腹を括る
月曜日の朝は晴天だったと記憶している。
4月も後半に入り桜の花も散って初夏の装いがし始めた頃だった。
『もしもし……』
『はい、仙波です』
『あ、おはようございます。阪上です』
『おお、おはよう。どうした?』
『あの……仕事辞めようと思いまして……』
ボクは訪問入浴をするまでにいくつかの会社を入っては辞めてきたので、退職するのは簡単だと思っていた。『辞める』と言って止められることはなかったので今回も電話で簡単に辞められる……まあ、明日から辞めるとは言えないだろうから月の最後ぐらいまではがんばって、それからは自由だ。
そんなふうに考えていた。
『え? 辞める?? なんで???』
『いや……あの……』
辞める理由など聞かれたことのないボクは焦った。
まさか理由を聞かれるとは……
そもそもボクの代わりなどいくらでもいるではないか。
世間一般ではそう言われる。
実際にボクがこれまでに辞めた会社でもそういうことを言う人は多かった。
『あの……いや……なんか合わないなと思って』
『合わない? そんなことないよ。てゆうか阪上くん、まだ入社して数か月じゃん。合わないとか判断するのは早いよ』
『そ、そうなんですか? いや、でも辞めたいです』
『ダメだよ。明日からも仕事あるんだから』
『あ、その……明日からとかじゃなくてもいいんで』
『そうだよね。でも辞めなくてもいいじゃん。なんかあったの?』
こんなにいろいろ聞かれるとは思ってもいなかった。
今考えると実は介護の業界ではこれがけっこう当たり前なのである。
この業界は慢性的な人手不足なのだ。
『辞める』と言っているからと言って簡単に『はい、そうですか』という訳には行かないのである。
さらに介護職というのは基本的に傾聴という技術に長けており、人の話を聞いて説得することを生業にしているところがあるから、当時のボクのような素人がいくら『辞めたい』と言ったところで簡単に辞めさせてくれるわけもない。
『え……いや……』
『言ってみなよ。力になれるかもしれないし』
『あ……はい……』
リネン室で悪口を言われていたことは口にしたくなかった。
なんだか口に出してしまうと自分がまったく価値のない人間であることを自分自身が認めてしまうような感じがしたから。
でも仙波さんにここまで言われるとボクも事実を言わざるおえなかった。
『実はその……ボク、なんか嫌われてるみたいで』
『なるほどね……まあ、そういうのは気にしないでいいよ。女ってそういうもんだし』
『そ……そうなんですか?』
『うん。別に阪上くんの仕事、俺も一緒に回ったから分かるけどそこまで悪くないよ』
『あ、ありがとうございます』
『だから気にしなくていいよ。またなんかあったら話聞くからさ。とりあえず辞めるのはなしにしてくれよ』
『え……』
『介護の職場って男が少ないじゃん。話し相手もいないから、辞めないでほしいんだよね』
仙波所長の動機はどうだったのかは今となってはよく分からない。
ただ彼がこうやって励ましてくれたからボクはここで辞めずに済んだのは事実だ。
これに関しては感謝しても感謝しきれない。
ただ……問題もあった。
というのも辞めるという選択肢を消すということは、またあの悪口を言われる職場に戻らなければならない……ということだ。
火曜日からの出勤を約束したあと、ボクは電話を切った。
この出来事でボクはもう一度自分を見直すことができた。
つまり、仕事の中で自分ができている点とできていない点を見直し……できていないところが嫌われている原因だと分析したのである。
腹を括ると自分がやらなければいけないことが見えてきた。