恋の終わり
そんなある日、井岡さんが事務所でみんなと話しをしていた。
ある利用者さんの名前の読みと漢字が分からないというところで盛り上がっていたのだ。
これにはさすがのボクも頭に来た。
利用者の名前など、ファイルの中身を確認すればすぐ分かることである。
しかも分からないことを一生懸命調べようとみんなで試行錯誤しながら、その途中の作業で面白いことがあっての笑いや盛り上がりなら分かる。
そのときの盛り上がりはそうではなかった。
『こんな漢字読めねえよ。大体こんな漢字使うなっつうの!!』
井岡さんがポンっとファイルを投げると、それを見た代々木さんを含め、数人のスタッフが大笑いしていた。
その利用者のファイルにはテプラで間違えた漢字が、雑に切り貼りされていた。
明らかに利用者をバカにしたような感じで笑っていたのだ。
この漢字の読みが難しい利用者さんは、朝一で訪問している人だったが、感謝してくれる利用者さんの顔や家族の顔を思い出すと、たかだか1ヶ月ぐらい前にこの仕事を始めて、しかも向上心がない井岡さんに、この利用者さんの名前を笑う資格はないと思った。
ボクは黙っていられなかった。
『何がおかしいんですか? 利用者さんの名前を笑うなんて最低ですよ!』
『何だよ……急に』
『利用者の名前ぐらいちゃんと覚えてください。井岡さんだって名前間違えられたら嫌でしょ! 利用者さんもそれは一緒です! こんなことを笑いのネタにするぐらいなら辞めたほうがましですよ!!』
この出来事。
一部始終を見ていた所長の上原さんは完全にボクの嫉妬だと言った。
嫉妬もあったかもしれない。
大好きな代々木さんを井岡さんに取られてしまった感じがして、ボクは寂しかったということを否定するつもりはない。
でもこの件はそういうことではないのだ。
その後……。
代々木さんからボクに電話があった。
『もしもし……』
『お疲れ様』
『お疲れ様です』
『あの……』
『なんですか?』
ボクは井岡さんと一緒に笑っていた代々木さんにも怒っていた。
だからこんな出来事があったあとに電話があっても嬉しくない。
『もう井岡さんとはうまくやるつもりはないんですか?』
何を言っていいか分からないボクが黙っていたら代々木さんは平然とそんなことを言ってのけた。
なんとも間の抜けた質問である。
なんと答えたかは忘れたが……少し気持ちが醒めていくのを感じた。
何が原因なのかは分からないのだけど、結局、この出来事の数日後に突然、代々木さんは会社を辞めていった。
確かにちょっと前からこの仕事には疑問を感じるというようなことを言っていたので『突然』と言うのは少し違うかもしれないが青天の霹靂であったことは否めない。
難しいことを言っていたが、簡単に言えば在宅介護は肌に合わないということなのかな……とボクは勝手に解釈している。
あの時、怒ったものの……
そしてその後の間の抜けた質問に少し気持ちが醒めつつあったものの……
この時、ボクはまだ代々木さんが好きだった。
退職してしまったのなら、同じ職場ではない。
ボクは意を決して自分の気持ちを口にしようと思った。
夜。
一人でボクは彼女の携帯に電話をした。
何回かの長いコール音を緊張しながら聴いた。
『はい……』
『もしもし……』
『ただいま電話に出ることができません……』
何度電話しても同じだった。
なんだか自分の気持ちを見透かされた感じがしてもうどうでもよくなったのを覚えている。
ボクの恋は終わった。
なんだか締まらない恋の終わりだった。
終わって見ると、なんでこの人のことが好きだったんだろう……と思ってしまっている自分がいた。
案外、恋の終わりというのはそういうものなのかもしれない。