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電話

『あ、お久しぶりです……』


 電話の向こうでのごんちゃんの声はやっぱり可愛かった。

 それでもここに来てもボクは何か恋愛じみたものを感じずにいた。

 もしかしたらちょっと臆病になっていたのかもしれない。


 恋愛をしてフラれる。


 よく考えてみるとそんなにフラれていたわけでもない。

 実際にはフラれたのはヒロコさんの時だけなのだのだ。今考えてみると、少し気になっている女性が自分の前からいなくなってしまうと勝手にフラれたような気がしてちょっと元気がなくなっているということを繰り返していた。

 この時ぐらいから鬱病(うつびょう)の傾向はあったのだろうけど、そうやって別に何もはじまってもいないのに、始まったような気になって勝手に落ち込んで『彼女もいないボクなどがこうやって毎日を生活し、生きていく意味など果たしてあるのだろうか……』と本気で悩んだりもしていた。

 ごんちゃんに出会った頃はそんな傾向にはなかったのだけど……


 彼女に出会う前にはそんなことをずっと考えていた。


 その年にボクはヒロコさんにフラれた。

 ショックをずっと引きずりながら仕事をしていた。

 フラれたことがショックだったというよりはその後に何もなかったことがショックで、忙しくて辛い仕事の最中に何か恋愛でも楽しんでストレスを解消したいと思っていたのだけど、現実はそうはうまく行かないことに大きなストレスを感じていたのである。


 年末近くの12月。

 その時、ボクは横浜営業所の所長として大きなストレスを抱えており、限界だった。

 お腹が痛くなったのはクリスマス前のことだった。

 このエッセイの『撤退と終焉』という箇所で詳しく書いた通りである。


 あの時のことは今思い出してもかなりしんどい。

 ストレスでお腹が痛かった……

 うまく行かないあれやこれやの出来事が常に頭の中をグルグルと回っており、長い悪夢を見ているようだった。痛いお腹をさすりながら布団にくるまり何も考えないようにして、ずっとテレビを見ていた。


 テレビではクリスマスには恋人たちが最高のひと時を過ごす……というような話題で盛り上がっていた。

 自分には恋人はいない。

 最高のひと時……そんなものはない。

 あるのは大腸カメラだけ。

 検査をしてお腹が痛い原因を探るだけ。


 誰にもフラれていない。

 でもボクにとっては一種の失恋だった。


 あの時のことを思い出すと人を好きになってしまうと、またああなってしまうのではないかと思い、なんだか怖かった。

 恋をしたいという気持ちを持つと、すべてのことに悪影響が及ぶと思ったのだ。


 だから……こんなにごんちゃんといい感じだったのに何も感じなかったのだろう。


『お久しぶりです、この間はありがとうございました』

『こちらこそありがとうございます。えっと……またお仕事あったらお願いしたくて電話しちゃいました』

『え? 本当ですか?? それはありがたいです』

『よろしくお願いします』

『いやいや、こちらこそよろしくお願いします。じゃあ、所長に聞いてまた電話しますね』


 この時の電話はこんな感じだった。

 もちろん人事に関することは所長の黒石さんが決定することなので、ボクは黒石さんにごんちゃんの話をした。


 黒石さんは看護師不足なのにもかかわらずごんちゃんに電話することはなかった。

 忘れていたのか?

 それともボクの紹介の看護師は使いたくなかったのか?

 理由は分からないが、電話することがなかったのは事実である。


 過去の記憶は現在のもので埋め尽くされ……いつの間にかどこか彼方(かなた)に忘れ去られてしまう。


 そんなふうにごんちゃんとの思い出もボクの中では忘れ去られてしまった。

 この時、ごんちゃんはどう思っていたのだろうと思うこともあるが、もしかしたらボクと同じで日々の暮らしに記憶を埋め尽くされて忘れてしまったのかもしれない。


『電話するって言ってたのに申し訳ないなあ……』

 これを書いている時にボクはごんちゃんに対してそう思った。


『あたしも忘れちゃってたからお互い様ですよ』


 彼女ならあの可愛い八重歯を見せて明るく笑いながらそう言ってくれそうな気がする。

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