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蛇山車?

 その利用者さんは男性。

 昔は大学の教授だったとのことで、いつも穏やかな笑顔を浮かべながら、入浴を楽しみにしていた。

 この人の入浴の時間は金曜日の一番最後だった。

 名前は小内さん。


 彼はいつも奥さんと一緒に入浴が来るのを待っている。

 テレビを見ている時もあればそうではなくじっくり本を読んでいる時もある。

 何かの書き物をしている時もある。


 通常……高齢になるとやることもなくなり意欲も落ちていく。

 この意欲の低下が生活の質の向上を妨げる。

 できないことに対する意欲がなくなるのはなんとなく分かる。

 しかし……できることまでやらなくなるということが……今までボクは少し分からないでいた。

 つまり、以前にやっていた趣味でも、室内でできるような読書とかそういう趣味を一切やめてしまう高齢者が少なくないという事実である。


 そうはいうものの『立ち上がる』『歩く』などの今まで当たり前のような動作ができなくなっていくことを日に日に感じるということは、絶望感に苛まれるものなのかもしれない。

 これに関してはそうなってもみないと分からない。


 ボクも病気になって初めてこういうことが理解できた。

 でも……まだボクのは治るからいい。


 老いには逆らえないのだ。

 どんなに頑張っても……

 筋力の低下を防止しても……

 歳をとるということは避けられない。

 死が近づいていることを少しずつ感じなければならない。

 そんな毎日で、喜びなど見いだせるだろうか。

 今までやってきた趣味が……体力的にはまだできたとしても……もう嫌になってしまうのも無理はないことではないだろうか。


 多くの高齢者は意欲を落としてしまう理由はたぶんそんなところだろう。


 ただ……

 そうではない人もいる。


 小内さんは数少ない意欲の落ちない人だった。

 老いを受け入れている……という表現が適切なのかどうかは分からない。

 ただ穏やかな笑みの中に達観したような表情を見せてくれる彼がボクは好きだった。


 それに彼はいつも何かをしながらベッドの上で楽しんでいる。

 話しかけるとニコニコしながら答えてくれる。

 入浴自体も楽しみにしていてくれており『気持ちいいなあ』と言ってくれる。

 スポーツが好きで芸術も(たしな)んでいる。

 人間としての深みがある人だった。


 小内さんのお宅はマンションの1階だったので、車からお湯を引くことができなかったので、自宅の給湯システムからお湯を浴槽に引いていた。

 その給湯システムは一昔前のものだったので、ポンプの力が弱いのか、実にお湯が溜まるのが遅かった。


 このお湯の溜まるまでの間にボクらはいろんな話をしたのだ。


 ある日……。

 ベッドの脇に立派な油絵が飾られてあった。

『すごい……』

 川野さんはその絵を見て言った。

『これ、どうしたんですか?』

『息子が描いてくれてね。まだ途中らしいんだけどね』

『そうなんですか。すごいですね。カサブランカですか』

 彼女は『すごい』と言っているが……実は何も分かっていないことがあり、そういうところが川野さんの天然ボケなところで愛すべきキャラであったりもする。


 油絵には右下に筆記体で『Tadashi.K』と書いてあった。

 小内さんの息子は『ただし』と言う名前なんだな……となんとなしにボクは思った。


『息子さん……じゃだしさんって仰るんですね』


 ん?

 浴槽に周りでお湯を見ていたボクとヘルパーの下橋さんは目を合わせた。

 ふと小内さんを見ると、彼も目が点になっている。


 いや……

 じゃだしって……

 どんな漢字書くんだ?


 邪山車?

 蛇出汁?


 なわけないだろ!

 ボクは笑いをこらえるのに必死だった。

『川野さん……これ、Tですよ。息子さんの名前は『ただし』さんです』

『え? やだ。ホントだ。えええ! なんで??』

『いや、なんでって……それはボクが聞きたいですよ』

 確かに筆記体で『T』は『J』に似てはいる。

 だからと言ってちょっと見直せば分かる話なのだ。

 こんな天然なところのある川野さんはみんなから好かれている看護師さんだった。


 そんな彼女が辞めていったのはやはり介護保険が始まった直後のことだった。

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