泣かなかった夜 ~公爵閣下は、妻の棺の前で一滴も泣かなかった~
「棺は、樫でよろしゅうございますか」
朝の書斎で、家令が読み上げるのを、オルデリクは机の向こうで聞いていた。
窓が北を向いている。五月でも、この土地の朝は霧が出る。硝子の外が白く、字を追うには足りない明るさだったが、燭台に火を入れるほどでもない。
「構わない」
「蓋は、伏せの刻限までお開けになりますか」
「閉めておけ」
ヴィルヘルムは帳面に何か書きつけた。この男は夜通し起きていても襟が乱れない。今朝も乱れていなかった。
「燭台は片側七本ずつ。参列の椅子は三十六」
「三十六か」
「はい」
オルデリクは、その数を口の中でもう一度言った。
「席次は奥様が」
「叔母上がお決めになる」
「はい」
喪の作法は、この家では叔母が握っている。席次も、襟布の幅も、蝋燭の数も。二年前に爵位を継いだとき、彼はその一切に手をつけなかった。手をつけて揉めるほどの意味を、当時は見つけられなかった。
「花は」
「北から参ります。今夜のうちに」
「そうか」
この葬儀について、彼が自分で決めたことは二つしかない。
花と、泣き女である。
昼前に、叔母が書斎へ来た。
「オルデリク」
マルグリット・ラングヴァイは扉を開けたところで足を止め、まず窓を見た。この人はいつもそうする。窓の外に何もないことを確かめてから話しはじめる。
「泣き女のことですけれど」
「決めました」
「王都から呼ぶと伺いましたわ」
「呼びます」
彼女は袖の折り目を指で撫でた。
「領内におりますでしょう。分祠の下に三人ばかり。あの者たちで足りますわ」
「足りません」
「三十六人の広間ですのよ。声を張る必要もございません」
「王都から呼びます」
叔母は、声を荒らげたことがない。彼が知る限り、一度もない。荒らげる代わりに、少し低くなる。
「指名料は」
「同業の三倍だそうです」
「三倍」
彼女は、その数を繰り返しただけだった。金の話をしているのではないと、彼にも分かった。この人は費用のことを言いに来たのではない。
「お家の格に、合いませんわ」
「合わない、というのは」
「王都でいちばん高い泣き女を呼ぶ家は、たいてい、泣く者がいない家でございます」
書斎が静かになった。
窓の外で、霧の中を鳥が渡っていく音がした。
「そうですね」
彼は言った。
「叔母上のおっしゃるとおりです」
マルグリットは、それ以上言わなかった。裾を捌いて、来たときと同じ歩幅で出ていった。彼女が反対を取り下げるときは、いつもこうである。押し切られたのではなく、押し切らせておいたほうが早いと判断したときの引き方だった。
招く者の名簿は、午後に上がってきた。
オルデリクは、それを机の上に平らに置いた。
三十六人ぶんの名前が並んでいる。この屋敷の人間の名は、彼が全部憶えている。憶えがいいわけではない。名を呼ぶという習慣が、いつのまにか癖になっただけである。
上から順に、指で追った。
妻の実家は、南のリエンヌ伯爵家である。使いは三日前に出した。片道十日かかる。
間に合わない。
兄弟はいない。伯爵夫妻には娘がひとりきりだった。だからこそ、七年前にこの北の家へ来ることが決まったとき、伯爵は三度、書状で条件を確かめてきた。あのときの書状は、まだどこかの引き出しに入っている。
乳母は、三年前に死んだ。
妻がこの家に来てから八年になる。八年のあいだに、この屋敷で彼女といちばん長く言葉を交わしたのが誰なのかを、彼は考えた。
考えて、答えが出なかった。
名簿を、もう一度上から追った。
叔母。従弟。家令。厨房の頭。侍女が四人。下働きが十一人。庭師。御者。文書係。村の年寄りが五人。神殿から三人。
この中で、明日の夜に泣く者を数えた。
叔母は泣く。作法として泣く。彼女の泣き方を、彼は子どものころから知っている。三度上げて一度下げる、崩れない型である。
従弟は泣く。あれは誰の葬儀でも泣く。八つのころからそうで、何度直させても直らなかった。
家令は泣かない。この男は段取りをする。
使用人たちは。
指が止まった。
オルデリクは、下働きの十一人の名を、一つずつ思い浮かべた。顔も、声も出る。厨房の裏でよく笑う娘がいる。階段の上がり方でわかる年寄りがいる。洗い場の小柄な子は、廊下で人とすれ違うとき壁に貼りつくようにして道を空ける。
あの子たちは、俯く。
泣かないのではない。俯いて、声を出さない。この一年、この屋敷でそういう顔がどれだけ増えたかを、彼は数えていた。数えていて、止められないでいた。
一度だけ、訊かれたことがある。
四年前の冬だった。湖から風の来る廊下で、彼女が振り返って言った。
「あなたは、どうして皆の名前を憶えていらっしゃるの」
厨房の下働きの名まで呼ぶ、というのが屋敷での彼の評判だった。褒められているのか、変わり者と言われているのか、彼には判じかねていた。
「憶えたわけではありません」
「では」
「呼んでいるうちに、憶えました」
彼女は少し黙って、それから息だけで笑った。窓の外が白くて、顔はよく見えなかった。
「では、わたしのことも呼んでくださる?」
あのとき自分が何と答えたのか、彼は思い出せない。
憶えているのは、彼女がそれきりその話をしなかったことだけである。八年のあいだに交わした言葉で、彼が正確に思い出せるのはこの一つきりだった。
名簿を伏せた。
三十六人が集まって、そのうち泣く者は二人である。ひとりは作法で泣き、ひとりは誰の葬儀でも泣く。
妻のために泣く者は、この屋敷にいない。
中庭で、従弟に会った。
「オルデリク兄さん」
セヴランは二十四になる。喪服の襟が曲がっていた。
「明日、僕、隅にいるから」
「席次は叔母上が決めた。お前は親族席だ」
「うん。でも隅にいる」
彼は指の関節で目のふちを押さえた。三日前からずっとそうしている。
「僕が泣くと、母さんが嫌がるんだ。だから隅」
「泣けばいい」
「え」
「泣くなとは言っていない」
従弟は口を開けて、閉じた。それから上着の裾を引っぱって、まっすぐにしようとして、うまくいかずにやめた。
「兄さんは、泣く?」
「さあ」
答えになっていないと自分でも思ったが、ほかに言えることがなかった。
夕方、荷が着いた。
中庭に馬車が入って、木箱が四つ降ろされた。蓋を外すと、湿った藁と、青い匂いが立った。
白い花である。
北の国のもので、この季節にこの量を揃えるには、二百里向こうの温室から水を張った箱で運ばせるしかない。届いたときには半分が傷んでいる。傷んだぶんを見越して、四箱にした。
「奥様のお好みでございましたか」
庭師のヨナスが、箱の縁を持ち上げながら訊いた。六十八になる男で、この庭を四十年やっている。
オルデリクは、答えるまでに間があった。
「知らん」
「はあ」
「好きだったかどうか、聞いたことがない」
老人は、それ以上訊かなかった。箱から一本抜いて、茎の折れ具合を確かめて、また戻した。
「白いのは、よろしゅうございますよ」
「そうか」
「どなたのときも、白ならまず外しませんので」
彼は花を選ぶのに二日かかった。
二日かけて、白いから、という理由に落ち着いた。八年一緒に暮らした相手の好きな花を、彼は一つも知らない。訊く機会はいくらでもあった。訊かなかったのは、訊く必要のある関係ではなかったからである。
兄が生きていれば、あの人が訊いていただろう。
箱の中の花は、どれも同じ向きに寝かせてある。運ぶ者が丁寧に詰めたのが分かった。二百里向こうの、名前も知らない人間の手つきである。
「明日の朝までに、広間へ」
「かしこまりました」
同じ日の夕方、渡し司祭が来た。
ドルーガという。四十代の後半で、髪を撫でつけ、眉が薄く、目が細い。二十六年、記載漏れを一度もしたことがないと屋敷の者が言っていた。
「明日の段取りを、確かめに参りました」
「頼む」
「伏せは、お済みでございますな」
「昨日のうちに」
「泣きは日没から夜明けまで。預かりが夜明け前。記載は、私が神殿へ戻りましてから」
「分かった」
司祭は帳面を開かなかった。開かずに、順序を全部言った。
「泣き女は、王都からと伺いました」
「そうだ」
「結構でございます」
彼は礼をして下がった。廊下へ出ていくとき、燭台の位置を一本ずつ目で確かめていくのが、扉の隙間から見えた。
組合への書付は、彼が自分で書いた。
家令に書かせれば早い。書かせれば、この家の書式で出る。彼は紙を出して、三行だけ書いた。
王都でいちばん指名料の高い者を一名。
五月十日、日没。ラングヴァイ公爵家。
期間、当日一夜。
書いてから、四行目を書きかけて、やめた。
書きかけたその紙は、消さずに燃やして、初めから書き直した。
組合からの返書が届いたのは、日が落ちてからだった。
ヴィルヘルムが封を開け、読み上げた。
「ご指名の件、承りました。当人、明日の日没前に到着の予定」
「名は」
「書かれておりません」
「泣き女の名を、組合は書かないのか」
「書かない決まりだそうでございます。あの者たちは、名では呼ばれませんので」
オルデリクは、返書を受け取らなかった。指も動かさなかった。
「閣下」
「なんだ」
「差し出がましいことを申し上げます」
家令は帳面を胸の前で閉じた。
「王都でいちばん高い者をお呼びになる理由を、私が訊かれましたら、何と答えればよろしゅうございましょう」
「誰に訊かれた」
「まだ、どなたにも」
この男は、そういう訊き方をする。忠実で、正確で、そして屋敷のどの廊下にも通じている。忠誠と情報が同じ道を通ることを、彼はもう知っていた。
「泣き足りぬ、と言われたくない」
オルデリクは言った。
「それだけだ」
嘘ではなかった。
夜が明けたとき、渡し司祭は泣きの量を検める。足りぬと言われれば、その者は渡れなかったことになる。渡れなかった死者は家に留まり、生者に禍いを置いていくと、この国では言う。
迷信だと言う者もいる。神殿の人間ですら、そう思っている節がある。
それでも、足りぬと言われた家がその後どうなるかを、彼は二度見ていた。
「承知いたしました」
ヴィルヘルムは、それ以上訊かなかった。
深夜、彼は広間へ降りた。
燭台はまだ立てられていない。明日の日没に火が入る。今は月明かりが窓から入っているだけで、石の床が縞になっていた。
中央に、棺がある。
樫の、飾りのないものである。蓋は下りている。伏せは遺族の仕事で、それはもう済ませてあった。
オルデリクは、その前に立った。
立って、それから、少し待った。
誰もいない。使用人は下がっている。叔母の部屋の灯りも消えている。この時刻に広間へ降りてくる者は、この屋敷に一人もいない。
彼は息を吸った。
喉を、開いた。
出なかった。
もう一度吸った。腹に力を入れて、押し上げようとした。喉の奥に手を当てた。押しても、そこには何もなかった。閉じているのではない。閉じているなら、こじ開ける道もある。
何も、ない。
彼は手を下ろした。
この二年、朝までひと続きに眠れた夜がない。天井の梁の節を数えているうちに夜が明ける。眠れないというのは、体のどこかが働きすぎているということだと医者は言う。働きすぎているものが、なぜ声にならないのかは、医者も言わなかった。
石の床が冷たい。
彼は、棺の蓋に手を置かなかった。
置いても意味がないからである。手を置いて泣ける人間は、置く前から泣いている。
試したのは、一度だけだった。
二度は試さなかった。二度やって出なかったときに、自分がどうなるかが分からなかったからである。
棺の脇に、椅子が一つ置いてある。
喪主の椅子だった。明日の夜、彼はそこに座らない。当主となる者は葬儀で腰を下ろしてはならないと、この家では決まっている。決めたのは彼ではない。誰が決めたのかも、もう分からない。
彼はその椅子の背に、指を一本だけ触れた。
木が冷えていた。
彼は広間を出た。
出るときに、月明かりの縞をひとつずつ跨いだ。子どものころ、兄とそういう歩き方をしたことがある。線を踏まずに端まで行く。踏んだら負けという遊びだった。
角を曲がって、階段を上がった。
翌日は、朝から霧だった。
昼までに広間の支度が済んだ。燭台が片側七本ずつ立ち、白い花が棺の周りに並べられた。傷んだのは思ったより少なく、二割ほどだった。二百里向こうの詰め方が良かったのだろう。
午後に、叔母が襟布を検めに来た。
彼の襟布は、指三本ぶんである。妻を亡くした男の幅だと決まっている。彼女はそれを一度外させて、折り目を作り直し、また当ててから、指の腹で二度撫でて整えた。手つきに乱暴なところは一つもない。
「泣き女の襟布は」
「指二本ぶんで」
「用意させますわ」
「頼みます」
日が傾いた。
門の外で車輪の音がしたのは、日没の四半刻前である。
オルデリクは二階の窓からそれを見た。乗合の馬車が門の前で止まり、女がひとり降りた。
黒い服。痩せた形。髪を後ろで固く結っている。
荷は、鞄が一つきりだった。
女は御者に何か短く言って、頭を下げ、そのまま歩いて門を入ってきた。歩幅が一定である。門から玄関までの短い距離で、彼女は二度、足を止めずに首を巡らせた。
止まっている馬車を見た。
玄関に並んだ使用人を見た。
顔は、遠くて見えない。
控えの間へ通されるのを、彼は窓から見送った。降りていかなかった。降りていけば、屋敷の誰かが見る。見た者はそのうち噂にする。噂になった人間がこの家でどうなるかを、彼は六年でもう見ている。
廊下に出た。
控えの間の扉は、少し開いていた。中から、家令の声がした。
「お声は、控えめに願います」
オルデリクは、廊下の途中で足を止めた。
叔母の指示だろう。声が大きいと外聞が悪い、というのがこの家の言い分である。
訂正することはできる。当主が一言そう言えば、家令はそのとおりにする。
しなかった。
訂正すれば、なぜ訂正したのかを訊かれる。訊かれて答えられることが、彼には一つもなかった。
彼はそのまま歩いた。
窓の外で、日が落ちていく。霧の向こうが橙になって、すぐに灰になった。
今夜、この屋敷でいちばん大きな声を出すのは、金で呼んだ他人である。
三十六人のうち、三十四人は声を出さない。残りの二人は、作法と、癖で出す。
足りるだろうか、と彼は考えた。
考えても分からなかった。足りるかどうかを決めるのは彼ではなく、夜明けに来る司祭でもない。泣いた本人だけが、足りたと言える決まりになっている。
彼は広間へ降りて、棺の脇に立った。
燭台に火が入る。片側七本ずつ、十四の焔がいっせいに立ち上がって、白い花の輪郭が浮かんだ。
立って、夜明けまでそうしているつもりだった。
お読みくださって、ありがとうございました。
この夜、広間の中央には、金で呼ばれた泣き女がひとり座っていました。
顔を白い薄布で覆って、棺の正面から、参列者の全員を見ています。
彼女の側から書いた連載があります。
『泣き女のわたくしが呼ばれたのは、誰ひとり泣かなかった公爵夫人の葬儀でした』
全30話・完結まで執筆済みです。毎日に更新しております。




