パンダさん
ボクが訪問入浴の仕事を始めて1年ぐらいたった時の話。
最初の半年こそ苦労もしたが、ちょうど1年ぐらい経ってボクはこの仕事に慣れ始めてきて、ようやくではあるが、周りを見回す余裕もできてきた。
そんな時に入ってきたのはパンダさんである。
彼女は30代前半で、結婚1年目ぐらいの新婚だった。
パンダさんという呼び名は彼女の体格が、コロっとしている所から着いたあだ名である。
ボクがパンダさんと仕事したのは最初の数回だけで、あとは当時新人だった運転手の黒石さんと仕事をしていた。
なぜだろう……。
とは考えなかった。
あくまで仕事だし、誰と仕事をしたいとか……誰とは仕事したくないとか……そういうことはなかったからだ。
ボクは営業所の誰と仕事をしても仲良くしていたし、パンダさん以外の看護師さんともうまくやっていたので当時の営業所長は黒石さんの性格と仕事の兼ね合いを考えてそうしたのだろうと思う。
黒石さんは当時35歳で、どちらかと言えば大男。
そんなに悪い人ではないのだけど、人の言うことをあまり聞かないことがあった。
当時、彼はボクに比べると経験がなかったので下橋さんというベテランのヘルパーさんが一緒に仕事することが多かった。
ある日の夕方。
黒石さんたちより早く仕事を終えたボクは車のガソリンを入れて、入浴車のメンテナンスを終え、車庫に車を入れてから事務所に戻った。
すると黒石さんたち3人が事務所に戻っていた。
なんだか険悪な感じがしたのでどうしたのかな……と思っていたら……
黒石さんが仕事中に何度か小さなミスをして下橋さんに怒られて、ぶすっとして何も話さずに1日仕事をしてきたというのだ。
ちなみに下橋さんと言う人はやたらめったら怒る人ではない。
何か意見を話す時もちゃんと筋を通して分かりやすく説明してくれる人だった。
そんな彼女に言われてそこまで怒る黒石さんを見て、ボクでも、他の看護師やヘルパーを彼につけるわけには行かないなあと思ったぐらいだ。
ボクの記憶が正しければ、そんな兼ね合いもあって、黒石さんは圧倒的に下橋さんとパンダさんと3人で組まされることが多かった。
パンダさんは優しいので下橋さんと同じように、黒石さんに何か言わなければならないときにも、人間関係を壊さない程度にちゃんと話してくれるはずであることを、当時の所長は考えてこの組み合わせにしたに違いない。
『どうしたんですか?』
ボクはこっそり下橋さんに聞いた。
『ごめんね。なんか……。クロちゃんさ、道を覚えてなくて迷ってばかりでね、そのこと言ったら拗ねちゃって』
『ええ……』
ボクは絶句した。
新人である以上、道が分からないのは仕方ない。
それは事前に地図を調べておき、分からなくなったら地図を確認して、その上で一緒に乗っているヘルパーや看護師に素直に聞けばいいのだ。
別に指摘されて怒るようなことでもない。
こうやって振り返ってみると黒石さんには悪いが、彼は年齢にしたら子供だったんだな……と今になって思う。
黒石さんがお休みで、パンダさんが出勤の時もあったから、ボクはパンダさんと仕事する機会は少なかったが全くなかったわけではない。
ところでパンダさんの本名は曽山美知さんだ。
『曽山さんってなんとなくパンダっぽくない?』
だれかがそんなことを言い始めたのが、彼女がそんな愛称で呼ばれるようになったきっかけである。
目がパッチリしていて二重。
コロコロした体系なのだが太っているわけではない。
顔は丸顔。
確かにパンダのようだというのは的を得た意見ではある。
『ええ――。やだ、そんなんじゃないですよ』
当の本人である彼女はそう言ったが、そんなに嫌そうでもなかった。
その笑顔がとても可愛かったのを覚えている。
いつの間にかボクの気持ちの中はパンダさんのことでいっぱいになっていた。
好きだったのである。
これは間違いない。
初恋の、鼻をくすぐるような微かな甘い香りがするような想いではない。
これはもう完璧に好きでどう考えても『恋』だった。
いくらボクが釣り好きでも『鯉』ではない。
誰がなんと言おうとも『恋』だったが……
苦しい片思いだった。
というのも……パンダさんは新婚でご主人もいる。
そして幸せそうだった。
だからボクが入る余地はなかった。
もちろんボクはあきらめた。
最初から自分の想いに蓋をしていたので、自分の気持ちに気づいた時には、なんだか鬱々したそんな気持ちになったのを覚えている。
彼女は話しやすかったので、ボクは仕事で分からないことがあったりすると彼女に聞いた。
意図的にそうしたのである。
パンダさんと話せるだけで幸せだったのだ。
彼女からすれば8歳下の男性など、弟みたいなもんだったのだろう。
実に親身に教えてくれたのを覚えている。
ある土曜日の一日。
その日、ボクは出勤だった。
パンダさんが出勤するので楽しみだった。
一緒に回って話ができるというのが嬉しくて仕方なかった。
でも……その日。
彼女は口数が少なかった。
体調が悪い……というわけでもなさそうだった。
どうしたのだろう……。
ボクはそう思ったが変に聞くわけにもいかずその日は仕事を終えた。
『赤ちゃんができました!!』
事務所で嬉しそうにパンダさんが話していたのは、週が変わった水曜日ぐらいの出来事だった。
『おめでとうございます!!』
ボクをはじめとした事務所のメンバー全員が祝福の言葉を彼女に投げた。
パンダさんはその後、会社を辞めていった。
『子供がほしい』と常々言っていたパンダさんはとても幸せそうだった。
その後、ボクは右も左も分からないのに営業所長代理という役職について、当時の職場だった鎌倉から横浜市磯子区の新規営業所に行くことになった。
訪問入浴という仕事は最低でも看護師が一人いないと仕事にならない。
そして看護師の確保がなかなかできない。
スタッフのシフト管理をしていたボクはあまりの看護師不足に悩んで、つい勢いで退職していたパンダさんに電話してみたことがある。
もちろんダメなのは分かっていた。
でも……ちょっと話したかったのだ。
『お久しぶりです。お元気ですか?』
『あら、久しぶり。元気にやってるよ』
『そろそろ生まれた頃かな――って思って電話してみました』
『はは。阪上くん。子供って10ヶ月ぐらいで生まれてくるんだよ』
『そうなんですか。じゃあもう生まれて数か月以上は経つんですね』
『そう。元気に生まれてきたよ。女の子』
『へええ。女の子……パンダさんに似たら可愛くなりますよ』
生まれてきた赤ちゃんは……きっとパンダさんのような優しくて誰からも好かれる女性に成長していくだろうとボクは心から思った。
パンダさんは電話の向こうで終始幸せそうだったから、出勤をお願いすることなどボクにはできなかった。
ボクの片想いはその時に終わったのである。