愛される
あれから二ヶ月が経とうとしていた。空気は一層寒さが増し、マフラーや手袋が手放せない時期がやってきていた。駅の周りは、きらびやかに電飾が飾られ、そこら中から聞き覚えのあるクリスマスソングが耳に入ってくる。
そう、今日はクリスマス・イヴなのである。一年に一度の聖夜。若いカップルや子供と手を取りながら歩く家族たちを横目に、私は一軒の居酒屋へと入っていく。中では、すでに待っていた会社の同僚や先輩たちが楽しそうに談笑し、盛り上がっていた。
「よお。遅かったじゃねえか。ったく最近調子がいいからって、仕事やりすぎなんだよ、おまえは。」
「そんなことないですよ。」
向かいに座っていた先輩の茶々入れに苦笑いで答えながら、私は空いていた角の席に着く。そして、注文を取りに来たウェイトレスにビールを頼む。「すぐお持ちしますね」と、ウェイトレスは笑顔で答え、カウンターの奥へと消えていった。
「この間のあれはやばかったな。」
隣の同僚が話しかけてくる。
「ああ、あれな。確かにあれはやばかった。」
「ビールの方ー。」
「あ、はい。私です。」
「でさ、…」
飲み会は、仕事の愚痴や、世間話など他愛もない会話で盛り上がった。話が盛り上がるにつれ、お酒も進み、徐々に酔いが回ってきていた。
「そういえば、今日はs来てないのー。」
飲み会も終盤にかかろうとしていた時のことだった。私は、sがいないことに気付いた。sは、同期で部署も同じなのだが、我が強く、自己主張の激しい奴で、私はどこか彼を嫌っていた。
「…な、何言ってんだよ。sならそこにいるだろ。ったく、ちょっと飲み過ぎなんじゃないか。」
少しの沈黙の後、向かいの先輩がおどけた口調で答えた。しかし、辺りを見渡してもsの姿は見つけられなかった。
「えー。どこにいるんですかー。あんまりからかわないで下さいよー、先輩。」
酔いのせいで間の抜けた口調になってしまった。私は、テーブルわきにあった水を一口口に含み、もう一度辺りを見渡す。すると、皆が困ったような顔つきでざわついていることに気付いた。
「…おい、本当に大丈夫か。sならそこにいるだろ。ほら。」
先輩は、そう言って私の座っている列の角を指さす。私も先輩の手につられて指差す方を見る。しかし、やはりsの姿などどこにも見当たらなかった。
何かがおかしい。冗談やおちょくりでないことは、周りのみんなや先輩の口調からわかる。なら、なぜいるはずの人間が私には見えないのだ。背筋に寒気が走る。さっきまでの酔いが嘘のように一瞬で消え、冷静さを取り戻していく。そして、冷静さを取り戻していけば取り戻すほど、私はどうしようもない恐怖に駆られた。
「俺たちが、あんたの体をちょちょっと治療すれば…」
あいつらがやったのか。
気付けば私は走っていた。みんなが驚いたような顔をして何も言えなくなっている間に店を飛び出し、私は目的地へと走った。
―何をしたんだ。
―何をされたんだ。
きらびやかに輝く夜の街を必死になって走る私の頭には、恐怖とともにそんな言葉ばかりが響いていた。
ガラス製の手動ドアを乱暴に引く。
「おい!どういう…」
私は、走ってきた勢いのまま、声を荒げてクリニックへ入っていった。しかし、控室には、いつも通り誰もいなかった。
私は、奥へと続く扉へとずかずかと歩み寄り、勢いよくそれを開ける。
「おい!どういう…」
どういうことなんだ!そう怒鳴りながら、彼らに説明を求めるつもりだった。しかし、私の怒りは部屋の光景を見た途端、どこかへ飛んで行ってしまった。
―なんでこんなところに彼女がいるんだ。
そこには、悪魔と楽しげに話をする彼女の姿があった。そういえば、この間一回だけこのあたりで彼女を見たな。でもなんで…
私の頭は「なんで」という疑問で埋め尽くされた。もう、訳が分からなくなりそうだ。居るはずの人が見えず、居るはずのない人が見えるなんて…
突然の私の訪問に、彼らも戸惑っているようだ。悪魔が彼女を指さして何か言い、彼女もそれを聞いて驚いた表情を浮かべる。こうして見ていると、二人はなんだか仲がよさそうに見える。前から知り合いだったのだろうか。もしかして、付き合っていたり…
考えれば考えるほど、私は惨めな気持ちになっていく。しかし、痛みなどは何も感じない。私は、すがるように彼らを見つめる。
「や、やあ。今日はどうしたんだい。」
先に口を開いたのは、悪魔だった。
「なんで、彼女がここに…」
「え、ええっと…」
喉が押しつぶされるような感覚の中、必死に悪魔を問い詰める。すると、困ったように悪魔は答えを濁す。しかし、私をもう一度見て、あきらめたようにため息を漏らす。
「おい。教えてやれ。」
悪魔は、そう言って彼女の方を振り返る。彼女は彼の指示にうなずき、何やらごそごそと妙な動きを始めた。まるで、何か着ているものを脱ぐように体をかがめ、そして彼女は勢いよく起き上がった。私は、彼女の意味不明な行動をただ茫然と見ていた。そして、起き上がった彼女の姿を見て、私は驚く。
「な、なんで、どうして…」
手品でも見ているようだ。確かにさっきまでそこには彼女がいた。しかし、彼女が起き上がると、そこには彼女ではなくあの魔女の姿が現れた。
「こういうことだよ。」
「こういうことって、彼女は、彼女はどこへ行ったんです。」
「彼女ならここだよ。」
そう言って、魔女は手に持っていたしわくちゃな何かを私に寄越した。私は、それを恐る恐る手に取り開いてみる。
「っ……」
言葉が出ないとはこのことだ。私は驚きと恐怖のあまり声が出せなかった。魔女から渡されたものは、彼女だった。正確には、彼女の抜け殻だった。
「う、うわぁ。」
私は、驚きのあまり、変な叫びとともにそれを投げ捨てる。呼吸が浅くなり、肩で息をし始める。鼓動が早まる。胃液が逆流してくるのを感じ、私は口元を抑える。
「ど、どうしてこんなことに…」
投げ捨てたそれを横目に、私は弱々しくつぶやく。
「殺したからだよ。」
背中の方から魔女の声が響く。
「殺したって、…そんな…。だって、昨日だって会社にいたんだ。いつもと変わらない彼女が居たんだ。殺されているわけがない。」
「昨日会社にいたのも私だ。それが事実だ。残念ながらな。」
「う、うそだ…。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だって言ってくれ。」
私は、現実を受け止めきれず、その場で崩れ落ちる。
「嘘なんかじゃないよ。」
頭の上に降る言葉に顔を上げる。
「嘘なわけがない。だって、わたしは魔女なんだもの。人間を殺すのなんて、当たり前のことじゃない。」
そう言って、魔女は口元を吊り上げる。
「…こ、この、人殺しが…」
私は、震える膝を手で支えながら立ち上がる。上げた顔を魔女に向け、うつろな目で彼女を睨む。
「さあ、今度はあんたの番だよ。大丈夫きっと向こうで彼女が待っていてくれるよ。」
そう言って、悪魔が私に近づいてくる。
―やばい。このままでは殺される。
震える足に力を込める。私は、身を翻して走り出す。扉を押し開け、クリニックを飛び出す。
―駅まで。駅まで行けば…
震える足のせいでうまく走れない。もつれもつれの足。甚だ不格好な走り方で必死に走る。逃げる。周りに人気は全くない。後ろを振り返る。視界にあの二人は見えない。
―逃げ切った…
そう思い、前を向き直った瞬間だった。私の頭上を通り過ぎる影が二つ、視界の隅をかすめる。
「よお、どこへ行くつもりだ。」
「逃げ切れるとでも思っちゃったのかな。」
私の上で二人はけたけたと笑う。そして、静かに降りてくる二人。
「は、はね?ほうき?」
そう、私の後ろからは誰も追っては来なかった。私の上を飛んで追って来たのだ。空から降りた二人はいつもと恰好が違った。悪魔の背には羽が生え、あの特徴的な尻尾まで伸びている。魔女はというと、片手に自分の背丈ほどの竹ぼうきを持ち、頭にはあのとんがり帽子が被られている。
「お前たちは、本物の…」
「何今更なことを。最初からそう言ってるじゃねえか。」
彼らは、本物だった。本物の悪魔と魔女であった。最初から…
私は、驚きと恐怖のあまりその場から後ずさる。
「おいおい、どこ行くんだよ。もう逃げないでもらいたいんだが。」
「そうそう。追いかけるのも疲れるし。」
彼らの言葉で、私の足は止まる。
「そうそう。いい子だ。じゃあ、最後の治療をしようじゃないか。」
「ち、治療!何が治療だ。私の体にいったい何をした。いるはずの奴が見えなくなるなんて聞いてないぞ。」
「そりゃあそうだ。言ってないもの。」
「ふざけるな!」
私の怒鳴り声が路地に響く。冬の空気が頬を切る。その場に沈黙が広がっていく。
「教えてやるよ。」
「えっ」
またも先に口を開いたのは悪魔だった。
「さっき聞いてきたじゃないか。いったい何をしたんだって。だから、その問いに答えてやるよって言ってんだよ。」
悪魔は口早に言い、口元を吊り上げる。
「俺たちがお前にしたこと。それは、最初に言った通りお前の望みを叶えることだ。」
「嘘だ。私は、見えるはずのものが見えなくなるようなめちゃくちゃな体にしてほしいなんて一切望んではいない。」
「いや。俺たちはお前の望みを叶えてきた。俺たちは悪魔と魔女だ。契約は絶対に守る。」
「じゃあ、なんでこんなことになっているんだ。おかしいじゃないか。」
「おかしい?」
悪魔と魔女は二人して首をかしげる。
「どこがおかしいって。何にもおかしいことなんてあるもんか。お前もほんとは気付いているんだろ。お前の望みは着々と叶えられているって。」
彼の言っていることがよく分からなかった。自然と眉間に皺ができる。
「望みが叶えられている?そんなことはない。私の人間関係は一切の変化も見られていないのだから。」
だんだんと語調が弱くなっていく。目線が下がり、足元に留まる。
「おい、お前。」
悪魔の声に反応して頭を上げる。
「『悪魔の手』って知ってるか。」
私は、聞き覚えのない言葉にかぶりを振る。
「『悪魔の手』っていうのはだな。所有者の命と引き換えにそいつの真の望みを何でも叶えてやるってものだ。」
「真の望み?」
「そうだ。心の奥深くに眠る真の望みだ。俺たちはそれを叶えてやったのさ。」
口の中が乾いてパサつく。
「お前は心のどこかでこう思っていたんじゃないか。」
―人間の胸は傷つきやすい。こんなものがあるから私は怖がって人を避けてしまう。こんな傷つきやすい胸なんかいらない。
―人は陰口が好きだ。あの笑い声もあの笑い声も私を馬鹿にしているものに聞こえてしまう。私の悪口ばかり聞こえてしまう耳なんてずっと塞いでしまいたい。
―私は傷つくのも嫌だが、傷つけるのも嫌だ。だから、人を簡単に傷つけてしまう口なんか捨ててしまいたい。
―人の悪いところばかり目についてしまう。犯罪、いじめ、詐欺…見たくもないものばかり映ってしまう目なら、いっそ潰してしまいたい。
悪魔の声が頭に響く。どこか遠くで聞いたことのあるようなフレーズが、ぐるぐると頭の中を巡る。
「…だから」
私の喉から擦れた声が漏れる。
「だから、あたしたちは取ってあげたのさ。あんたが捨てたがっていた胸も耳も口も目も。」
「…そんな…」
私は、膝から崩れ落ちた。地面に両腕を付き、何とか上半身を支える。体が凍り付いたかのように冷たくなっていくのを感じる。
「さあ、最後の治療の時間だ。」
地面を蹴る音が聞こえた。私は、垂れ下がった首をどうにか持ち上げ前を向く。すると、二人の間からぬっと一人の男が現れた。
「へっへっへ。こんばんは。久しぶりだね。」
二人の間から出てきたのは、私に二人を紹介したあの薄気味悪い男だった。
「…あなたが、すべて仕組んだのか…」
「へっへっへ。そうとも。なんせ、俺は神だからな。」
そう言って男は、どこから出したのか、自分の背丈ほどもある大きな鎌を取り出した。
「まあ、神は神でも死神なんだがね。」
そう言って、またあの不気味な笑い声をあげる。
「さあ、最後の治療をしようじゃないか。」
男は、そう言って私の方へ歩き出す。
「く、来るな!」
私の叫びなどまるで聞こえていないのか、男の歩みは止まらない。
「ち、ちょっと、ちょっと待ってくれ。」
―私は…
男は、私の前で立ち止まる。
「待ってくれ。お願いだ。」
男は、手に持ったその大きな鎌をゆっくりと振り上げる。
「さあ、これで最後だ。これでお前の望みが叶えられる。」
「―私は…」
ひゅんっ、と風を切る音が響く。見上げると、歯をむき出しにして頬を吊り上げ、これでもかというくらいの笑みを浮かべた死神の顔がそこにはあった。闇夜の中で不気味に輝く二つの目には、真っ二つになった私の姿が映っていた。
―私は、すべての人に愛されたかった。ただ、それだけだったのだ。
静まり返った夜の街に、不気味な笑い声が響いた。