呪いの釣り竿
『謝罪?』
黒石さんはボクに言った。
怒ってはいない。
ただ彼は何も考えていない。
だからこそクレームがあったにもかかわらず当該ヘルパーでもあるボクをその家に謝罪にも行かさずにそのままにしているのだ。そして今後の仕事のこともまったく考えていない。
『あの男のヘルパーは寄越すな』と言われているにもかかわらず、ボクはそこの家に行くことになっていた。
『ええ。謝罪しておきたいんです。仕事に行く前に』
『それはいいよ』
『何でですか? このままだとボクが仕事しづらいですよ』
『オレが頭を下げたから』
『それは分かるんですけど……家の人の反応をボクは見ていないので不安なんですよ』
『許してくれたよ』
押し問答をしても仕方ない。
そもそもはボクがクレームを受けたのでこういうことになっているのだ。
それに対して黒石さんはボクの代わりに頭を下げてくれているのだ。ここは言うことを聞くしかない。
そう思ってボクは自分の意見を下げた。
あの感じで勝手に謝りに行くのは難しいだろう。
『黒石さんは行かなくていいと言っていました。ですからあらためて謝りに行くことはしませんが、現場に入るときにきちんと謝罪しておきます』
この程度のことで電話するのも申し訳なかったのでボクは藤谷さんにそうメールをした。
今考えればこの時、電話で直接話しておけば良かったなあと後になって後悔している。
この時以降……
急に藤谷さんのボクに対する態度はよそよそしくて冷たいものに変わっていった。
季節は夏も終わりかけた頃……。
突然、藤谷さんはボクに言った。
『賭けは阪上さんの勝ちですね。約束通り釣り竿をプレゼントしますよ』
『賭け? ああ……ダイエットのことですか?』
『そうです』
『いいですよ。もう……』
ボクは力なく遠慮した。
仕事で失敗し、クレームを受けて、そのあと彼女の言うとおりに行動できなかったということもあって藤谷さんはボクに失望したのか……冷たくてよそよそしい態度に変わっていた。
もしかしたら彼女からすれば別に態度を変えているというわけではなかったのかもしれない。
ただ……
ボクからすれば、そんなに冷たい態度をとられてまで、彼女のことを好きでい続けることはできず、藤谷さんから声をかけられた時にはすでに気持ちも冷め切っていた。
『大丈夫ですよ。彼の職場が釣り具屋さんだから、安く手に入りますから』
言うに事欠いて、藤谷さんはそんなことを言った。
ボクにとっては何一つ面白いことではない。
そんなことで釣り竿をもらうぐらいなら自分で選んで買った方が何倍も嬉しい。
彼女にしてはボクとの淡い関係を断ち切りたかったのかもしれない。
もしかしたら彼氏にボクとのことを何か言われたのかもしれない。
しかし、そんな遠回りなことをしなくても、ここ数ヶ月、彼女はよそよそしくなってたのだから、ボクだってそろそろ脈はないことぐらい感じていた。
『本当にいいですよ。釣り竿だって安くないし』
『大丈夫ですって。遠慮しないで』
『遠慮なんかしてませんよ。本当にいりませんから』
ボクは失意の内に彼女の申し出を断った。
『約束だし、贈りますから』
『いいですって……』
ボクがほしいのは釣り竿ではないです。
藤谷さん。あなたの心がボクに向いてほしかったのです。
そう言いたかったけど……
この期に及んでそんなことは言えない……
数日後。
釣り竿が届いた。
安い磯竿だった。
もちろん差出人は藤谷亜希子になっていた。
その時……ボクは完全に彼女にふられたことを理解した。
いや……もしかしたら始まってもおらず、彼女はボクの気持ちに気づいてさえいなかったのかもしれない。
いずれにしてもボクの恋は終わった。
もらった竿は使う気になれなかった。
家においておくのも嫌だった。
釣りに行って何度か使ったが、どんなに他の竿で釣れていても、その竿には不思議と魚はかからなかった。何かの呪いでもかけられているかのように何も釣れなかったので、ボクは釣りの度に「呪いの藤谷竿」と言って保田くんに使わせていた。
ボクの失恋を思い出す道具を使いながら保田くんは笑ってくれた。
こんな時は変に慰められるよりも笑ってくれた方が心が楽になるのだ。
余談になるが、もらった竿は仕掛けが根掛かりした際に引っ張っていたら……いとも簡単にポキンと折れてしまった。
夏の終わりの出来事だった。