王妃の仕事は愛人には無理だそうですので、国ごと元夫へお返しいたします ~離縁後に「戻ってきて」と言われても、もう隣国の宰相です~
1. 王妃の仕事は、愛があれば務まるそうです
冬の大広間は、光まで冷えている。
高窓から落ちる朝の光が磨き込まれた床に薄く伸びて、玉座までの長い道を白く照らしていた。歩くたび、裾の擦れる音だけが従いてくる。張りつめた空気の、香の匂いの底に、雪の匂いが混じっている。この床を、わたくしは十年歩いてきた。歩幅も、息の継ぎ方も、体が覚えている道である。
纏っているドレスも、耳元の真珠も、王家のものである。わたくし自身のものは、この体と、頭の中の帳簿だけ――そんな勘定を、歩きながらしている自分に気づいて、胸の内で苦く笑った。
玉座の段の上で、夫――カレンドラ国王エメリクが、こちらを見下ろしている。傍らに、若い令嬢がひとり。子爵家のファビエンヌ様である。頬が上気して、指先が落ち着かない。悪い方でないことは、看病の席で幾度か見かけて知っている。
「妃よ」
妃、という呼び名で、もう十年になる。この方がわたくしの名を口になさったのは、輿入れの式の誓いの文言、あの一度きりである。それきりわたくしは、「妃」か「そなた」であった。
今日も、そうである。
「そなたには感謝している。この十年、よく国を支えてくれた。だが――余は、真実の愛を見つけてしまったのだ」
大広間が、静かにざわめく。
わたくしの胸の内で真っ先に動いたのは、心ではなく帳簿だった。ぱらり、と頁のめくれる音がする。離縁。王妃領の返還。借款の保証。冬至までに片づけるべき手続きが、頭の中で勝手に列を作っていく。頭のどこかに住んでいる几帳面な司書が、棚から次々に綴りを下ろしてくるのだ。恋の一大事の場で、わたくしの頭は今日も勤勉である。
怒りは、来ない。
来ないことのほうに、わたくしは薄く狼狽える。十年を注いだ席を取り上げられて、真っ先に段取りを数え始める女――それがわたくしという人間なのだと、こんな朝に思い知らされる。悲しみはたぶん、あとから来る。あの感情はいつも、支払いの期日を少し遅らせてやって来るのだ。
「離縁、ということでございますね?」
「そうだ。そなたは何も悪くない。だが……」
「承知いたしました」
言葉は、驚くほど滑らかに出た。陛下が目を見開く。隣で、ファビエンヌ様がまばたきをして、それから花のほころぶように笑った。
「王妃さま、ありがとうございます! わたくし、精いっぱい務めますわ。大丈夫です――王妃のお仕事なんて、陛下を愛していれば務まりますもの」
悪意の欠片もない声である。だからこそ、大広間の空気がわずかに揺れる。年かさの官僚がふたり、目を伏せるのが見えた。
わたくしは、その明るい目を見返す。本気で信じている目である。羨ましさに似た何かが、胸の浅いところをちり、と掠めた。何かを疑いもせずに信じられることは、それだけで、ひとつの若さである。
愛していれば、務まる。
そう、と胸の内でだけ返す。ならば十年のわたくしが何で務めてきたのか――その問いは、いまは開けない箱にしまう。箱は胸の奥で、ことりと音を立てて閉まった。蓋の内で、何かが小さく軋んでいる。開ける日は、わたくしが決める。
「二点だけ、事務のご確認をいたします」
わたくしは声を平らに保つ。声を平らにするのは得意である。十年、そればかりしてきた。
「離縁の効力は、書面の成立をもって。王妃領は王家へお返しし、今年度の穀物借款の残りは、王妃領の収益から精算いたします。それから、借款の保証人の更改を、債権者の組合へ申請いたします」
「……ああ。よきに計らえ」
陛下は、もう書面のほうを見ていない。この方は、わたくしの書いたものを一度も最後まで読まなかった――七年前のあの夜から、ずっと。
七年前。落馬なさった陛下の病床に、わたくしは徹夜で仕上げた治水の案を持って行った。春の増水の前に東の堰を直す、その段取りである。蝋燭を三本使い切り、指にインクの染みを作って書いた紙の束は、両腕に抱えるとほんのり重い。陛下は表紙だけをご覧になり、微笑んで、仰った。
「そなたに任せる」
頁は、一枚もめくられなかった。
長い廊下を戻りながら、抱えた紙の束が行きよりも重いことを、わたくしは不思議に思ったものである。
協定の写しの欄外に小さく検算を書き込む癖は、輿入れの年の最初の協定からある。けれどあの夜を境に、癖の意味が変わった。誰かが読むと思って書くのではない。読まれない字は書いたそばから消えていく気がして――せめて数字だけは、正しいまま紙に残しておきたいのだ。
書記官が、離縁の書面を運んでくる。
王妃の書き物に、わたくし個人の名を書く欄はない。決裁は印璽、協定の署名でさえ、書くのは「カレンドラ王妃」という肩書きである。名を書く書類は、十年ぶり――輿入れの誓約書以来である。この名は嫁いできた日のまま、十年、どこにも出かけていない。
オディール。
ペン先が紙を滑る。自分の名前は、思っていたより短い。書き終えた手が、ふ、と軽くなる。その軽さが、少しだけ怖かった。
一礼して、玉座へ背を向ける。長い床を戻り、扉の手前で、一度だけ足を止めた。
「陛下。ひとつ、お伝え忘れがございます」
振り返らず、声だけを広間へ置く。
「では――国も、お返しいたしましょう」
ざわめきが、途切れる。陛下が眉を寄せる気配がして、ファビエンヌ様が小さく首を傾げるのが、扉の硝子に映った。意味の分かる顔は、広間のどこにもない。それでよいのだ。宣言は、受け取られなくても宣言である。意味は明日から、手続きが順番に教えて差し上げる。
扉が、背中で閉まった。
その日の夕、わたくしは自室の文机で、ヴェルトラム穀物商組合への更改申請を書き上げ、封蝋を捺して急使に託す。保証人が王妃の身分を失うときは、債権者の承認する更改か、精算か。契約の条文どおりの、ただの事務である。窓の外で、雪が音もなく積もり始めていた。急使の馬蹄の音が、雪に吸われて遠ざかっていく。この国でわたくしが動かす、最後の早馬である。
明日から三日で、わたくし名義の帳簿を、すべて畳む。
2. 返却の目録
離縁の成立まで、三日ある。
わたくしはその三日を、返却に使うと決めた。
王妃の名で借りたもの、王妃の名で人に委ねたもの。目録にすれば、二種きりである。ヴェルトラム穀物商組合からの年次の借款がひとつ。各省の官僚へ発行した、決裁の委任状が三十八通。
一日目は、委任状の解除に費やした。
委任状は、七年前に陛下から大委任をいただいたわたくしが、実務を回すために各省へ発行したものである。財務に六通、内務に五通、営繕に四通……名簿の順に、同じ文面の解除通知を三十八通、書いていく。中指の腹には、十年ものの、インクの胼胝がある。ペンを持ち直すたび、その硬い皮が紙に触れて、小さな音を立てる。
書きながら、顔が浮かぶ。橋の修繕を委ねた営繕の次官、俸給簿を任せた財務の書記官。実直な人たちである。この紙が届いた朝から、あの人たちの手は止まる。それが分かっていて、わたくしは書く。
――それでも、返すのだ。
王妃でない者の委任状は、ただの紙である。紙のふりをした偽物を、机に残して行くわけにはいかない。誠実であろうとすればするほど、誰かの朝を止める。この噛み合わせの悪さを、噛みしめる夜だった。
三十八通目を書き終えたのは、蝋燭の二本目が尽きるころである。指の付け根が鈍く痛む。考えてみればこの三十八通が、わたくしがこの国で書く、最後のまとまった書き物になる。別れの手紙を書かない代わりに、解除通知を三十八通。まったく、わたくしらしい。中指の胼胝の上に、インクの染みが、またひとつ増えている。
二日目、借款の更改書類を持って、陛下の執務室へ上がる。
保証人をわたくしから陛下ご本人へ改める書面である。債権者の承認はこれから、効力は承認の日から。要点を三行の付箋にして貼り、声に出して読み上げもする。執務室の大机は、綺麗に片づいていた。この机が働いているところを、わたくしは久しく見ていない。
「ここに、御自署を」
「ん」
陛下は羽根ペンを取り、書面の下端に流れるような字で署名なさる。目は、一度も文面に落ちなかった。
――ぱらり。
胸の奥で、また頁がめくれる。七年前の夜と、同じ音である。答え合わせなら、とうに済んでいる。済んでいるのに、同じ場所で、同じ音が鳴る。古傷というものは、治ってからのほうが、天気に敏いのだ。
部屋の隅で、財務卿のロベール様だけが、書面とわたくしの顔とを順に見比べて、色を失っていた。
「陛下。最後にひとつ、口頭でも申し上げます。ヴェルトラムとの穀物協定は、冬至で切れます。更新は毎年の再交渉でございます。数量と関税の検算のできる方に、信任状のご用意を」
「そのようなことより、式の日取りが――」
「同じものを書面にして、財務卿へお預けしてございます」
それ以上は、申し上げなかった。警告は、二度で足りる。三度目からは、未練と呼ばれるのだ。
三日目の朝、離縁が成立する。今年度の借款の残りが王妃領の収益から精算された旨、組合の受け付けの写しも届いた。これで、わたくしの名前に借りはひとつもない。
最後に、印璽を返した。
天鵞絨の小箱に納め、両手で書記官長へ渡す。十年、公文書の末尾に捺し続けた王妃の印である。手のひらから重さが消えた瞬間、指が勝手に、失くした形を探した。体のほうが、役目を覚えているのである。
軽くなった手を、しばらく見下ろす。
軽い。軽いことが、こんなに寂しい。十年重かったのだから、降ろせば清々するはずだと思っていた。それなのに指はまだ、消えた重さの輪郭をなぞっている。矛盾している、と自分でも思う。それでもどちらも、本当の気持ちなのである。重さは疎ましい。それでも重さだけが、わたくしの居場所の証でもあった。
荷物は、鞄ひとつに納まる。ドレスは王妃のもの、宝石も王妃のもの。わたくしのものは、書き癖のついたペンと、数冊の手控えと、それだけである。十年が鞄ひとつに納まることを、悲しいと呼ぶべきか、身軽と呼ぶべきか、まだ決められない。
通用門を出ると、雪がちらついている。
振り返らない。振り返らないために、門を出る前に一度だけ、心の中で城の全部の部屋を歩いておいた。台所、書庫、あの執務室。歩き納めは、済んでいる。十年の礼は、十年をくれた場所に。恨みは、置いていく。
門までは、ロベール様が送ってくださった。何も仰らず、雪の中で深く一礼をなさる。わたくしも、同じ深さの礼を返す。言葉にすれば未練になるものを、老臣は知っておられるのだ。見送りとは、振り返らずに済む向きを、作って差し上げることでもある。いつかわたくしも、誰かにそうする側になるのだろう。
門前に、見慣れない馬車が停まっていた。扉に、麦の穂を束ねた紋章――ヴェルトラム王家の紋である。降り立った使者が深く一礼して、封書を差し出す。何も言わない使者である。言葉は、すべて封の中ということらしい。
受け取った封書の表書きに、目が留まる。差出はヴェルトラム国王アルデリック。宛名は、「オディール殿」。
肩書きではなく、名前があった。
わたくしは封書を受け取り、まだ開けずに胸元へ抱えて、馬車に乗り込む。開けてしまうのが、なぜか惜しかったのである。
◇
カレンドラ財務卿ロベールの手控え。冬至まで二十三日。
王妃陛下より、委任状三十八通の解除通知が各省へ届く。以後の決裁は、すべて御自署を要する。協定失効の警告書一通、当職預かり。信任状の発行を上申せしも、御裁可なし。明朝、重ねて上申の心づもりである。財務の決裁箱、夕刻を待たず、蓋の閉まらぬほどに満ちる。書類は雪と同じで、夜のうちにも積もるのである。
箱は満ちた。開ける鍵が、ない。
3. わたくしの名前
国境までの街道は、雪に白く均されていた。
国境の標柱を過ぎる瞬間、体のどこも痛まない。国をひとつ出るというのは、もっと音のするものだと思っていた。車輪の下で雪が軋む、それだけである。
馬車の中で、わたくしはようやく封書を開く。封蝋の割れる乾いた音が、静かな車内にやけに大きく響いた。
招聘の状である。ヴェルトラムの宰相の席が一年空いていること。枢密院の同意を得る用意があること。文面は短く、条件は明瞭で、誇張がひとつもない。そして末尾に、こうあった。
「貴殿が親署した協定は、十年、一度も破られたことがない。毎年、貴国側の写しの欄外には、小さな検算の筆跡がある。余はそれを、十年、読んできた」
指が、その一行の上で止まる。
見間違いかと、雪明かりのほうへ紙を傾けた。文字は、動かない。
読んで、いた。
誰にも求められず、誰も読まないと思いながら書き続けた欄外の数字を――国境の向こうで、読んでいた人が、いたのだ。
わたくしは手袋を外し、素の指でその行に触れる。紙の上の文字は、指先に何も答えない。答えないのに、十年分の夜が、順番に胸へ帰ってくる。蝋燭の匂い。乾く前のインクの艶。読まれないと知りながら、それでも正しく書いた数字たち。あれは、無駄ではなかったのだ。
三度、読み返す。雪明かりの車内で、息だけが白い。白い息の向こうで、新しい国が近づいてくる。近づいてくるものを、今日は逃げずに見ている。
ヴェルトラムの王都は、粉雪の下でも活気があった。穀物倉の並ぶ川沿いに、荷橇の轍が幾重にも走り、倉の戸口からは麦の埃の匂いがする。粉屋の店先で、子どもが焼きたてのパンを抱えて駆けていく。
謁見の間は、カレンドラのそれより小さく、そして暖かかった。
アルデリック陛下は、玉座ではなく書見台の脇に立っている。三十半ばの、静かな目をした方である。挨拶は短い。
「よく来られた。単刀直入に申す。宰相を、やってもらいたい」
「わたくしは、外つ国の生まれでございます」
「先々代の宰相は、山向こうの生まれだ。この国は、血ではなく帳簿で人を選ぶ。それに――余は妃を招いたのではない。帳簿を書いた人を招いた」
即答は、できなかった。
光栄である、と頭では分かる。分かるのに、心が追いつかない。わたくしは七年、代理として働いてきた。陛下の代わりに読み、代わりに数え、代わりに判を捺してきたのである。代理でない席に自分が座る絵が、どうしても、うまく描けない。絵筆を持つ手が、椅子の手前で止まってしまう。
「三日、考えられよ。期日はそれ以上に延ばせぬが、急かしはせぬ」
三日間、わたくしは城下を歩いた。
川湊では、荷揚げの人足が声を揃えて麦袋を積み替えている。秤の目盛りを覗き込み、帳場では若い書き手の綴りを見せてもらう。癖のない、良い楷書である。思わずそう伝えると、若者は耳まで赤くして、帳面を抱え直した。読まれると知った字は、ああいう顔をするのだ。
宿への帰り道、橋の上から川を見る。凍り残りの流れが、倉の灯りを細かく割って運んでいく。働く水である。眺めているだけで、指の先が、帳面のほうへ動きたがる。
市場で焼き栗を買う。焼き栗は、両手を温めた。カレンドラの王都では、市場を歩く王妃は行儀が悪いとされていた――ここでは、誰もわたくしを知らない。肩がぶつかって、詫びられて、それきり忘れられる。その名もなさが、心地よくて、少しだけ寂しい。名前とは、つくづく厄介なものである。
三日目の夜、宿の文机で、自分に問いを立てた。恩に報いるためか。行き場がないからか。どちらも、少し違う気がする。
本当のところを言えば、怖いのだ。欲しがることが怖い。この席が欲しいと認めて、手に入れて、それからまた取り上げられたら――その日のわたくしを、想像したくない。箱にしまった問いのほかに、しまってきた欲までが、蓋を押し上げてくる。
紙に、一行だけ書いてみる。
「わたくしが、そうしたいから」
書いた字を、しばらく眺めた。十年で初めて書く種類の、理由である。理由が自分のものだと、字は、こんな顔をするのだ。少し傾いで、少し大きくて、行儀が悪い。行儀の悪い自分の字を、わたくしは嫌いになれそうにない。
冬至の十日前、枢密院の同意を経て、宣誓の式が行われた。
誓いはふたつ。ヴェルトラムの国益に忠実であること。旧国カレンドラへ、便宜も敵意も、どちらも向けないこと。誓約の文言は、今朝わたくしが一字ずつ検めたものである。自分の口で読む誓いは、自分の字と同じ顔をしている。石造りの広間に、枢密院の年寄りたちの咳払いがひとつふたつ落ちて、それから静まる。
羊皮紙に誓約の自署を置くと、陛下が初めて、少しだけ表情を緩めた。
「では――励まれよ、宰相オディール殿」
名前が、石の壁に響く。石は、よい。名前を長く抱えて、響かせてくれる。
指先が、細かく震えた。泣いてなど、いない。ただ、十年ぶりに人の声に乗った自分の名前は、思っていたよりずっと大きく聞こえるのである。名前とは、呼ばれるたびに少しずつ、その人のものになっていくらしい。
◇
ロベールの手控え。冬至まで十日。
隣国にて新宰相の宣誓の報。名は、記すことを控える。関所の商人らは既に知っていた。当方、交渉団の信任状は本日も御裁可なし。上申二度目、却下も二度目である。読み合わせの支度は当職の一存で進めるも、署名権者なくば、それはただの紙の束にすぎぬ。紙は揃い、席は空のまま、日ばかりが暮れる。
冬至の朝日は、待ってはくれぬ。
4. 冬至の帳尻
冬至の朝、ヴェルトラムの王都に、季の鐘が九つ鳴った。
一年でいちばん昼の短い日を告げる、ただの鐘である。けれどわたくしの耳は、九つ目の残響の底に、別の音を聞いていた。十年、毎年この日に結び直してきた協定が、どこの広間の調印もないまま、静かに息を止めた音である。
去年までの冬至を、思い出す。読み合わせの卓、双方の書記官の筆音、燭台の火が数字の列を舐める光。わたくしはあの卓で、十回、親署をした。十一回目の卓は、今年はどこにも立たない。宰相府の窓辺で、湯気の消えた茶を前に、わたくしは鐘の音の終わりまで動けずにいた。
鐘が鳴り終わっても、街の音は変わらない。荷橇は走り、粉屋は粉を挽く。国がひとつ約束を失くした朝も、パンは焼かれるのである。それがせめてもの、救いに思えた。
執務室に戻ると、係官が事務的に告げる。
「本日より、カレンドラ向けの穀物は、無協定国の税則に切り替わります」
「ええ。規定どおりに」
係官は税率表を一枚差し替え、一礼して下がる。それだけである。剣は抜かれず、布告も出ない。条約というものは、結ぶときは祝祭で、切れるときは無音なのだ。無音のほうが、よほど重い。
三日後、カレンドラから急使が来た。
救援を請う書状である。長旅の泥をつけた封筒に、封蝋が斜めに垂れている。国境の関所に穀物の隊列が滞留していること。決裁が滞り、関税の付け替えも代金の支払いも、命じる者がいないこと。文面の下半分は、ほとんど悲鳴に近い。署名は外務の次官――あの三十八通のうちの一通を、わたくしが返した相手である。几帳面な楷書が、行の後半で崩れて斜めに流れていた。あの実直な人が、崩れた字を寄越すまでの朝と夜を、思わずにはいられない。
急使は、返書を待つあいだに白湯を三杯おかわりしたという。関所からの道の寒さが、その三杯に見える気がして、わたくしは四杯目を言いつけた。白湯の一杯は、便宜のうちに入らない。それくらいの融通は、誓いも許すはずである。
返書の草稿は、自分の手で書く。
「ご窮状は承りました。しかしながら、決裁の再建も交渉団の任命も、貴国の王権に属する事柄でございます。それは――貴国の内政問題でございます」
ペンを持つ手が、指先から冷えていく。
嘘は、一文字もない。冷たいのは、正しいからである。正しさがこんなに冷たいことを、わたくしは十年前から知っている。知っていて、それでも書く。
書き終えて、助言をひとつ、書き足しかけた。読み上げ式のこと、信任状のこと。ペンは三文字で止まる。求められていない助言は、届かない紙になる。読まれない字の行き先なら、わたくしがいちばんよく知っている。三文字を、丁寧に塗り潰した。
目を閉じると、顔が浮かぶ。王都の市場で香草を売る腰の曲がった婆。籠から立つ、揉まれた薄荷の匂い。あの薄荷はいつも少し湿気ていて、それでも王都でいちばん香りがよかった。関所の外で荷に筵をかけ、雪空を見上げる隊商。あの人たちは、誰の判も待たずに腹が減る。
――同情で戻れば、楽になれる。
戻って、また王妃の印を預かって、すべてを元通りに回して差し上げればいい。感謝もされるだろう。そうすればわたくしは、また名前のない便利な手に戻る。手は、便利であるほど、顔を見られなくなる。
それだけは、しない。しないと決めた自分の薄情を、わたくしは自分で引き受ける。薄情の分だけ、別の形で返す。それが、わたくしの帳尻の合わせ方である。
その晩、宰相の机で、商いをひとつ設計した。
穀物商組合への、前払い・港渡しの現金取引の紹介である。信用のいらない、いちばん古い形の商い。前払いの原資には、カレンドラ王家の美術品と王領の材木をヴェルトラムの競売商で売った代金を充てる――その段取りの提案書を、返書に添えた。こちらの商人の儲けになる正規の商談であるから、誓いの枠は踏み越えていない。蝋燭が一本、燃え尽きるまでかかった。組み上がった段取りを、欄外でもう一度検算する。癖というものは、国を越えても付いてくるのである。数字を組んでいるあいだだけは、指先の冷えを忘れていられた。
翌朝、草稿を陛下の書見台へ持って上がる。
アルデリック陛下は最後の一行まで目を通し、頁を戻して提案書の数字をもう一度確かめ、それから顔を上げた。
「材木の値は、春には下がるであろう?」
「はい。ですから雪のあるうちに伐り出して、川開きと同時に流します。競売の期日も、そのように」
「よい。これでよい。……して、宰相。眠っておられるか?」
「検算は、夜が静かなほど捗りますので」
「ほどほどにせよ」
読まれてから返ってくる「よい」は、読まれずに渡される「任せる」と、こんなにも重さが違う。その重さにわたくしはまだ慣れず、受け取るたび、少しだけたじろぐ。たじろいで、それから、じんわりと温かい。温かさに慣れる日が来るのか、まだ分からない。
帰りの廊下で、窓の外の雪をしばらく見る。カレンドラの空も、同じ雲の下にあるのだ。雲は国境を知らない。麦も、本当は知らない。知っているのは、人間の帳簿だけである。
◇
ロベールの手控え。冬至より三日。
救援の書状への返書、写しが当方にも届く。内政問題、の一句、城の内外にあまねく回覧される。恨む声あり、恥じる声あり。当職は後者である。併せて、前払いの商談の案一式。売立の目録づくりに本日より着手する。大広間の垂れ幕、燭台、先々代の狩りの絵。国庫は絵を食えぬが、絵は麦に化ける。先々代も、お許しくださるであろう。
陛下は、国境へ向かうと仰せ。
5. 戻ってきて、の値段
年が明けて、雪解けにはまだ遠いころ、カレンドラ国王が国境まで出てこられた。会いたい、という書状が、外交の形式を踏んで届く。
前の夜、わたくしは眠れなかった。
会えば揺れるのではないか、という怯えだけは、どう畳んでも平らにならない。憎んで別れたのではないから、なおのことである。十年は、憎むには長すぎ、忘れるには近すぎる。天井の梁を数えながら、明け方近くにようやく分かった。わたくしが怖いのは、揺れることではない。揺れなかったと知ることのほうが、たぶんずっと怖いのだ。十年をまるごと、なかったことにしてしまいそうで。
鏡の中の朝の顔は、王妃の顔ではなく、眠り損ねた宰相の顔である。それで、よいのだ。宰相の顔で行き、宰相の顔で帰ってくる。それだけを、鏡の中の自分と約束する。
出立の間際、アルデリック陛下が短く仰った。
「宰相の職務ではない。行かずともよい」
「いいえ、参ります。わたくしの帳尻でございますから」
「そうか」
それだけで、送り出してくださる。帰りの刻限も問われない。問われないことが、こんなに歩きやすい。信じられているとは、待たれ方が静かだということなのだと、馬車の中で思う。
国境までの二日、窓の外は白一色である。雪原の果てにカレンドラの山影が薄く見えたとき、胸の奥で、ことりとあの箱の鳴る音がした。
国境の館は、石の壁に雪の匂いがする。門衛が、わたくしに向かって槍を立てた。十年、王家の紋に向けられるのを隣で見てきた礼が、今日は、わたくしひとりに向けられている。
ひと月半ぶりのエメリク様は、ひとまわり痩せて見えた。手の甲の白い、ペンだこには遠い手が、膝の上で所在なく組まれている。玉座も廷臣もない小さな部屋で、暖炉の火だけがぱちぱちと鳴る。あの方は、王ではない声で仰った。
「戻ってきてくれ。頼む」
「わたくしは、もう隣国の宰相です」
「分かっている。分かっているのだ。だが……国が、回らぬ」
それから、あの方はぽつぽつと話された。落馬の後の痛みは、いまも本当であること。ただ、いつからか、痛みを盾にして書類から逃げるようになったこと。医師の言葉を、都合のよいところだけ借りて、読まない日の言い訳にしてきたこと。読めば決めねばならず、決めれば、間違いが自分のものになる。それが、怖かったこと。
話すあいだ、あの方は一度もこちらを見なかった。見ないでいてくれることのほうが、かえって正直に思える。
「そなたが有能であるほど、余は、王でいられなかった」
沈黙が、雪の音より静かに積もる。
憎しみは、湧かなかった。湧いてきたのは、もっと始末の悪いもの――この声を十年前に聞きたかった、という遅すぎた悲しみである。この告白があの夜にあれば、わたくしたちは、夫婦になれたのかもしれない。読まない王と、読まれない妃ではなく、下手でも同じ卓で頁をめくる、ただの夫婦に。
息をひとつ、整える。十年、箱にしまってきた言葉がある。開けるなら、怒りの日ではなく、今日のような静かな日だと決めていた。
「陛下。わたくしは、愛されたかったのではございません」
声は、思ったより静かに出た。開けてみれば、言葉は、こんなに短い。
「読んでほしかったのです。わたくしの書いたものを。表紙の先を、一頁でも」
エメリク様が、目を見開く。それから、とても長く、うつむかれた。暖炉の火が爆ぜて、影が揺れる。
わたくしは鞄から支援協定の条件書を出し、卓の上に置いた。
「戻ることは、できません。代わりに、宰相として、これを」
条件は三つ。国法の読み上げ式を行い、信任状と委任状の決裁の網を建て直すこと。毎朝二刻、御自身で書類を読むこと。そして、ファビエンヌ様の処遇を罰にも盾にもせず、ご本人の選択に委ねること。
「三つ目は……そなたが、それを言うのか?」
「あの方は、わたくしから何も奪っておりません。奪われるより前から、わたくしは持っていなかったのですもの」
エメリク様は、条件書を手に取った。
一枚。二枚。三枚目の裏まで。指先で行を追い、ときどき前へ戻り、最後の一行まで――わたくしは、頁のめくれる音を数えていた。この方の指が紙をめくる音を、わたくしは十年間で、はじめて聞いたのである。
「……受ける」
顔を上げたその目は、疲れて、赤くて、それでも初めて、書いた者の顔をまっすぐ見ていた。それから条件書の欄外に、その場で覚え書きを入れられる。曲がった、不慣れな字である。それでも、書き込みである。読む人は、いつか書き込む人になるのだ。
胸の奥で、長く合わなかった勘定が、小さな音を立てて合う。赦した、というのとは違う。ただ、貸し借りの欄が、十年ぶりに揃ったのである。揃った帳簿は、静かに閉じるものだ。音を立てずに、わたくしは胸の中で表紙を閉じる。
別れ際、あの方は「達者で」とだけ仰った。十年で、いちばん短くて、いちばん嘘のない言葉だった気がする。達者で。ええ、達者でおりますとも。誰よりも。帰りの馬車で、わたくしは久しぶりに、夢も見ずに眠った。
◇
ロベールの手控え。年明けて十二日。
陛下、国境より戻られる。支援協定の条件書は御自ら読み了えられた由、随行の書記官の証言あり。当職、仕えて二十九年、初めて聞く類の報である。読み上げ式の日取りは勅により七日後と定まる。大臣の一同、半信半疑のまま式服の支度を始める。当職は信じる側に立つ。二十九年目にして、初めての賭けである。
陛下は本日、初めて書類を最後まで読まれた。
6. 署名の名前
次の冬至まで、あと七日。
ヴェルトラムの宰相府は、朝から紙とインクの匂いがする。一年経って、わたくしはこの匂いを、自分の家の匂いのように吸っている。窓の外を、川湊へ向かう荷橇の鈴が過ぎていく。秋の検地の綴りが棚に並び、夏の川止めの裁定書には枢密院の追認印が並び、川湊の新しい秤の検定簿が机の端で乾く。
どの頁の欄外にも、わたくしの小さな検算がある。ここでは誰かが、それを読むのだ。読まれると知って書く字は、我ながら、少し胸を張っている。朝いちばんに、川止め明けの通航願いへ判を置いた。わたくし自身の判である。押すたびに、まだ少し、背筋が伸びる。
取り次ぎが、来客を告げた。
「カレンドラ王妃、ファビエンヌ様」
応接の間に入ってきたその方は、一年前より少し痩せて、ずっと大人の顔になっていた。目の下にうっすらと隈があり、右の中指の腹に、見覚えのある染みがある。インクの染みである。わたくしのそれと、同じ場所に。
挨拶もそこそこに、あの方は深く、頭を下げた。
「教えてくださいませ。あの方の国の、回し方を」
「……お顔を、お上げください」
「わたくし、申しましたわね。愛していれば務まると」
顔を上げたファビエンヌ様は、笑おうとして、少しだけ失敗なさった。
「愛だけでは、務まりませんでした。紙の山を初めて見た日に、分かりましたの。あなたさまが七年も、あの山をおひとりで崩していらしたことも」
読み上げ式の朝のことを、あの方は話された。陛下が国法の条文を、つかえながら最後まで音読なさったこと。委任状三十八通が、新しい日付で発行し直されたこと。財務卿が式のあいだじゅう、瞬きを忘れていたこと。いまは頭痛の重い日でも、音読を短くして、その分を翌朝に必ず足していらっしゃること。話しながら、あの方は二度、言葉に詰まった。詰まるたび、指のインクの染みを、袖の中へ隠すようにする。隠さなくてよいのに、と思う。その染みは、恥ではない。
「それでも、まだ足りないのです。わたくしが、読めませんの。帳簿が」
「最初は、誰でも読めません」
「……あなたさまも、ですの?」
「わたくしは、読めるふりから始めました。ふりを十年続けると、本物になります」
ファビエンヌ様が、初めて小さく声を立てて笑う。笑うと、年相応の顔になる方である。
わたくしは、棚から薄い綴りを下ろした。この一年、手すさびに書き溜めた、帳簿の読み方の覚えと、王妃の一年の暦である。冬至の前に何を検め、春の増水の前に何を命じるか。誰の目も当てにせず、それでも書かずにいられなかった紙の束である。表紙には、まだ何も書いていない。題は、渡った先で付けばよいのだ。
かつてのわたくしは、これを誰にも渡せなかった。渡す相手も、訊きに来る人も、いなかったのだから――。
この方は、訊きに来てくれた。国境を越えて、頭を下げに来たのである。それだけで、この紙の束は初めて意味を持つ。
「差し上げます。分からないところは、文でお訊きなさいませ。宰相府気付、わたくし宛てに」
「……よろしいのですか?」
「ええ。ただし、条文の検算は、ご自分でなさること」
ファビエンヌ様は綴りを両手で抱え、もう一度深く頭を下げた。この方を奪った人だと思っていた時期が、わたくしにもなかったとは言わない。いまは、違う。同じ場所に立たされて、逃げずに立つほうを選んだ人である。同じ山を崩す人である。
わたくしの十年の孤独を、この方には渡さずに済むかもしれない。一年前のわたくしに、教えてやりたい。あなたの書いたものは、いつか国境を越えて、あなたを送り出した国を、支えに行くのだと。
午後には、新しい年次協定の調印式が待っている。
調印の広間には、枢密院の年寄りたちと商組合の頭たちが並んだ。麦を商う人々の顔は、冬でも、どこか日に焼けている。よい顔である。帳簿の外で麦を運ぶ人々こそ、条文の本当の読み手である。読み手のいる紙は、幸いなのだ。
カレンドラ側の署名権者は、読み上げ式で信任を得た外務卿。あの崩れた楷書の人である。卓の向こうで条文を読み上げるその字も声も、もう崩れていない。ヴェルトラム側の署名権者は、宰相――わたくしである。
去年、無音で切れた約束が、今年は双方の声で読み合わされて、新しい日付を得る。数字の列を、両国の声が順に読んでいく。わたくしが欄外に書いてきた検算は、今年は欄外ではなく、条文の中に清書されている。切れた縁の結び直しは、こういう手順でよいのだと思う。国も、人も。
読み合わせを終えると、係官が羊皮紙をわたくしの前へ滑らせる。署名の欄には肩書きと、名を書く場所があった。
ペンを、浸す。
オディール。
ペン先の走る音が、静かな広間に思いのほか高く響く。十年、印璽の中に封じられていた名は、書いてみれば、こんなにも軽く、こんなにも、わたくしのものである。
インクの乾くのを待つあいだに、アルデリック陛下が隣で短く仰った。
「次の十年も、その名で頼む」
「――かしこまりました」
式のあと、外務卿が歩み寄って、深く一礼をなさった。あの折の返書には、いまは感謝している、と小さく仰る。内政問題の一句に頬を打たれた気がして、以来毎朝、自分の判は自分で捺しているのだそうだ。
窓の外は、今年も雪である。
降っては積もり、積もっては、春に融ける。国と国との約束は毎年結び直され、帳簿は毎年繰り越され、そのどの頁の端にも、わたくしの小さな検算が残っていくのだろう。
わたくしの名は、もう、紙の外にもある。




