あの時の彼女が……
『大丈夫?』
電話の向こうで未来ちゃんの声が聞こえる。
『うん……』
『仕事、しんどいの?』
『そうなんだ……』
『辞めちゃったら?』
『でも……』
『仕事辞めても生きていけるよ』
『いや、そうだけど』
『大丈夫だよ。あたしがいるじゃん』
『え?』
『ん?! いや、冗談。だけどなんとかなるって』
未来ちゃんは状況が分かっていないのか、それとも分かっているけど勤めて明るく接してくれているのか、とにかく鬱病で何のやる気も起きないボクとも嫌がらずに話をしてくれた。
仕事を辞めよう……というか休職しようと思ったのは彼女の言葉がきっかけだった。
いつまでも『しんどい』と言っていても何も解決しないと思ったのだ。
早くこの苦しみから解放されたい。
そのためには仕事を休むしかないのである。
休職してからは気持ちが解放されて良くなるのかと思いきや、そこからがしんどかった。
果たして仕事を本当に辞めても良かったのか……
これから先、どうすれば良いのか……
これからもこういう辛い状況になったらボクはそのたびに仕事を辞めなければならないのだろうか……
いろんなことが頭を駆け巡る。
ああ、そりゃ仕事が手が付かないわけだ。
こんなふうにいろんな悩みを抱えていたのだから。
そんなことを思いながら毎日を過ごしていた。
いっそ……
死んでしまったら楽になるのかもしれない。
そんなことも本気で思ったが、それは自分にも死んだら悲しむ人がいると考えて辞めた。
ただそうなるとこんなにしんどいのに死ぬことさえ許されないという辛い気持ちに苛まれる。
もう仕事どころか好きなことも何も楽しめなかった。
釣りに行きたいとさえ思わなかった。
仕事を休んで、もちろん休んでいる間は給料はでないのだから、堂々と釣りにでも行けばいいのだが……行く気になれない。自分だけが休んでいていいのだろうかと思ってしまうのだ。そうでなくても『どうせ行っても釣れないだろう……』と後ろ向きなことを考えてしまう。
『はあ……』
ため息しかでなかった。
貯金は底をつき始めていたので、ボクは実家に帰ることにした。
仕事だけでなく一人暮らしもダメになった……
そう考えてしまったことを覚えている。
仕事の休職期間の間に季節は冬から春に……春から初夏になっていった。
ボクが休職している間も未来ちゃんはボクに電話をかけてきてくれた。
少し良くなってからは一緒に食事にでかけることもあった。
食事をしながら……ボクは彼女との関係性もはっきりさせなきゃいけないと思い始めていた。
彼女はどう思っているのだろうか……。
『どう? 調子は??』
『うん……なんだかね』
『実家に帰ったらちょっとは楽じゃない?』
『いい歳をした男が実家にいるのは恥ずかしいよ』
『そんなこと言ったらあたしなんかまだ実家だよ』
『女子はいいんだって』
『そうでもないよ。早く嫁に行けって周りの目が言ってる……』
『そうなんだ……』
『誰かもらってくれないかな』
『う――ん……』
『そこはあまり深く考えないでほしいなあ』
『そっか。でも未来ちゃんならいい人に出会えそうじゃん』
未来ちゃんとこんな話をしたのはこの時が初めてだった。
ただ彼女も結婚したいのだなとはっきり分かった。
『ねえ』
『ん?』
『早く良くなるといいね』
食後のコーヒーを飲みながら不意に未来ちゃんはボクに言った。
彼女とまともに目が合って、なんだかちょっとドキドキした。
今までだってこんなふうに話すことは何度もあったのに、この時はなんだか緊張した。
『なるのかな?』
『なるよ。なるって思った方がいいよ』
『そうか……そうだよね……なんだかさ、最近、自分の人生振り返ることが多いんだ』
『人生?』
『そう、人生。仕事も長続きしないし、一人暮らしもダメだし、恋愛もうまく行かないことが多くて……こんなボクに価値はあるのかなって……』
『仕事はたまたまだよ。独り暮らしも病気になったんだから仕方ないじゃない』
『そっか……』
『恋愛は……』
話しが恋愛の話になると未来ちゃんは息を呑んで一拍おいてから話し出した。
いつか言おうと思っていた一言なのかもしれない。
『恋愛はうまく行ってないの?』
『フラれてばかりだからね』
『そんなの気にしない方がいいよ。だったらさ……あたしのことお嫁にもらってよ』
病気のこんな時に彼女はボクを励ましたいが一心で言ったのだろうか……。
でも彼女の気持ちはボクにはしっかり伝わった。
そしてやっぱり関係をはっきりさせなくちゃならない。
『ありがと……。そうだね』
ボクはそれだけしか言えなかった。
病気が治らない以上は結婚は考えられない。
現時点で『結婚しよう』とは言えない。だけど彼女のことは好きなのだ。
ちょっと中途半端な返事だったけど、ボクにとっては最大の誠意のつもりだった。
そして彼女にもそれは伝わった。
数年後……
ある大雨の日。
真っ白なウエディングドレスに身を包まれた彼女はボクの隣にいた。
そう。
まさに、あの時の彼女こそ、今のかみさんなのである。