人知れず悩む
川野ヒロコさんがいつ辞表を出して辞めるに至ったのかということはボクには分からない。
とにかくボクが知ったのは彼女が辞表を出した後だった。
そもそも……彼女はけっこう何度も車の中で『辞めたい』を連呼していた。
『腰が痛いのよ』
『そうなんですか? 大丈夫ですか? 荷物なるべく持たなくていいですよ』
『ありがと……』
『いえいえ……ボクにできることといえばそれぐらいですから』
腰が痛いと言う川野さんにボクはそう言ったのを覚えている。
その頃のボクと言えば元気で若くて腰などもまったく痛くなかった。体力を奪う訪問入浴の仕事を1日中やっても全く疲れなかった。一晩寝て朝起きると元気になってまた仕事ができた。
今では寝起きも悪く、朝起きたらあちこちが痛いボクだけどそんな時期もあった。
若かったのである。
『はああ……』
一件終わるごとに暗い顔をする川野さん。
いや……そもそもの性格が明るい人なので、暗い顔をしていても周りにはその深刻さが伝わりづらいというのはある。
一緒に車に乗っていたボクも川野さんの辛い気持ちは理解できなかった。
『なんかさ……このままでいいのかな?』
帰りの横須賀線の中で彼女はボクにそんなことを言った。
ボクに向かって言った言葉なのだけど……なんだかつぶやくような言葉だったのが今でも印象的である。
『このままで?』
『うん……阪上くんは彼女とかほしくないの?』
『まあそりゃほしいっちゃほしいですけどね……でも相手のある問題だから』
『アヤコちゃんは?』
『彼女はそういう感じじゃないですよ』
『でも既婚者はダメだからね……』
『てゆうかそれはないっす……』
女って怖い……。
いや、ボクが分かりやすいだけのかもしれないけど。
川野さんとはこんな感じで帰りが一緒だったことが多く、電車の中でいろんな話をした。
映画が好きな彼女とは共通の話題があったので話が盛り上がることもあった。
ちょっとそこらでお茶でも……と言うふうにならなかったのはなんと言っても彼女とボクの年齢が少し離れていたからかもしれない。
川野さんが辞表を出した頃は介護保険が始まったばかりの時で、事業所は大忙しだった。
そんな折でもあったのでボクは彼女が退職を決めたことに気づけなかったということもある。
同時にこの頃になると現場仕事も忙しくなってきていたので、新しい職員も多くなっていた。
その頃に入ってきた看護師の一人がもう一人の『ヒロコ』さん、代々木ヒロコさんである。
ボクが、本気で好きになった女性の一人である。