、無造作に言葉を投げかけた。

「お久しぶりですね。琴美のお母さん?」

「あら、もしかして…………和馬君? ひ、ひさしぶり、ね。もしかして琴美も一緒に居たりする?」

「ちょっと離れた場所に居ますよ? 呼びましょうか?」

 するっと携帯をとりだしてみせる。

「ちょ、ちょっと止めて、お願いだから止めて!」

 目の前の大人が慌てれば慌てるほど、逆に冷静になっていく自分がいた。

「あ、見つけたぞこのガキ!」

 先程の男か……ああ、もうめんどくさい。肩に置かれた手を振り払い、俺は振り向くと共に全力の拳を男のみぞおちに叩き込んだ。崩れ落ちる男と女の甲高い悲鳴を尻目に、俺は琴美の母親に向き直る。

「で、今までどこで何をしていたんですか?」

「か、和馬君ちょっと顔が怖いわよ?」

「話を逸らさないでください……娘一人家に残して、今の今まで何をしていたんですか?」

「あ、あれ~? 家には健一さんも居るんじゃなかったの」

 逸らされた目と口調が白々しい。この人、知っていやがったな。顔が引きつるのが自分でもわかる。

「いや、その……健一さんに猫の良さを知って貰う為に、色々研究をしていたの。もうすぐだったのよ! もうすぐ健一さんと仲直りする為のその……ほら、あれが……」

「アレって何ですか?」

「もうすぐ、猫喫茶を開店できる目処が立つところだったの……」

「もうすぐ『目処』がたつ、ねぇ……」

 頭痛がしてきた、俺は頭を片手で押さえる。

「要は、自分の店を持ちたかった、と?」

「それも……ちょっとあったかもしれない。だって健一さんが酷いから……」

「どっちが悪いにしろ、被害者は琴美と芽依子さんだと思うのは僕だけですか? 部外者の僕はこんな事偉そうに言える立場じゃないと思いますけどね!」

「か、和馬君……そんなに怒らないで欲しいニャン♪」

 眼前の女性は年甲斐もなくウィンクして丸めた拳でポーズをとる。

 俺は拳を振り上げた。ひっと息を飲む琴美の母親。

 鈍い音と共に、血しぶきが飛んだ。


 その後、猫神社に戻った俺は、掃除をしていたお婆さんの案内で社務所の裏から座敷に上がった。廊下を歩き奥の部屋の戸を指して「友達はこの部屋で休んでますよ」と言いつつ去るお婆さん。

 俺が戸を開けると畳の上で芽依子さんが座り込んでいた。

「和馬さん……どうしたの? 血が……」

「何でもないさ。それより芽依子さん、もうその……大丈夫なのか?」

「ごめんなさい……もう、大分落ち着いたから」

 充血した目ではにかむ彼女を見ていると、何とも言えない気分になってくる。

「それよりもどうしたの和馬君。顔が酷いことになっているよ? 痛くない? ちゃんと手当てしないと」

「……」

 俺は先刻の出来事を振り返る。


「ひいっ」

 血が飛び散り、悲鳴を上げた琴美の母親の頬に血が数滴飛び散る。

「和馬君、な、なんで……?」

 自分で自分の頬を殴った俺を見て、琴美の母親は怯えているようだった。

「僕の事はどうでもいいんですよ! 動物だって、人間だって命は愛情を与えられて輝くんだ! アンタ達が家を空けて、芽依子さんと琴美……がどれだけ悲しんだが!」

 琴美の名前を呼ぶ時に、少し言い淀んでしまった。

「ご、ごめんニャン」

 今度は左拳で左の頬を殴る俺だった。


「なんでもない、なんでもないんだよ……芽依子さん」

 何はともあれ、琴美の両親が見つかって良かった……本当に良かった。

 俺は何も言わずに芽依子さんを見下ろしていて、不躾な視線に晒された大学生は顔を伏せていた。

 すぐに一人娘の所に戻ってと言う俺に対して、琴美の母はゴニョゴニョごねて一向に埒が明かないので、一旦連絡先を聞いて引き上げることにした。数日の内に琴美のもとに帰ることを何度も念押ししたが、それでもまだ心許ない。後で携帯に連絡しないと……。

「カズ~、いつまでそこに突っ立ているわけ?」

 そろってその声の主、琴美を見る俺達。あぐらをかいて座っている琴美の格好に俺は目を見開く。

「お前、なんで……巫女さんの服を着ているんだ?」

 琴美が親指でちょいちょいと指さす方向には、彼女と同じく巫女服を着た芽依子さんが居た。なんで気が付かなかったんだ……食い入るようにマジマジと見てしまい、また芽依子さんは顔を伏せる。

「なーんか、ずいぶんリアクションが違うような気がするんだけどな~ 気のせいかな~」

 何か言い訳しようとして琴美の方を再度見たが、俺の口はモゴモゴ動いただけだった。

「やっぱり、和服は胸がない方が似合うのかな?」

「こ、琴美……っ」

「?」

 一瞬寒気がして芽依子さんを見たが……彼女の顔におかしいところはなかった。

「ちょっと、神主さんにバイトをしないかっていわれてね。巫女服には興味があったからちょっと試しに着せて貰ったんだよ」巫女服を指先で摘みながら、そんな事を言う琴美。

「来週祭りだから、その手伝いとかなのかな?」

「どうも、それは違うみたいなのよ……今、その仕事に関係する人が急に来る事になったからって、説明が途中で中断されたのよ」

 今、来ている……俺の中でピーンと来る物があった。もしかして……

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