序章 女性が年上でも連れ込みます
猛暑という名の陽炎が見え始めてきた――そんな夏の始まり。六月の半ば。
俺は大学生と二人、食堂でお昼ご飯を食べていた。
大学生と一緒だからといって、俺はキャンパスライフを満喫する身分でない。その事はこの身に纏う高校の制服から一目瞭然だろう。
大学と高校が同敷地内にあるここでは、食堂は共同なのだ。だから、大学生と高校生が一緒に食事をしている光景はそこまで珍しいくない……筈なのだが……今俺達は周囲の視線を集めていた。
その主な原因は、俺の正面に座る女子大生にあると思う。
すらりと通った鼻梁に長い睫毛。少し丸みを帯びた顔に大きな瞳。腰まである艶やかな茶色の髪。彼女は華奢だったが、そのふんわりとした髪のせいか少し柔らかな印象を受ける。
精巧かつ繊細な芸術品を連想させるその女性の名前は、鹿谷 芽依子。彼女のその際だった容姿は、大学入学から二ヶ月ちょいで、隣の高校まで噂が広まる程だった。
そんな彼女と二人で食事……だからと言って、別に俺達は付き合っている訳ではない。いつもなら、俺の同級生二人を含めた四人が昼食時のお決まり面子だった。だがその同級生達は揃って都合が悪く、俺は芽依子さんと二人で食堂に来ていた。
せめて場所だけはいつもの人気がない所――屋上へと続く階段の踊り場――にすればよかったな。
周囲の刺すような視線に耐えつつ俺が定食を平らげると、芽依子さんの弁当はまだ半分残っていた。
彼女を一人残して行っても大丈夫か? 迷いつつもトイレに行く為に腰を浮かせた時に聞こえてきた会話の内容。弾かれるように声の発生源を見ると……そこには動物の……犬の話をする女子高生が二人。
俺にはわかった。食事をしているように見える芽依子さんが……席二つ分離れた場所の会話に耳を澄ませているのを。それも尋常じゃない集中力で。
『すいません。私、動物がとても嫌いで……とくに犬と猫が嫌いなんです。話を振られたり写真を見せられたりする所か、近くでその話をされるだけでも嫌なんです。本当に自分勝手だとは思いますが……私の側で犬と猫の話をしないでください』
芽依子さんは大学内で、そのような自己紹介をしたらしい。
俺の友達が、なぜそんな事を知っていたかはひとまずおいておくとして……その自己紹介の言葉に、皆少なからず驚いたと思う。
俺はその女生徒達の間で交される台詞を吟味する。……そして、最後にその会話に聞き入っている芽依子さんの微かに緩いんでいる口元をみた。
そして……大丈夫だろう判断した。
女生徒の間に入って会話を止める事もせず、彼女等の話に聞き入っている芽依子さんをその場から離すこともしなかった。
大丈夫だろうと思っていたんだ。
……だから、トイレから戻ってきた時は自分の考えの甘さと、それが招いた事態に恐れおののいた。女生徒らの会話は俺が恐れていた領域に踏み込んでおり、それを聞く芽依子さんは…………顔を伏せて全身を震わせていた。
これまでの経験から、状況のヤバさが俺にはすぐわかった。だから俺は芽依子さんの側に駆け寄り、俯く彼女の手を引いて強引に立ち上がらせた。
周囲の学生達が発する、少し好奇が混じった気遣いの声。
「彼女は、動物の話を聞くと気分が悪くなる時があるんだ。休んだらすぐ良くなるから!」
芽依子さんの手を引く俺は、叫ぶようにそう説明しつつ、群がっている学生達(主に男)を押しのける。芽依子さんを引っ張っていく。
高校と大学のちょうど中間の位置にある食堂から出た俺は……少しの逡巡を挟んで高校の校舎に突撃した。
廊下を走る俺と芽依子さん。注目を集めているの仕方がない事だとおもう。制服を着ていない若い女性。生徒でも教師でもない者の手を引きつつ高校の校舎を駆けているのだから。
すぐ側に大学があるこの学校の者なら――芽依子さんが大学生と容易に想像できるだろう。彼女が噂の人であることがわかる人がこの高校に何人居るやら。
俺は手を引く女性の赤く高揚した顔、苦しげに震える唇を一瞥して覚悟を決める。もう引き返す事は出来ない。
少し遅れて何人かが俺達の後について来ている。その中には大学関係者も混じっているだろう。
慌ただしく一階の角を曲がると、目的の部屋が見えた。俺は美術準備室のドアを開けて、引っ張ってきた芽依子さんと共になだれ込むように中に入り、すかさずドアを締める。
内から鍵をかけてドアに背を預けていると、何人かが駆けていく音が大きくなり、そして遠ざかっていく。俺と芽依子さんを見失った追跡集団は、おそらくこの先の保健室に行くだろう。、芽依子さんを心配してついてきた人達を騙すようなことをしてしまった。少し申し訳なく思っていると、俺の肩に手を乗せられた。
「……」
芽依子さんの血走った目、震える手。俺の肩にあるのは万力か? 締め付けられる肩の痛みが、彼女が危険な状態にあることを伝えてくる。
……ふりはらえ……ない。
このままではヤバイ。俺は視線を巡らせて目的のモノを探しあてた。そして、手を精一杯伸ばしてそれを掴もうとする。
届け……っ!
引き寄せられる体。荒い芽依子さんの息遣いが耳元から聞こえてくるような錯覚を抱く。
俺は体と腕を必死に伸ばす。目的のモノに手が……指が届きそうになり……そして……
昼休みの終了後、十数分の時間が経過していた。
「どういう、事だ?」
廊下に出て美術準備室の鍵を閉めた時、俺は背後から男の声を聞いた。
「何の話だ?」
遠ざかっていく芽依子さんの背中を目の端で見つつ、俺は押し殺した声で答える。
廊下に誰もいない事を確認してから外に出たが……こいつ何処かに隠れていたのか。どこまで見られていたんだ?
こちらの手札は伏せたまま。まずは相手の戦力を計りつつ、慎重に出方をうかがわなければいけない。
「休んだらすぐに良くなるって言って、お前が芽依子さんを連れ込んだのは、保健室ではなかった。息を荒げて顔を赤く染めて、見るからに苦しそうな芽依子さんとお前がここに入って、出てきた時には芽依子さんはあの様子だ」
今、廊下の角を曲がり視界から消えた女性――芽依子さんには、まだ「アレ」の余韻が残っているのだろう。そうでなければ俺がこの場所に留まって居る事、この男――山之上と会話している事ぐらい気付くだろうから。
彼女を戻すのは、もうちょっと様子が落ち着いてからにしたかったが……落ち着いた後彼女はいつものように謝ってきて、それが場合によっては長引くかも知れない。ここに来るまでの怪しい挙動に加えて戻るのが遅かったら……芽依子さんに変な噂が立たないとも限らない。
「あんなに苦しそうだったのに……今の彼女はどうだ? ただでさえ美しい彼女が、今では光り輝いてさえ見える、艶めいているぞ! 理性をかき乱されるぞ!」
……やはり次の授業を完全にサボる事になっても、芽依子さんをあのまま戻すべきではなかったか……ただでさえ「アレ」に当てられて気分が悪くなっているのに、さらに頭が痛くなるような事態が俺にのし掛かってきていた。
振り返って正面から山之上の顔を見上げて抱く違和感。自分が知らず知らずの内に酷い猫背になっているに気付き、慌てて姿勢を直すと共に「アレ」の影響力を再認識する。
「対照的にお前は、そんな有様だ」
背後の部屋から漏れた怪しげな気配に、背中を撫でられているように感じる。漆黒のオーラが体に纏わり付いているような錯覚を抱く。自分が今どんな顔をしているのだろうと思う。
「ちょっと芽依子さんの気分が悪くなったから、でも保健室まで行くほどでもないかと思って、人気のない場所でやすんでいたわけだ。ただそれだけさ」
「美術準備室に二人きりで? 怪しいな、非常に怪しいな。なにかいかがわしい事をしていたんじゃないだろうな?」
言い返す気力も無く、俺はただ口端を微かに吊り上げるだけだった。
「……動物の話を聞いたから具合が悪くなったっていっていたよな?」
山之上……今日の昼休みは演劇部の打ち合わせがあるって言っていたけど、それを知っていると言うことは、芽依子さんの様子がおかしくなった時、あの食堂に来ていたのか……
「でも、去年ぐらいに彼女は犬猫が好きだって言っていたような気がするぞ。……それに言っちゃあ何だけど、芽依子さんとお前とそれに琴美で、犬か猫の話をしていたのを聞いた事があるぞ?」
「……」
「どういうことだ? 教えろ! 進級を貴様に依存している俺には知る権利は無いかも知れんが、芽依子さんファンクラブの団長たる俺には知る権利があるぞ!」
入学二ヶ月でファンクラブは冗談だろうと思うのだが、あの芽依子さんなら……なんて考えも思い浮かぶ。
詰め寄られ、一歩引きながら俺は考える。同じ中学出身はこの山之上 宗一と俺を含めて三人。こいつとも結構長い付き合いだし悪い奴じゃない。芽依子さんの事を……明かして力になって貰ってもいいのかもしれない。
そんな事を考えていると、山之上は急に身を引いて顔をほころばせた。
「まぁ、いいさ。なにか秘密があるんだろう。無理に明かさなくてもいいさ……でもまぁ俺に力になれるんだったらなんでも言ってくれ」
おお、親友よ……。
「でも、いかがわしい事をしているのなら、俺も混ぜ……いや、せめて見せ」
おお、ただの同級生よ。
長身の女生徒の蹴りで吹っ飛ばされる山之上を見ながら、俺は涙せずにはいられなかった。もう少し早いタイミングで蹴り飛ばされていれば、俺の中で美しい思い出になっていたのに。
「私の彼氏をイジメんなっ!」
会話に気をとられていたせいか、走り寄る彼女の存在に気付くのが遅れた。片足を上げたまま彫像の様に姿勢を崩さない女子高生を見つつ俺は口にせざるを得ない。
「山之上、お前のことは多分忘れん……」
「お前等酷いな! 虐められているのは俺だよ! 今床に転がっている俺だよ!」
そんな山之上の声を皮切りに、ショートカットの女子高生と山之上は言い争いを始める。
俺は美術準備室の中にある「アレ」の事を思いつつ、長い長い溜息を吐くのだった。
筆は驚異的に遅いながら、ずっと小説は書いており
この度、初めてネット上に作品を公開することになりました。
この作品は、テンポよく気軽に読める事を心がけて作ったものです。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
一応、私の全作品をみた友人の中で一番評判がよく、かつ現時点の最新作です。




