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第一章 変態の男子でも弁解します

「脇腹がいてぇ……俺じゃなかったら内蔵がえぐれていたぜ」

 六月の昼休み、同じ中学出身の高校生三人と、大学生一人の合計四人で昼食を食べていた。

「アンタじゃなかったら、そもそも蹴ってなかったわ」

 昨日、蹴られた脇腹を押さえながら山之上が言うと、ショートカットの女子高生が淡々と答える。

俺達が今居るのは、屋上へと向かう階段の踊り場だった。屋上は封鎖されているうえに、ここの壁際には机と椅子が積み上げられていておまけに薄暗い。こんな所で昼飯を食う物好きは俺達四人だけ。皆はこの建物の一階にある大学高校共同の食堂でお昼にしているだろう。

 男性陣は階段に腰掛けて、女性陣は無断借用の椅子に腰掛けていた。

「酷い……俺が和馬を虐めるわけないでしょうが、俺は男に対しては虐める趣味も虐められる趣味もねぇ――よっ」

 そう言いつつ大袈裟に両腕を掲げたのは、隣のクラスの山之上(やまのうえ) 宗一(そういち)

 「女に対しては?」と俺が混ぜっ返すと、奴は何時も通り芝居がかった動作で肩まである髪をかき上げる。

「フッ、言うまでもないだろう。相棒」

「……だな。だが俺は女を虐めたくはないな」

「虐められる方はどうだい、和馬?」

「それは、是非ともお前に聞いてみたい。昨日もいい感じに蹴りを食らってたじゃないか?」

「ああ、そうさ。あの時わかった! 明確にわかった。…………ドSだ(こと)()は!」

「山之上、今お前は俺の中でただの同級生から親友に昇格した」

「ただの同級生って所に引っかかるが…………おお、友よ!」

 俺と山之上は、箸を持たない左拳をぶつけ合った。

「芽依子さん、男って馬鹿ね」

 溜息混じりにそう言ったショートカットの女子高生は、同じクラスの杉浦(すぎうら) (こと)()。女にしては背が高い彼女だが、華奢な印象もごつごつした感じもない。女性にこんな事を言うのは失礼だろうが―― 彼女を動物に例えるに、野生の「雄」鹿が一番しっくり来る。

「彼等はご飯より、自重という言葉の意味を噛みしめた方がいいのかもしれない……」

 そう溢したのは、大学一年生の鹿谷(しかや) 芽依子(めいこ)。女性にしても少し背が低い彼女は、この中で一番年下だと言われても違和感がないだろう。その腰まである茶色の髪は箇所によって少し濃淡が異なり、角度によっては縞々に見えなくもない。

「それにしても、女の子に向かって酷いこと言うわね。口もきけなくしてあげましょうか?」

「山之上謝れ、ドSな(こと)()に向かって、ドSと言ってごめんなさいと言って謝れ」

「すいませんでした! ドS」

 ああ……弁当を置いて素早く移動した琴美の水平チョップが、山之上の昨日蹴られた場所へと吸い込まれていく。山之内の口から「ヘブシ!」という意味のない言葉が漏れた。

「俺の助言に従わないからこうなる」

「………………わかった……今度こそ」

 山之内が「ごめんなさい! ドS」と言った瞬間、自分の弁当に伸ばされつつあった琴美の手が、ふたたび鋭利な包丁のように変貌した。それが向かう先はまたも同じ。

 「ヘブシ!」は二度目だったが、やっぱり意味はわからなかった。

 『すいません』を『ごめんなさい』に変えても意味がないぞ?…… そんな突っ込みをする事に意味がなかったので、俺は再度端を動かす。

「芽依子さん~ あのろくでなし二人が私を虐める~」

「私のハンバーグを分けてあげるから……」

 琴美は体を伸ばして、芽依子さんからハンバーグを受け取る。二人とも椅子を無断借用しているのは同じだが……芽依子さんは隅に積まれた机の隙間の椅子に座っている。本人曰く「狭い所の方が落ち着く」らしい。

「……あれ、芽依子さん。このハンバーグこの間と味が違うよ? ちょっと生焼けだし」

「私用のハンバーグからは、タマネギを抜いているから……生焼けなのも私の好みなの」

 と言って水筒に口を付ける芽依子さん。おそらくその中身は水だろう。偏食家の芽依子さんは、野菜を全く食べないし、ジュースやコーヒーも飲まない。肉と水ばっかりでは体に良くないと思うのだが……。

「でもこれもおいしいよ。さすが芽依子さん、私の嫁~」

 見た目麗しき女性二人の抱擁を前にすれば、隣から聞こえてくる「うごご……」という意味不明の呻きも、小川のせせらぎのように感じられた。

「しかし、カズ。アンタも酷いね」

 抱き合う二人を視界に納めて心の中でシャッターを切りまくっていると、ショートカットの女子高生が黒色の瞳をこちらに向けてくる。

 俺を「カズ」と呼ぶのは、物心つかない頃からの付き合いである琴美だけだった。

「そーだーそーだ、酷いぞ和馬、お前も脇腹にチョップ食らえ」

「なんで隣に座ってくれないのさ? 席を用意したのに……」

 すぐ隣に置いてある椅子を指さしつつ琴美はそう溢す。その空席に座ると琴美とは肩をすりあわせんばかりの距離になるだろう。用意と言っても、壁際に積んである椅子を移動させただけなのだろうが。

「あー、まぁ、二人っきりの時ならともかく……今は他に人が居るし」

「…………別に、遠慮しなくてもいいよ和馬さん、琴美さん」

 チラッとこちらを見た後、膝の上の弁当に向き直る芽依子さん。弁当の中身は見事に肉系のみだった。

「……遠慮していいぞ、俺が屋上から飛び降りるかもしれんが、気にしつつイチャイチャしてていいぞ」

「いいじゃん、芽依子さんとも一年以上の付き合いなんだから」

 ふくれっ面になった琴美は、ようやく芽依子さんをその腕から解放した。

「いよっし、中学一年からの付き合いなのに俺は数に入ってないぞ~! ふっ……今日は死ぬには良い日だぜ……」

「山之上さん、私のハンバーグわけてあげるから……」

「ありがとう、芽依子……俺の芽依子」

「……」

「ああっ、芽依子さん引かないで! 畜生ハンバーグうまいぜ! 隠し味は涙の塩! 俺の塩!」

「まったく、てんでだらしないな。うちの彼氏は……まぁ、今日はそんな彼氏に助力をお願いしているわけだけど。カズ、今日は頼むわね……芽依子さんも悪いけどお願いね」

 箸で持ち上げた芽依子さんのハンバーグを見つつ、琴美はそんな事を言う。

「何度も言っているけど、琴美さん気にしないで。私、料理が好きだし……それに、店がああなったのは私のせいだし……」

「だから、芽依子さんのせいじゃないって何度も言っているんだけどねぇ……」

 そう言って「困ったもんだ」と言いたげに、琴美は肩を竦めて溜息を吐く。

「なに、琴美の店……えっと、犬猫とハンバーグ、だっけ? 今日また臨時開店するの?」

 琴美の家はレストランだが、一年近く通常の営業をしていない。彼女はイトコの芽依子さんと一緒に、身内限定の完全予約制で店を開いているのだ。。

「そう。本当は私と芽依子さんでお店を開く予定だったけど、私、ちょっと急用ができちゃって。代わりにカズに手伝ってもらう事にしたの……」

 山之上の質問を受けて、琴美が急用についてしゃべり出す。高校の弱小剣道部の試合が今日あるのだが、一人急に具合が悪くなって私が助っ人に行く事に……

 その説明が終わった後、しばらく俺達四人は無言で箸を動かしていた。

「いやー、あまり話したくはないけど、今度カズと二人でお泊まり旅行に行く予定なんだ~」

 山之上に続いて昼食を食べ終えた琴美は、唐突にそう切り出した。それを聞いた時、俺は箸で掴んでいた芽依子さんお手製のハンバーグを落としそうになった。

 料理修行中の芽依子さんは、週に一回ここにいる高校生に弁当を作ってきてくれるのだ。今回は俺の番なので落とすわけにはいかない。

「奥さん、聞きまして? 話したくないと言いつつ自分から喋っていますよ?」

 体をくねくね動かしながらのたまう山之上。それに被るように「どこに?」と聞く芽依子さん。

「北吉村の旅館」

「ああ~、あそこか。懐かしい。昔は毎年三人であの村の(りん)()の別荘に行っていたよな……何でその旅館にしたんだ?」

(りん)()の別荘を管理している人が旅館も経営していて、安くしてくれたの」

 ほら、と財布から取り出した割引チケットを翳す琴美。

「も、もしかして、その(りん)()って……もしかしなくても、島峰(しまみね) (りん)()ちゃん?」

「山之上に、(りん)()をちゃん付けで呼ばれたくないなぁ……」

「俺も呼んでくれよぉ」

 島峰(しまみね) (りん)()は、俺や琴美の二歳年下だった。俺達が高校二年生なので、今、彼女は中学三年。

 「別荘」という単語から連想するイメージ通り、金持ちのお嬢様である彼女は、金髪碧眼の目立つ外見をしていた。神の作り出した彫像と言われて納得しそうな凜香の端麗な容姿は、芽依子さんに勝るとも劣らないと思う。ただ芽依子さんと違い、彼女には儚げで脆そうな印象がずっとあった。病弱で足が不自由な事もその印象をより強くしていたと思う。

 山之上の悲痛な叫びを完全にスルーする琴美。懲りない彼はこちらに顔を寄せてきた。申し訳ないと思いつつも、少々ゲンナリする俺。

「和馬! 友達の友達は友達だよね?」

「俺とお前は友達じゃないけどね」

「まぁ、その議題については明日にしよう、明日。あの凜香ちゃんは是非とも我が演劇部に欲しい! 紹介してくれ!」

「あの子は、今中学三年生で……こことは別の……」

 そう。俺は小学五年生の時に凜香に『出会』い、琴美を含めた三人でそれから良く集まるようになった。だが、凜香はここから離れた中学に通うことになり、それから俺達三人が揃う事はほぼ無くなった。まぁ、凜香が中学生になるその前年の秋頃から、会う回数は減っていたのだが……そして、今凜香は……

「今は隣の中学に通っているんだよな?」

 この敷地内にあるのは中高大一貫教育を掲げている一源大学で、それに付属する高校と中学があり、それぞれ一源高校、一源中学と呼ばれている。完全なエスカレータ式ではなく、高校、大学に入る時に試験が必要で、それは付属校以外の者が受けるのとそう難易度は違わないという話を聞く。

 そう、今は山之上が言った情報が正しい。今年の四月……中学三年になる時、凜香は隣にある一源中学に転校してきたのだ。

「だが、彼女は今まだ中学生だ」

「それにあの子、ここの高校には入らないわよ」

「なぬ!?」

「たしか、海外の大学に行くんだってさ。高校をすっとばして」

「あたま、いいんだな」

「その発言を聞くに、山之上は早めに大学受験に備えて勉強した方が良いと思う」

「そうか。俺も海外の大学受けた方がいいって事だな!」

「…………」

「だからカズ、旅館に行くわよ。もちろん二人きりで、ね。今年の夏は決めるわよ!」

「うーん、女の子の発言とは思えぬ……」と呟く山之上。

「今週末だっけ?」なんて、俺はわかっていつつ聞く。

「うん」

「電車で行くのか?」

「もちろん。二人っきりって言ってるでしょう?」

 あそこに行くのなら……俺は脳内に地図と経路を思い浮かべる。なんやかんや言って数時間かかる道程。近場はともかく、遠い場所には何点かまだ制覇していないところがある。

「ついでに行きたい所があるんだけど……」

「はぁ、どうせ動物関連なんでしょう? それって本当についでになるんでしょうね? 言っておくけどペットショップとか動物園は駄目よ」

「そうだな、それが駄目なら……お昼を食べるだけにするか」

 そう言いつつも、選択権があってもお昼を食べる事、食事の店を選ぶ事を優先したと思う。

「それでも、動物が絡む店なんでしょう? まったく……仮に旅館でどんな事をしても……動物園とかに行ったら、その記憶の方がカズの中では上位に来そうなんだよねぇ……」

「何をするつもりなんだ、と突っ込んだら負けのような気がするが……それならその行為に動物を絡めたらどうだ?」

 そう言った山之上をマジマジと見返す琴美。困惑しつつも山之上は言葉を継ぐ。

「猫とか、犬のコスプレをして……おいおい、真剣に考えているよこの人。お前等が旅館についたら、頃合いを見計らって通報してやるよ。変態があの旅館で変態行為をしているって」

 現れた警察官は、真っ先に通報者を連行するだろうよ。と心の中で突っ込みつつ、俺は再度記憶を探る。

「どの店にするかな……」

「動物がらみでお昼が食べられるところがそんなにあるの?」

 箸を止めて、青色の瞳を瞬かせながら、芽依子さんがそう尋ねてくる。

「そんなにいう程無いけどな。インターネットの偉大さをつくづく思い知るよ。情報を入手するのにあれほど便利なものはないよなぁ……」

「私はパソコン殆どさわんないけど……カズがそのホームページってのを自分で作っていないのが意外だわ。自分の趣味を押しつけがましくアピールしたのを作りそうだから」

「まぁ、父さんが作ったうちの動物病院のホームページがあるからなぁ。アレをみたら自分で作ろうとする気があまりおきないよ」

 首を傾げていた琴美に隣の芽依子さんが「和馬さんとこの動物病院のホームページ凄く凝っているから……」と補足説明を入れる。

「その代わりに、お前なにかコミュニティサイトとか複数登録しているよな? 更新もマメにしているようだし……なんだろ? お前、そういうネット上の交流にあんまり興味がなかったけど、ある時期から急に……」

「琴美、何時ぐらいから集合しようか?」

 山之上の台詞を遮る為にとっさに口にしたのは、今週末の事。まだ決めあぐねていたそのイベントを自ら推進してしまう事になってしまったが……喜々として反応する琴美を前に、後に引けない状況になっていた。

 山之上の言葉を封じる代償として、それは対等だったのかどうか。しかしあの先を言わせると……知られたくない事実がほじくり返される危険性がある。しかし……あの村に二人きりでいったら……凜香を含めた三人で遊んだ時の事を思い出してしまうだろう。それで気まずい雰囲気にならないだろうか。

 その旅行に際しての俺の一番の心配事項と言ったらそれで、琴美が怒ると思いつつも、一度凜香を誘ってみるのはどうか? 彼女が無理なら、山之上と芽依子さんを誘ってみるのは? 

 残りの弁当を平らげつつ、俺はそんな事を考えるのだった。


「さてと、それじゃ。みんな食べ終わったし、そろそろやりましょうか」

 全員が昼食を食べ終わった後、琴美はそう言って俺を見据えた。

 ちなみに昼食を食べ終えたのは芽依子さんが最後だった。小さく頷きつつ食べる彼女の食べる速度が遅かったと言うよりは、食べている最中に居眠りしてしまったからだ。

「なんども言うようだけど……」

「ノンノンノン、その先は言わなくても良いし、言っても聞かないし」

「もう治ったと思うんだけどなぁ……」

 同意を求めるように芽依子さんに顔を向けたが、彼女は微笑んで首を傾げただけだった。

「はいはい、それを判断するのは私達だから。そして私がみるにアンタの病状はまだまだ根が深いわ。ねぇ、芽依子さんもそう思うよね?」

「うーん…………そうね、まだ治療を止めるのは早い、と思う」

「会話だけを聞いていると、そんなに可笑しい事はないんだけどなぁ……なんでそこで取り出すのがそれな訳?」

 一足先に食べ終わっていた山之上は、怪しげな本を仕舞いつつ問い掛けてくる。彼の視線は、琴美が鞄から取り出した猫耳付のヘアバンドに向けられていた。

「ごめんね山之上さん……お願い」

 申し訳なさそうに言う芽依子さん。貴方が謝る必要がない……何度言ってもきりがなかったので、俺は何時しかその台詞を口にしなくなった。

「いつもすまないな、山之上」

「いーけどさぁ、何時も通り見張りで良いけどさ、なんで手錠をかけるわけ? お前が目指しているのは獣医だよな? 極上の変態じゃないよな??」

 いつかはおしえてくれよー、といいつつ階段の下に降りていく山之上。

「それじゃ、はじめるわよカズ……」

 すまない、俺はお前と同じ「変態」という道を歩いて行くことはできないんだ……心でそう呟きながら山之上を見送った後、俺はガチャリと言う金属音を耳にした。

 俺が首を動かすと、階段の手すりと左手首を結びつけている手錠が見えた。

 いつの間に……これを付けたんだ? 感心しつつ芽依子さんを見たが、その眼差しを勘違いしたらしい彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。いつの間にか手錠係となっていた芽依子さんの鮮やかな手際。週に一度、鞄に手錠を潜ませている大学生。

「琴美さん……たまには私が変わろうか?」

 俺は既に変態の領域に踏み込んでいて、彼女まで誘おうとしているのか? 芽依子さんのその言葉に、俺は今更のように危機感を抱いた。

「あー、いいってば芽依子さん。もう昔と違うんだから。コイツの病気は私が面倒を見るわ」

「なぁ、俺って変態かな?」

「カズが変態だろうがなかろうが、そんなの私からしたら関係ないの、ね?」

 そう言って柔らかく微笑んだ杉浦……琴美。強気な表情が似合う彼女のそんな仕草、滅多に見ない顔に戸惑った後に胸がチクリと痛んだ。その痛みの正体を俺は……。

「私も……下に行っているね」

 そう言って下に降りだした芽依子さん。強くなる痛み。

「ちょっと、芽依子さん。コイツが暴走したらどうするの?」

「今までは見張っていたけど……いくら和馬さんでもその手錠は壊せないから、私が居なくても大丈夫でしょ?」

「変な、芽依子さん……」

 違和感を噛み殺すように琴美は呟いた後、俺に向き直る。彼女の手には猫耳付のヘアバンドがあった。

「それじゃ、今度こそ、ね……」


「どうせオイラは蚊帳の外~」

「なんだその歌は」

 昼食後一時間の授業を挟んだ後、めでたく放課後を迎えることになった俺は、山之上、琴美と一緒に廊下を歩いていた。

「歌じゃない、叫びだ……現代社会という名のコンクリートジャングルで生きるピエロ達、せんべいのように薄っぺらい上辺だけの付き合いで渇いた心が……叫んでいるのさ」

「どうやら俺も同じ変態の道を歩んでいるかもしれん。お前は一人じゃない……」

「近寄るな阿呆! 幸せな変態と、不幸せな変態……彼女がいる変態と、彼女がいない変態……俺達は永遠にわかり合えぬのだ! それに俺は、変態の演技をしているだけなのだ!」

「ちょっとアンタ達、他の人の目もあるんだから、こんな所ではしゃがないで」

山之上と下駄箱で言葉の刃を交わしていると、琴美が釘を刺してきた。彼女の俊敏な攻撃を知っている俺達は黙って目配せをして、上履きをしまって靴を取り出す。

「まさか、私がいない時もこんな事ばっかり言っているの? 芽依子さんの前とかでも……」

「失敬な! 俺達は綺麗な花の前では大人しいぞ。毒を吐くのは、危険な花の前だけ……ッ」

 琴美の右手が閃いた後には、彼女の手にはテニスのラケットがあり、さらにその先には靴箱に縫い止められた山之上の体があった。俺は確信する。コイツは変態な上に学習能力のない馬鹿だと。

「危険な花って、なんのこと?」

「この状況が……、す、全てを物語っている気がするのだが……」

 しかし……、山之上を靴箱に押しつけているラケットを見つつ思う。いつケースから取り出したんだ?

 高校に入るまで剣道をやっていた琴美は、本人曰く居合いの方が得意だったらしい。そのスキルは得物の形状が変わっても遺憾なく発揮されているように思える。

 俺はプルプル震えている山之上に近づき、奴を褒め称える。「生まれたての子鹿の演技だな。見事だ! 山之上!」ぐっと拳を突き立てて応じる演劇部部長。言葉を発する事ができないほどにダメージは深いようだ。

 苦しそうな山之上を尻目に、学校の外に向かって歩き出す琴美。

 同じ中学メンバー三人そろって帰るのは久しぶりだった。いつもはテニス部の活動で忙しい琴美を覗く二人で帰ることが多かったのだが、今日琴美は弱小剣道部の助っ人で今日はテニス部を休む。駅までとはいえ俺達と無理に下校を合わせなくてもよかったのに。

 中学生の時、剣道で名が通っていた琴美だが、高校の剣道部の熱烈な勧誘を断わってテニス部に入った。「女の子らしさを磨く為」が、本人の談だったかどうかは思い出せない。

 琴美と違い俺達二人は文化系のクラブに入っていた。俺は陶芸部、山之上は演劇部。それぞれが殆ど部活の体をなしていなく半ば廃部の様な状況だった。どちらかと言えば演劇部の方が廃れ具合はマシだろう。陶芸部は美術部のおまけのような物で、今にも潰れそうな状態だった。

 大袈裟に溜息を吐きつつも、校門を出たところで琴美は俺達を待っていた。

 琴美に追いついた俺は、山之上が来るまで隣にある大学の校舎を眺める。

 芽依子さんとはタイミングが合えば一緒に帰る事にしているが、なかなかその機会は少ない。予定を教えてくれないので合わせようがなかった。大学のスケジュールを入手した山之上は、それに当てはめて芽依子さんが帰る時間を予測したが、講義の殆どを休んでいるらしい彼女相手には芳しい結果は得られなかった。

 神出鬼没のサボり大学生。誰もが足を止めるその容姿は、大学生でも中々お目にかかれないらしい。

 高校の校門を出て道を曲がった時、ちょうど隣接する中学の下校時間と微妙に重なったのか、中学生の姿がチラホラと見えた。

「おや、アレは……」

 琴美に続いて、俺もちょっと雰囲気の違う車を発見した。後ろが膨らんだワゴン型ながらもあのエンブレムは外車だと思う。角張った黒塗りのボディから漂ってくる高級感と清潔感。

 もしかして……と思いつつ、中学校の校舎の方向を見ると、車椅子に乗った凜香が視界に入った。遠く離れていても、驚きに目を見開いた後、彼女が顔を逸らした事がわかってしまった。

 車椅子を押していた老婆が俺達の存在に気付き軽く会釈する。同級生らしき二人の女生徒もこちらに気付いたようだ。

 今年になってまたこの町に戻ってきた凜香。今年中学三年生で、来年は海外の大学に飛び級予定の天才児。もう一緒の時を過ごせるのは一年もないのに、俺達はまだ数回しか会っていない。

 俺と琴美は自然と足を止めていた。山之上の戸惑う気配が伝わってくる。

「ひさしぶり、だな。凜香」

 凜香が華奢な体で小さく会釈すると、腰まである艶やかな金髪が揺れる。凜香の表情は何処か硬く、それに寂しさを感じつつも俺は車椅子を押すウメさんを見遣った。

 黒い燕尾服を着た「いかにも」金持ちの執事と言った風情の老婆。その格好は俺の長年の苦労の成果でもあった。

「いいですね、いかにも良いところのお嬢さんって感じですね」

 悪戯小僧のような輝きを目に宿らせ、にやりと笑う老婆。その下では凜香が「……貴方がそうし向けたんでしょう……」と、呟いていた。

「やーっぱり、金持ちは金持ちらしく振る舞ってくれないとな。それの方が遠慮無く妬めるってもんだぜ」

 俺は凜香が初めて黒塗り高級車に迎えに来てもらった時の事を思い出していた。

 

(おお、いかにも良いところのお嬢さんって感じだな!)

(貴方があまりにしつこいから…… その要望に答えてあげましたよ)

(凜香、この車目立つってので嫌がっていたのに…… カズ、もうちょっと早く来れば、執事っぽい人がドアを開ける所が見れたよ?)

(執事? 執事って……おぉ、ウメさんじゃないですか! どうもです。一瞬だれかわかんなかった…… いかにもそれっぽいな、ちょっと感動しますよ。凜香はそのまま、漫画にでも出てきそうなお嬢様キャラとしての地位を確立していって欲しいね)


 知り合った頃の凜香は自分が裕福であることに引け目を感じていた。ひけらかすなんて事はせず、ひた隠しにしようとしていた。

 遠慮したり気を遣ったりする間柄が嫌で、凜香の引け目もなくしたかった俺は…… 彼女の『お嬢様キャラ』をオープンにする方向に持って行こうとした。その為に、凜香とその周囲を徐々に誘導していった。

 憮然としつつ、なんやかんやいって俺の要求を少しずつ飲んでいく凜香。

 俺の誘導を嫌がりつつも、まれに変な事――琴美への悪戯の助力とか――を頼むと「そんな事をしたら、貴方が確立しようとしている私の『お嬢様』としてのキャラが崩れますよ?」なんて事を言う凜香が面白かった。凜香を誘導したのは、このネタで彼女をからかうのが楽しかったという不純な動機もあったのだ。

 

 この町に戻ってきた凜香。隣の中学に通うお嬢様に、俺は避けられていると思っていた。だがそれでもあえて昔のままのように接してみた。

 そして彼女は昔のように大仰な溜息をついたが――視線は僅かに逸らされたままだった。

 数年前なら――俺達にしかわからない程微かに頬を膨らませて、青色の瞳でこちらを睨みつつ小さな声で抗議してきたんだが。

「あいかわらず……ですね」

「まぁな」

 訪れた沈黙に焦る。俺と琴美と凜香。三人の時も二人の時でも――こんな変な間が空くことは無かったのに。

「……また、昔のように三人であそぼうぜ」

「ごめんなさい。いま……私、勉強で忙しいから……」

「そうか、来年から海外の大学に行くんだったよな? すごいなぁ、もうそうなったら琴美の宿題手伝ってもらえなくなるなぁ」

 アホか、最後に二人で琴美の宿題を手伝ったのは、三年前……俺と琴美が中学二年で、凜香が小学六年の時の事だろうが……。そしてその夏では初めてミッションを失敗した。

 その時、凜香は俺のせいで緊急入院して、残りの夏休みを病室で過ごす羽目になったのだ。

「まぁいいや、カズ。今度こそ二人っきりで遊ぼうよ」

「お、おい……」

 目立つ車に燕尾服ばあさんと車椅子の金髪少女。ただでさえ俺達は衆目を集めているのに、だめ押しとばかりに俺の腕にしがみついてくる琴美。

 ウメさん行きましょう。凜香の言葉を受けて車椅子を押し始めるウメさん。車の後ろが開き、車椅子が乗り込む為のスロープが降りてきた時、俺は少女の背中に声をかけた。

「凜香、今週末に俺達、あの別荘があった村に行くつもりなんだ」

 何を言うつもりだ? と言わんばかりに俺の脇腹に押し当てられる琴美の肘。

「凜香も一緒に行かないか?」

 言い終わると同時に、腹に肘が打ち込まれて数秒息が詰まる。

 琴美の抗議はわかる。そういうわかりやすい行動をしてくれてありがたいとすら感じる。

 いま、俺達と凜香の間には曖昧でいて息苦しくなるような壁を感じるんだ。あと一年しかないから……そんな障害を残したままにしたくないんだ。

「お二人の邪魔をするつもりはありませんから……」

 その言葉に対して二の句を告げなくて、車に乗り込んだ凜香が去っていくまで黙って見送るだけだった。

俺達は車が見えなくなってから駅に向かって歩き出す。すこし重い沈黙を破ったのは山之上の声だった。

「お前とあのコ、昔からの友達なんだよな?」

「そう。私とあの子とカズは、小学五年生からの付き合いかしらね~」

「あのコ、可愛かったな……高校までその噂が聞こえてくるだけのことはある……唐突だけど、琴美」

「嫌よ」

「あのコと一緒に入ってくれるなら、お前も我が演劇部に入っても良いぞ…………あの子と一緒ならお前という素材は大いに輝く、薄幸のヒロインと意地悪な継母……」

 刀を抜くのは抜刀。しかし、テニスラケットをケースから抜く行為を一言では表せないだろうか? 瞬間移動のように移動して山之上の腹に突き刺さったテニスラケットを見ながら、俺はそんな事を考えていた。

「お……お前という奴は、またその場所を」

「私の声が聞こえていないようだから、馬鹿にもわかるように物理的手段に訴えかけたけど?」

「お前は意地悪な継母なんかじゃない。もっと邪悪な何かだ……」

 酔いどれ親父のように足取りを怪しくしつつも、山之上の口は元気に動き続ける。

「あ、あの子、無愛想と言うか素っ気ない感じだよな……せっかくの美人がもったいない」

 人見知りが激しくて大人しい彼女は、冷たい人間だと見られがちだ。だが、表に出にくいだけで実は表情豊かで、感情の起伏も激しい事を俺は知っていた。

「あの髪の色、外国の人なのか? 流暢な日本語を喋っていたけど」

「母親がフランス人なのよ。凜香は母親似ね。アンタあの子を演劇部に入れたかったら、強面で貫禄あり過ぎる父親を説得しないといけないわよ? それに、あの子は母親似で霊感が強くて、色々変な物が見られるらしいわよ……私にはよくわからないけどね。その辺も覚悟してから勧誘する事ね」

「ふっふっふっ……ついに、ついにこの秘密を明かす時が来たか……前も言ったが俺は半年前からバイトを始めているのだ。生まれ持った才能を磨き上げて昇華した『演技』という名の力……それを生かした仕事だ。だが、その仕事をしつつ俺は新たなる才能を発掘してしまった! 俺の霊能力者としての素質だ。急成長中の素質と愛の力で、俺と凜香ちゃんの間に立ちふさがる障害をぶちこわしてやるさ!」

 胸を叩く山之上。アンタにあるのは愛じゃなくて下心でしょ? という琴美の返しを聞きながら、コイツ自分自身に酔える事に関しては天賦の才があるなと、改めて感心する俺だった。

 しかし、さっき琴美も見事にスルーしたが「霊能力者」ねぇ……ついに自分からアピールしたか。

 昼食後、山之上がこれ見よがしに開いていた本のタイトルは『三日でなれる陰陽師』だった。

 わざとらしく鞄の霊能力グッズ(勾玉、数珠)等をチラ見せしたり、無理矢理な話題変換で霊に関する知識を披露したりした後、決まって「しまった」という顔をする山之上。

 琴美、芽依子さん、俺との間で『山之上の間接的な霊能力者アピール』に対して突っ込まないという、暗黙の条約ができあがっていた。

 この男、何か怪しい詐欺とかに引っかかっていなければいいんだが。

 山之上の「力」が嘘か誠か、単なる思い込みなのかは分からないが、俺は凜香の力でトラブルに巻き込まれた事が、過去に何度かあった。

 そう言えば、週末に行く村……別荘の側で成仏出来ない霊に遭遇したこともあったな。でも、あの時は凜香がその場に居なくて、大人の女性の霊(外見は同年代に見えた)の無念を俺と琴美で晴らしたんだった。あの実体がある不思議な幽霊との邂逅で、一時ながら「俺にも霊能力が?」と勘違いすることになったんだった。

 あの『自称大人』の女の霊……綺麗だったな。

 独り言にしては大きな声で「凜香ちゃんに対する情報をもっと収集するか……」と声をこぼした山之上は、ひとしきり唸った後に「……どういう切っ掛けで、あの事知り合ったんだ?」と尋ねてきた。

「琴美の所のレストランの手伝いで、店のチラシを配っていたんだ。その時にあの子と知り合ったんだよ」

 ふーん、と頷く山之上が、この内容に深く突っ込んで来ないことに感謝する。そう……間違ったことは言っていない……かもしれない。

 「探し出して」知り合った、か。

 思い出すと微かに苦いモノが込み上げてきて、俺は自嘲めいた苦笑を浮かべる。

 そんな俺に不満げな視線を向けてくる琴美。そう、何度激しく問い詰められても、俺は探し出すに至った動機、切っ掛けを一切話さなかったんだ。

「凜香の父親の偏屈頑固じじいは、結構カズの事気に入っているよ。母親が死んでからふさぎ込んでしまった凜香が外に出るようになったのも、明るくなったのも、カズのおかげだって言ってたらしいわ」

「なんで、琴美はそんな事を知っているんだ?」

「私の剣道の師匠は、凜香の付き人であるウメさんなの。そして凜香の父親は私の兄弟子にあたるの。凜香の父さんは無口だけど、ウメさんは結構お喋りだから」

 学校の部活動はテニスにしたものの、ウメさんの所での練習は変わらず継続している琴美。

 ……俺は、凜香の屋敷に入らなくなって久しいが、彼女はその限りではない。その事に少しばかり嫉妬してしまうのだった。


 俺達三人は、十分ほど歩いて学校の最寄り駅に到着した。別の高校に向かう琴美とは反対方向になるので、改札に入ってすぐに分かれる。

 琴美の立つホームにはすぐ電車が来たが、俺達の帰宅方向に電車が来るまでには少し時間があった。ホームで待っていると、不意に俺の携帯が振動する。

「和馬、さん、ですか?」

 通話のボタンを取って耳を当てると、少しおどおどした声が聞こえてきた。携帯に他の人間が出る事はないだろうが、芽依子さんの電話第一声はいつもこんな感じだった。

「芽依子さん?」

「あの、その……今日、本当に店を手伝ってくれるの?」

「そのつもりだったけど」

「私一人で大丈夫だから、別に無理しなくてもいいよ」

「でも、最近は琴美と二人でやっていたんだろ? 一人じゃ大変なんじゃないか?」

「……」

 電話越しに芽依子さんが考え込む気配を感じる。

 一人じゃ大変―― 自分で発しておきながら、その言葉に少々白々しさを感じていた。

 料理、洗濯、掃除。家事関連が壊滅的に苦手な杉浦家の一人娘、琴美。彼女が飲食店の業務を手伝う……と言ってもせいぜい掃除が関の山で、さして戦力になっていなかったと思う。

 力仕事なら、安心して任せられるのが杉浦 琴美という女だった。全く、店の事が無くても、イトコの芽依子さんが側に住んでいなかったらどうなった事やら。おそらく、家はゴミ屋敷に変貌し、コンビニが生命線になっていたに違いない。

「手伝うのもそうだけど、久しぶりに愛弟子の成長を見たくなってね」

 喋りながらも俺は微妙な違和感を抱いていた。少し芽依子さんの声が暗い。昼を一緒に食べた時はこんなテンションではなかったと思うのだが、もしかしてあれから何かあったのだろうか? レストランを開く日は、いつも微妙にテンションが高くなっていたのに。

「和馬さんが私の事弟子って呼ぶの、久しぶりね」

「そう……だっけか?」

 電話の向こうで、芽依子さんがふっと笑う気配がした。

「そうだよ。もう教える事は何もないとか、お前はもう俺を超えたから、師匠と呼ぶなとかかなり前から言っているじゃない」

「……ハッ、そうだった、もう俺には芽依子さんの師匠たる資格はないんだった」

「もう遅いよ。私の事弟子って呼んだんだから、師匠は責任を持って弟子の成長を舌で確認してくださいな」

「それは手伝いに行っていいって話か?」

「手伝わなくていいよ。でもよかったら食べに来て。一人ぐらい増えても大丈夫だから、和馬さんに……師匠に久々に感想を聞いて貰いたくなって」

「材料は大丈夫なのか? もし足りないなら……帰る途中に商店街で買っていくけど?」

「ん……私が途中で買っていくつもりだったけど……」

「どこで?」

「………………店の側の商店街、で」

 途中で買っていく、か。

 俺が幼稚園児の頃遊んで貰った(といっても記憶には残っていないが)芽依子さんは、二年前の冬にこの町に戻って来た。すぐ側に住んでいるとは言うものの、彼女は具体的な場所を教えてくれない。

「えっと、その……和馬さんも、一緒に行く?」

 考えて答えた気配があったので、本当は別の店で買っていくつもりだったんじゃ? と思っていると、躊躇いがちな誘いの囁き。

「…………え……あ、ああ。行くよ行く。喜んで荷物持ちさせて貰います」

 物思いに沈んでいた俺は、返事が遅れてしまった。

 待ち合わせ場所を決めつつも、去年の夏のあの距離感を思い出し、少し寂しい気持ちになっていた。


 駅の側の公園で合流した俺と芽依子さんは、商店街内のスーパーで買い物を済ませた後、犬猫とハンバーグまで歩く。なるべく重い荷物は俺が持つようにした。

 俺の実家たる動物病院の前を通り過ぎて、その二軒先にある琴美の家にたどり着いた俺は、レストランより先に、その裏にある白い建物の中に入った。そこは犬猫とハンバーグのオーナーと俺の両親の共同出資で建てられたペット共同墓地だった。

 そこで昔飼っていた犬と猫の墓参りを済ませた後、俺は犬猫とハンバーグに向かう。……墓地の裏に飲食店というのはどうかと思わなくもないのだが。

「久しぶりだな。ここに来るのも」

 犬猫とハンバーグと書かれた看板を見て、俺は声を漏らした。閉ざされた扉と窓。CLOSEDの看板を見るまでもなく、寂れたその様から閉店中であることがわかる。

 レストランの裏側に回り込む芽依子さんの後に付いていく。そのレストランは二階建てで、二階が住まいで一階が厨房と客席になっている。建物には明かり一つもなく、やはり誰も居ないのかと思う。

 裏口から厨房に入ると、芽依子さんは手慣れた様子で茶色の髪を後ろで束ねて縛る。

「やっぱり、本当に手伝うつもりなのね……」

 勝手知ったる台所。返事をする代わりに、俺は奥の棚にしまってあった青色のエプロンを手に取る。

「でも、大丈夫? 鈍っているんじゃないの?」

 俺が密かに「強気モード」と呼ぶポニーテールの芽依子さんは、俺におたまを突きつけつつ不敵に笑う。

「一人暮らしでも、自炊はちゃんとしていたんだ。熟成された安定の技って奴を見せてやるぜ。誰かさんみたいに他人の足下に包丁を落としたり、包丁がすっぽ抜けたり、鍋を焦がしたりすることはないぜ」

「いつまで、その頃の失敗をネタにされるのかしらね、まったく……」

 腰に手を当てているふくれっ面の芽依子さんだが、その目は笑っていた。

 一緒に買い物をしている最中、店を手伝う手伝わないの口論で結構な時間を費やしてしまった。予約客が来る六時半まで、それほど時間に余裕はない。


「ちょっと味見をして」

 スープを湛えたお玉が口元に差し出される。お玉そのものをわたしてくれたらいいのに。さすが強気モードはひと味違う……と心中で呟きつつ、スープを啜る。

「…………足りない。アレが足りない」

「え、なに? 何か抜けていた?」

「愛情が足りない」

「あ、愛情……」

「冗談だ。愛情は昔から業界水準を遙かにオーバーしている」

「……」

「俺の脇腹が肘でぐりぐりされているが、これはマッサージかな?」

「…………ふー。和馬さん。冗談はともかく。どうだった?」

「ふーむ、そうだな。ポニーテールは可愛いな」

「和馬さんのおふざけは、昔から危険水域に達していたわ…………」

「おーっとまてまて。髪を解くな解くな! ちゃんと答えるから」

 俺はゴホンと咳をする。目の端で見ると芽依子さんは先程と違い真剣な眼差しになっていた。

「うまい。また、腕を上げたな……」

 数秒間、穴が空く程こちらを凝視していた芽依子さんは、ようやくキッチンに向き直った。

「うまいだけじゃ……わからないよ」

 チラとその横顔を見ると、芽依子さんの口元は僅かに緩んでいた。

「俺の乏しい語彙ではそのすばらしさが表現できないぜ。何を言っても空々しく聞こえてしまうような気がする……」

「もう、和馬さんは……」

 隣から規則正しく聞こえてきていた音のボリュームが上がっていく。

「そのすごさを表すには、質より数で表現するしかないな……、うまい、うまい……うまいぜ~とてもうまいし、おいしいし~ぜ」

「適当なお世辞ばっかり言うんだから……」

 調子を外した即席の歌に加わるのはガンガンガンという激しい伴奏。横に目線を滑らせてギョッとする。カボチャを真っ二つにするかの如く高々と振り上げられた包丁が高速で落下する。指どころか、手そのものまで落としそうなその激しい動きが切れ間もなく繰り返されて、キャベツが綺麗にみじん切りになっていく。

 おだてたら料理の手つきが男らしくなるのは昔からだったが、俺の記憶ではこんなに激しくなかった。

「か、和馬さん」

 キャベツをみじん切りにした芽依子さんは、虚空を見遣りつつふー、と荒い息を吐いていた。おだてが利きすぎたのか、興奮冷めやらんといった様子だ。

「ちょっと……髪が乱れたから……その、お願い。今、手が離せなくて……」

 はいはい。全くもって乱れてないんですけどね~、手が離せないと言いつつもその手は止まっているんですけどね~。と心中で呟きつつ、俺は慣れた様子で芽依子さんのエプロンのポケットに手を突っ込む。

 久しぶりだから、芽依子さんのその「お願い」もすこし遠慮が入っていた。

 俺はエプロンのポケットから櫛を取り出して、芽依子さんの腰まである茶色の髪を剥いていく。

「ん……」

 久しぶりだが、一時頻繁にやっていた行為はその手が覚えていた。芽依子さんは目を閉じ微かな息を吐く。芽依子さんは、自分の髪を梳くのが好きだ。どうやら狭い場所に入るのと同じく落ち着くらしい。料理中に褒めるのは今後禁止しようか? だが、これから芽依子さんの料理を手伝う機会は、もっと減っていくのだろうか、なんてことを考える俺だった。


 予約の客は、商店街で服屋を営んでいる夫婦と小学生の一人息子だった。ディナーとケーキを振る舞う芽依子さんはすごく楽しそうで、俺は椅子に座り、厨房に出入りする彼女をずっと眺めていた。

 やはりと言うべきか、十近くある席に一組しか座っていないのは寂しい。正面扉の貸し切りの張り紙もその寂寞に一役買っているだろう。だけど仕方ない。今は身内限定の予約制開店が関の山。学生だけで店を切り盛りできるわけがない……その事を俺と芽依子さんと琴美は身をもって知っていた。

 去年の夏、琴美の両親はとんでもない理由で、一人娘を残して家を出て行った。今この家には女子高生が一人で住んでいるのだ。


「芽依子さん……」

 客席の掃除を終えて道具を片付けた俺は、照明のスイッチの前で石像のように止まっている芽依子さんを見た。彼女の視線を追うと先程の騒がしさが嘘のように静まり返った客席があった。

 一組だけとはいえ、誕生日のパーティがそこで催されていたのだ。

「また、再開できるさ」

 黙って頷く芽依子さん。スイッチが小さい音をたてて、客席が闇に閉ざされた。

「それじゃ、次は俺達の分を作るのか?」

 厨房に戻りつつ言うと、背後から「和馬さんは休んでいて」という声が聞こえてきた。肩越しに振り返ると強気モードの芽依子さんが細めた眼を向けていた。

 光の加減か何かは分からないのだが。芽依子さんの瞳は茶色っぽく見える時も、青っぽく見える時もあった。ここまで来る最中茶色だった瞳だが、今は青色。そう。強気モードの時は決まって青色なのだ。

「さっきまでは、斉藤さん一家がお客さん。今度は和馬さんがお客さん」

「そうはいってもですな、弟子一人では心許ない……」

「こんな時だけ師匠面するんだから……」

 そんな事を言いつつ、芽依子さんは冷蔵庫の前に立つ。

 客は一組とはいえ、なんやんやいって疲れたようだ。その横顔はちょっと眠そうにも見えて、こういうときの芽依子さんは……

 二、三歩、こっちに寄ってきた芽依子さんは、俺にそっともたれ掛かってきた。

「あ……ごめんなさい。あ、足が……」

 申し訳なさそうに恥ずかしそうにこっちを見上げてくる二対の目。

 芽依子さんは疲れたときに、俺にもたれ掛かってくることがある。そして場合によっては……今のように頭をこすりつけるように動かしてくる事がある。先程の料理の最中も一度あった。包丁を持ったままこちらによってもたれ掛かってきて、しばらくはそうしていたのだ。

 去年の夏は頻繁に遭遇した芽依子さんのその癖。その時に慣れたつもりだったが、久々にやられるとちょっと照れくさい。この時の芽依子さんは、まるで……

 ややあって、何事も無かったかのように音もなく離れる芽依子さん。昔の経験から推測すると、彼女はしばらくこちらに顔を向けないだろう。

「とにかく、和馬さんは待っていて。あ、そうだ。一人暮らしの家で待っていて。持って行ってあげるから」

 俺に背中を向けながらそんな事を言う芽依子さん。

「そこまでして貰うわけには……」

「いいからいいから……うかうかしていると、昔みたいに和馬さんの足下に、包丁落とすかも知れないよ?」

「……わかった。家で待っている」

 俺は学生鞄を持って外に出る。最後に見た芽依子さんの背中はどこか寂しげに見えたが、俺には何も声をかけることができなかった。


「そこなお嬢さん。もう日も沈んだし、女の子一人だと危ないよ?」

「エスコートをお願いして良い?」

「よろこんで」

 犬猫とハンバーグから、俺が住んでいる所までのルートは寄り道しない限り決まっている。その道程の途中にある公園で俺は芽依子さんを待っていた。

「それも、持ちましょうか?」

 公園の入り口で、俺は芽依子が両手で捧げ持つ大きな皿を指さして言う。

「駄目です。昔からお世話になっている人に届ける大事なものです。私の手で運ばなければ意味がないのです」

 そうですか。と言う俺に、そうです。と重々しく頷く芽依子さん。俺は彼女の横に並んで共に歩き出す。そんな俺達の間でしばらく言葉のやりとりはなかった。

「中身は……ハンバーグ?」

「さぁ、どうでしょう? 中身は見てのお楽しみって事で」

 そんなやりとりが一度あっただけで、後は無言のまま俺のアパートが見える位置まで来た。

 赤信号で立ち止まった時、芽依子さんがポツリと声を漏らす。

「私……和馬さんの味をこえられたかしら?」

 ふー、全くこの人。と思いつつ俺は口を開く。

「もうとっくに超えているってなんども言っているでしょ? 全くこの弟子は……既に師匠の百歩先を行っていると言うのにそれを認めようとしない……あ、わかった。千歩ぐらい先を行って圧倒的な力量差がついてからそれを認めるつもりなんだな? きっと俺を踏みつけながらこう言うんだぜ。『アレ~師匠ってこんなにしょぼかったでしたっけ、あ、私が凄くなりすぎちゃったからだけか。ごめんなさーい』 ……その時は、ハイヒールで踏まないでね」

「わかったわ。ハイヒールはやめる……その代わり、顔を踏んでいい?」

「わかった。顔面って事だな。OKOK。仰向けで待ち構えておくぜ。その時は是非ともスカートでお願いします…………その日が来るのが楽しみだぜひゃっほーい」

「和馬さん」

 ぐりぐり。

「その時は、こんなものじゃないから。その前後の記憶がなくなる程強く踏んであげるから」

「こんなもんって何のこと?? 肘でぐりぐりされたが、なんだこれは?マッサージか?」

「むぅ…………あ、信号変わっちゃう」

「そう、だな」

 いつの間にか信号は青が点滅していた。今の芽依子さんは走ることができず、俺達は信号が赤になるのを為す術無く見守るだけだった。

「このハンバーグも、今日斉藤さんに振る舞ったハンバーグも、和馬さんの味なんだよ?」

 見てのお楽しみといいつつ、料理の内容をばらしているじゃねぇか――と思いつつ隣を見ると、思いがけず真摯な眼差しにたじろく。

「お願いだからその事を忘れないで、ね?」

 いつしかこっちに向き直っていた芽依子さんが一歩近寄っきて、それに押されるように俺は後退る。

「俺の味って……なんだ、そりゃ」

「だって、私に料理を教えてくれたのは和馬さんじゃない」

 それは、確かにそうかもしれない……

「ショックだったわ。自分が全然料理ができないこともそうだけど、和馬さんがつくるご飯と、ハンバーグの方が断然美味しかったんだもん」

「まぁ、それは……今では人が増えてうちの病院も少し落ち着いてきたけど、昔は父さんも母さんもかなり忙しかったから、俺が食事を作ることが多かったんだ。何回も言ったかも知れないけど……」

 美味しいご飯が食べることができて、犬と猫とふれあうことができる――犬猫とハンバーグはそういう店だった。だが今、犬と猫はあの店に一匹もいない。琴美一人だけではあの空間は寂しすぎる。

 琴美は、一人じゃ広すぎるから一緒に住んでくれと何度か芽依子さんに言ったが……一人暮らしをしているらしい芽依子さんは、頑として首を縦に振らなかった。

「そうね。ちゃんと料理をやったのはあの時が初めて……いきなり実戦に琴美さんと二人で放り出された」

 高校一年の夏休みが残り数週間となった時だった。琴美の両親が犬猫を引き連れつつ家を出て行ったのは。

 琴美と芽依子さんは俺に相談してきた。そして、共に途方に暮れた俺達が考えた末に至ったのが「店を空ける訳にはいかない。とりあえず店を継続しよう。そうすれば両親が戻ってくるかも知れない」という考えだった。

 やはり、あの時の俺達は冷静じゃなかったのだろう。親を捜すことより、店を継続させることを優先させようとするとは。

「でも奥には強力な助っ人……じゃなくて、強力な主戦力がいたもの……和馬さんがんばってくれたよね」

 初め俺と琴美がフロント、芽依子さんがキッチンで店を回そうとした。

 芽依子さんがキッチンになったのは本人の希望を汲んだ結果だった。琴美の両親が出て行ったのは自分の責任―― そう考えていたから、彼女は一番大変と思われるキッチン担当を望んだのだろう。

 そんな芽依子さんは料理に自信があったようだ。確かに半端なかった。知識は……だが

 各自の役割が決まった翌日、郵送業者が運んできた料理本の山に、俺と琴美は度肝を抜かれた。結局、自分で郵送を手配しておきながら、芽依子さんは殆どその本を見なかった。本に書いてある内容の殆どが頭に叩き込まれているようだった。

 だが、その配置は早々に破綻した。常連客が「味が落ちたか?」というレベルではなかった。芽依子さんが作る料理は、見た目からして前衛芸術の領域に踏み込んでいた。

 彼女の調理の中で、一番神がかっていたのは包丁さばきだった。芽依子さんに憑いていたのは料理の神ではなく、邪悪な神……そう。俺の爪先に落ちた包丁の刃の輝きが、死神の鎌のように思えたのを覚えている。

 だから俺がキッチン、芽依子さんと琴美がフロントで店を回すことにした。その時まで彼女等には内緒にしていたのだが、俺の一番の得意料理がハンバーグだったのだ。

 ご近所でお互い動物好きな俺と琴美の両親は、小学校からという付き合いの親友だった。現在では、動物病院とレストランを営んでいて、お互いがお互いの常連客でもあった。それぞれの家族の一人息子と一人娘が赤ん坊からの付き合いになるのは、至極当然の流れだった。

 琴美の店に食いに行くことが多かった俺は……店のハンバーグに感嘆し、その味を何とか自分の手で作り出せないか? と家で密かに試行錯誤していた。だからこそ、常連客が違和感に首を傾げつつ平らげるレベルのハンバーグを作り出せたのだ。

 バカンスも宿題も全て忘れ、俺達は残りの夏休みを嵐のような慌ただしさと共に過ごした。人生で一番目まぐるしい時、失敗、苦悩、焦りの連続――。

「本当に……あの時和馬さん、必死になって頑張っていたよね」

 積み上がる失態の中、僅かに生まれる客の喜び……それに触れた時の琴美と芽依子さんの笑顔が何よりも励みになり、どんな苦労も物の数ではなかった。

「芽依子さんも、琴美と店の為に身を粉にして働いてくれたじゃないか」

 泥のような疲れとともに、彼女等と店と同化したような感じがした。

 夜遅くまで三人で話したり、試行錯誤したり……芽依子さんは殆ど泊まり込んでいた。俺が泊まりこむ事もままあったし、時には喧嘩することもあったが、目的は一緒なのですぐに仲直りした。

 少し慣れてきたかも……そんな事を思う頃だった。夏休みが終わったのは。

 学校が始まったのだ――。

 俺達は、なんとか学業と店を両立させようとした。

 学校から帰ってすぐに店を始めた。学校を休んで開店しようとした日もあった……明らかに無理のある活動は、すぐに親や学校の知れるところとなったのだ。

 二学期の開始から少し遅れて、俺達の危うい客商売は終焉を迎えた。逆に、夏休みといえどそれまでばれなかったのが奇跡と言えるのかもしれない。

親たちにこっぴどく怒られた俺達――だが芽依子さんは、その少し後に俺に請い求めてきた「料理を教えて欲しい」と。

 夏休み終盤の、慌ただして忙しくて、そして満たされた日々は、今後訪れないのだろう。そう思うと共に、俺は芽依子さんのことが好きなのかもしれない―― その時そんな事を初め考えたのだった。


 物思いに耽けていた俺の耳に唐突に飛び込んできたのは、車のブレーキ音。そして小さな悲鳴。考える先より地面を蹴る、俺は勢いよく角を曲がってその先を見た……そして


 そこからの事は、断片的にしか覚えていない。

 気付いた頃には、椅子に座った白衣の男がこちらを見上げていた。

 ここは……動物病院? 俺の家?

「もう、峠を越えた。あの子の命は助かる……どうだ和馬? 少しは落ち着いたか?」

「父、さん」

「お前は相変わらず、だな……………」

 そう言った後、父であり動物病院の院長でもある男は、大きな溜息を吐いた。

「怪我した動物を持ち込んだら無償で治療する病院もある様だが、ここは違う。悪いがそこまでの余裕は無い。手術前にも言ったが、お前がこの子犬の治療費を半分出すんだ」

 ああ、そうか……俺は。

 つい先程の事なのにずいぶん記憶が曖昧だった。

 ブレーキ音と、子犬の悲鳴……俺は駆け出し角を曲がり、道路の真ん中に血まみれの子犬の姿を見つけた。そしてその犬を抱き上げて一番近くのよく知っている動物病院まで運んだのだ――。

 あの子犬……助かったのか。よかった。俺はほっと胸をなで下ろす。

 なぜか右腕が痛い。何処かで芽依子さんの悲鳴を聞いたような気がする―― そう言えば芽依子さんは?

 俺は、共に居た大学生の事を忘れていた。その事に愕然としつつ周りを見回して、ソファの上に座り込んでいる芽依子さんを発見した。

「私が渡している生活費から捻出しろ。バイトしたいならしても構わない。一度に全部払えるわけわけがないだろうが分割払いにしてやる。いくらでも待ってやるし利子は付けない。だが、お前がちゃんと払うんだ」

 顔が伏せられているので芽依子さんの表情はわからない。だがその全身からは陰鬱なオーラが立ち上っている……ような気がする。

 芽依子さん? どうしたんだ? 子犬は助かったんだぞ?

「バイトを許可すると言っても、うちの病院では働かせんぞ。他の動物病院でもだめだし動物が絡むところは駄目だ。そんな事では……お前をわざわざうちから離した意味が無くなるからな」

 父親が言っている言葉は、今の俺には上の空だった。

「何度も言ったことだが、さらに重ねて言うぞ和馬。動物を愛するのはいい。だがそこまで肩入れして見境を無くすようでは……お前は獣医としてはやっていけない。それは確実だ……芽依子さん。うちの息子が貴方にも迷惑をかけたようですね」

「そんなことは……」

 その日、動物病院で俺が聞いた芽依子さんの声はそれだけだった。

 ……芽依子さんを駅まで送っていってあげなさい。

 母親のその声を背中で聞きつつ俺と芽依子さんは動物病院を出た。

 芽依子さんはそのまま駅とは反対の方向に向かって歩いて行く。両手に持っていた料理はどうしたんだ? そう聞いてみたかったけど、赤く充血した瞳を見たら何も言えなかった。

「あの……芽依子さん、どこ行くの?」

 犬猫とハンバーグの前を通り過ぎて彼女はなお進む。俺もそれに続く。二組の足は先程と同じルートを進み、そして俺は赤信号を見た。

「あ……」

 あの大きな皿は横断歩道側の、道の隅にぽつりと置かれていた。

「一時間は放置したから……もう冷めているだろうし、野良犬とかに荒らされた形跡は無いけど……もしかしたらへんな悪戯とかされているかもしれないわ」

 覇気のない声で淡々と語る芽依子さん。

「大丈夫大丈夫! 全然食べられるって。後は俺がアパートまで運んでおくから、芽依子さんは家に……ってこれ、そういえば芽依子さんの分も入っているのかな? 短い距離と言っても、こんな夜更けに女の子一人夜道を歩かせるのもあれだから……これを持って犬猫とハンバーグまで引き返そうか? そこで食べよう。琴美もそろそろ帰ってきているかもしれないし」

 無理して出した明るい声に対する返答は無く

「ごめん。芽依子さん……」

 謝罪の後、少しの間を開けてから、俺は陰鬱な空気を払拭する為に言葉を継ぐ。。

「いやー、しかし。それでも……あの子犬が助かってよかったよ」

 心底そう思う。そして俺のせいで今気落ちしている芽依子さんも、その気持ちは一緒だと……

「和馬さん、さっき何に対して、謝ったの?」

 ……思っていた。だが芽依子さんの眼光の鋭さに、自分の勘違いに気付いた。

「え、何って料理を」

 最後まで言わせず芽依子さんは俺の右手を引いた。途端右腕の鈍痛が鋭さを増す。

「料理なんて、どうでもいの……」

 俺の引きつる顔を見上げつつ、芽依子さんの形のいい眉が吊り上がっていく。茶色の長い髪が少し逆立っているように見えた。

「覚えていないの! 和馬さん死にかけたのよ! トラックに轢かれかけたのよ! 私がっ……!」

 彼女は言葉を詰まらせた。その眼が潤む。

「私が! 手を引かなかったら……死んでいたのよ……子犬が道路の真ん中にいるからって、周りも見ないで道に飛び出して……」

「芽依子さん。よく……俺に追いついたな」

「茶化さないで! 私が一体どんな思いをしたと思っているのよ。和馬さんの馬鹿!」

 ドンと、俺の体を叩く衝撃は予想以上に強かった。一瞬息が詰まる。 片方の拳を俺のたたき付けた芽依子さんが、もう一方の手を振り上げる。軽く曲げた手首と握りしめた拳が、宙を引っ掻くように動く。猫を彷彿とさせるパンチを繰り出した芽依子さんは、顔を伏せて縋るような姿勢のまま体を震わせ始めた。

「ごめんな。芽依子さん……」

「馬鹿だよ和馬さん……」

 俺は彼女が落ち着くまで、身じろぎ一つせずそこに立っていた。


 その後、芽依子さんの強硬な意志により、否応なしに俺が住むアパートまで移動した。軽く温め直した料理を無言で平らげた後、芽依子さんは洗い物を始めた。そんな彼女に何も声をかけることができず、俺は隣の部屋でテレビの前に座っていた。

 それにしても、俺は自分の胸元を押さえた。鈍痛を訴えてきているそこは痣になるかもしれない。中学生と名乗っても違和感のない、あの小さい体のどこにこんな力が……? 今日買い物しているときは、買い物カゴを結構辛そうに持っていたよな?(もちろん途中で俺が持つのを変わったが……) 料理途中でも一旦休憩するぐらいだから体力はないんだ。

 俺の両手に握られているのはゲームのコントローラ。

「和馬、お前がここに戻ってくる為の条件。一つでもクリアしたか?」去り際の父親の言葉が蘇る。

 んにゃろ、見てろよあのクソ親父……あの、ゲームマニアめ。

 俺が操る警察官は群がるゾンビをひょいひょいかわしつつ進んでいく。銃を抜くのは避けるより仕留める方が早い時だけだ。撃つのは頭蓋を一発。一度たりとも仕損じることはない……はずだったが、今日は調子が悪く、一撃必中を二回ミスった。

 家に帰る為の条件の一つにこのゲームのクリアがあって、初めはその意図がわからなかった。……息子とゲームの話をしたいから無理矢理ねじ込んだのかと思った……。

 こんなの楽勝だぜ―― 父親の思惑がわかるまで俺はそう思っていた。

 だが

「ギャーーーーーッ!」

「……ッ!」

 意識が飛びそうになり、必死こいて画面から顔を逸らす。……気のせいか動物の鳴き声が聞こえたような?

 顔を向けた方向は意図せず台所で、こちらに向かって跳躍する芽依子さんが見えた。彼女は一足で部屋の入り口からその中央、すなわち俺の傍らまで飛んだ。その俊敏な動きは何度見ても驚く。

「和馬さん! どうしたの? だいじょう……」

 芽依子さんはグイと顔を押しつけるようにこちらに寄って来た。その青い瞳に急に戸惑いの色が浮かぶ。ガッと側にあった机の脚を片手で掴みつつ、残りの手で自分の太股をピシャリと叩く芽依子さん。

 俺はのけぞっていた。吐息がかかるぐらい近くにあった芽依子さん。その顔に浮かぶのは引きつったような笑顔。俺を押し倒しそうな勢いで迫っていた芽依子さんは、腕で体をたぐり寄せるようにゆっくりと体を引く。

 悲鳴に心配になってきたが、接近しすぎたので離れた? でも何かちょっと違うような……。

 俺は体を起こす。そして、何気なくテレビモニターを見る……動揺のせいですっかり忘れていた。

「だ、大丈夫?」

「ギャーーーーーッ!」

 芽依子さんの問い掛けに俺の悲鳴が被さる。……今度は意識が飛んでしまった。

 気付いた頃には、俺は床に突っ伏していた。そう言えば……と、テレビをチラと見遣りまた意識が飛びそうになる。俺は慌てて目を伏せ、手探りでテレビのリモコンを探す。

「和馬さん!」

「め、芽依子さん……テレビを消してくれ」

 ややあってテレビが消えて鳴き声が止み、俺はふうっと息を吐きつつ目を開ける。暗くなったモニターには先程まで映っていたはずだ。おどろおどろしいGAME OVERの文字と、ゾンビ犬が倒れ伏した主人公に食らいついている所が。 ――ああ、思い出すだけでも血の気が引く。

 視線を感じて横を向くと、芽依子さんのもの言いたげな眼差しに直面した。

「よーし、よしよし、いい子だ。黙ってそのリモコンを俺によこ――」

 芽依子さんの右手が――そしてその手に持つリモコンがテレビの方向へと滑る……俺は小さく叫びつつ伏せた……だが、待てどもゾンビ犬の襲来はなく「どういう、事?」という声が頭上から降ってきた。

 この時点で、俺に選択肢は無かった。

 芽依子さんが家にいている時に父さんの課題に挑戦しなければ良かった――なんて後悔しても後の祭り。俺はぼそぼそと事情を語り出した。

 動物病院の息子は動物好き――そう、それに非難される要素はなかった。患者達の怪我を嘆き、無事を喜び……だが、俺の場合度を過ぎていた。避けられなかった死に深く悲しみ、心ない飼い主の所行に激怒し……それが月日を重ねる毎に酷くなり、ついには病院の運営まで悪影響を与える段階にいたって両親は決意したのだ。

 息子を病院から遠ざけることを。

「和馬さんの一人暮らしに……そんな理由があったの……」

「我が家に、動物病院に戻る為の条件の一つに、あのゲームのクリアがあるんだ。他の課題にこんなのがあるぞ」

 一度しゃべり出すと止まらなかった。友達にも、自分の彼女にも内緒にしていたが……本当はずっと誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。

 俺はベッドの下から二枚のDVDを取り出した。それぞれのタイトルに「亡霊猫と三途の川」「厳選! 動物心霊現象!」と書いてある。

「動物の生死に過剰反応しないようにする為の訓練ってわけだ」

「いくら動物のことに過剰反応してしまうって言っても……幽霊とかはまた別何じゃ?」

「俺もそう思っていたよ。動物が命を失うシーンならともかく、亡霊や心霊現象ぐらいは平気だ、と。でも実際にはゲームのゾンビ犬ですら倒せないという有様だ」

 先程のコントローラ捌きだけを見れば、芽依子さんは俺をゲームの達人と勘違いしたかも知れない。だがちがう。何度も何度も同じシーンを繰り返して慣れているだけなのだ。

 セーブポイントからゲームを開始して――ゾンビ犬の襲撃により、いつも同じ場所で主人公は死んでしまうのだ。

 そうだ……今日だって子犬の悲鳴を聞いた瞬間理性を無くして、その身を危険にさらした。芽依子さんに迷惑をかけた。

「今日はごめんな……芽依子さん」

 「お前は獣医になれない……」このアパートに一人で居ると、度々父親のその言葉が木霊するんだ。勉強への熱意が……脳裏に描く獣医学への道が色褪せていくんだ。

「和馬さん……」

「子犬の怪我に過剰反応して、理性を失ってしまった。一緒にいた芽依子さんに迷惑をかけてしまった」

「迷惑だなんて思ってないよ……」

 暫しの沈黙。場に立ちこめた暗鬱な雰囲気を払いたくて、俺は無理にでも笑顔を作る。

「ようぅし、犬ゾンビで奪われた気力を、秘蔵のDVDで回復するぞ! 幼子の裸身を目に焼き付けるぜ」

 と言いつつ「子猫子犬てんこもり」と書かれたDVDを取り出すも芽依子さんはノーリアクション。一抹の寂しさを覚えつつも、プレイヤーにディスクを差し込みんでリモコンを手に取る。

「まぁ、結構遅くなってきたから、芽依子さんも早く帰るんだぞ―、後で駅まで送るから」

「洗い物が終わったら帰るから」

 そう言い残して、芽依子さんはキッチンに戻る。

「元気づける……か……」

 芽依子さんが何か呟いたようだが、テレビの音にかき消されて良く聞こえなかった。

 しばらくテレビを見ながら、子猫子犬に囲まれる自分を想像しつつほんわかしていると、隣から物音が聞こえてきた。

「和馬さんを元気づけたくて……だから、私、その……」

 台所は明かりが消えていた。その闇に暗がりに立つ芽依子さんの頭と腰の辺りにある物が見えた。信じたくはないが、それしか考えられない。

「よせ、芽依子さん! やめろっ、それは……それは……」

 必死に辺りを見回すが、やはり手錠はない。自分自身を束縛できるような物が見つからない。

「て、手錠は?」

「今は、持ってないの……」

 そう呟きつつ芽依子さんがこちらに近づいてくる。見てはいけない。だが、見られずにはいられないのだ。俺がそれを我慢できるわけがないのだ。

 顔が勝手に動く。初めに体の前で組み合わされた手を、恥ずかしげに伏せられた顔を見た。そして彼女の全身を見たとき、俺の意識はまた飛んだ。

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