異変
あれから一週間が経った。しかし、私の人間関係に特別な変化が起こることはなかった。あの後私は、朝日に背中を焼かれながら駅へ向い、始発の電車で一旦帰宅した。電車に揺られながら、私は昨夜のことを振り返る。すると思い出せることは、あの憎たらしい二人組のにやけ顔だけだった。そう、私は自分に何をされたのか全く分かっていないのだ。電車の中のため、自分の体を確認することはできない。帰ってから確かめることにしよう。
「はっ!」
そこで気づいた。お金。私は、代金を払っていない。もしかしたらと思い、ポケットを探る。しかし、そこにはちゃんと財布があった。ポケットからそれを引き抜き、中身を確認する。しかし、そこにもやはり何の変化は見当たらず、私は安息の息を漏らす。
何も取られていない。たちの悪い盗人グループかと一瞬疑ったが、どうやら思い過ごしのようだ。ここ最近で、少し神経質になってしまったようだ。真横からの朝日が、がらんとした車内を照らす。そのぬくもりに私の意識は、再び擦れていった。
結果から言って、外から見た限りでは、私の体には何も変化は見られなかった。いったい、私は何をされたのか。何も取られていなければ、何の傷跡も残っていない。本当に彼らは、治療とやらを施してくれたのだろか?私の頭は、少しの間はてなマークで埋め尽くされていた。
仕事間の昼休み。食堂へ向かおうとオフィスを出る。階段を下り一階へ向かう。クリニックへ行ってからの私は、他人に相談したからか、仕事のミスが減っていた。人に話すと楽になる、というのはあながち間違っていないようだ。仕事の調子を取り戻しつつあった私は、気分がよく、軽いステップで階段を下りていた。一回まで降りると、私はそのままの勢いで廊下へと繋がる通路を曲がる。
すると、そこで突然私の足取りが止まってしまった。彼女だ。まがった先の廊下に、彼女の姿があった。彼女と目が合う。逃げ出したい。今すぐ体を翻して逃げ出したかった。しかし、そんなことをして、まだ彼女を意識していることがバレるのもまた嫌だった。そんな逃げ腰な考えを巡らせているうちに、彼女の方はみるみるとこちらへ近づいていた。次第に私の鼓動は高まり、体は完ぺきに硬直してしまった。
彼女が私の横を通り抜ける。それを私は目で追う。ふわりと彼女のにおいが鼻をくすぐる。ぴんと張った彼女の後姿が角を曲がって消える。わずか十秒ほどの出来事が、妙に長く感じられた。私は、思い出したかのように再び呼吸をし始める。
まただ。また彼女は、表情一つ変えずに私の横を通り過ぎて行った。手のひらに痛みを感じ、手を覗く。そこには血の滲んだ爪痕が残っていた。これでまた、せっかく取り戻しつつあった調子が崩れてしまうだろう。私は、重くなってしまった足を引きずるように動かし、食堂へと向かった。
仕事が終わり、会社の出入り口である自動ドアをくぐる私の心は、不思議な感覚に囚われていた。今日の、正確には午後からの私は、結局上司に呼ばれることは一度もなかった。一週間ほど前の私なら、あんな出来事の後は耐え切れず、ミスを連発していた。それなのに、今日は一度もミスをせず、むしろ調子が良かった。彼女のあの態度に何も感じなかったわけではない。しかし、前の時とは明らかな違いがあることに私は気付いた。胸だ。前に彼女に傷つけられた時、私の胸は言葉には表せない痛みのようなつっかえを感じていたのを覚えている。それが、今回は感じられなかったのだ。
これが、もしかしたら…。そう感じた瞬間、私の足は駅とは違う方向へと足先を変えていた。