第8話 魔の森でのBBQ大会と推しの「あーん」
王太子から届いた、あまりにもふざけた手紙。
それを読んだ瞬間、馬車の中の空気は本気で氷点下まで下がった。
クライヴ様の手の中で、王家の紋章入りの封書がピキピキと音を立てて凍りついていく。
白い霜が走り、最後にはまるで薄い氷細工のようになっていた。
「王都の連中は、喧嘩を売る文面にも才能がないらしい」
低く落ちた声は静かだった。
静かなのに、めちゃくちゃ怖い。覇気が漏れすぎて馬車の窓ガラスにヒビが入りそうだ。
私は隣でちんまりと座りながら、内心で盛大に頷いた。
(いや本当にそう! 何その“戻ってきたら側室にしてやる”って! 誰が行くかボケ! むしろこっちは溺愛バグ発生中の正妻なんですが!? というか推しの隣が私の指定席なんですが!?)
心の中の限界オタクはペンライトをへし折って荒ぶっていたが、今のクライヴ様の機嫌をこれ以上悪化させるのは得策ではない。
私は慎重に口を開いた。
「ええと……その手紙、どうなさいますか?」
「燃やす」
「即決」
「正確には、燃やす価値もない」
言いながらクライヴ様が手に力を込めると、凍りついていた手紙はパキンッ! と砕け、白い粉雪みたいに散った。
王太子の尊大な命令文、これにて完全終了である。ざまぁ。
しかし、問題は手紙そのものではない。
それを受け取ったクライヴ様の機嫌と、王都の動きだ。
館へ戻ってからも、クライヴ様はいつも以上に無口だった。
表情は変わらない。けれど、執務室の温度がなんだか妙に低い。比喩ではなく物理的に。書類を届けた侍従が途中で一枚凍らせかけたほどである。怖い。
私はこっそりレオンハルト団長へ尋ねた。
「団長、このままだと執務室が冷凍庫になりませんか?」
「なりますね」
「対策は?」
「いつもなら私が諫めます」
「今は?」
「手紙の内容を読んだ時点で、私も一度王都を物理で更地にしたくなりましたので、放置しています」
「レオンハルト様まで過激派に!?」
生真面目な彼から珍しくドス黒い本音が漏れていた。
でもわかる。あの文面、辺境に喧嘩を売るには十分すぎる内容だった。
私はしばし考え、ポンッと手を打った。
「こういう時は、美味しいものです!」
「……はい?」
「気分が荒れている時には、肉です。あと火と外気です。つまり、BBQです!」
レオンハルトが真顔になった。
「びーびーきゅー……とは?」
「お外で新鮮なお肉を豪快に焼いて食べる、人類最高の催しです」
「……閣下が乗られるでしょうか」
「乗らせます!」
推しのメンタルケアと健康管理のためなら、私は全力で乗せる。
◇ ◇ ◇
かくして翌朝。
私は執務室へ突撃した。
「クライヴ様!」
勢いよく扉を開けた私に、書類の山の向こうから黄金の瞳が向けられる。今日も顔がいい。機嫌はたぶんまだ微妙。
「どうした」
「森へ行きましょう!」
「……は?」
「食材調達です!」
クライヴ様が沈黙する。
背後のレオンハルトは深く目を閉じた。たぶん「また奥様の突飛な行動が始まった」と思っている。
私は気にせず続ける。
「王都のことは放っておいて、まずは美味しいものを食べるべきです! 怒りは胃に悪いですし、何より気分転換が必要です! 辺境には『魔の森』があるのでしょう? でしたら、絶対に新鮮で最高級の食材(お肉)が採れるはずです!」
「……魔の森を、近所のスーパーみたいに言うな」
「スーパー……?」
「市場だ」
クライヴ様は呆れたように目を細め、やがて椅子から立ち上がった。
「……まあいい。お前を連れて領地の外縁を見せるつもりではいた」
「やったー!」
「ただし、森は危険だ。俺のそばから片時も離れるな」
「はいっ!」
こうして、王太子の失礼極まりない手紙によって荒れかけた空気は、なぜか「夫婦で魔の森へ食材調達ピクニック」という謎の方向へ着地した。
我ながら発想が雑だが、推しとお出かけできるのだから結果オーライである。
◇ ◇ ◇
魔の森は、街のさらに外れに広がっていた。
昼だというのに木々は深く生い茂り、地面には分厚い苔、空気はひんやりと湿って薄暗い。鳥の声は聞こえず、代わりに時折どこかで、低く唸るような獣の咆哮が響いた。
いかにも「推奨レベル80以上の危険地帯」です、と言わんばかりの雰囲気である。
私とクライヴ様、そして護衛としてレオンハルトと数名の騎士が同行していたが、皆どこか緊張していた。
「奥様、決して我々から離れませんよう」
レオンハルトが剣の柄に手をかけながら念押しする。
「はい。ちゃんとわかっています」
私だって危険なのは理解している。
だが、オタクとしては別の意味でわくわくしていた。
(ゲームで何度も見た魔の森……! 本物だ……! 背景CGで見たことのある巨木! あそこ、隠し素材が採れた薬草の群生地っぽい場所じゃない!?)
オタク心が激しく刺激されるが、今日は推しとのお出かけ兼食材調達なのだから自重せねば。
そう思っていた、その時だった。
ガサリ、と前方の茂みが大きく揺れた。
騎士たちが一斉に剣を抜く。私もぴたりと足を止めた。
次の瞬間、茂みを割って姿を現したのは――巨大な狼型の魔物だった。
肩までの高さが成人男性の胸あたりまである。牙は短剣みたいに鋭く、黄色い目がぎらぎらと光っている。どう見ても遭遇したくないタイプ(アクティブモンスター)だ。
「閣下!」
騎士たちが構える。だがクライヴ様は片手を軽く上げて制した。
「下がれ」
短い一言。
狼型魔物は低く唸りながら、こちらを睨んでいる。
けれど私は、その瞬間ふと違和感を覚えた。
あれ? 魔物、私を見た途端にちょっとたじろいでない?
次の瞬間、その予感は確信へ変わった。
狼型魔物が、ふんっ、と鼻を鳴らし――その場でゴロン、と仰向けになって腹を見せたのだ。
「…………」
「…………」
森が静まり返る。
騎士たちも、レオンハルトも、私も、魔物自身ですら一瞬「え?」みたいな空気になった。
そして狼型魔物は、ちぎれんばかりに尻尾をパタパタと振り始めた。
「えっ」
「えっ、降伏ですか?」
くぅ~ん、と大型犬が甘えるような鳴き声が返ってくる。
後ろで騎士の一人が震える声で呟いた。
「ありえない……」
「凶暴な魔の森の牙狼が、腹を見せるなど……」
「閣下の覇気か?」
「いや、明らかに向いてるの奥様の方では……?」
全員の視線が私に集まる。
私は数回瞬きをしてから、ようやく理解した。
(……あっ。これ、私の【浄化】チートのせいだ)
浄化の力は呪いや瘴気だけでなく、“悪いもの”や“荒ぶったもの”を強制的に鎮める性質がある。
つまり、瘴気が濃くて空気が淀んでいる魔の森においては、私自身が『超強力な歩くマイナスイオン発生器』みたいなものなのだろう。
魔物にとっては、突然めちゃくちゃ気持ちいい空気の塊が歩いてきた感じなのかもしれない。
……なるほど。そりゃお腹も見せる。
クライヴ様が呆れたように私を見た。
「お前」
「はい」
「やはり規格外だな」
「えへへ」
「褒めてはいない」
「でもちょっと呆れながらも『うちの妻はすごいな』って顔してますよね?」
クライヴ様は何も言わなかった。
ただ、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
その後もすごかった。
茂みから飛び出してきた凶悪な角付きの鹿型魔物は、私を見た瞬間に前足を折って平伏した。
木の上から襲いかかろうとした巨大な猿型魔物は、途中でぴたりと止まり、なぜか新鮮な木の実を献上してきた。
遠くから威嚇していた巨大な毒蛇に至っては、シュルシュルと後退してそのまま巣へ帰っていった。
「魔の森が、平和だ……」
「こんなことが……」
「奥様、やはり女神なのでは?」
騎士たちがざわつく中、私は複雑な気分で森を進んだ。
いや、安全なのはいい。でもちょっとだけ、ゲームで見た“危険な魔の森”の緊張感が台無しである。
そんな中、クライヴ様がふと立ち止まった。
「いたな」
低い声に、皆が前方を見る。
そこには、黒い毛並みに銀の筋が入った巨大な『猪型』の魔物がいた。普通の猪の三倍はある。筋肉の盛り上がりが鎧みたいだ。地面を踏むだけでズシンと響く。
だが何より私の目を引いたのは、その圧倒的な肉付きだった。
(でかい……そして絶対に美味いやつだ……!!)
前世の社畜知識と料理人の勘が告げていた。
あれは最高級の霜降り肉だ。間違いない。
私の目がギラリと輝いたのを見て、クライヴ様が問う。
「欲しいのか」
「はいっ!!」
即答だった。
「すごく美味しそうです!!」
「美味そう、で判断するな」
呆れつつも、クライヴ様はすでに一歩前へ出ていた。
「下がっていろ」
「はい!」
魔猪がこちらに気づき、鼻息を荒くする。地面を蹴り、今にも突進してきそうだ。
けれど、その次の瞬間。
クライヴ様がほんのわずかに魔力を解放した。
空気が、ビリッ! と震える。
それだけで、魔猪の足が止まった。ギュルル、と喉を鳴らし、前脚を折りかけるが、さすがに格が高いのか踏みとどまって威嚇する。
「へえ」
クライヴ様の黄金の瞳が細められる。
「少しは骨があるな」
そう言った次の瞬間には、勝負は終わっていた。
クライヴ様の姿が、ブレた。
本当に一瞬だ。目で追う暇もない。
気づけば彼は魔猪の懐へ潜り込み、その首筋へ正確に一撃を叩き込んでいた。剣ではない。手刀だ。
たったそれだけで、魔猪は巨体をぐらりと傾け、そのままドォォン! と地面へ倒れ伏した。
「……うわぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。
速い。強い。美しい。動きに一切の無駄がない。
推しの戦闘シーン、生で見るとこんなに破壊力があるのか。
(かっこよ……ッ)
内心で拝んでいると、クライヴ様がこちらを振り返った。
「これでいいか」
「最高です!!」
勢いよく返事をすると、騎士たちの間から微妙な笑いが漏れた。でも仕方ない。だって本当に最高だったのだから。
◇ ◇ ◇
そして、ここからが本日の本番である。
森の開けた安全な場所へ移動し、騎士たちが手際よく火を起こす。
解体された魔猪の肉は、見た瞬間にわかった。
完璧な霜降りだ。
赤身に細かく入った脂。鮮やかな色艶。しかも私の【浄化】のおかげで、魔物特有の嫌な臭みが完全に消え去っている。
「勝った」
私は思わずガッツポーズをした。
「何にだ」
「本日のBBQ大会にです!」
騎士たちが串を打ち、鉄板を準備し、私は塩と香草でシンプルに下味をつけていく。こういう良い肉は、凝りすぎない方がいい。
じゅわぁぁっ、と肉が焼ける音が森に広がった。
脂が落ちて火が爆ぜ、暴力的なまでに香ばしい匂いが一気に漂う。
それだけで騎士たちの目の色が変わった。
「……たまらん」
「匂いだけで美味い」
「まだ食べてないのに、すでに美味い」
わかる。この匂いは人類の正義だ。
私はこんがりと焼き上がった一枚を切り分け、まずはクライヴ様へ差し出した。
「どうぞ!」
クライヴ様はそれを受け取り、一口。
次の瞬間、わずかに目を見開いた。
「……うまいな」
「でしょう!」
「肉自体もいいが、焼き方が絶妙だ」
「えへへ」
推しに褒められた。森の中だけど今ここに神殿を建てたい。
騎士たちにも次々と配ると、あちこちから歓声が上がる。
「うっま!?」
「何だこれ、舌の上で溶けたぞ!」
「脂が甘い……!」
「今まで俺たちが食ってた干し肉は靴底だったのか……!」
大盛況だった。
レオンハルト団長でさえ、表情こそ崩さないものの、食べる速度が明らかにおかしい。二枚目へ行く速度が残像を引いている。
そして私も、自分の分をようやく一口――と思った、その時。
「ルシアナ」
「はい?」
振り向くと、クライヴ様が焼きたての肉を一切れ、串の先に刺したままこちらへ差し出していた。
「口を開けろ」
「……はい?」
「お前もまだ食べていないだろう」
つまり。
これは。
推しからの『あーん』というやつでは?
私の思考がフリーズする。
背後で肉を頬張っていた騎士たちもフリーズする。
レオンハルト団長はスッと目を閉じた。たぶん「また閣下の奇行(溺愛)が始まった」と思っている。
「な、な、なにを」
「食べさせる」
「そ、それは見れば理解できます!」
「なら口を開けろ」
命令口調なのに、声が甘すぎる。こんなの心臓が爆発する。
「わ、私は自分で食べられますので!」
「俺が食べさせたい」
「そういう問題ですか!?」
「そういう問題だ」
ド真顔だった。
しかも焼きたての肉を持つ手は微動だにしない。逃げ道がない。
周囲の視線が痛い。でもここでごねて、せっかくの最高級肉を冷ますのももったいない。何より、クライヴ様が本気で“私に食べさせる気”でいるのがわかってしまった。
私は羞恥で耳まで茹でダコのように真っ赤になりながら、観念した。
「…………あ、あーん……っ」
言った。言ってしまった。
その瞬間、騎士の誰かが小さく「うわぁ、あっま」と呟いた。気持ちは死ぬほどわかる。
クライヴ様は満足そうに目を細めると、肉をそっと私の口元へ運んできた。
ぱくり。
焼きたての魔猪肉は、信じられないほど柔らかかった。
噛めばじゅわっと肉汁が広がり、脂はくどくなく甘い。香草と塩の加減も完璧で、火入れも最高。
なにこれ、美味しすぎる。
「……おいしい……!」
「そうか」
クライヴ様の声が、少しだけ得意げだった。
だめだ。肉の圧倒的な美味しさと、推しからの『あーん』の破壊力で、脳の処理能力が完全に限界を迎えている。
(無理無理無理無理……! 森の中でBBQしてるだけなのに、何でこんな高火力ラブイベント発生してるの!? しかも推しの“あーん”って何!? 前世の私、地球でも救ったの!?)
気づけば私は、羞恥と幸福で顔から火が出そうになっていた。
クライヴ様はそんな私を見て、ふっと喉の奥で笑う。
「そんなに照れることか」
「照れます!」
「夫婦だろう」
「それはそうですが! 場所と人目というものが!」
「なら問題ない」
ある。大いにある。
でも、彼の中では『妻を甘やかすこと』において、周囲の目など一切問題ないのだろう。
騎士たちは何とも言えないニヤニヤ顔で肉を食べ、レオンハルトは遠い目をしながら胃のあたりをさすっていた。
たぶん今日も強力な胃薬が必要だ。
こうして魔の森での食材調達は、危険地帯とは思えないほど平和に、そしてひどく甘ったるく幕を閉じた。
……ただ一つ、気になることがあるとすれば。
帰り際、森の奥からこちらを窺うような、ひどく大きな“何か”の気配を感じたことだった。
それは他の魔物たちとは比べものにならないほど濃く、重く、けれどどこか奇妙に惹かれるような視線だった。
私が思わず足を止めると、クライヴ様がすぐに肩を抱き寄せる。
「どうした」
「……今、何か」
けれど視線を向けた先には、ただ深い森の闇が広がっているだけだった。
「気のせいかもしれません」
「ならいい。だが、次に来る時は俺から絶対に離れるな」
「はい」
そう答えながらも、胸の奥には小さな予感が残った。
この森の奥には、まだ何かがいる。しかもそれは、私の【浄化】に強く引かれている気がした。
――そしてその予感は、そう遠くない未来に、もふもふでとんでもなく巨大な『伝説級』の来訪者という形で現実になるのだった。




