悪魔と魔女
あの気味の悪い男と会って、一週間が経とうとしていた。あの日から私は帰り道で、あのビルの間を意識するようになった。しかし、あの日以来彼の姿は見ていない。今思えば、彼は私の作り出した幻覚だったのではないか、という考えが頭の隅をかすり始めていた。しかし、私のコートのポケットには、あの時彼からもらった地図がしわしわになりながらも残っていて、幻覚ではなく現実であったことを物語っていた。
そんなある日のこと。私は、会社で彼女と鉢合わせした。振られてからは、できる限り会うことを避けていたが、如何せん。同じ会社なのだから、避け続けることは不可能であった。私が、どうしたものかと悩んでいると、彼女は「おはようございます」と、頭を下げ、以前と変わらず澄まして私の横を通り抜けて行った。私は、彼女の背中を目で追うが、彼女の方は気づかず、奥のオフィスへと入っていった。
私は、彼女のことをこんなにも気にしているというのに、彼女は表情一つ変えず、平然と横切って行った。まるで、私との関係など無かったかのように…。
悔しかった。苦しかった。そして何より、悲しかった…。意識しているのが私だけであると気付かされて…。本当に私のことを何とも思っていないと痛感させられて…。その日、私はまた一週間前のように、仕事でミスを連発し、上司にどやされた。
その日の会社終わり。何とも言えない脱力感を抱えて、まっすぐ帰宅する気力もなくなっていた。秋風が強まってきた夜道。指先が冷たくなるのを感じ、ポケットへ無意識に手を入れる。すると、カサコソと紙くずが指に触る。無造作に丸まったそれをポケットから取り出し開いてみると、『カウンセラー』と矢印で示された地図が描かれている。
「これは…」
これはあの時、気味の悪い占い師からもらった地図だ。確か、知り合いのカウンセラーの紹介状だとか。気づけば、足は地図に示された方向へ向かっていた。
「馬鹿げている。」
そんなことを吐いている私の目の前には、小さなクリニックのような建物があった。看板には『カウンセラー』と、おかしなことまで書いてある。ふつう、『何とか精神病院』とか『何々精神科』と書くだろうが。そして、なぜ私もこんなところに来ているのだ。ショックのあまり、とうとう頭までおかしくなってしまったのか。まあ、頭がおかしくなったのなら、カウンセラーに相談しないといけないな、などと思って苦笑する。
「もう、どうにでもなれ!」
私は、見るからに怪しいそこに、半ば投げやりな気分で入っていった。
中はがらんとしていた。やけに明るくなっている蛍光灯の光に目が少しすくむ。部屋の壁紙は白一色で、蛍光灯のまぶしさがさらに明るく感じられた。部屋には、ソファーと小さなテーブルが置いてあり、ソファーの反対側には誰もいないカウンターが設けられている。
「すみませーん。」
引き扉を放し、中へ踏み込む。中からの返事はなかった。
「すみませーん。誰かいませ…」
カウンターに向かって呼びかけていると、女の人がカウンターから顔を出した。
「何かしら。もう終わりなんですけど。」
乱れた髪をかきながら、彼女は私に尋ねる。
「………。」
その声があの人のと似ていて、私は押し黙ってしまった。
「ちょっと、あんた聞いてるの。」
彼女は、不機嫌そうな声を上げ私を睨む。
「あ、ああ、すいません。その、相談があるんだけれど…」
「今日は、終わりだって言ってるだろ。だいたい、こんなところどうやって知ったんだい?あたしが言うのもなんだが、ここはあまり人には知られてないんですよ。」
男らしいというか、口が汚い女だなあ。私は、彼女の口調におののき一歩下がる。
「わ、私は、駅の近くのビル街で会った占い師に紹介されてここへ来たんですが…。」
「占い師?誰だいそれ?」
「お知り合いだと聞いたんですが…。少し老けたおじさんで、歳は四十後半くらいだと思うんですけど。机に『神』と書かれた布を張って、屋台のようにお店をやってる人なんです。」
私が、恐る恐る、しかし、丁寧に説明すると、「ああ!」と、向こうも思い出したようだ。
「神様か。なら仕方ない。少し待ってな、今そこ開けるから。」
そう言って、彼女はカウンターの奥へ消えていった。
控室の奥へ通じる扉を開けると、先ほどの女の人の他に男性が一人、デスクの前に腰かけていた。
「誰だい、あんた?」
彼は、私に気付くと少し顔を不愉快にして尋ねてきた。
「私は、いいカウンセラーがいると聞き、相談に来た者なんですが…。」
「いいカウンセラー…?」
彼は、少し首をかしげ、女の方に目配せをする。彼女は、「神様が見つけた人よ」と、彼に説明すると、「ああ、神様の」と、彼も彼女の時のように納得する。
「そう。じゃあ、そこに座るといい。相談とやらを聞いてやろうじゃあないか。」
そう言って、彼は私の足元にあった腰掛を顎で指す。ここに関わる人達は、どうも口調やら態度やらに品が無く、私は頭に血が上るのを感じた。指された椅子に、ドスンと勢いよく腰を掛け、彼らの方へ向き直る。
「それで、相談とは?」
「…はい。それがですね、…」
私は、占い師に説明した時と同じことを彼らにも話した。
「そうか。それは大変だったな。」
彼もまた、特に大変に思ってなどいない口ぶりで、返事を返してきた。
「それで、あんたはこれからどうしたいんだい?どうなりたいんだい?」
隣で立って聞いていた女が、私を見下ろすようにして尋ねる。
「私は、すべての人から愛されたいのです。」
つい気持ちを乗せすぎて、前のめりになりながら答える。それを男は、鬱陶しそうに手で払う。
「すべての人から愛されたい、ね~。」
彼らは、私の顔を流し眼で見て口元を吊り上げる。
「いいよ。叶えてあげましょう。」
「ほ、ホントに!」
「ああ、神様の紹介だしな。」
男と女は顔を見合わせて笑う。それにしても、さっきから出てくる神様って何の事だろう?業界用語か何かか?
「あの、そのさっきから出てくる神様って何の事ですか?」
私は、遠慮がちに質問する。すると、彼らはまたも顔を見合わせて笑う。
「何って。神様は神様だよ。」
馬鹿にするような口調で男は言った。しかし、私には理解することができず、首をひねらずにはいられなかった。そんな私を見て、今度は女が口を開く。
「だから、おまえにここを教えて下さったのが神様だよ。」
私の態度が気に入らなかったのか、彼女の口調は少し荒かった。
「私にここを教えてくれたのは、占い師でしたよ。」
「ばーか。その方は神様だよ。ちなみに、俺は悪魔で彼女は魔女だ。覚えとけ。」
今の発言を聞いて、私は思った。この人たちは危ない、と。そして、何を言っても、無意味だとも感じた。きっと宗教か何かにはまってしまった人たちなのだろう。私は、彼の言葉に「はぁ」とだけ相槌を打ち、この話を終わらせた。
「それで、なんだっけ?あんたの願いは。」
「すべての人から愛されたい、です。」
二回目だからだろうか。私は、なんだか恥ずかしさに駆られた。
「ああ、そうだったな。愛されたいね。」
自分を悪魔と名乗る男は、にやにやと顔をゆがめながらつぶやく。
「運がいいな、お前。その願いは、叶えるのが簡単な部類に属する。きっと、叶うことだろう。」
「ほ、本当か。いや~それはうれしい限りだ。しかし、なぜみんなに愛されたい、という願いが簡単な部類なんだ?人は大抵、色恋や人間関係について悩んでいると思うのだが。」
「ふっ、そんなの決まっているではないか。人間は、簡単に人を愛するからだよ。」