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泣かなかった夜 ~公爵閣下は、妻の棺の前で一滴も泣かなかった~

掲載日:2026/08/12

 「棺は、樫でよろしゅうございますか」

 朝の書斎で、家令が読み上げるのを、オルデリクは机の向こうで聞いていた。

 窓が北を向いている。五月でも、この土地の朝は霧が出る。硝子の外が白く、字を追うには足りない明るさだったが、燭台に火を入れるほどでもない。

 「構わない」

 「蓋は、伏せの刻限までお開けになりますか」

 「閉めておけ」

 ヴィルヘルムは帳面に何か書きつけた。この男は夜通し起きていても襟が乱れない。今朝も乱れていなかった。

 「燭台は片側七本ずつ。参列の椅子は三十六」

 「三十六か」

 「はい」

 オルデリクは、その数を口の中でもう一度言った。

 「席次は奥様が」

 「叔母上がお決めになる」

 「はい」

 喪の作法は、この家では叔母が握っている。席次も、襟布の幅も、蝋燭の数も。二年前に爵位を継いだとき、彼はその一切に手をつけなかった。手をつけて揉めるほどの意味を、当時は見つけられなかった。

 「花は」

 「北から参ります。今夜のうちに」

 「そうか」

 この葬儀について、彼が自分で決めたことは二つしかない。

 花と、泣き女である。


 昼前に、叔母が書斎へ来た。

 「オルデリク」

 マルグリット・ラングヴァイは扉を開けたところで足を止め、まず窓を見た。この人はいつもそうする。窓の外に何もないことを確かめてから話しはじめる。

 「泣き女のことですけれど」

 「決めました」

 「王都から呼ぶと伺いましたわ」

 「呼びます」

 彼女は袖の折り目を指で撫でた。

 「領内におりますでしょう。分祠の下に三人ばかり。あの者たちで足りますわ」

 「足りません」

 「三十六人の広間ですのよ。声を張る必要もございません」

 「王都から呼びます」

 叔母は、声を荒らげたことがない。彼が知る限り、一度もない。荒らげる代わりに、少し低くなる。

 「指名料は」

 「同業の三倍だそうです」

 「三倍」

 彼女は、その数を繰り返しただけだった。金の話をしているのではないと、彼にも分かった。この人は費用のことを言いに来たのではない。

 「お家の格に、合いませんわ」

 「合わない、というのは」

 「王都でいちばん高い泣き女を呼ぶ家は、たいてい、泣く者がいない家でございます」

 書斎が静かになった。

 窓の外で、霧の中を鳥が渡っていく音がした。

 「そうですね」

 彼は言った。

 「叔母上のおっしゃるとおりです」

 マルグリットは、それ以上言わなかった。裾を捌いて、来たときと同じ歩幅で出ていった。彼女が反対を取り下げるときは、いつもこうである。押し切られたのではなく、押し切らせておいたほうが早いと判断したときの引き方だった。


 招く者の名簿は、午後に上がってきた。

 オルデリクは、それを机の上に平らに置いた。

 三十六人ぶんの名前が並んでいる。この屋敷の人間の名は、彼が全部憶えている。憶えがいいわけではない。名を呼ぶという習慣が、いつのまにか癖になっただけである。

 上から順に、指で追った。

 妻の実家は、南のリエンヌ伯爵家である。使いは三日前に出した。片道十日かかる。

 間に合わない。

 兄弟はいない。伯爵夫妻には娘がひとりきりだった。だからこそ、七年前にこの北の家へ来ることが決まったとき、伯爵は三度、書状で条件を確かめてきた。あのときの書状は、まだどこかの引き出しに入っている。

 乳母は、三年前に死んだ。

 妻がこの家に来てから八年になる。八年のあいだに、この屋敷で彼女といちばん長く言葉を交わしたのが誰なのかを、彼は考えた。

 考えて、答えが出なかった。

 名簿を、もう一度上から追った。

 叔母。従弟。家令。厨房の頭。侍女が四人。下働きが十一人。庭師。御者。文書係。村の年寄りが五人。神殿から三人。

 この中で、明日の夜に泣く者を数えた。

 叔母は泣く。作法として泣く。彼女の泣き方を、彼は子どものころから知っている。三度上げて一度下げる、崩れない型である。

 従弟は泣く。あれは誰の葬儀でも泣く。八つのころからそうで、何度直させても直らなかった。

 家令は泣かない。この男は段取りをする。

 使用人たちは。

 指が止まった。

 オルデリクは、下働きの十一人の名を、一つずつ思い浮かべた。顔も、声も出る。厨房の裏でよく笑う娘がいる。階段の上がり方でわかる年寄りがいる。洗い場の小柄な子は、廊下で人とすれ違うとき壁に貼りつくようにして道を空ける。

 あの子たちは、俯く。

 泣かないのではない。俯いて、声を出さない。この一年、この屋敷でそういう顔がどれだけ増えたかを、彼は数えていた。数えていて、止められないでいた。

 一度だけ、訊かれたことがある。

 四年前の冬だった。湖から風の来る廊下で、彼女が振り返って言った。

 「あなたは、どうして皆の名前を憶えていらっしゃるの」

 厨房の下働きの名まで呼ぶ、というのが屋敷での彼の評判だった。褒められているのか、変わり者と言われているのか、彼には判じかねていた。

 「憶えたわけではありません」

 「では」

 「呼んでいるうちに、憶えました」

 彼女は少し黙って、それから息だけで笑った。窓の外が白くて、顔はよく見えなかった。

 「では、わたしのことも呼んでくださる?」

 あのとき自分が何と答えたのか、彼は思い出せない。

 憶えているのは、彼女がそれきりその話をしなかったことだけである。八年のあいだに交わした言葉で、彼が正確に思い出せるのはこの一つきりだった。

 名簿を伏せた。

 三十六人が集まって、そのうち泣く者は二人である。ひとりは作法で泣き、ひとりは誰の葬儀でも泣く。

 妻のために泣く者は、この屋敷にいない。


 中庭で、従弟に会った。

 「オルデリク兄さん」

 セヴランは二十四になる。喪服の襟が曲がっていた。

 「明日、僕、隅にいるから」

 「席次は叔母上が決めた。お前は親族席だ」

 「うん。でも隅にいる」

 彼は指の関節で目のふちを押さえた。三日前からずっとそうしている。

 「僕が泣くと、母さんが嫌がるんだ。だから隅」

 「泣けばいい」

 「え」

 「泣くなとは言っていない」

 従弟は口を開けて、閉じた。それから上着の裾を引っぱって、まっすぐにしようとして、うまくいかずにやめた。

 「兄さんは、泣く?」

 「さあ」

 答えになっていないと自分でも思ったが、ほかに言えることがなかった。


 夕方、荷が着いた。

 中庭に馬車が入って、木箱が四つ降ろされた。蓋を外すと、湿った藁と、青い匂いが立った。

 白い花である。

 北の国のもので、この季節にこの量を揃えるには、二百里向こうの温室から水を張った箱で運ばせるしかない。届いたときには半分が傷んでいる。傷んだぶんを見越して、四箱にした。

 「奥様のお好みでございましたか」

 庭師のヨナスが、箱の縁を持ち上げながら訊いた。六十八になる男で、この庭を四十年やっている。

 オルデリクは、答えるまでに間があった。

 「知らん」

 「はあ」

 「好きだったかどうか、聞いたことがない」

 老人は、それ以上訊かなかった。箱から一本抜いて、茎の折れ具合を確かめて、また戻した。

 「白いのは、よろしゅうございますよ」

 「そうか」

 「どなたのときも、白ならまず外しませんので」

 彼は花を選ぶのに二日かかった。

 二日かけて、白いから、という理由に落ち着いた。八年一緒に暮らした相手の好きな花を、彼は一つも知らない。訊く機会はいくらでもあった。訊かなかったのは、訊く必要のある関係ではなかったからである。

 兄が生きていれば、あの人が訊いていただろう。

 箱の中の花は、どれも同じ向きに寝かせてある。運ぶ者が丁寧に詰めたのが分かった。二百里向こうの、名前も知らない人間の手つきである。

 「明日の朝までに、広間へ」

 「かしこまりました」


 同じ日の夕方、渡し司祭が来た。

 ドルーガという。四十代の後半で、髪を撫でつけ、眉が薄く、目が細い。二十六年、記載漏れを一度もしたことがないと屋敷の者が言っていた。

 「明日の段取りを、確かめに参りました」

 「頼む」

 「伏せは、お済みでございますな」

 「昨日のうちに」

 「泣きは日没から夜明けまで。預かりが夜明け前。記載は、私が神殿へ戻りましてから」

 「分かった」

 司祭は帳面を開かなかった。開かずに、順序を全部言った。

 「泣き女は、王都からと伺いました」

 「そうだ」

 「結構でございます」

 彼は礼をして下がった。廊下へ出ていくとき、燭台の位置を一本ずつ目で確かめていくのが、扉の隙間から見えた。


 組合への書付は、彼が自分で書いた。

 家令に書かせれば早い。書かせれば、この家の書式で出る。彼は紙を出して、三行だけ書いた。


  王都でいちばん指名料の高い者を一名。

  五月十日、日没。ラングヴァイ公爵家。

  期間、当日一夜。


 書いてから、四行目を書きかけて、やめた。

 書きかけたその紙は、消さずに燃やして、初めから書き直した。


 組合からの返書が届いたのは、日が落ちてからだった。

 ヴィルヘルムが封を開け、読み上げた。

 「ご指名の件、承りました。当人、明日の日没前に到着の予定」

 「名は」

 「書かれておりません」

 「泣き女の名を、組合は書かないのか」

 「書かない決まりだそうでございます。あの者たちは、名では呼ばれませんので」

 オルデリクは、返書を受け取らなかった。指も動かさなかった。

 「閣下」

 「なんだ」

 「差し出がましいことを申し上げます」

 家令は帳面を胸の前で閉じた。

 「王都でいちばん高い者をお呼びになる理由を、私が訊かれましたら、何と答えればよろしゅうございましょう」

 「誰に訊かれた」

 「まだ、どなたにも」

 この男は、そういう訊き方をする。忠実で、正確で、そして屋敷のどの廊下にも通じている。忠誠と情報が同じ道を通ることを、彼はもう知っていた。

 「泣き足りぬ、と言われたくない」

 オルデリクは言った。

 「それだけだ」

 嘘ではなかった。

 夜が明けたとき、渡し司祭は泣きの量を検める。足りぬと言われれば、その者は渡れなかったことになる。渡れなかった死者は家に留まり、生者に禍いを置いていくと、この国では言う。

 迷信だと言う者もいる。神殿の人間ですら、そう思っている節がある。

 それでも、足りぬと言われた家がその後どうなるかを、彼は二度見ていた。

 「承知いたしました」

 ヴィルヘルムは、それ以上訊かなかった。


 深夜、彼は広間へ降りた。

 燭台はまだ立てられていない。明日の日没に火が入る。今は月明かりが窓から入っているだけで、石の床が縞になっていた。

 中央に、棺がある。

 樫の、飾りのないものである。蓋は下りている。伏せは遺族の仕事で、それはもう済ませてあった。

 オルデリクは、その前に立った。

 立って、それから、少し待った。

 誰もいない。使用人は下がっている。叔母の部屋の灯りも消えている。この時刻に広間へ降りてくる者は、この屋敷に一人もいない。

 彼は息を吸った。

 喉を、開いた。

 出なかった。

 もう一度吸った。腹に力を入れて、押し上げようとした。喉の奥に手を当てた。押しても、そこには何もなかった。閉じているのではない。閉じているなら、こじ開ける道もある。

 何も、ない。

 彼は手を下ろした。

 この二年、朝までひと続きに眠れた夜がない。天井の梁の節を数えているうちに夜が明ける。眠れないというのは、体のどこかが働きすぎているということだと医者は言う。働きすぎているものが、なぜ声にならないのかは、医者も言わなかった。

 石の床が冷たい。

 彼は、棺の蓋に手を置かなかった。

 置いても意味がないからである。手を置いて泣ける人間は、置く前から泣いている。

 試したのは、一度だけだった。

 二度は試さなかった。二度やって出なかったときに、自分がどうなるかが分からなかったからである。

 棺の脇に、椅子が一つ置いてある。

 喪主の椅子だった。明日の夜、彼はそこに座らない。当主となる者は葬儀で腰を下ろしてはならないと、この家では決まっている。決めたのは彼ではない。誰が決めたのかも、もう分からない。

 彼はその椅子の背に、指を一本だけ触れた。

 木が冷えていた。

 彼は広間を出た。

 出るときに、月明かりの縞をひとつずつ跨いだ。子どものころ、兄とそういう歩き方をしたことがある。線を踏まずに端まで行く。踏んだら負けという遊びだった。

 角を曲がって、階段を上がった。


 翌日は、朝から霧だった。

 昼までに広間の支度が済んだ。燭台が片側七本ずつ立ち、白い花が棺の周りに並べられた。傷んだのは思ったより少なく、二割ほどだった。二百里向こうの詰め方が良かったのだろう。

 午後に、叔母が襟布を検めに来た。

 彼の襟布は、指三本ぶんである。妻を亡くした男の幅だと決まっている。彼女はそれを一度外させて、折り目を作り直し、また当ててから、指の腹で二度撫でて整えた。手つきに乱暴なところは一つもない。

 「泣き女の襟布は」

 「指二本ぶんで」

 「用意させますわ」

 「頼みます」

 日が傾いた。

 門の外で車輪の音がしたのは、日没の四半刻前である。

 オルデリクは二階の窓からそれを見た。乗合の馬車が門の前で止まり、女がひとり降りた。

 黒い服。痩せた形。髪を後ろで固く結っている。

 荷は、鞄が一つきりだった。

 女は御者に何か短く言って、頭を下げ、そのまま歩いて門を入ってきた。歩幅が一定である。門から玄関までの短い距離で、彼女は二度、足を止めずに首を巡らせた。

 止まっている馬車を見た。

 玄関に並んだ使用人を見た。

 顔は、遠くて見えない。

 控えの間へ通されるのを、彼は窓から見送った。降りていかなかった。降りていけば、屋敷の誰かが見る。見た者はそのうち噂にする。噂になった人間がこの家でどうなるかを、彼は六年でもう見ている。

 廊下に出た。

 控えの間の扉は、少し開いていた。中から、家令の声がした。

 「お声は、控えめに願います」

 オルデリクは、廊下の途中で足を止めた。

 叔母の指示だろう。声が大きいと外聞が悪い、というのがこの家の言い分である。

 訂正することはできる。当主が一言そう言えば、家令はそのとおりにする。

 しなかった。

 訂正すれば、なぜ訂正したのかを訊かれる。訊かれて答えられることが、彼には一つもなかった。

 彼はそのまま歩いた。

 窓の外で、日が落ちていく。霧の向こうが橙になって、すぐに灰になった。


 今夜、この屋敷でいちばん大きな声を出すのは、金で呼んだ他人である。

 三十六人のうち、三十四人は声を出さない。残りの二人は、作法と、癖で出す。

 足りるだろうか、と彼は考えた。

 考えても分からなかった。足りるかどうかを決めるのは彼ではなく、夜明けに来る司祭でもない。泣いた本人だけが、足りたと言える決まりになっている。

 彼は広間へ降りて、棺の脇に立った。

 燭台に火が入る。片側七本ずつ、十四の焔がいっせいに立ち上がって、白い花の輪郭が浮かんだ。

 立って、夜明けまでそうしているつもりだった。


 お読みくださって、ありがとうございました。


 この夜、広間の中央には、金で呼ばれた泣き女がひとり座っていました。

 顔を白い薄布で覆って、棺の正面から、参列者の全員を見ています。


 彼女の側から書いた連載があります。


 『泣き女のわたくしが呼ばれたのは、誰ひとり泣かなかった公爵夫人の葬儀でした』


 全30話・完結まで執筆済みです。毎日に更新しております。

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