ヴェリタスの最終定理:完結編
抜けるような青空。そして、巨大な入道雲。
新暦109年の夏。
ヴェリタス探偵事務所の裏庭では、蝉時雨を切り裂いて、金属を削る甲高い音と火花が散っていた。
「ワーッハッハ!見たまえ!ついに!魔力伝導率の限界点を超える計算式が完成したのだよ!」
顔にべったりと機械油をつけ、白衣を焦がしながら高笑いしているのは、この事務所の主、褐色の肌で巨乳の天才科学者、エラーラ・ヴェリタスである。
彼女の目の前にある作業台には、無骨でありながらどこかヒロイックなデザインの、プレート型魔力増強装置『ナンバー』の最新型プロトタイプが鎮座していた。
「またお母様は、そんな物騒なおもちゃを作って……」
縁側に腰掛け、上品に麦茶を啜りながら呆れたようにため息をついたのは、彼女の養子のエルフ少女、アリシア・ヴェリタスだった。彼女の隣では、狐獣人の探偵ニーア・ヴェル・リータスが、極太の尻尾をうちわ代わりにパタパタと振りながら、冷えた西瓜をかじっている。
「ほんっと、科学者の末路ね。世界は平和になったんだから、あんたももっと夏を満喫しなさいよね。アスナとヘレナなんて、朝から二人で水着を買いに行ってるわよ?」
「ニーア君?平和な時代にこそ、個別の自衛の武力を探求するのだよ!すなわちだ、私という至高の頭脳が一人で完結する最強の防衛システムを構築してこそ、真の平和が担保されるというもの!」
エラーラは白衣の裾を揺らし、誇り高く胸を張った。その堂々たる佇まいには、孤高の英雄と呼ぶにふさわしい、圧倒的な強者の美学がみなぎっている。
誰かの助けなど必要としない。いかなる理不尽な脅威が現れようとも、自分という一人の天才が『最強の防壁』となり、絶対的な力ですべての事態を完結させればいい。
誰にも頼らず、ただ自分一人で完璧に解決してみせる。その徹底した孤高の思想は、平和な夏の日差しの下にあってなお、見る者に絶大な安心感を抱かせる、あまりにもまばゆく頼もしい強者の矜持そのものだった。
「はいはい、わかったわかった。熱中症で倒れないでよね」
アリシアは上品に麦茶のグラスを傾けながら、ふと周囲を見回した。
「そういえば、いつもうるさいくらいにお母様に付き纏っているあの子の姿が、今朝から見当たりませんわね」
アリシアが呟くと、ニーアは西瓜の種を庭先にプッと吹き出しながら肩をすくめた。
「グリッチ?あの子ならもう何日も行方不明よ。なんでも、地脈ネットワークで面白いバグを見つけたとか言って出かけたきりじゃない。どこかのサーバーの海で遭難でもしてんじゃないの?『お姉ちゃんに仕掛けた生体反応が正常ならそれでいい!』なんてこと言ってたっけ」
アリシアはクスクスと笑う。相変わらずお母様への愛が重すぎますわね、と。
騒がしい天才少女のグリッチ・オーディナルがいない探偵事務所は、拍子抜けするほど静かで、平和な夏の昼下がりそのものだった。
その時だった。
ガサガサガサッ!!
探偵事務所の裏庭を囲む高い生垣が、暴力的な力でへし折られた。
「わあああっ!」
生垣を突き破って裏庭に転がり込んできたのは、泥だらけになった一人の少年だった。年齢は十歳ほどだろうか。
「……む?」
エラーラがドライバーを置いた直後、少年の後を追うようにして、異様な集団が姿を現した。
全身を黒い強化服で包み、顔の半分が機械化された不気味な兵士たち。その数、およそ二十人。彼らの胸には、歯車の紋章が刻まれている。
忌まわしき、過去の大戦の言い伝えと技術を信奉し、当時の支配体制の再興を目論む悪の秘密結社『ノヴァ』の戦闘員たちだった。
「ターゲット捕捉。コアヲ回収セヨ」
機械的な音声と共に、戦闘員たちが一斉に電磁警棒を振りかざし、少年へと距離を詰める。
「……来るな!」
少年──レオは、恐怖で足を震わせながらも、一歩もひこうとはしなかった。
「僕が、僕一人で守らなきゃ……!この力を渡せば、世界がまた、戦いに巻き込まれちゃうんだ……誰も巻き込んじゃいけない、僕だけで……!」
レオは覚悟を決め、すりむいた足で立ち上がろうとした。その言葉の端々には、10歳の子供には不釣り合いな「自己犠牲」の匂いが、痛々しいほどに染み付いていた。
だが、彼が悲壮な決意を実行に移す前に、信じられないほど甘く、そして力強い香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「あらあら……随分と非常識なお客様たちですこと」
レオの身体が、ふわりと宙に浮いた。
否、背後から伸びてきたしなやかで力強い腕に、すっぽりと抱きとめられたのだ。
「え……?」
レオが顔を上げると、そこには、息を呑むような女性が立っていた。
身長180センチメートルを超える長身。日焼けしたような美しい褐色肌と、引き締まった筋肉質な肢体。頭部にはピンと立った狼の耳があり、腰からは黄金色の極太の尻尾が悠然と揺れている。近所に住む画家のリウ・ヴァンクロフトだ。
「だ、だれ……!?」
「自己紹介は後ですわ、少年」
リウはレオを優しく縁側のほうへ逃がすと、赤い瞳をスッと細め、戦闘員たちに向き直った。
「さて……寄ってたかって小さな子をいじめるなんて。あなたたちのような誘拐屋さんには、お姉さんがたっぷりとお仕置きをして差し上げますわ!」
リウが地面を蹴った。
爆発のような踏み込みと共に、彼女の身体が砲弾となって戦闘員たちのど真ん中へと突っ込む。
「遅いですわよ!」
お嬢様のような優雅な口調とは裏腹に、リウの格闘術は純粋な暴力だった。戦闘員の電磁警棒を素手で掴み取ると、そのまま相手の腕ごとへし折った。
「はぁっ!」
褐色の長い脚がムチのようにしなり、空気を切り裂いて戦闘員の頭部を蹴り飛ばす。極太の尻尾がバランサーとなり、彼女の連撃には一切の隙がない。
リウが一人で無双している間、縁側の奥の薄暗い部屋の中では、もう一人の狼獣人がカタカタとキーボードを叩いていた。
ルル・ヴァンクロフトである。
身長145センチメートルと小柄で、色白。黒髪のショートヘアの奥にある黒目は、光を失ったように虚ろだ。だぼだぼのパーカーを着込み、極太の尻尾を床にだらんと投げ出しながら、彼女は片手でスイカの種を吹き出していた。
「あ、はい……敵の生体信号、共有しました……。通信ジャミング、逆探知して解除完了……ついでに、敵の本部のファイアウォールも抜いちゃいました……」
ルルはいとも容易く、敵のシステムを完全に掌握してしまった。
「ふへへ……これで、敵の監視カメラのバックドアが開きましたよ……。んん?」
カタカタとキーボードを叩いていたルルの指が、ふと止まる。虚ろな黒目が、モニターに流れる異常なデータ列に釘付けになった。
「……おかしいですね。要塞の総質量とエネルギーに対して、実際に出現している兵力や増援の数が、計算より圧倒的に少なすぎます」
「少なすぎる?」
縁側で構えていたリウが首を傾げる。ルルは端末を叩きながら、首をひねった。
「ええ。まるで……要塞の奥底から出撃しようとしている『本来の主力部隊』が、空間の裏側……亜空間かどこかで、未知のバグに巻き込まれてごっそり消滅させられているような……?」
だが、ルルがその謎を深く追求する前に、デウスの冷酷な合成音声が上空から響き渡った。
『脆イモノダ。……全部隊、突撃!』
「っ、来ます!」
ルルは謎のデータ異常から意識を切り離し、急いで防壁システムの構築へと戻った。
リウが最後の戦闘員を放り投げ、渾身の飛び蹴りを叩き込む。轟音と共に、すべての戦闘員が機能停止し、沈黙した。
「ふぅ。汗をかいてしまいましたわ」
リウが豊満な胸を揺らして微笑む。
「だ、大丈、夫……ですか?」
レオが恐る恐る尋ねると、リウはしゃがみ込み、レオの頭を優しく撫でた。
「ええ、もちろん。お怪我はなくて?少年」
その時だった。倒れていた戦闘員の一人が再起動し、腹部に内蔵されていた自爆装置のカウントダウンを始めたのだ。
「っ!?しまった!」
ズドンッ!!!
乾いた銃声が響き、自爆装置のコアだけが正確に撃ち抜かれ、戦闘員は完全に沈黙した。
白衣の裾をなびかせ、指先から立ち上る硝煙をフッと吹き消したのは、エラーラだった。
その無駄のない圧倒的な力と、自分を庇ってくれた彼女たちの底抜けの優しさを目の当たりにして、レオの心は激しく警鐘を鳴らした。
こんなにも温かい人たちを、凄惨な戦いの泥沼に引きずり込むわけにはいかない。自分を守ってくれるほど優しい人々が傷つく姿など、絶対に見たくなかったのだ。
「……だ、ダメだ!僕が……僕一人で戦わなきゃいけないんだ!だから、僕一人で……遠くへ行かなきゃ!みんなを巻き込んじゃう!」
レオは怯み、後ずさりした。
エラーラは、その目を見て、静かに目を細めた。
「……笑止!」
エラーラは、レオを掴み上げ、その顔を自分と同じ高さまで引き上げた。
「ひっ……!」
「よく聞くのだ、少年。すべてを一人で抱え込み、自分一人の力で世界を救おうなどという考えは……そう!傲慢な天才などが陥りがちな、致命的なバグだ!」
少年に放ったエラーラの言葉は厳しかったが、その言葉は、エラーラ自身に向けたものでもあった。
「この世界には、君の想像を絶するような理不尽な悪意が存在する。だが同時に、それを圧倒するだけの『力』も存在しているのだよ!いいかね。君の命と、君に迫る悪党どもの排除は……この私が、完璧な計算のもとに引き受けてやろう。だから君は……」
エラーラはレオを下ろし、ぽん、と彼の頭に手を置いた。
「この平和な時代で、ただ、子供として『夏休み』を満喫したまえ」
その言葉に、レオの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。ずっと一人で張り詰めていた糸が、ようやく解けたのだ。リウがそっと近づき、泣きじゃくるレオを再び自らの豊満な胸に抱きしめる。
「ハハハハハ!さあ、平和ボケもここまでだ。最高にド派手で、やかましい……夏休みの課外授業を始めようじゃないか!」
エラーラは白衣を翻し、真夏の太陽に向かって不敵に笑い声を上げた。
・・・・・・・・・・
その日。王都の上空を覆い尽くした秘密結社「ノヴァ」の巨大飛行要塞から、無数の戦闘員と量産型機械兵が雨あられと地上へ降り注いでいた。
その要塞のシルエットや、無機質で暴力的な兵器群のデザインは、かつて世界を地獄に陥れた100年前の大戦で使われたものと酷似していた。
「なんたる無骨で非効率な物量戦だ!だがね!嫌いではないよ!」
ヴェリタス探偵事務所の庭先で、エラーラは片手で新型の魔力測定器をいじりながら、空を見上げて高笑いしていた。
「お姉ちゃん、来るよ!」
「ああ、分かっているとも!」
先陣を切ったのは、王都での買い物を切り上げて駆けつけたエラーラの妻の竜人のアスナ・ヴェリタスと、エラーラの下の妹のヘレナ・ヴェリタスだった。
アスナは背中から巨大な翼を広げ、その肉体に纏った竜の炎を一気に爆発させた。
「我が愛する家族と、この夏の平和を壊す奴らに……容赦なんてしない!」
ヘレナが両手を翳す。
「まったく、せっかくのバカンスを邪魔する不躾な輩ね!私の愛と魔力の重み、その頭のてっぺんから爪先まで刻み込んであげるわ!」
二人の圧倒的な魔力が空を焦がし、無数の敵を灰に変えていく。
しかし、要塞の最上階から、ノヴァの首領・機械帝王デウスの冷酷な合成音声が響き渡った。
『ヴェリタスノ残党共メ。貴様等ノ心ノ奥底ニ眠ル「恐怖」ヲ呼ビ覚マシテクレヨウ』
デウスの指令と共に、要塞のスピーカーから、不快な特定の周波数のノイズと、大戦時に響き渡っていた空襲警報のサイレンが鳴り響いた。さらに、投下される爆弾から散布されたのは、幻覚作用を伴う特殊な神経ガスだった。
「なっ……この音、この匂い……!」
アスナの青い瞳が、極度の緊張に見開かれた。
「う、嘘でしょ……やめなさい、やめなさいよ……!」
ヘレナもまた、頭を抱えて高度を下げた。
それは、「過去のトラウマ」を強制的にフラッシュバックさせる、極めて卑劣な精神攻撃だった。炎に焼かれる街、泣き叫ぶ人々、血の海。平和な現代の風景が、一瞬にして地獄の記憶へと塗り替えられていく。
『脆イモノダ。……全砲門、市街地ト標的ノ少年ニ向ケテ発射!』
デウスの要塞から、無数のミサイルがレオや避難する市民たちに向かって降り注ぐ。
「やめろおおおおっ!」
アスナとヘレナは、恐怖で震える身体を無理やり動かした。自分たちの心は壊れかけていても、この街と、あの子だけは絶対に守らなければならない。
二人は巨大な魔力の盾となり、ミサイルの雨をその身一つで受け止めた。
ドゴォォォォン!!
「きゃああっ!?」
「ぐっ……!」
すさまじい爆炎が上がり、アスナとヘレナは地上へと墜落し、動かなくなった。
「お姉ちゃん!」
レオの悲鳴が響き渡る。
「くっ、卑劣な真似を!」
後方で防衛線を張っていたニーアが、結界を展開しながら叫んだ。
「ちょっと!人のトラウマをえぐるなんて、歴史への冒涜よ!」
リウが巨大な鉄柱を振り回し、迫り来る敵を次々と粉砕する。
「あらあら……このトラウマ屋さんたちは万死に値しますわよ!」
だが、敵の物量は圧倒的だった。
その時だった。
「お待たせしました、皆様。わたくしが、最適な方法で皆様をお守りしますわ!」
瓦礫を跳び越え、エラーラの上の妹で武闘派探偵のナラティブ・ヴェリタスとアリシアが合流する。
「あんたたちのその雑な犯罪計画……この私がすべて暴いて、叩き潰してあげるわ!」
ナラティブの拳と、アリシアの空間把握能力によるサポートの連携攻撃が炸裂し、敵を次々と沈めていく。
しかし、デウスはさらに冷酷な手を打った。
要塞から放たれた特殊なパルスが、空間の物理現象を完全に遮断した。
「なっ……力が急激に……!?」
ナラティブとアリシアの動きがピタリと止まり、二人は体勢を崩した。そこへ敵の集中砲火が浴びせられ、最強のコンビもついに膝をついてしまった。
「ナラティブさんっ……!」
縁側でハッキングを続けていたルルの指が止まる。ジャミングの影響で、彼女のシステムも限界を迎えつつあった。
味方の主力であるアスナ、ヘレナ、そしてナラティブが次々と倒れ、地上は絶望の沈黙に包まれかけた。
「過去ノ恐怖ニ縛ラレ、力ヲ失ッタ人間ナド、我々ノ歯車ニナルシカナイノダ!」
デウスの嘲笑が響き渡る。
仲間たちが倒れ、街が蹂躙されていく。
その光景は、エラーラの心の一番深い場所に封じ込めていた、真っ暗なトラウマを強烈に刺激した。
(また、失うのか?私の計算が甘かったから……私に力が足りないから、また、家族が傷つくのか!?)
エラーラの息が荒くなる。彼女の手は震えていた。
(違う!そうならないために、私は一人で戦える力を求めたのだ!誰にも頼らず……そう!私がすべてを支配すれば、もう誰も失わずに済む!)
静寂の中、ガシッ、と足音が響いた。
エラーラは、手にした新型デバイス──自ら開発した魔力増強装置『ナンバー』を、不敵な笑みを浮かべながら掲げた。
「……トラウマだと?そんな非論理的なバグに、この私の頭脳が屈するとでも思ったか!」
エラーラの身体が、眩い虹色の光に包まれた。
彼女が自身で開発した、最強形態……『フルバースト・ヴェリタス』への変身である。
全身が最新鋭の虹色の重装甲と、無数の重火器、そして神々しい魔力の翼で覆われ、エラーラの周囲の空間が歪むほどのエネルギーが噴き出した。
「お待たせしたねえ!……これぞ、一人の天才が極限まで計算し尽くした、至高の防衛システムだ!」
ジャミング領域を強引に突破するほどの、規格外の出力。
エラーラが両手を突き出すと、彼女の周囲に展開された無数の魔導キャノンから、一斉に超高威力のエネルギー光線が放たれた。
ドオオオオオッ!!
世界が揺らぐほどのすさまじい大爆発が、ノヴァの軍勢を呑み込む。
圧倒的な火力。個人の力だけで戦場を完全に制圧する、まさに「最強の科学者」の独壇場だった。
エラーラは単騎で空へと舞い上がり、要塞の砲台を次々と物理的に粉砕していく。
「見たまえ!計算通り!……とは、まさにこのことさ!」
彼女は確かに敵を撃退し、要塞を後退させていた。
しかし、地上からその姿を見上げるリウやニーアの目には、その虹色の最強フォームが、どこか孤独で、危ういものに映っていた。
・・・・・・・・・・
「……答え合わせ、完了しちゃいました……」
王都の上空を覆う巨大要塞が不気味な駆動音を響かせる中。
ヴェリタス探偵事務所の薄暗い一室で、ルルは端末の画面を見つめながら、かつてなく低い、しかし、震える声で呟いた。彼女の虚ろな黒目に、要塞のメインフレームから引きずり出した真実のデータが羅列されている。
「ノヴァの連中が狙っている少年の力とは……100年前の、『新暦8年の大戦』で死んでいった『兵士たちの魂の集合体』……そのものです」
ルルの言葉に、縁側で身構えていたリウの赤い瞳が見開かれた。
「魂……?……新暦8年?……待って。そもそも『新暦』って、旧暦時代の悲惨な戦争を反省して、『もう二度と血は流さない、永遠の平和を築く』って人類が誓って制定した希望の暦じゃなかったかしら?」
「ええ。でも……人類は愚かでした。平和の誓いからたった8年で、再び、世界は、殺し合いを始めたんです」
ルルの端末に、当時の暗号化された記録が、滝のように流れ込んでくる。
ルルは、そこに記された「歴史の闇」に一瞬だけ息を呑んだ。
それは、文字通りの地獄だった。
平和を誓ったはずの人類は、新暦の技術発展をすべて「最適化された殺戮」へと転用した。
命をただの『燃料』として消費し、名前も持たない少年少女たちを使い捨ての部品として、汚泥の戦場へと放り込んだ。空を黒く染める毒の雨、大地を削り取る魔導兵器。あまりにも命の価値が軽く、あまりにも凄惨にすり潰されていったため、後世の歴史書からすら詳細な記録が抹消されたほどの、極限の狂気。
「ノヴァは……その狂気の大戦で生まれた莫大な負の感情と残留魔力を抽出して、この世界を、再び戦火に沈めるための永久機関にしようとしているんです。……あのデウスとかいう悪魔も、その絶望の泥から生まれた過去の亡霊です」
その重苦しい真実に、一瞬だけ場が凍りつく。
100年前の愚かな歴史の闇。それが、目の前で震える少年の小さな背中にすべて乗せられていたのだ。
しかし。
その息の詰まるような沈黙を破ったのは、リウの力強い舌打ちだった。
「……チッ。本当に、人間ってのは、いつの時代も救いようのない大馬鹿野郎の集まりですわね」
リウは極太の尻尾をバンッと床に叩きつけ、筋肉質な褐色の脚で地面を力強く蹴り飛ばした。彼女の瞳には闇に呑まれるような絶望はなく、燃え盛るような『怒り』と『生気』が宿っていた。
「過去の連中がどれだけ愚かで残忍だろうと、そんな、カビの生えた絶望の歴史を、私たちが生きる『今』の時代に持ち込むことは、絶対に許しませんわ!!」
リウの力強い咆哮に、空気が一気に浄化される。
ルルも、虚ろだった瞳に強い光を取り戻し、力強く頷いた。
「……はい。過去の致命的なバグは、私たちがここで完全にデバッグします」
その時だった。
過去の暗い歴史を吹き飛ばすような彼女たちの決意を嘲笑うかのように、空間そのものが削り取られるような轟音と共に、探偵事務所の屋根が完全に吹き飛ばされた。
舞い散る瓦礫と土煙の中から、黄金の機械装甲に身を包んだ巨体・機械帝王デウスが、ゆっくりと降下してくる。
『優秀ナ情報屋ダ。ダガ、知ルノガ遅スギタナ』
「きゃああっ!?」
ルルの端末が、デウスの放った電磁波によって火花を散らしてショートする。
「させませんわよ!!」
リウが極太の尻尾を逆立て、地面を蹴り飛ばした。
「あなたのような思い出泥棒は、この私が肉団子にして差し上げますわ!!」
リウの渾身の拳が、デウスの黄金の装甲に叩き込まれる。
しかし、激しい金属音と共に、リウの拳の骨が砕けるような鈍い音が響いた。
デウスの巨大な腕がリウの腹部を薙ぎ払い、彼女は壁に叩きつけられた。
「お姉ちゃんっ!」
ルルが駆け寄ろうとするが、デウスの目から放たれた重力光線によって、姉妹は地面に縫い付けられるように拘束されてしまう。
「やめろ……!お姉ちゃんたちをいじめるな!」
レオが、小さな身体を震わせながらデウスの前に立ちはだかった。その瞳には、悲痛な決意が宿っていた。
「僕が……僕の力が欲しいなら、僕を連れて行け!その代わり、この人たちには手を出さないでくれ!」
デウスの手から放たれた光の檻がレオを包み込む。
「少年!?……ダメですわ……行っちゃ……!」
リウが血を流しながら手を伸ばすが、デウスは冷酷に嗤い、レオとヴァンクロフト姉妹を要塞へと引きずり上げていった。
残されたのは、半壊した探偵事務所と、焼け焦げた夏の匂いだけだった。
・・・・・・・・・・
「……よくも、私の家に土足で踏み込んでくれたな」
王都の上空、ノヴァの巨大要塞の最深部。
分厚い鋼鉄の隔壁を、虹色の魔力光線が紙切れのように消し飛ばした。
硝煙の中から現れたのは、一人用の最強形態『フルバースト・ヴェリタス』の重装甲に身を包んだエラーラだった。彼女の周囲には、怒りの感情に呼応するように、無数の魔導キャノンが展開されている。
拘束されたリウとルル、そして抽出装置に繋がれ、意識を失っているレオ。
その光景を見たエラーラの眼差しに、冷酷な科学者の顔とは違う、狂気にも似た殺意が宿った。
「そこから彼らを解放しろ。さもなくば、この要塞ごと貴様の存在確率をゼロに計算し直してやる」
デウスが玉座から立ち上がる。
『貴様ハ、過去ノ戦イデ多クヲ失イカケタ。ソノトラウマガ、貴様ヲ、孤独ナ要塞ヘト変エタノダ。ソノ鎧ハ、貴様ノ恐怖ノ象徴ニ過ギナイ!』
「黙れ!この力は、私が私であるための絶対的な証明だ!」
エラーラが絶叫と共に、全砲門を一斉に解放した。
巨大なエネルギーの奔流がデウスに迫る。だが、デウスは避けることもせず、抽出装置のレバーを引き下げた。
『絶望ノ残滓、全開。……強制初期化!』
レオの身体から、底なしの泥のような真っ黒なエネルギーが引きずり出され、要塞のコアへと注ぎ込まれた。それは、大戦で死んでいった無数の命の無念と恐怖……絶対的な「絶望の概念」だった。
黒い波紋が空間を駆け抜け、エラーラの放った虹色の光線を瞬時に相殺し、霧散させる。
「……魔力が、喰われた……!?」
波紋はエラーラの身体を直撃した。
エラーラが己の知能のすべてを注ぎ込み、完璧な計算のもとに組み上げた至高の重装甲──『フルバースト・ヴェリタス』が、内部から爆発するように弾け飛ぶ。虹色の光の粒子が虚しく散り散りとなり、エラーラを呑み込んだのは、目の前の敵の攻撃などではなかった。
抽出装置から溢れ出た『絶望の概念』は、100年前の大戦の死者たちの無念にとどまらず、エラーラ自身が人生の中で刻み込まれ、精神の奥底に封印してきた「底なしの地獄」を強引に引きずり出したのだ。
「あ、が……あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
エラーラの口から、悲痛な絶望の絶叫が迸った。
視界が真っ赤に染まり、頭脳の奥深くに叩き込まれた惨劇の記録が、強烈なフラッシュバックとなって彼女の全神経を焼き尽くしていく。
それは、人間という種族が持ち得る、極限の悪意、醜悪な保身、そして理不尽な裏切りの記録だった!
警察から「身寄りのない可哀想な子だ」と頭を下げられて引き取り、親心にも似た慈愛で保護した孤児の少年!
暖かなスープを与え、将来の夢を語り合っていたその背後から、少年が冷たい瞳で魔法の杖を振り上げ、エラーラの頭骨を激しく叩き割った感触!
飛び散る己の脳漿と血の温かさ、そして「最初からお前を殺したかったんだよ」という嘲笑!
権力と法という名の壁の前に手足をもがれ、逃げ場のない暗い部屋に幽閉された過去!
望まぬ男に屈し、涙を流しながら三人の子供を産まされた記憶!
だが、その幼い命たちに愛情が芽生えた直後、男はエラーラの目の前で三人の子供たちを戦場に送り込み、惨殺されるように仕向けた!
幼子の途切れた叫び声!
幼少期に自分を捨てた実の両親が、裏社会で国際犯罪組織のリーダーへと成り下がり、大人になったエラーラが血と涙を流して完成させた血汗の研究成果を横取りした光景!
親だからと信じようとしたエラーラの目の前で、彼らはその論文を金に変え、高笑いしながら彼女を冷たいドブ川へと突き落とした!
友を事故で失い、発狂寸前で血の涙を流していたアリシア!
彼女が壊れてしまわないよう、二度と悲しみに苛まれないよう、己の持つあらゆる魔導技術を駆使し、優しさと祈りを込めて、アリシアの記憶を「友など最初からいなかった」と書き換えた!
まともに生活できるようにと差し伸べた、精一杯の善意だった!
だが、書き換えの綻びに気づいたアリシアがエラーラに向けたのは、感謝などではなかった!
アリシアはエラーラを激しく呪い、エラーラは劇薬の瓶を煽り、血を吐き散らしながら自ら命を絶った!
ある日、王都に壊滅的な大怪獣が迫っていた!
責任を恐れた役人も、保身に走る兵士も、誰一人として決断を下さず、防衛大砲の引き金を引き込もうとしなかった!
このままでは王都が壊滅する!
そう判断したエラーラは単身で砲台へと飛び乗り、すべての非難を覚悟で大砲を撃ち込み、見事に怪獣を爆砕した!
だが、待っていたのは英雄としての賛辞ではなかった!
誰もが保身のためにエラーラに罪をなすりつけ、群衆は彼女に向かって狂ったように石を投げつけた!
怪獣から命を救われたはずの市民たちが、血だらけになったエラーラを「悪魔」と呼んで街から追放したのだ!
スラムの底で手を差し伸べることができず、救い出せなかったヘレナの記憶!
成長したヘレナは、全生命体の「善意」を「悪意」へと反転させる凶悪な『思想ウイルス』を開発し、王都全体に撒き散らした!
人間が人間を喰らい合い、身内同士で殺し合う地獄絵図の中、狂気に染まったヘレナはエラーラの前に現れ、冷たい氷のような瞳で言い放った!
お前が私をスラムから救わなかったから、世界はこうなったのよ、と!
そして何より、最も深くエラーラの精神を破壊した、恐ろしい地獄!
アスナの父であり、ヘレナの育ての親でもあった狂気の科学者、シュピーゲル博士!
彼らに捕らわれたエラーラは、魔導術式によって意識だけを強制的に覚醒させられたまま、手術台の上に固定された!
生きたまま頭蓋骨を削り開けられ、己の脳みそを、匙ですくい取られて生きたまま喰われた、あの筆舌に尽くしがたい激痛と屈辱!
その恐怖を乗り越え、死闘の末にシュピーゲルを討ち果たしたエラーラに待っていたのは、ヘレナからの苛烈な憎悪だった!
「……悪魔め!絶対に許さない!」
悪魔!?
悪魔!?!?
もう、救っても恨まれ、殺しても恨まれる!
どんな選択を選ぼうと、結末は必ず理不尽な血と怨嗟の泥沼へと辿り着くのだ!
(ああぁぁぁぁっ! 嫌だ、嫌だ、嫌だぁぁぁっ!)
エラーラは頭を激しく抱え込んだ。
エラーラが日頃見せているあの飄々とした態度、不敵な高笑い、人を食ったような言動。そのすべては、幾度も幾度も精神を焼き切られ、魂を破壊された末に辿り着いた、「正気を保つための防衛機制」に過ぎなかったのだ。そうやっておどけていなければ、瞬時に狂気へと呑み込まれてしまうほど、彼女の心は傷だらけだったのだから。
(誰も……助けてくれなかった……)
絶望の記憶の中で、エラーラは幾度も「助けて」と叫んだ。
だが、救いの手など一度たりとも差し伸べられなかった。
警察も、市民も、保護した孤児も、愛した者も、誰一人としてエラーラを助けはしなかった。
それどころか、彼女が善意で手を差し伸べれば差し伸べるほど、人間たちは勝手に自滅し、狂い、エラーラを悪魔と呼んで地獄の底へと蹴り落としたのだ。
他人の心など、不確定で、身勝手で、醜悪な『バグ』でしかない。
信じれば裏切られ、愛せば殺される。
(だから……だから私は!……だから私は決めたのだ……!)
(誰も信じない!誰の力も借りない!誰の心も頼らない!助けてもらうことなど期待しない!救いはない!私一人の完璧な計算と、私一人の絶対的な力だけで……すべてを完結させる『最強の存在』にならねばならなかったのだ!そうでなければ……そうでなければ!私は……息をすることすらできなかったのだから……!)
「助けて」と言えなかったのではない。
「助けて」と言ってしまった結果、より凄惨な地獄を見せられ続けたからこそ、彼女は一人で最強になるしかなかった。
それしか、己の尊厳と存在を守る術を知らなかったのだ。
だが。今。その孤独な誓いすらも打ち砕かれた。
一人で完璧であろうとした重装甲は砕け散り、計算式は破綻し、エラーラはただの小さく震える血まみれの肉片となって、要塞の冷たい床に転がっている。
「もう……嫌だ……。誰も……誰も私に関わらないでくれ……っ!」
極度の過呼吸で胸が千切れそうに痛む。大粒の涙が止まらない。視界は真っ暗になり、かつて自分を裏切り、虐げ、喰らった者たちの嘲笑が耳元で渦巻いている。
『ハハハハハ!見タカ!過去ノ恐怖ニ縛ラレタ弱イ者ハ、結局、何一ツ守レハシナイ!』
要塞の天井で、デウスが冷酷な処刑の剣を振り上げる。
重く黒い影が、絶望に沈むエラーラを完全に覆い尽くしていく。
(最初から……私には、何もなかったんだ。私を助けてくれる者など、この世界のどこにも……)
エラーラは抗う術を完全に失い、抗う意思すらも砕かれ、二度と目覚めることのない絶望の暗闇へと、静かに目を閉じたのだった。
「……バカ! ……目ェ開けなさいよ! この、へっぽこ科学者!!」
その時、金色の流星がデウスの顔面に叩き込まれた。
「グォォッ!?」
不意の一撃に、デウスが大きく体勢を崩す。煙の中から現れたのは、全身ボロボロになり、息を乱しながらも、極太の尻尾をピンと逆立てたニーアだった。彼女の腕の中には、気絶したアスナとヘレナが抱えられていた。
「ニーア君……!?」
「ったく……独りで背負い込んで、独りで勝手に絶望して……私たちが、そんなんで喜ぶとでも思ってんの!?」
ニーアは、アスナとヘレナをそっと床に寝かせると、白衣の胸ぐらを掴んでエラーラを無理やり立たせた。そして、彼女の胸に、一つの古びたデバイスを強く押し付けた。
「これ!使いなさい!!」
それはエラーラが先ほどまで着ていた虹色の『ナンバー』のような洗練されたものではない。表面は傷だらけで、ハンダ付けも不器用。
だが、それを受け取ったエラーラの瞳が、驚愕に見開かれた。
「これは……君が、作ったのか?魔力を持たない君が作れるはずがない!……どうやって?」
「はあ?あのねえ、魔力がないからって、何も作れないなんて、そんなの誰が決めたのよ!」
ニーアは、泣き出しそうな、それでいて、誇り高い笑みを浮かべた。
「あんたが過去に、つまりこの時代で、この『ナンバー』を提唱してくれたおかげで……私の時代では、魔力を持たない人間はもう『不具』なんて呼ばれなくなったのよ。あんたの過去が、時代を超えて私の未来を救ってくれたんだから!」
ニーアの言葉に、エラーラの胸が激しく打つ。
「私がいた未来じゃ、魔導爆弾のせいで、アスナも、ヘレナも……みんな死んじゃった。ええ……どうしようもないくらい、絶望したわ」
ニーアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「だけどね!私は諦めなかった。魔力がない私には、祈ることしかできないって言われたけど……ふざけんなって!私は、世界中に散らばったあんたたちの魂の欠片を、この手で泥水すりながらかき集めた!私を救ってくれた『あんたの技術』に、大好きな人たちの『魂』を全部ぶち込んで……私がね……私の手で完成させたのよ!!」
『無駄ナコトヲ。ソンナ玩具デ、コノ絶望ノ力ニ抗エルモノカ!!』
デウスが再びエネルギーを充填し、巨大な破壊の光線を放とうとする。
だが。エラーラの顔には、もう恐怖はなかった。
彼女の手の中にある傷だらけのナンバー。そこから伝わってくるのは、冷たい金属の感触ではない。
アスナの、不器用で真っ直ぐな優しさ。
ヘレナの、狂おしいほどの深い愛情。
絶望の未来で死んでいった『もう一人の自分』の無念。
そして何より……魔力を持たないただの少女が、途方もない愛と執念だけで奇跡を形にした、ニーアの希望の光。
かつての凄惨な歴史を乗り越え、昇華させた魂の結晶が、ここにあるのだ。
「……ハハハ……ハハハハハ!そうだな。私は愚かだった。たった一人で世界を救う計算式など、最初から破綻していたのだ!」
エラーラが、ニーアのナンバーを己の胸に装填する。
「一人で完璧になる必要などない!私の残した足跡が未来の君を救い、そしていま!君の愛が、過去の、いまの私を救ってくれた!この背中を押してくれる絆があれば……私は、いつだって最強の科学者で在り続けられる!」
ナンバーが起動する。
しかし、エラーラの身体に巨大な装甲は現れなかった。
現れたのは、いつも彼女が着ている、少しヨレた「白衣」。ただの初期形態。
だが、その白衣の裾には、アスナを象徴する『竜の鱗』の紋様が黄金の光と共に浮かび上がり、背後にはヘレナの『黒色の魔法陣』が、そして胸元には、ニーアの祈りを形にした『金色の歯車』が、幾重にも連なって展開されていた。
『ハハハハ!装甲モナク、出力モナイ!狂ッタカ!』
「狂っているのは貴様の計算だ!」
エラーラは、右手の指先を相手に向けた。
「単なるスペックなど、家族の絆が描く『無限の計算式』の前では無意味なのだよ!!」
デウスから、要塞ごと王都を消し飛ばす破壊光線が発射される。
極大の光の奔流がエラーラを呑み込もうとした瞬間。
エラーラは、ただ一発の魔力弾を放った。
「いけええええええっ!」
指先から放たれたその一発の光弾は、エラーラの『軌道計算』によって敵の攻撃の僅かな隙間を縫い、アスナの『飛竜の炎』を纏って巨大な光線を正面から押し返し、そしてヘレナの『魔法貫通』によってデウスの多重防御シールドを紙のようにすり抜けた。
「これが、真理だッ!」
三人の力が完全に融合したその一発は、デウスの黄金の胸部装甲を正確に貫き、内部のメインコアを粉砕した。
『我ガ絶望ノ力ガ……ソンナ、敗レル、ト……!?』
エラーラの放った一撃は、破壊の閃光ではなく、虹色に輝く無数の光の粒子となってデウスと巨大要塞を優しく包み込んだ。
「絶望など、愛の前の前座に過ぎない!……とは、言わんよ」
光の中で、エラーラは慈愛に満ちた瞳で過去の亡霊を見つめた。
「君たちが流した血と、絶望の泥濘があったからこそ、私たちは『平和』の温かさを知ることができたのだ。忘れない。君たちの過去は、すべては、現在を形作る一部だ」
虹色の粒子が触れるたび、強固なデウスの装甲がサラサラと光の砂になって崩れ落ちていく。
「……もう、眠りなさい。おやすみ、歴史の亡霊たち」
要塞が崩壊し、光の砂が王都に降り注ぐ。すると、焦土と化していた大地から一斉に青々とした緑が芽吹き、色とりどりの花が咲き乱れた。それは破壊ではなく、過去のすべてを肯定し、未来へと繋ぐ「再生」の光だった。
抽出装置が破壊され、解放されたレオが、ゆっくりと宙を舞って地上へと落ちていく。
エラーラは空へ飛び上がり、その小さな身体を、今度は誰の力も借りず、自分自身の両腕でしっかりと抱きとめたのだった。
ゆっくりと地上へ降下しようとした、その時だった。
何もない空中に、凄まじいノイズと共に真っ黒な亀裂が走った。空間そのものがガラスのように砕け散り、そこから赤い瞳を無邪気に輝かせる白髪の少女が飛び出してきた。行方不明になっていたグリッチだ。
「お姉ちゃーん!そっちも終わったー?」
グリッチは、まるでスキップでもするかのように宙を歩いてエラーラに駆け寄った。その華奢な身体はあちこちが黒焦げになり、服もボロボロに破れていたが、本人は全く気にする様子もなく満面の笑みを浮かべている。
「グリッチ君!?き、きみは今までどこで何をしていたのだね!?」
エラーラが目を丸くして問いかけると、グリッチは得意げに笑った。
「実はね、空間のブレを検知したから、ずっと裏側に回っていたんだよ!デウスが現実世界で暴れてる隙に、亜空間に隠してた主力部隊と数万の機械兵団、ぜーんぶ私が亜空間に引きずり込んで、木端微塵に壊し尽くしてきたの!」
「なっ……」
「お姉ちゃんの夏休みの邪魔をする悪い虫は、私が全部叩き潰しておいたからね!ね、えらい?私えらい!?」
グリッチは、返り血と機械油にまみれた手でピースサインを作った。
手段を選ばない一点突破の狂気的な強さ。彼女が別次元で敵の無限増援を完全に食い止めていなければ、いくらエラーラたちであっても防ぎきれなかったかもしれない。
「アリシアお姉ちゃんたちも無事みたいだし、早く帰ってスイカ食べよー!」
無邪気に笑う最強の少女言葉に、エラーラは深く、深いため息をついた。
そして彼女は、呆れたように苦笑しながらゆっくりと一歩前に出ると、一切の躊躇なく右手を伸ばした。
「えらいぞ、グリッチ君」
エラーラの細い指先が、返り血と機械油でどろどろに汚れたグリッチの銀糸のような髪にそっと触れ……そのまま優しくぽんぽんと撫でた。
「え……?」
純白だったはずの白衣の袖口に真っ黒な汚れが染み付いていくが、エラーラはそんなことを微塵も気にする素振りを見せない。
かつての彼女であれば、自らの完璧に計算された領域に、他者の予測不能な汚れが入り込むことなど絶対に許容しなかっただろう。だが、今の彼女にとって、この不器用な愛情を向けてくれる家族の存在は、どんな無菌室よりも心地の良いものへと変わっていた。
「君のおかげで、私たちの夏休みは守られた。……よくやってくれたね」
自らの白衣が汚れることもいとわず、ただ、愛おしそうに頭を撫でてくれるエラーラの真っ直ぐな温もりに、グリッチは一瞬だけぽかんと目を丸くし、それから最高に嬉しそうな笑顔で破顔したのだった。
夕暮れ時。
夏の太陽が沈みかけ、空を鮮やかな茜色に染めていた。ヒグラシの鳴き声が、遠くから聞こえてくる。
半壊したヴェリタス探偵事務所の縁側では、怪我の手当てを終えた仲間たちが、穏やかな時間を過ごしていた。
ルルは、相変わらずだらだらとスイカを食べ、「ふへへ……ナラティブさんの戦いぶり、最高でした……」と隠し撮り映像をリプレイしてグリッチに見せている。
アスナとヘレナも目を覚まし、お互いの無事を喜び合いながら、ニーアに小言を言われて笑っていた。
その輪の少し外側で。
リウが、レオの前にしゃがみ込み、その泥だらけの頬にそっとキスをした。
「……よく頑張りましたわね、少年。あなたが一人で踏ん張ってくれたおかげで、世界は今日も平和ですわ」
「……えへへ。お姉ちゃん、ありがとう」
レオは顔を真っ赤にしながら照れ笑いした。
だが、その直後。レオの足元から、淡い光の粒子が立ち昇り始めた。
「え……?」
リウの赤い瞳が揺れる。ルルも、グリッチも、アスナたちも、驚きに目を見開いた。
レオの身体が、夕日に溶けるように、少しずつ透明になっていくのだ。
「少年!?あなた、身体が……!」
「……ううん。いいんだ。これで」
レオは、自分の透けていく手を見つめながら、とても優しく、そして大人びた笑顔を浮かべた。
「僕、本当は、ずっと昔に死んでたんだ。新暦8年の、暗い戦場の中で。……でも、最期に願ったんだ。もう一度だけでいいから、太陽の下で、『夏休み』を過ごしてみたいって」
その言葉に、リウは両手で口を覆い、ルルは無言で端末を閉じた。
彼がただの子供ではなく、凄惨な時代を生き抜いた兵士の魂だったという事実に、全員が言葉を失った。
「だから……最高の夏休みだったよ!お姉ちゃんたちに出会えて、一緒にスイカを食べて、僕を命がけで戦ってくれて……。僕の人生は、絶望なんかじゃなかったって、そう思えたんだ。……ありがとう、みんな!」
光の粒子はさらに強くなり、レオの身体は今にも消え去ろうとしていた。
その時。
ずっと縁側の柱によりかかり、黙って空を見ていたエラーラが、静かに歩み寄った。
「……気づいていらっしゃったのですね、エラーラさん」
背後から、アリシアが静かに尋ねる。
「当然だ。この私の至高の頭脳が、まさか、霊体と生者の区別もつかないとでも思ったのかね?」
エラーラは最初から、彼がすでに死んでいることに気づいていた。
それでも彼女は、彼に「一人の子供」としての夏休みを与えたかったのだ。かつて守れなかった命への贖罪として。そして、彼と同じように一人で傷つき、世界を拒絶しようとしていた過去の自分自身を、救済するために。
エラーラは、消えゆくレオの前に膝をつき、彼の両肩にそっと手を置いた。
「聞き給え、少年よ」
エラーラは、優しく、慈愛に満ちた声で語りかけた。
「君は、本当に、よく戦った。暗くて、痛くて、理不尽な世界の中で……何度も心が折れそうになりながら、それでも今日まで立ち上がり、一人で歯を食いしばって生きてきたのだろう?君が流した血も、流せなかった涙も、誰にも言えなかった傷跡も……そのすべてを、私は肯定しよう」
レオの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「もう、戦わなくていい。もう、一人で世界を背負わなくてもいいのだ。君は弱くていい。泣いていい。倒れた時は、私たちが何度でも手を引いてやる。だから……君が必死に守り抜いてきたその命を、君自身の人生を、誰よりも君自身が愛してやりなさい」
エラーラは、レオの頭を優しく撫でた。
「君の戦いは終わった。……安らかに、そして誇り高く……君だけの終わらない夏を、生き給え」
「うんっ!!」
光に包まれるレオの背後に、新暦8年の大戦で無念のまま散っていった、名もなき兵士たちの無数の幻影が浮かび上がった。
彼らの多くは、レオが過ごした温かい「夏休み」の記憶に触れ、すでに穏やかな表情を浮かべていた。
だが。その中列にいた数人の若い兵士の幻影だけは、違っていた。
「……ふざけるな……っ!」
突如、空間に軋み音が響いた。
光の粒子の流れに逆らうように、数人の兵士たちがボロボロの銃を握り直し、怨嗟の泥を、全身から滲み出させたのだ。
「何が『夏休み』だ!何が!……何が平和だ……!俺たちは、名前すら奪われて、地獄の中で。虫ケラみたいに使い捨てられたんだぞ!?」
「俺たちを売り飛ばした奴らも、歴史から俺たちを抹消した奴らも、誰一人!報いを受けていない!なのに……どうして俺たちだけが『よかったね』と消えなきゃいけないんだよ!」
その絶叫は、過去に裏切られ、理不尽に命をすり潰された者たちの、偽りない、魂の叫びだった。
周囲の温かい光が明滅し、濁った呪いの残滓が縁側の空気を冷たく凍らせていく。彼らの強い拒絶と未練に引きずられ、透けかけていたレオの身体までもが苦しそうに歪み始めた。
「うっ、あ……っ……みんな、やめて……っ」
「少年っ!」
リウが叫び、ルルが息を呑む。
だが、誰よりも早く、そして迷いなくその怨嗟の泥の前に進み出たのは、白衣をまとった天才科学者、エラーラ・ヴェリタスだった。
エラーラは、銃口を向けて敵意を剥き出しにする兵士たちを前にしても、一切の構えを見せなかった。
ただ、その瞳に、同情も、傲慢な優越感も一切含まない、幾度もの人生の中で彼らと同じ「底なしの地獄」を歩んできた者だけが持つ、重く静かな光を宿して。
「……ああ。君たちの、言う通りだ」
エラーラの凛とした声が、夕暮れの空気に涼やかに響いた。
「君たちの死は不合理で、救いがなく、理不尽なものだった。君たちを使い捨てた者たちは罪を償わず、歴史の教科書からは君たちの名前が消された。……それを『綺麗な物語』として美談に片付ける権利など、人間には、誰一人としてありはしない」
「だったら……っ!なんでお前は。そんな暖かな光の下で笑っていられるんだよ!俺たちの流した血には、絶望には、なんの意味も……!」
「──ある。……あるさ。断じて、あるとも」
エラーラは一歩、また一歩と、赤黒い怨嗟が吹き荒れる兵士たちのもとへと歩み寄った。
かつて人間を信じられなくなり、人間不信の極みから『一人で最強にならざるを得なかった』彼女だからこそ、彼らの痛みが、理解できた。裏切られ、切り捨てられ、救いの手すら恨みに変わる絶望を、彼女は他の誰よりも知り尽くしていたのだ。
エラーラは、銃を構えて震える一人の若い兵士の幻影の前に立ち、その銃口をそっと自らの胸へと当てさせた。
「君たちの流した血と泥濘があったからこそ……人間は愚かにも学び、回り道をしながらも、この当たり前の『平和』という奇跡へと辿り着くことができたのだ」
「そんな綺麗事……!」
「私は忘れない」
エラーラは、兵士の震える手ごと銃身を優しく包み込み、慈愛に満ちた眼差しで彼らの顔を一人ひとり見つめた。
「未来の歴史書から君たちの記録が消え去ろうとも、この私の至高の頭脳が……エラーラ・ヴェリタスという存在が、君たちの生きた証を、その無念と、その怒りを、すべてを、永遠に観測し、記録し続けると誓おう。君たちの傷跡は、紛れもなく、この愛おしい日常を構成する、かけがえのない『礎』なのだ」
その瞬間、エラーラの掌から温かな黄金色の光が伝わり、兵士たちの黒く濁っていた怨嗟の泥をそっと包み込んだ。
それは、途方もない地獄を何周も味わいながら、それでも「愛すること」を選び直した一人の科学者の、覚悟と誇りだった。
「だから、もう。自分を呪うのはやめるんだ。君たちの責務は、とうの昔に終わっている。……胸を張って、行き給え。私の誇り高き、歴史の戦友たちよ」
「……あ、あぁ……」
銃を握りしめていた兵士の目から、濁った泥ではない、透き通った、大粒の涙がこぼれ落ちた。
頑なだった彼らの表情から憑き物が落ち、赤黒い呪いのオーラが、見る間に虹色の優しい輝きへと変わっていく。
『……ありがとう、科学者さん……』
『俺たちのこと……忘れないでくれよな……』
抵抗していた兵士たちの幻影が、照れくさそうに笑いながら銃を下ろす。
彼らの魂は、レオの小さな背中を優しく押し、共に寄り添うようにして手を取り合った。
「いこう、みんな……!」
レオが最後にもう一度、満面の笑みを浮かべてエラーラたちに手を振る。
やがて彼らは一筋の眩い光の流星群となり、夕焼け空の高い高い天の彼方へと、連なって昇華していった。
王都の空に優しく降り注ぐ光の粒子を浴びながら、エラーラは、その誇り高い背中を、見えなくなるまでずっと、静かに見送り続けていた……。
彼女の胸の奥底で、冷たく凝り固まっていた重いしこりが、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
(……私もまた、孤独だったのだ)
エラーラは、心の中で静かに独白する。
物心ついた時から、孤独な世界を生きてきた。
彼女の人生は、常に「失うこと」への恐怖との戦いだった。自分の居場所を求めて、家族という名の『家』を作るたびに、理不尽な世界の悪意や戦乱がそれを無残に打ち壊してきた。
だからこそ彼女は、自らの頭脳を武器に変え、誰にも頼らず、自分一人の力で完璧な防壁を築こうと足掻き続けてきた。過去のトラウマに怯え、もう二度と大切なものを奪われないようにと、孤独な要塞の中に自分を閉じ込めていたのだ。
しかし、今回の戦いは違った。
彼女が一人で守り抜こうとした家族たちは、逆に、トラウマに囚われて膝をついたエラーラを絶望の淵から引き上げ、共に並び立ち、彼女を守り抜いてみせたのだ。
(……ああ。私の最終定理は、とうの昔に完成していたのだな)
もう、怯える必要はない。私が一人で完璧な強者にならなくても、この『家』は、決して壊れはしない。
光の粒子となって消えていくレオを見送るエラーラの横顔は、かつてなく穏やかで、晴れやかだった。
・・・・・・・・・・
王都の上空で決戦が繰り広げられていた頃。
王都警察署の取調室では、別の意味で緊迫した攻防が行われていた。
「ええい、往生際が悪いぞリオン君!いい加減、吐きたまえ!」
パイプ椅子を蹴り飛ばす勢いで机を叩いたのは、王都警察のカレル・オータム警部である。
長年の激務で少し丸みを帯びた背中を揺らし、立派な口髭を震わせながら、目の前の青年を鋭い眼光で睨みつけていた。
「だから違うって言ってるじゃんかー!ぼくじゃないもん! なんでいつもいつも、ぼくばっかり疑うんだーっ!!」
カレルの怒鳴り声に対し、パイプ椅子の上でバタバタと足を暴れさせて抗議しているのは、獅子獣人の学者、リオン・ゴルドファングだった。
一見するとヒロイックで頼れる青年に見えるが、しかし、その実態は感情の赴くままに突っ走り、幾度となく王都を滅亡の危機に陥れかけた『歩く戦犯』であった。
「言い逃れはそこまでにしたまえ!こないだの怪獣騒動も、古代遺跡の暴走も、全部君が原因だったじゃないか!今回の件も、どうせ君が裏でうっかり封印を解いたんだろう!」
「今回はホントに違うぞー!ぼくは今日、朝からずっと実験をしてて……って、あっ!カレル警部、このドーナツすっごく美味しい!おかわりー!」
「馬鹿者ぉ!私のドーナツと珈琲を一人で食い尽くすんじゃない!」
取調室の机の上にはドーナツの山が築かれていたが、リオンの恐るべきペースによって瞬く間に胃袋へと消えていく。
「父さん、いくらリオンさんが前科持ちだからって、流石に今回の件の黒幕にするのは無理がありますよ……」
呆れたようにため息をついたのは、取調室の隅でノートパソコンを叩いていた少年──カレルの息子であり、エラーラの助手でもあるゴウ・オータムだった。
「あの要塞の質量と軍事兵器の数、リオンさんの財力と技術力じゃ到底作れません。それに、魔力波形は、リオンさんのデータとは全くの別物です」
「そうだそうだー!ゴウ君ももっと言ってやれー!ぼくは天才学者だぞ!悪の秘密結社なんか作らなくても、世界中を驚かせる発明ができるんだもん!」
「ええい!威張るな!私の捜査からは逃げられんからな!」
カレルが腰のホルスターに手をかけた、その時だった。
突然、取調室の小さな窓が、真昼のように眩い虹色の閃光に包まれた。
直後、王都の窓ガラスという窓ガラスをビリビリと震わせる、鼓膜が破れそうなほどの大轟音が響き渡る。
「な、なんだねこの光と揺れは!?」
カレルが慌てて窓際に駆け寄り、リオンがドーナツを咥えたままパイプ椅子の下へ潜り込む。
空を見上げたゴウの瞳が、驚きと、そして強烈な憧憬の色に見開かれた。
「父さん!要塞が……完全に消滅しました!そしてこの無茶苦茶な魔力数値……間違いありません、エラーラさんたちです!」
「な、なんと……あの規模の軍勢を、本当に退けおったというのか……!」
カレルは、空を覆い尽くしていた暗雲が晴れ、虹色の粒子が舞い散る光景を呆然と見上げた。
警察組織が束になっても手も足も出なかった悪の軍団を、たった一つの探偵事務所が打ち破ってしまったのだ。
「やってくれたか……エラーラくん。まったく……こういう時だけは本当に頼りになるやつだ」
カレルは安堵の息を長く吐き出し、目深に被った帽子をクイッと押し上げた。だが、彼の苦労は終わらない。
「しかし……これだけの規模となると、被害報告と始末書がいったい何百枚になるのやら……!ああ、胃が痛くなってきた……」
「うおおおーっ!やったやったー!やっぱりエラーラはすごいぞー!!」
机の下から這い出してきたリオンが、尻尾をブンブンと振り回しながら目を輝かせて歓声を上げた。
「さっすがぼくのライバル!よーし、ぼくも負けてられないぞー!帰ってすぐ実験の続きだー!」
「父さん、リオンさんがまーた戦犯ムーブを再開しようとしてます……」
「やめさせろぉぉっ!!」
カレルは胃の痛みを忘れ、リオンの首根っこをガシッと掴んだ。
「君の容疑が完全に晴れるまでは帰さんぞ!ゴウ、彼の手を縛りたまえ!」
「ええーっ!?離してよー! エラーラに自慢しに行くんだよーっ!」
王都の空に虹が架かる中。
王都警察署の取調室では、常識人の警部と、暴走する獅子獣人と、冷静な科学少年の、終わりの見えないドタバタ劇がいつまでも響き渡っていた。
・・・・・・・・・・
それから数日後の、よく晴れた夏の日。
王都は、抜けるような青空の下、力強い活気に満ち溢れていた。
行き交う人々の明るい笑い声、石畳を走る馬車と魔導車の軽快な音。かつて、自らの手で破壊の限りを尽くしたヘレナにとって、この騒がしくも温かい街の風景は、胸が締め付けられるほどに愛おしいものだった。
その喧騒から少し離れた、ヴェリタス探偵事務所の近所。
ひっそりと佇む隠れ家バー『奥泉』の重厚な木製の扉を、ヘレナは迷うことなく押し開けた。
静かなベルの音が響き、昼下がりの薄暗い店内には、落ち着いたジャズの調べが流れている。
カウンターの奥で氷を割っていたのは、元雑誌記者のバーテンダー、ギデオン・ヴァンツだ。
彼が作る料理が絶品であることは、ヘレナもずっと前から知っていた。だが、かつての彼女は、宿敵であったエラーラの探偵事務所のすぐ近所にあるこの店に、無駄なプライドが邪魔をして、どうしても。足を向けることができなかったのだ。
しかし今、彼女はごく自然にカウンターの席に腰を下ろし、一番上質なものを、とだけ注文した。それは、彼女がようやく、本当に、あるべき場所へ戻ってきたことの何よりの証明だった。
しばらくして、ギデオンが静かに差し出したのは、極めてシンプルに香ばしく焼き上げられた肉と、彩り鮮やかな旬の野菜のグリルだった。
余計なソースや気取った飾り付けはない。素材そのものの力強い生命力を引き出した、洗練された一皿だ。
ヘレナはナイフを入れ、一口味わう。
肉の深いコクと野菜の鮮烈な甘みが、戦いを終えた彼女の身体に、じんわりと、そして確かに染み渡っていく。アスナが作り直し、自分が命を懸けて守り抜いた世界で味わうこの静かな時間は、彼女が勝ち取った、最高の幸せだった。
「……美味しい。本当に、素晴らしい腕ね」
ヘレナがふうっと満足げな息を吐き出すと、ギデオンはグラスを磨く手を止め、静かに微笑んだ。
その瞳の奥には、アスナが世界を再構築する前の記憶、凄惨な戦いも、ヘレナが背負っていた深い絶望も、すべてを知っているかのような穏やかで深い光が宿っていた。
「……長い道のりでしたね。あなたの新しい世界に、祝福を」
彼が静かに差し出した、透き通った冷たい水が入った小さなグラス。
その、短くも重みのある一言に、ヘレナはわずかに目を丸くし、やがて、憑き物が落ちたような最高に美しい笑みを浮かべてグラスを合わせた。
「ええ。……悪くない世界よ」
喉の奥に広がる心地よい冷たさを感じながら、ヘレナは立ち上がった。
さて、最高の料理で心も満たされたことだし、愛しい家族たちの待つ隣の探偵事務所へ顔を出すとしよう。
ヘレナは、そんな、満ち足りた気持ちで店を出た。
・・・・・・・・・・
事務所の裏庭では、リウが鼻歌交じりにシーツを干していた。よく見ると、物干し竿を支えている支柱は、かつて王都を火の海にしたノヴァの機械兵の腕部装甲である。
さらに縁側では、ルルがタライに張った水で大きなスイカを冷やしていた。タライの中には、デウスの要塞から引っこ抜いてきた冷却用魔力炉心がゴロンと転がっており、水をキンキンに冷やしている。
世界を終わらせようとした絶望の兵器たちは今、少女たちの夏の生活を彩る「便利な日用品」として、静かに余生を過ごしていた。その光景はあまりにも滑稽で、だからこそ、尊い。
過去を排除するのではなく、笑って日常に取り込んでしまう彼女たちの強さに、ヘレナは思わず吹き出してしまった。
「って!……ちょっと!エラーラがいないんだけど!あの科学者、またどこかにこもって厄介な発明でもしてるんじゃないでしょうね!?」
あちこちの扉を乱暴に開け放つヘレナの背後で、縁側に座って冷たい麦茶を注いでいたアスナは、クスリと優しく笑って首を振った。
その隣では、ニーアが西瓜を齧り、ルルは相変わらずだらだらと端末を眺め、リウは洗濯物を干している。いつもの、騒がしくも平和な日常の風景だ。
「探しても無駄だよ、お姉ちゃん。エラーラなら……もう、旅立ったから」
「はあ!?旅立った?……どこへよ!?」
驚いて振り返るヘレナに対し、アスナは真っ青な夏の空を見上げた。
「エラーラはね、ずっと怖かったんだと思う。自分の大切な居場所が、また、理不尽に壊されるのが。だから、私たちを守るために『最強』であろうとした。……でもね」
アスナは、愛おしそうに目を細める。
「ニーアがいて、ナラティブとアリシアがいて、グリッチがいて……そして最後のピースだったお姉ちゃんを、あの地獄から救い出した。エラーラの、ずっと作りたかった『家族』という名の家は、もう……とっくに完成していたのよ」
風鈴が、涼しげな音を立てた。
アスナの言葉に、ヘレナも、ニーアたちも静かに耳を傾ける。
「エラーラは確信したんだと思う。私たちが、もう、守られるだけの存在じゃないって。私たち家族の絆は、誰かが一人で背負わなくても、互いに守り合えるほど強いんだって。……だから彼女は、『家を守らなければ』という過去の強迫観念から、ようやく解放されたの。もう、絶対に大丈夫だって、心の底から安心したのよ」
「なにも……安心したからって、黙って出ていくことないじゃない!」
ヘレナがそっぽを向いて文句を言いながらも、その声はどこか寂しげで、しかし、深い愛情と喜びに満ちていた。
ニーアも「まったく、世話の焼ける大賢者様ね」と笑いながら西瓜の種を飛ばす。
「ふふ。だって彼女は、根っからの『探究者』だもの」
アスナは、眩しそうに空を見上げて言った。
「自分が帰るべき家が安全だとわかれば、安心して外の世界の真理を知りたくなる。それが、エラーラ・ヴェリタスという天才科学者でしょ?」
・・・・・・・・・・
王都の喧騒から遠く離れた、見渡す限りの荒野。
容赦なく照りつける真夏の太陽の下、乾いた風に真っ白な白衣を翻しながら歩く、一つの影があった。
エラーラ・ヴェリタスである。
『私の名はエラーラ・ヴェリタス。知識の探究者。最高の医師。最高の騎士。最高の魔導士。だが、それが、なんだというのかね?私はこの世界を、まだ「観測」し、「解析」し、「理解」しきれていない!……なーんてね!』
彼女の足取りは、軽やかだった。
背負っていた「世界を守る」という重圧も、過去の喪失のトラウマも、今の彼女の背中には一切存在しない。あるのは、純粋な知的好奇心と、まだ見ぬ世界への期待だけだ。
ふと、エラーラは足を止めた。
そして、自分が歩んできた道……王都があり、探偵事務所があるであろう遥か彼方の方角を、一度だけ振り返った。
彼女の脳裏に、笑顔で食卓を囲む家族たちの姿が鮮明に浮かぶ。
もう、何があってもあの家は揺るがない。最強の絆で結ばれた、私の愛する家族が、そこにはいるのだから。
彼女が守るべき世界は、すでに、彼女自身の手によって、そして彼女を愛する者たちの手によって、永遠の平和と共に完成しているのだ。
荒野を歩きながら、エラーラは自身の胸元にある古い傷跡にそっと触れた。
(消えない傷跡も、かつての戦争も、友を喪った悲劇も。そして今日、家族と一緒に食べた甘い西瓜の味も……どれか一つが欠けても、今の私はここにはいない)
忘れることなどできない。忘れる必要もない。痛みも悲しみもすべて背負い、そのすべてを肯定して、私は明日を生きていくのだ。
(ああ、まったく……!過去も現在も、人間というやつは最高に愚かで、そして……最高に愛おしい!)
吹き抜ける風が、エラーラの髪を揺らす。
すべての歴史を内包した彼女の足取りは、どこまでも力強く、そして軽やかだった。
イメージソング:ワンモアタイム
https://youtu.be/wqEw44M5hFI?si=EiI-VJJn2NacNEda




