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真相

 ボクが退職を決意したのは桜が散り始める4月の半ばぐらいだった。

 ちょうど伽耶(かや)ちゃんと別れてから1年経ったぐらいの頃である。


 石田さんには退職する本当の理由は話さなかった。

 

 一所懸命に行った指定申請の書類の作成を『帰って』の一言で踏みにじられたことがボクの退職の大きな原因だったのだが、それ以前に人間関係の違和感が解消されず、その中で頼みの綱の石田さんにまでそんなことを言われては、ボクの気持ちがついていかなかったのだ。

 その他にも退職理由はたくさんあるのだけど、もうそんなことをここで列挙しても仕方ないので書かないでおく。


 いずれにせよそれらの退職理由を石田さんに話したところで理解しあえるとは思わなかった。


 せいぜい喧嘩になってしまうのが関の山だろう。

 喧嘩して仕事をやめるぐらいなら本音を隠して辞めた方がいいとボクは判断した。その方が、今後、何かの機会で会うことがあっても笑顔で話ができると思ったのだ。


 まあ、仕事を辞めてしまえば、そうそう会うこともないし、嫌なら電話なども出ないようにすればいいだけなのだが、それでもトラブルを起こして辞めるのは嫌だったから表面上はみんなが納得行くやり方で辞めることにした。


『ケアマネジャーの資格も取れたのでそちらの仕事に就きたいと思いまして……』

『……そっか……残念だなあ』

『ありがとうございます。引き留めてもらえることは自分への評価だと感じています』

『まあ、いつまでもうちにいてほしいとは思っていたけど、阪上さんも将来があるからね』

 辞表を出したときはこんな会話を石田さんはしていた。

 笑顔で話は進んだ。

 たぶん……石田さんの笑顔は嘘なんだろうなと思いながらもボクは話を合わせた。

 辞めてしまえばこちらのものだ。


 ところが……

 隠し事というのは隠せないものである。

 ここにきてボロが出たのだ。


『辞めるんだって?』

 一緒に現場を回っていた春川さんというヘルパーがボクに話しかけてきた。

『ええ……いろいろありましてね』

 人間関係に違和感を感じてはいたがボクはすべてのスタッフに愛想よくふるまってきたし、特段、嫌な顔をする理由もないのでいつものように答えた。


『ごめん。辞めるって聞いたからぶっちゃけて聞くけどお給料、いくらぐらいだったの?』

『お給料ですか?』

 辞める理由は給料の安さではないので、どう伝えたらいいかボクは一瞬迷った。

 しかしどう伝えようと事実は事実だし、うそをついたりごまかしたりしても仕方ない。本当のことだけを言おうと思い、事実をそのまま伝えた。

『辞めるのはお給料が原因ではないんですけど、15万です』

『えっ? 本気で??』

『いや本当です』

『嘘?? もっともらってると思ってた』

『いやいや、こんなもんですよ。会社の規模的にもそこは仕方ないし、それは入社した時から納得してましたから』

『いやいやいや……ダメだよ。納得しちゃ』

『そうですか? まあ、雇ってもらえるだけでもありがたかったですよ』

『いや……ごめん。それは辞めるのも仕方ないわ。ちょっと誤解があったみたいだね』


 春川さんは小学生の男の子を二人育てているシングルマザーだった。

 実はこの業界、そういう女性が多い。

 これで給料がそれなりにもらえるのなら『女性が輝ける仕事』として胸が張れる業界なのだけど、残念ながら給料はそんなにもらえないものだから『底辺の仕事』と世の中に認識されているのがボクとしては悔しくて仕方ない。


 余談になるが『夕凪と小春日和を待つ日々』という小説の中で主人公の晴海が就く仕事も介護職である。これは最終学歴が中卒でも就ける仕事で、その後、独学で『介護福祉士』が取れるのでそうしたのである。

 いつか介護職が本当の意味で『女性が輝ける仕事』になればいいなと思っている。


『阪上さんって前の会社で石田さんの上司だったんでしょ?』

『上司??』

 そんなことは微塵も思ったことがなかったので、春川さんが言っていることが一瞬何のことかボクには理解できなかった。

 でも確かに石田さんと最初に出会ったときはボクは前の会社の横浜営業所の所長代理だったので間違ってはいない。


 上司なんて名ばかりで、社会経験も人間性も石田さんの方が上だと思っていたから、『上司』という言葉にピンとこなかったのだ。


『ああ、でも上司と言っても名ばかりの上司で石田さんに助けられてばかりでしたよ』

『そうなの? 石田さんは上司だったから来てもらったみたいなこと言ってたよ。だからてっきりもっともらってるものだと思ってた……』

『まあ、上司というか、一緒に仲良く仕事させてはもらっていましたね。でも給料に関してはボクはそんなに有能な人間ではないですから』


 春川さんはまるで何かの憑き物が落ちたかのように話し出した。

 ボクが感じていた違和感は、なんと退職する1か月前に解消してしまった。


 そしてこの違和感の原因はなんと石田さんだった。

 彼はボクのいないところでボクの悪口を盛大に言っていたのである。


 簡単に人を信じてはいけない。

 これは石田さんがボクに言ったアドバイスだ。

 まさにその通りだとボクはその時、思った。


 退職までの1ヶ月はそれなりに楽しく仕事ができた。


 辞めた後……風の便りに聞いたが、彼の会社は今ではもう存在しないらしい。

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