亡国の王女は、王子より金貨がお好き
「王都の七商会が、税を納めていないのです」
粗末な外套を着た青年は、机の向こうでそう言った。
「商会側は、すでに納税したと主張しています。正式な受領証もある。徴税官の帳簿にも納税済みと記録されている。ところが、国庫には一枚も入っていません」
「なるほど」
エレナは頷いた。
「お断りします」
青年は一瞬、言葉を失った。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。旅人を装っているが、外套の下から覗くシャツは上等で、靴には王都でも限られた貴族しか使わない黒鹿の革が使われている。
顔立ちだけなら、絵本から抜け出してきた王子様そのものだった。
もっとも、エレナは男の顔には興味がない。
どれほど美しい顔でも、質屋では値段がつかないからだ。
机の端では、エレナが飼っている黒猫のクローネが丸くなっている。青年が入ってきたときから一度も顔を上げず、興味がないことを全身で示していた。
飼い主によく似た猫である。
「理由を伺っても?」
「七商会が同時に税を納めていない。徴税官の帳簿には納税済みと記録され、商人は王家の印章が押された受領証を持っている。つまり、商人だけでなく、財務院の人間も関与しています」
エレナは指を三本立てた。
「危険。面倒。政治的。私が最も嫌いな三拍子です」
「あなたなら解決できると聞きました」
「私の能力と、依頼を受けるかどうかは別問題です」
「成功報酬として、金貨十枚を」
「お帰りください」
「二十枚」
「扉は後ろです」
「三十枚」
エレナは青年の靴をもう一度見た。
黒鹿革の特注品。靴底まで新品同然。
金を持っている。
しかも、金銭感覚が庶民とは違う。
「五十枚」
エレナが言った。
「依頼を受ける側が、金額を上げるのですか?」
「政治事件の基本料金が二十枚。財務院を敵に回す危険手当が二十枚。身分を隠している依頼人への信用保証料が十枚です」
青年の表情が、ほんのわずかに固まった。
「私は、身分を隠しているように見えますか?」
「下級官吏は、王家御用達の靴職人に注文を出しません」
青年は自分の足元を見た。
「靴だけで?」
「椅子に座る前に、私が勧めるのを待ちましたね。官吏なら、自分から座る。身分を隠している立場の高い者は、相手が自分をどう扱うか観察します」
「なるほど」
「それから、窓の外に護衛らしき男が二人います」
青年は窓を見なかった。
見れば認めることになると分かっているらしい。
少なくとも、顔だけの男ではない。
「金貨五十枚。半額は前払いです」
「高すぎませんか?」
「では、お断りします」
「払います」
即答だった。
青年が革袋を机へ置くと、眠っていたクローネが顔を上げた。
エレナは袋の中身を確かめ、一枚ずつ数え始める。
「二十三、二十四、二十五。確かに」
「疑っていたのですか?」
「人を疑っているのではありません。枚数を確認しているだけです」
「同じことでは?」
「違います。人は間違えますが、金貨は間違えません」
エレナは金貨を箱に収めた。
「よい判断です。あなたには見込みがあります」
青年は複雑そうな顔をした。
◇
エレナは、かつてリュシア王国の第一王女だった。
二年前、リュシアは隣国の侵攻を受け、わずか十二日で滅びた。
城壁は頑丈だった。兵士もいた。将軍たちは国王への忠誠を誓っていた。
それでも、国は滅んだ。
兵士への給金が四か月も滞っていたからだ。
国庫には金貨があると、父王は信じていた。
財務大臣も、帳簿には十分な備蓄があると説明していた。
だが、敵軍が国境を越えた日、国庫を開けてみれば、中にあったのは空の木箱だけだった。
帳簿の中にある金貨は、剣も兵糧も買ってくれなかった。
給金を受け取れなかった兵士たちは戦わず、城門は内側から開かれた。
父王は最後まで言っていた。
国民は自分を愛している。
兵士たちは必ず忠義を尽くす。
神が王家を守る。
だが、愛も忠義も神も、空腹の兵士へパンを配ることはなかった。
エレナは命からがら国を逃れ、名を隠して王都の片隅で相談屋を始めた。
失せ物探し、商売の仲裁、相続争い、詐欺の調査。
依頼料さえ払えば、たいていの問題は解決した。
ただし、値引き交渉を始めた依頼人は、たいてい問題ごと放置された。
そしてエレナは、世界で最も信頼できるものを決めた。
金貨である。
金貨には重さがある。
純度がある。
数えれば増減が分かる。
「必ず払う」と言った男が翌日に逃げることはある。だが、すでに手元にある金貨そのものは裏切らない。
今回の依頼人は、レオンと名乗った。
もちろん、偽名である。
本名を尋ねれば、厄介事が増える。
エレナは、金にならない秘密には深入りしない主義だった。
◇
最初に調べたのは、七商会が所有する納税受領証だった。
エレナは七枚の受領証を窓辺へ並べた。
発行日は、月の二日から二十八日までばらばらである。
「どれにも、王家の印章が押されています」
レオンが言った。
「印章は本物でしょう」
「では、やはり商人たちは税を納めたのでは?」
「いいえ。受領証は七枚とも、同じ日に作られています」
「なぜ分かるのです?」
「インクです」
エレナは一枚ずつ指した。
「一か月にわたって書かれたのなら、インクの濃さや筆先の状態が少しずつ変わるはずです。ですが、七枚とも文字の濃さとかすれ方が同じ。紙も同じ束から切られています」
レオンが紙を灯りへ透かした。
「見ただけで、そこまで?」
「国が滅びる前、偽造された命令書を何度も見ましたから」
レオンが顔を上げる。
「国が滅びる前?」
「昔話を聞きたいのでしたら、別料金です」
「おいくらで?」
「金貨百枚」
「高すぎます」
「では、事件の話へ戻りましょう」
エレナは七枚の受領証を重ねた。
「受領証そのものは偽物。しかし印章は本物です。財務院から印章を持ち出せる者が関与しています」
「財務卿でしょうか」
「分かりません」
「意外ですね。あなたなら、もう犯人まで分かっているのかと」
「推理と当てずっぽうは違います」
エレナは冷めた茶を口にした。
「証拠のない答えには、一銭の価値もありません」
◇
次に、エレナは七商会を一軒ずつ訪ねた。
商会主たちは、口を揃えて税を納めたと言った。
「どのように運びました?」
「馬車で」
「どの貨幣で?」
「王国金貨だ」
「外国貨幣や銀貨は?」
「使っていない」
三人目まで話を聞いたところで、エレナは店を出た。
「全員、嘘をついています」
「どうして分かるのですか?」
「回答が同じすぎます」
「同じ方法で納税した可能性は?」
「七商会では、税額も取り扱う貨幣も異なります。外国と取引する商会もあれば、銀貨を中心に扱う商会もある。それなのに、全員が『王国金貨を馬車で運んだ』と答えた」
「口裏を合わせている?」
「ええ。おそらく、税を納めた事実そのものがありません」
四軒目の穀物商は、エレナの質問に答えながら、しきりに指輪を回していた。
「税は確かに納めた」
「どの徴税官へ?」
「財務院から来た男だ」
「名前は?」
「忘れた」
「受領証を受け取った相手の名前を?」
「役人の名前など、いちいち覚えておらん」
エレナは机の上に、穀物商の取引記録を置いた。
「先月、あなたの商会は税を納める代わりに、王都西区の倉庫を三棟借り増しています」
穀物商の指が止まった。
「税として支払うはずだった金貨は、今もあなたの手元にある。その一部を使って倉庫を用意した。違いますか?」
「どこで、その記録を」
「商会の荷車を貸している御者から買いました」
「勝手に調べたのか」
「依頼を受けていますので」
「誰からだ」
「それを教える料金は、金貨五十枚です」
穀物商は黙り込んだ。
その顔に浮かんだのは怒りではなく、怯えだった。
店を出ると、レオンが尋ねた。
「情報を買ったのですか?」
「当然でしょう」
「それも経費に?」
「調査に必要な費用です」
「報酬とは別なのですね」
エレナは立ち止まった。
「通常の依頼なら、報酬の範囲に含めます。しかし、これは財務院と七商会を相手にする特別な仕事です。想定外の出費は、依頼人に負担していただきます」
「最初から、それを狙っていませんか?」
「その発言は、私の職業倫理に対する侮辱です」
「申し訳ありません」
「慰謝料として金貨一枚です」
「謝らなければよかった」
「謝罪を撤回する場合は、追加で一枚です」
レオンは黙った。
エレナは満足した。
物分かりのよい依頼人は好きだった。
◇
その夜、二人は穀物商が借りた倉庫へ忍び込んだ。
中に積まれていたのは、穀物ではなかった。
大量の武器と、まだ模様を刻まれていない銀色の円盤だった。
レオンが一枚を持ち上げる。
「貨幣の材料ですか?」
「銀貨用ですね。ただし、銀の割合が低すぎます」
エレナは円盤を小さな携帯秤に載せた。
「銅が多い。正規の銀貨として流通させれば、すぐに価値が下がります」
「偽金貨を作ろうとしている?」
「金貨ではありません。粗悪な銀貨です」
エレナは積まれた武器を見た。
剣、槍、革鎧。
王都を攻め落とすには足りない。
だが、宮殿を制圧する兵へ配るには十分だった。
「税を免除された七商会は、手元に残った金で傭兵を雇う。最初の給金だけは本物の金貨で払い、王都を制圧した後は、この粗悪な銀貨で済ませるつもりでしょう」
「反乱……」
「王位簒奪です」
そのとき、倉庫の外で物音がした。
レオンがエレナの腕を引き、木箱の陰へ押し込む。
数人の男たちが倉庫へ入ってきた。
「建国祭まで、あと三日だ」
「残りの武器は、明日の夜に運び込む」
「公爵閣下は、王が祝杯を飲んだ直後に動くと仰せだ」
「王太子は?」
「同時に始末する」
木箱の陰で、レオンの表情が変わった。
驚きではない。
怒りだった。
エレナは横目で彼を見る。
王族、それも相当に高い位置にいる。
だから護衛がいた。
だから財務院の不正を、表沙汰にせず調べたかった。
男たちが去ったあと、レオンは低い声で言った。
「すぐに王宮へ知らせます」
「誰へ?」
「信頼できる者へです」
「王宮の誰が関与しているか、まだ分かりません」
「しかし、建国祭まで三日しかない」
「三日もあります」
エレナは銀色の円盤を一枚、懐へ入れた。
「犯人が急いでいるときほど、金の流れは雑になるものです」
「金のことになると、頼もしいですね」
「金以外のことでも有能です」
「それは失礼しました」
「侮辱料として、金貨一枚を追加します」
「褒めたつもりです」
「では、褒賞として金貨一枚をください」
「どちらにしても払うのですか?」
「よくお気づきになりました」
倉庫を出たところで、レオンがふと足を止めた。
「今夜のような危険も、最初の報酬に含まれるのですか?」
「いいえ」
「やはり」
「依頼内容が、税の横領調査から王位簒奪の阻止へ変わりました。追加の危険手当として、金貨五十枚を請求します」
「金貨五十枚?」
「命の危険がありますから」
「断れば?」
「私はここで手を引きます」
レオンは、ほとんど迷わなかった。
「払います」
エレナは頷いた。
「よい判断です。ますます見込みがあります」
◇
黒幕として最も疑わしいのは、国王の弟であるガルド公爵だった。
ガルド公爵は近衛騎士団の一部へ強い影響力を持っている。
公爵の領地では、近年になって兵の募集が増えていた。
七商会の一つには、公爵家と古くから取引がある。
だが、疑わしいだけでは逮捕できない。
計画書そのものは見つからず、商人たちも公爵の名を口にしなかった。
「証拠が足りません」
レオンが言った。
二人は相談屋の狭い部屋で、集めた書類を広げていた。
クローネが帳簿の上に座り込み、尻尾で紙を隠している。
エレナは猫を抱き上げ、椅子の上へ移した。
「犯人が自分で証拠を持ってきてくれれば、楽なのですが」
「持ってくるはずがないでしょう」
「では、持ってこさせます」
エレナは、一通の偽の手紙を作った。
七商会のうち一つが裏切り、受領証と取引記録を王太子へ渡すという内容である。
その手紙が公爵の配下へ渡るよう、噂好きの御者を金貨一枚で雇った。
「裏切った商会主を消しに来るはずです」
「危険では?」
「商会主には、すでに安全な場所へ移ってもらいました」
「いつの間に?」
「金貨二枚で説得しました」
「その費用も」
「経費です」
「分かってきました」
「成長されましたね」
◇
翌日の夜、公爵の部下たちは、偽の取引記録を奪うために倉庫へ現れた。
だが、中で待っていたのは商会主ではなかった。
王家直属の兵士たちが、一斉に姿を現す。
男たちが逃げようとした瞬間、レオンが外套を脱ぎ捨てた。
濃紺の上着には、金糸で王家の獅子が縫い取られていた。
「武器を捨てろ」
その声に、男たちが凍りつく。
「王太子殿下……」
一人が呟いた。
エレナは腕を組み、ため息をついた。
やはり王太子だった。
それなら最初から、金貨五十枚ではなく八十枚を請求すべきだった。
レオン――第一王子ルシアンは、短い戦闘の末に男たちを捕らえた。
捕らえられた男たちの一人は、ガルド公爵の屋敷に仕える従者だった。
最初は口を閉ざしていたが、仲間がすべて捕らえられたと知ると、公爵から倉庫の記録を焼くよう命じられたことを認めた。
その供述を基に、公爵の屋敷が捜索された。
隠し部屋から、七商会へ宛てた密約書、傭兵への支払記録、建国祭当日の兵士の配置図が発見された。
さらに、財務院から持ち出された王家の印章も見つかった。
ガルド公爵は逮捕され、王位簒奪の計画は失敗に終わった。
◇
「身分を隠していたことは、謝罪します」
事件が解決した翌日、ルシアンは相談屋を訪れた。
今度は粗末な外套ではなく、正式な王子の服を着ている。
「なぜ隠していたのです?」
エレナが尋ねた。
「王宮内に内通者がいると考えていました。王太子が直接調べていると知られれば、証拠を消されるおそれがあった」
「合理的です」
「怒っていないのですか?」
「身分秘匿料は、最初にいただいています」
エレナは机の上の契約書を示した。
最初に決めた報酬は金貨五十枚。
そのうち二十五枚は、すでに前金として受け取っている。
さらに調査の途中で、事件が単なる横領ではなく王位簒奪計画だと判明したため、追加の危険手当を金貨五十枚と定めた。
ルシアンは残りの金貨七十五枚を机へ置いた。
これで依頼料は、合計金貨百枚である。
「確認しますか?」
「当然です」
エレナは一枚ずつ数え始めた。
クローネも机の上へ跳び乗り、金貨の袋へ鼻を近づけた。
「それと、父から褒賞があります」
ルシアンが、もう一つの袋を置いた。
「国王陛下から?」
「暗殺と反乱を防いだ褒賞として、金貨百枚です。依頼料とは別です」
エレナの手が止まった。
依頼料百枚。
国王からの褒賞百枚。
合わせて、金貨二百枚である。
エレナは、ルシアンへ初めて心からの笑顔を向けた。
「殿下は、実に素晴らしい方です」
ルシアンの頬が、わずかに赤くなる。
「それは、私個人への評価ですか?」
「金払いへの評価です」
赤みが消えた。
「そうだと思いました」
◇
事件の後、エレナは国王へ呼び出された。
公爵の屋敷から見つかった記録の中に、リュシア王国の亡命者に関する調査書があったからである。
ガルド公爵は、王都に暮らす亡国の王族を、自らの計画に利用できないか調べていた。
そこに、エレナの名も記されていた。
「リュシア王国第一王女、エレナ殿下」
国王にそう呼ばれても、エレナは表情を変えなかった。
「今は、ただの相談屋です」
「我が国は、そなたを王族として保護しよう。住居と年金も用意する」
「年金は、年額でいくらでしょうか?」
広間が静まり返った。
国王が目を瞬く。
「金貨百二十枚を予定している」
「物価上昇に応じて、毎年見直されますか?」
「……検討しよう」
「住居の維持費は、王家が負担しますか?」
「そのつもりだ」
「修繕費も?」
国王はルシアンを見た。
ルシアンは小さく頷いた。
「修繕費も、王家が負担する」
「では、謹んでお受けします」
エレナは深々と頭を下げた。
謁見のあと、ルシアンが尋ねた。
「王族としての名誉には、興味がないのですか?」
「名誉で屋根は直せません」
「あなたらしいですね」
「ですが、住居費と修繕費が不要になるのは、大変魅力的です」
ルシアンは笑った。
「本当に、金貨の話をしているときだけ楽しそうですね」
「殿下も、得意な話をしているときは楽しそうですよ」
「私の得意な話とは?」
「ご自分の話です」
「否定できません」
◇
ルシアンは、彼女が冷たい人間ではないことも知った。
エレナは高額な報酬を取る。
値引きはしない。
銅貨一枚の不足にも厳しい。
その一方で、毎月決まった額を、リュシアから逃れてきた難民たちへ送っていた。
孤児には読み書きを学ばせ、職人には道具を買い与えた。
だが、そのことを誰かに褒められると、必ず不機嫌になった。
「慈善ではありません」
エレナは言った。
「投資です。教育を受けた子どもは、将来税を納めます。道具を持った職人は、雇用を生みます」
「見返りを求めていないでしょう」
「長期投資は、回収まで時間がかかるものです」
「あなたが故郷の人々を助けたいだけでは?」
「その質問は、金貨三枚です」
ルシアンは、そんな彼女をますます好きになった。
それから、ルシアンは何かと理由をつけて相談屋を訪れるようになった。
「港の関税制度を見直したいのです」
「金貨三十枚です」
「王宮の食費を減らしたい」
「二十枚」
「隣国の使節が、私の結婚について探りを入れてきます」
「結婚相談所は、二軒隣です」
「私が結婚したい相手は、あなたです」
「お断りします」
即答だった。
ルシアンは胸を押さえた。
「少しくらい考えてください」
「考える時間にも料金が発生します」
「私は王太子ですよ」
「知っています」
「容姿も、それほど悪くはないと思うのですが」
エレナは改めてルシアンを眺めた。
金色の髪。青い瞳。整った鼻筋。長身で、剣の腕も立つ。
「確かに、観賞用としては悪くありません」
「観賞用」
「ただし、絵画と違って食費がかかります」
「王太子の価値を、維持費で判断しないでください」
「では、ほかに何で判断するのです?」
「性格や誠実さなど」
「目に見えません」
「私の愛情も?」
「なおさらです」
ルシアンは深く息を吐いた。
それでも諦めなかった。
彼は小さな箱を取り出した。
中には、大粒の青い宝石がついた指輪が入っている。
「私と結婚していただけませんか」
エレナは指輪を持ち上げ、灯りへ透かした。
「この指輪は、私の個人資産になりますか?」
「もちろんです」
「婚姻後も、相談屋を続けられますか?」
「あなたが望むなら」
「私の財産は、王家のものとは分けて管理します」
「認めます」
「リュシアから逃れてきた人々への支援も続けます」
「王家からも支援しましょう」
エレナは初めて、指輪からルシアンへ視線を移した。
「王家の帳簿も見せていただけますか?」
「結婚の条件に、帳簿の閲覧を求めるのですか?」
「王家の財政を確認せずに結婚するなど、崖の上に家を買うようなものです」
「我が国の財政は健全です」
「父も同じことを言っていました」
ルシアンの表情が変わった。
エレナは指輪を箱へ戻した。
「私は、王家の言葉を信用しません。悪意があるからではありません。王族は、自分が知らないことすら知らない場合がある」
かつての父王も、そうだった。
国民を愛していた。
娘を愛していた。
だが、自分の国庫が空であることを知らなかった。
愛情が嘘だったわけではない。
ただ、愛情だけでは国を守れなかった。
ルシアンはしばらく黙っていた。
「分かりました。帳簿もお見せします」
「本当に?」
「あなたが私の隣に立つために必要だと言うなら」
「私が帳簿の不正を見つけても?」
「正してください」
「王家の無駄遣いを削っても?」
「……正当なものなら」
「王太子の小遣いも?」
ルシアンは迷った。
エレナは指輪の箱を閉じた。
「分かりました」
ルシアンは慌てて言った。
「それも認めます」
「よい判断です」
「この言葉を聞くのは、三度目ですね」
「殿下は少しずつ成長しています」
三日後、ルシアンは約束した内容を記した婚姻契約書を持ってきた。
エレナは、一字ずつ丁寧に確認した。
相談屋の継続。
個人財産の独立。
リュシアの民への支援。
王家の帳簿を確認する権利。
すべて、約束どおりに記されている。
最後の頁には、ルシアン自身の文字で一文が加えられていた。
エレナの知恵と自由を尊重し、彼女が二度と故郷を失うことのないよう、共に国を守る。
エレナは、しばらくその一文を見つめた。
「これは?」
「私が加えました」
「具体的な金額が書かれていません」
「愛情を金額で示すのは難しいのです」
「そうですか」
エレナはもう一度、文章を読み返した。
それから、契約書へ署名した。
「では、婚約をお受けします」
「本当ですか!」
ルシアンは喜びのあまり、エレナの手を取った。
そして、その甲へ口づけようとした。
しかしエレナは、彼の手から素早く何かを抜き取った。
「今、何を?」
「袖口から金貨が落ちそうでした」
袖口に隠されていた金貨をエレナは光に透かし、うっとりと微笑んだ。
ルシアンがこれまで見たことのない、心から幸せそうな笑顔だった。
「……私には、そんな顔をしてくれませんね」
「殿下も純金になれば、考えます」
机の上で、クローネが金貨へ前脚を伸ばした。
「猫まで金貨を選ぶのですか」
「私の猫ですから」
◇
こうして、亡国の王女エレナは、大国の王太子ルシアンと婚約した。
ルシアンはエレナを深く愛し、エレナは王国の財政を深く愛した。
数年後、ルシアンが国王となると、エレナは王妃でありながら、財務大臣の座まで手に入れた。
彼女は王家の帳簿を一冊残らず調べ、不正な支出を削り、複雑だった税制度を整理した。
無駄な宴会は減らされ、役人の横領は消え、滞っていた兵士の給金は、必ず期日に支払われるようになった。
リュシアから逃れてきた人々には新しい仕事と住居が与えられた。
かつて金の不足によって祖国を失った王女は、二度と同じ理由で国を滅ぼさなかった。
その結果、王国はかつてない繁栄を迎えた。
ただし、国王個人の小遣いだけは、毎年少しずつ減らされた。
「エレナ」
ある日、ルシアンは差し出された予算書を見て、悲しそうに顔を上げた。
「今年も、私の小遣いが減っているのですが」
「昨年、必要のない剣を三本も購入しましたね」
「一本は観賞用です」
「剣は斬るためのものです。観賞するなら、以前お渡しした請求書をご覧ください」
「あれを眺めて楽しいのは、あなたくらいです」
「数字は美しいですよ」
エレナは真顔で答えた。
「それに陛下は、私さえいれば幸せなのでしょう?」
「もちろんです」
「では、お金など必要ありませんね」
「その理屈は、おかしくありませんか?」
エレナは返事をせず、国庫から届いた金貨を一枚ずつ数え始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
隣で嘆く美貌の国王よりも、積み上がっていく金貨の輝きのほうが、今日も彼女の心を強くときめかせていた。




