婚約破棄されたので、修理は有料です
「君は、この城で何をしていたんだ?」
婚約を解消すると告げたあと、殿下は私にそう尋ねた。
「朝から地下にこもり、夜会にも顔を出さない。魔力は並以下。私の隣に立つ者として、何一つ誇れるものがない」
隣に座る侯爵令嬢が指輪を撫でるたび、石の光が揺れた。先月、殿下から調整を頼まれた品だ。
「贈る相手には、毎日つけていてほしい」
そう言われて、指を火傷しないよう、何度も術式を組み直した。誰に贈るのかは聞かなかった。
「お話は承知いたしました」
膝に載せた帳面を差し出す。殿下は受け取ろうとせず、私の手袋の油染みに目を留めた。
「城内の魔道具の点検記録です。厨房の冷却庫は、三日以内に弁を交換してください」
「今、する話か?」
「次の担当者にお渡しいただきたいのです。給湯器も冬の前には――」
「そういうことは使用人に頼んでくれ。魔力を注げる者なら、城には幾らでもいる」
侯爵令嬢の魔力は私の十倍だという。殿下は彼女の手を取り、指輪の光を確かめた。
私は机の空いているところへ帳面を置いた。交換が必要な箇所には赤い布を挟んである。誰かが開けば分かるように、昨夜のうちに書き直しておいた。
部屋を出ると、扉の前に控えていた侍女が私の鞄を差し出した。もう馬車の用意もできているらしい。三年間暮らした部屋に戻る必要はなかった。
厨房にだけ寄って、水をもらうことにした。
冷却器の前を通ると、配管から細い音が漏れていた。昨日より高い。弁を外して確かめたくなり、工具箱を床へ下ろしかけたところで、料理長に声をかけられた。
「リゼ様、今日はどちらから直しますか」
いつもどおりの問いに、うまく答えられなかった。
弁の交換なら半刻で済む。けれど蓋を開ければ、隣の管も点検したくなるだろう。給湯器の調子を聞かれたら、そちらも見に行く。外で待つ馬車には、また待ってもらえばいい。
「今日は、城を出ます」
料理長が工具箱から私の顔へ目を上げた。
「今後の点検は、新しい担当の方にお願いします。記録は殿下にお渡ししました」
「……そうですか」
事情を聞かれるのが怖かったが、料理長は作業台へ戻り、布で包んだパンを持ってきた。
「胡桃入りです。道中で召し上がってください」
夜中の修理が長引くと、よく残しておいてくれたパンだった。包みを鞄にしまっていると、料理長は私の工具箱を持ち上げた。
「馬車まで運びます。これは重いですから」
玄関まで並んで歩くあいだ、厨房で働き始めた若い料理人の話を聞いた。私が直した泡立て器を、ずいぶん気に入っているそうだ。
馬車の踏み台に足をかけたとき、料理長が「ありがとうございました」と頭を下げた。私も何か言おうとしたが、御者が扉を閉めるまで、うなずくことしかできなかった。
***
港町の叔母の家に着いてからも、朝はいつもの時刻に目が覚めた。
工具の手入れをして、朝食を食べる。それでもまだ午前が長い。叔母に頼まれた買い物を済ませ、壊れているものはないかと家の中を見て回っていると、三日目に商会への届け物を渡された。
「暇なら、これを持っていっておくれ。修理の仕事が欲しいなら、そこで聞いてみるといい」
商会の受付で名乗るより先に、奥の倉庫から異音が聞こえた。
冷却庫だ。細い笛のような音に、管の震える音が重なっている。
「冷却庫を止めてください」
受付の青年は驚いた顔をしたものの、私が持っている工具箱を見ると、すぐ奥へ走っていった。
戻ってきた青年に逃がし弁の詰まりを説明すると、彼は倉庫へ案内してくれた。魚を入れた木箱が積まれ、床には融けた氷の水が広がっている。
「朝から冷えなくて、魔力を足していたんです」
「それで圧力が上がったんですね。弁を替えれば、まだ使えます」
「今日中に直せますか」
「部品があれば、二時間ほどで」
「費用は?」
青年が帳簿を開いたので、私は冷却庫から顔を上げた。
城では部品代を財務官に請求していた。作業に何時間かかろうと、私が夕食に間に合わなくなるだけだった。
「部品代は銀貨三枚です」
「作業代も教えてください。支払いの用意をします」
壁際に置かれた工具箱を見る。叔母の物置には作業台を置ける。部品を幾つか買っておけば、仕事を引き受けられるかもしれない。
「銀貨二枚、いただければ」
「では、五枚ですね。追加の費用が出るなら、先に知らせてください」
ノアと名乗った青年は商会の責任者だった。部品を手配するあいだ、冷却庫の使い方や、扱う魚の量を細かく尋ねてきた。直すだけでなく、次に壊さずに使いたいのだという。
修理を終えて蓋を閉めると、ノアは約束どおり銀貨五枚を渡してくれた。
「近くの宿でも給湯器が故障しているんです。紹介しても?」
私は財布に硬貨をしまい、工具箱を持ち直した。
「はい。見に行きます」
宿の次は魚屋、その次は船の排水装置だった。叔母の物置に作業台を置き、受付用の帳面を買うころには、午前が長いと感じることもなくなっていた。
ただ、頼まれるまま予定を書き込んでいたせいで、昼食を忘れる日が増えた。
ノアが修理品を持ってきた日、私の帳面を見て眉を寄せた。
「これ、全部今日の仕事ですか」
「急いでいるそうなので」
「この時計は、来週までで構いませんよ。ほかの方にも納期を聞きました?」
聞いていなかった。頼まれた順に、できるだけ早く終えようとしていた。
ノアは時計を棚に置き、持参したスープの包みを作業台の端に広げた。
「食べているあいだに、私から聞いておきます」
翌日でよいという返事が二件、週末まででよいという返事が一件。私は帳面の予定を消し、空いたところに昼休みを書き入れた。
しかしその欄を守れたのは、三日ほどだった。
城の使者が訪ねてきたとき、私は出航前の船の排水装置を分解していた。使者は椅子を勧めても座らず、すぐに用件を告げた。
「厨房の冷却庫と給湯器が停止しております。殿下は、直ちに戻るようにと」
冷却庫は三日以内に、と伝えたのに。
料理長の顔が浮かび、工具箱へ手を伸ばす。弁だけで済むだろうか。配管まで割れていたら、交換する管も持っていかなければならない。
「明日の船は、どうしましょう」
修理品を届けに来ていたノアに尋ねられ、机へ目を戻した。
部品はまだばらばらだ。朝までに直すと約束したとき、船員たちは久しぶりに家へ帰れると話していた。
「城の技師の方は、点検記録をご覧になりましたか」
「記録は見当たらないそうです。詳しくはリゼ様に聞けばよいと」
使者が返事を待っている。私は工具箱から手を離し、船の部品を作業台の奥へ寄せた。
「修理の日程と費用を書きます。そちらをお持ちください」
見積書を渡したあとも、馬車の音が聞こえなくなるまで窓から離れられなかった。殿下は怒るだろう。こちらへ来てくれと言われたのに、代わりに請求書を送ったのだから。
翌朝、船の修理を終えると、船長が作業台まで代金を届けに来た。
「これで帰れます。次の入港のときも頼みますよ」
私は次の予定を帳面に書き込んだ。
城からの返事が届いたのは、その日の午後だった。
見積もりの金額には線が引かれ、その下に殿下の筆跡で書かれていた。
『婚約者として行っていた仕事に、金銭を要求するのか。見損なった』
椅子に座り、もう一度読んだ。
部品代だけなら、了承してもらえるかもしれない。旅費は自分で出せる。修理を済ませれば、料理長も困らずに済む。
返事を書こうと帳面を開くと、船長の次の入港予定が目に入った。その前にも、宿の点検と魚屋の配管交換がある。
私は城へ送った見積書の控えを取り出した。移動と作業にかかる日数を、最初から計算し直す。どこも削れなかった。
『婚約は解消されております。修理をご希望でしたら、日程と費用をご確認ください』
封筒を閉じ、叔母に明日の朝、郵便に出してほしいと頼んだ。自分で持っていけば、道中で開けてしまいそうだった。
***
一週間後、王家の財務官から正式な依頼が届いた。
点検記録は殿下の執務室の書類箱で見つかったという。財務官は見積もりを了承し、城付きの技師三名への引き継ぎも依頼してきた。
私は港町の仕事を片づけ、出張中の連絡先を叔母に預けた。ノアには帰る日を伝え、必要な部品を積んだ馬車で城へ向かった。
厨房の冷却庫は、配管が割れる寸前だった。
技師たちに傷んだ弁を見せると、一人が顔をしかめた。
「冷えなくなったら、魔力を足すものだとばかり」
「その前に、音を聞いてください。圧力が上がると、ここから高い音が出ます」
新しい弁を取り付け、給湯器では技師に作業を任せた。私ならすぐ終わる調整に半刻かかったが、次に故障したときは彼らが直す。口を挟みたくなるたび、点検記録に足りない説明を書き加えて待った。
帰る朝には、三人とも自分の工具を持って厨房に集まっていた。料理長が出したお茶を飲んでいると、殿下の呼び出しが来た。
「君が必要だと、よく分かった」
執務室の机には、私の点検記録が開かれていた。
「以前のことは水に流そう。婚約を戻せば、こうした費用の話も必要なくなる」
殿下は、私が喜ぶのを待っているようだった。
三年間、聞きたかった言葉ではある。必要だと言ってもらえれば、夜会に遅れたことも、食事の席で眠りかけたことも、許されると思っていた。
「修理代は、財務官の方と合意しております」
「金の話をしているのではない。君に戻ってほしいと言っているんだ」
「戻ったら、また私が点検をするのですか」
「君がいちばん詳しいだろう」
机の帳面に、昨夜追加した説明が見えた。給湯器の調整方法。冷却庫の弁の交換時期。これからは技師たちが書き足していく。
「港町で、明後日の仕事を引き受けています」
「仕事なら、この城にもある」
「はい。ですが、婚約のお話はお断りいたします」
殿下が何か言う前に、退出の礼をした。
厨房まで戻ると、料理長が胡桃パンを包んで待っていた。今度は技師の一人が工具箱を馬車へ運んでくれた。
港町では、ノアが桟橋にいた。私の鞄を受け取り、叔母から預かったという鍵を差し出す。
「お帰りなさい。今日は店じまいして、友人のところへ行くそうです」
「では、夕食をどこかで食べないと」
「よければ、ご一緒しませんか」
修理の相談かと聞きかけると、ノアは少し声を落とした。
「仕事の話は明日にして。今日は、二人で食事がしたいんです」
上着には城の地下でついた油染みが残っていた。袖を隠しかけて、鞄を受け取る。
「着替えてきます。少し待っていただけますか」
「ええ。店を取っておきます」
宿へ向かう途中、魚屋の冷却器が低い音を立てていた。調子はよさそうだ。
私は店先に手を振って通り過ぎた。鞄には作業着ばかり詰めてきたけれど、部屋には叔母が貸してくれた青い服がある。あれに合う靴を、借りられないだろうか。




