茨の道なのだ
真の恋の道は、茨の道である。
これはシェイクスピアの言葉。
真の恋とは何だろうか。
そんなことを考えてみた。
恋というのは魚の鯉ではなく、異性を好きになることである。
では恋人とは好きな異性のことを言うかというとちょっと違う。
この辺の定義が非常に難しいのだが、一般的に言えば、恋というのは片思いであろうが両思いであろうが、相手のことを思うと気持ちが落ち着かなくなり、その人とずっといたい、という思いなのではないかと思う。
では恋人とは何か?
鯉人。
鯉のみにこだわって釣る釣師のこと……では断じてない。
恋人とは、恋とは対照的に、片思いでは成立しない。
一般論だが、一方方向の恋に関して、対象の異性を恋人と呼ぶのは通常はしないことだし、それが行き過ぎるとストーカーになる。
だから恋人とは基本、両思いである。
では初恋というのはどういう状態を指すのか?
読んで字の如く。
初めての恋だろう。
初めてだから当人はそれが恋だという感覚はないのかもしれない。
ん?
ということはボクの初恋はいつになるんだろう。
いくら考えても分からないことは考えないというのがボクの少ない長所の一つであるので、ここは忘れていこう。
もしかしたら初恋とは当人の知らないうちに終わっているものなのかもしれない。
高校時代は周りが男しかいなかったので恋愛とは無縁の生活を送った。
この生活は中学を卒業して、社会に出て、介護の仕事に就くまで続いた。
ボクはそういう生活が嫌だと思ったことはあまりなかった。
嫌だと思うことはなかったが、無意識のうちに恋愛がしたいと思っていたのかもしれない。小説を書くようになってから、しばらくボクの小説は主人公が女性であることが多かった。
どこかで自分の好みの女性を小説の紙面で活躍させることによって、ボクは擬似恋愛をしていたのかもしれない。
自分が書いた小説を友人の保田くんや茨木くんに渡していたのも、自分の疑似恋愛を自慢するようなものだったのかもしれない。
高校、専門学校を通してはそれで満足だった。
しかし社会人になってからはそれでは満足できなくなっていった。
社会人になってボクの感覚はまともになって行ったともいえるが、今度は違うベクトルの方に価値観が意向していったために小説がまったく書けなくなった。
違うベクトル……。
つまり今までは恋愛などは自分とは無縁だと割り切って生活していたのだが、きっかけはなんであったかは覚えていないが……とにかく『恋愛をしたい』と強く願うようになり、自分に彼女がいないのがとても恥ずかしいように感じるようになっていった。
今考えると恥ずかしい価値観である。
でも、これは若気の至りだけではなく、マス・メディアにも原因がある。
TV・映画・本を見ると恋愛物が売れるし、話題になっている。
そんなものを毎日繰り返し見ていると、ボクのような人は極端な例かもしれないが多かれ少なかれ、恋愛しなければなんの価値もないという考えになってしまう若者は多いのではないだろうか?
この頃は保田くん、多田くん、茨木くんと4人で会えばいつも好みの女性の話をしながら麻雀をしていた記憶がある。
ただ、この4人……
いずれにしても全員もてない。
そして身近に女性はいない。
身近にいる女性は妹か姉か……もしくは母親か……。
だから好みの女性と言ってもせいぜい好きな芸能人の話程度なのだ。
芸能人など現実には自分の彼女になるわけもなく……
そんな非現実的な恋の話など満足できないことこの上なかった。
社会人になったボクだが、生活が変わったのは、介護の仕事に就いてからだった。