帰ってくれる?
『今日は上がってもいいわよ』
現場の仕事が終わった17時頃、事務所に帰ったボクは石田さんの奥さんにそう言われた。
実はこの会社は何かの手続きの関係で奥さんが社長になっていた。
石田さんが通所介護の申請書類を県に提出しに行った日の出来事だった。
『いや、でも書類の手直しとかあるかもしれないので、戻ってこられるまで待ちますよ』
『そう……分かった』
前の回でも話したとおりだが、通所介護の指定申請にはボクも関わっており、修正箇所があれば手伝うつもりでいた。
夕方、18時を回った頃。
石田さんは車に子供たちを乗せて事務所にやってきた。
別にそれはいい。仕事が終わったらどこかに行く予定だったのかもしれない。
『帰ってくれる?』
彼は事務所にボクがいるのを見てそう言い放ったのである。
こうなると何が何だか意味が分からなくなる。
別にボクは今まで無駄に会社に残って残業代を請求したこともないし、そもそもこの会社がボクに残業代を支払ったこともないのだ。
でもボク自身はそういうことも飲み込んだ上で仕事していたので構わなかった。
だけど、彼が何も考えずに言い放った『帰って』という言葉だけはどうしても許せなかった。
『すみません。通所介護の申請はどうだったんですか?』
『無事に終わりました。ですから帰ってもらってもけっこうです』
『分かりました……お疲れ様です……』
ボクは残念な気持ちを引きずりながらバイクにまたがって自宅に向かった。
なぜ彼がボクにこんなことを言ったのかは分からない。
ただ、とにかくショックだった。
石田さんがどう思っていたかは分からないが、通所介護の申請に関しては土日もパソコンに向かって書類を作成したりしてかなり協力したつもりだ。
まあ、立場がボクの方が下なので、結果をボクに報告する義務などはないだろうけど、残業代も休日出勤代も払わずに人の時間を奪っているのだから『ありがとう』の一言ぐらいあっても良かったのではないだろうか。
家に帰ってから……
一人でアパートの部屋の天井を見つめていても、ずっと石田さんの言葉が頭の中に響いていた。
お酒でも飲もうかと思い、ボクがのろのろと立ち上がると、携帯電話が鳴りだした。
『もしもし……』
『もしもし、今大丈夫?』
電話の向こうの声は未来ちゃんだった。
『大丈夫だよ』
『ありがとう。てゆうか別に用事はなかったんだけどね』
『そうなの?』
『うん。ちょっと暇だったから何してるかなって思って』
『今、帰ってきたところだよ』
『仕事はどう?』
『うん……実はさ……』
ボクは心がひどく疲れていたのかもしれない。
未来ちゃんに石田さんにされたことを愚痴ってしまった。
『え――。それはひどいね』
『もう何が何だか分からなくなってきたよ』
『給料もそんなに良くないんでしょ』
『まあ、そこはあまり気にしないんだけどね』
『そうなの?』
『うん。給料が良くても働きづらくて辛い思いするのは嫌だから』
『でもさ、忙しい思いして仕事したのに「帰って」って言われたんでしょ』
『そうだね……』
『働きやすい? 今の職場?』
『まあ、でもそういうときもあるかなって……』
『言いにくいんだけど……阪ちゃん、今すごく辛そうだよ』
未来ちゃんに自分の気持ちを話したところでボクはどうしたいかが分かってきた。
給料は安い。
休みは変則。
人間関係は違和感がある……
今の会社はろくなことがない。
しかも頼みの綱だった石田さんからは一所懸命に行った仕事を認めてもらえない。
もうここにいる理由はないな。
ボクはこの時、はっきりとそう思った。