第5話 王都の異変と蛙の兆候
その頃、王都では。
「まあ、なんて清々しい朝なのかしら!」
王城でもっとも日当たりの良い客間で、リリアン・フォン・ローゼンクロイツはほくほく顔でカーテンを開け放った。
昨日は実に良い一日だった。
何しろ目障りだった義姉・ルシアナがついに断罪され、しかも本来の『国外追放』の筋書きよりずっと派手な『処刑コース』へ叩き込まれたのだ。
途中で帝国最強の怪物とかいう辺境伯が乱入して彼女を連れ去るというイレギュラーはあったが、あんな呪われた悪鬼の巣窟に連れて行かれたところで、どうせ一生怯えて暮らすか、呪い殺されるかの二択に決まっている。
つまり、勝ったのだ。リリアンの完全勝利である。
これで今後は、王太子殿下の愛する婚約者として、そして国を救う唯一無二の『聖女』として、王都の中心でちやほやされる未来しかない。
そう、未来は薔薇色。世界は自分のために用意された舞台だ。
「うふふ……お姉様ったら、本当にお馬鹿。最初から私に逆らわなければよかったのに」
リリアンは姿見の前に立ち、自分の頬にうっとりと指先を添えた。
淡い桃色の髪。潤んだ大きな碧眼。華奢で守ってあげたくなる体つき。
完璧。まさに聖女にふさわしい可憐さだ。
昨夜の断罪劇を思い出して、くすくすと笑う。
階段から落ちた? ドレスを切り裂かれた? 教科書を池に捨てられた? 呪いをかけられた?
全部、もちろん嘘(自作自演)である。
けれど、周囲は簡単に信じた。少し涙を見せ、震える声で「お姉様が怖いのです」と言えば、それだけで馬鹿な男たちは皆、ころりと騙される。
特に王太子アルフォンスなど、もはや掌の上で転がすだけのチョロい玩具でしかない。
「リリアン! 起きているかい?」
噂をすれば、である。
軽いノックの後、金髪碧眼の王太子が今日も今日とて無駄に自信満々の顔で入ってきた。
「殿下!」
リリアンはぱっと花が咲くような笑顔を作ると、急いで彼のもとへ駆け寄った。もちろん、一番か弱く見える角度と歩幅は計算済みである。
「昨夜はとても怖かったですわ……でも、殿下が守ってくださったおかげで、私……っ」
「当然だとも!」
アルフォンスはふんぞり返って胸を張った。
「君のようなか弱い聖女を守るのは、未来の国王たる僕の役目だからね! それにしても、あのルシアナめ。僕の婚約者の座にしがみつくためにあれほど醜く足掻くとは、まったく見苦しい女だった!」
(しがみついてたのは殿下の方じゃないの?)
と、内心で毒づいたが口には出さない。男の安い自尊心をくすぐり、気持ちよくさせておくのが最も扱いやすいのだ。
「でも、お姉様も少し可哀想ですわ。きっと、私が愛されるのが羨ましかっただけで……」
「なんて優しいんだ、リリアン! あのような毒婦をなお気遣うとは、まさしく聖女の慈愛!」
アルフォンスは感動したようにリリアンの手を取った。
単純。チョロすぎる。
リリアンは内心でほくそ笑みつつ、ふと窓の外を見やった。
王都の空は、どこか妙にどんよりとしていた。朝だというのに薄暗い雲が垂れ込めている。
「……いやですわ。今日はお天気が悪いのかしら」
「ふん、気のせいだろう。君がここにいる限り、この国は安泰さ!」
何の根拠もない断言だったが、リリアンにはどうでもよかった。
「それより殿下。今日は新しく仕立てたドレスを着たいのです。お茶会で皆様に、未来の王太子妃としてふさわしい姿を見せませんと」
「もちろんだとも! 王都中の貴族たちに見せつけてやろう。聖女たる君こそが、僕の真の婚約者だとな!」
リリアンは満足げにうなずいた。
そう。今日からは、誰もが自分を中心に回る。ルシアナという鬱陶しい影は、もういないのだから。
――そのはずだった。
「きゃああああああっ!?」
数十分後。
ドレスに着替えようとした侍女の絶叫が、部屋いっぱいに響き渡った。
「何よ、朝からうるさいわね!」
リリアンは苛立って振り返り――そして、目を疑った。
侍女が両手で恭しく持っていたはずの新作ドレスが、ぼろり、と音を立てて崩れ落ちたのだ。
純白の最高級シルクだったはずの生地は、まるで何十年も沼底に沈んでいたかのように変色し、裂け、ところどころドス黒く腐っていた。美しい金糸の刺繍はほつれ、胸元にはカビのような茶色い染みまで浮いている。
「……は?」
リリアンは完全に思考が停止した。
「な、なにこれ……」
「も、申し訳ございませんリリアン様! さきほどお持ちした時までは、完璧な状態で……っ!」
「そんなわけないでしょ! 私のドレスに何をしたのよ!?」
ヒステリックに叫び、リリアンは怒りのまま床に落ちたドレスをつまみ上げようとした。
しかし、その瞬間。
――びちゃっ。
「……え?」
指先に、冷たくてぬめりのある感触が広がった。
見ると、変色した生地の一部が、ぐずぐずに溶けて泥のようになっていたのだ。
「いやああああっ! 何これ、何これぇっ! 気持ち悪い!!」
慌てて手を振るが、ドブのような臭いのする泥の汚れは、余計に指へ絡みつくだけだった。
「ど、どういうことだ……?」
「知らないわよ! こんなの、絶対おかしいじゃない!」
怒鳴り散らした、その時だった。
ずきん、と。
右頬に、鋭い痛みが走った。
「っ!」
思わず頬を押さえる。
熱い。ひりひりする。まるで皮膚の内側から何かがじわじわと這い出してくるような、強烈な不快感。
「リリアン? どうした?」
「わ、わからない……急に、顔が……鏡! 鏡を持てぇっ!!」
侍女が慌てて姿見を向ける。
そこに映った自分の顔を見て、リリアンは息を呑んだ。
白く滑らかだった右頬に、ぽつり、と小さな『緑の痣』が浮かんでいたからだ。
いや、痣というより――斑点。
気味の悪い、緑色のまだら模様。
「な、に……これ……」
指でゴシゴシと擦るが、取れない。化粧の汚れではない。皮膚そのものに浮かび上がっている。
「いや……いやよ、こんなの……!」
昨日まで完璧だった顔に、こんな醜い染みができるなんてありえない。しかも色が最悪だ。緑。どう見ても病気か、呪いみたいではないか。
……呪い?
その単語が脳裏をよぎり、リリアンはぶるりと身を震わせた。
まさか。そんなはずはない。呪いをかけられたことにしたのは、自分の方だ。本当に呪われるいわれなどない。
けれど頬のひりつきは増していくし、鏡の中の斑点は、確実に少しずつ濃く、大きくなっている。
「殿下……! な、治癒魔法を! 早く神官を!!」
大騒ぎの末、王城付きの高位神官が何人も呼ばれた。
だが、結果は散々だった。
「……申し訳ありません。原因が不明です」
「毒でも病でもなく……通常の治癒魔法は完全に弾かれます」
「浄化の光も通りません」
「はあ!? そんなわけないでしょ無能!!」
リリアンは半狂乱で叫んだ。
「私は聖女なのよ!? こんな変な痣一つ、すぐ消えるはずじゃない!」
神官たちが困惑して顔を見合わせる中、アルフォンスが焦ったように言う。
「そ、そうだ! リリアン、君自身の『聖女の力』で治せばいいじゃないか!」
その言葉に、リリアンの顔が引きつった。
まずい。非常にまずい。
なぜなら、彼女の“聖女の力”など、ただの『少し人を魅了するだけの紛い物』だからである。大層な浄化や治癒など、最初から使えないのだ。
しかし、ここで「できません」とは言えない。
「も、もちろんできますわ……! 少し、少しだけお時間を……!」
リリアンはその場を誤魔化すように引きつった笑みを浮かべ、再び鏡の前へ座った。
よし。消せないなら隠せばいい。
幸い、海外の商人から取り寄せた王都最高級のファンデーションがある。少し厚めに塗れば、この程度の斑点などどうとでもなる。
「早くそれを貸しなさい!」
侍女からひったくるように小瓶を奪い、蓋を開ける。
いつもの上品な花の香りが、何故かしない。
不審に思いつつも、中身を指先ですくい取る。
その瞬間。
――びちゃり。
指先から、茶色い液体が滴った。
「…………え?」
とろり、と。
高級ファンデーションだったはずの中身が、どろりと濁った『泥水』に変わっていた。
しかも、ドブと生ゴミを混ぜたような強烈な悪臭を放っている。完全に泥である。
「いやああああああっ!?」
リリアンは悲鳴を上げて瓶を投げ捨てた。
割れた瓶から泥水が絨毯にべしゃりと広がる。
「なんで!? なんでよ!? さっきまで普通だったじゃない!!」
「別のを持ってきなさい! 全部よ! 全部開けて!!」
侍女たちが泣きそうになりながら、手持ちの高級化粧品を片っ端から開封していく。
だが。
二つ目も、泥。
三つ目も、泥。
四つ目も五つ目も、口紅も香水も――全部、悪臭を放つ泥水だった。
王都で最高品質を誇る化粧品が、見事なくらい一つ残らず泥に変わっていく。
その光景は、もはや喜劇を通り越して悪夢だった。
「なんでよぉぉぉぉ……!!」
リリアンはとうとう床に崩れ落ちた。
鏡の中では、頬の緑の斑点が一つから二つ、二つから三つへと増殖している。しかも形が不規則で、妙にブツブツとした湿った質感まで出てきた。
アルフォンスが青ざめた顔で後ずさる。
「り、リリアン……君の顔……」
「見ないで!!」
金切り声が部屋に響いた。
「見ないで見ないで見ないで! 私は聖女なの! 私はもっと可愛くて、完璧で……っ!」
しかし現実は残酷である。
鏡の中の少女は、可憐な聖女というより、どこかぬめっとした異様さを漂わせ始めていた。
とくに頬の斑点は、見れば見るほど――。
――カエルの皮膚みたいだった。
(うそ……まさか……っ)
脳裏に蘇るのは、昨日、自分がルシアナへ向けて吐いた嘘の数々。
あれは全部、他人を陥れるための演技だった。
なのに今、自分の顔に浮かんでいるこれは、まるで“本物の呪い返し”ではないか。
「で、殿下……これ、何かの間違いですわよね……?」
リリアンは震える声でアルフォンスにすがった。
「も、もちろんだとも! そ、そうだ! きっとルシアナだ! あいつが辺境伯と組んで、君に呪いをかけたんだ!」
アルフォンスは恐怖から逃れるように、すべてをルシアナのせいにした。
リリアンの目がぱっと開く。そうだ。そういうことにすればいい。自分が嘘をついたツケが回ってきたなんて、絶対に認めたくない。
「そ、そうですわ! きっとお姉様が……!」
「安心しろ、リリアン! たとえ辺境へ逃げたとしても、僕が必ず連れ戻して、あいつにこの呪いを解かせてやる!」
リリアンは胸を撫で下ろしかけた。
その時。
ぴくり、と。喉の奥が妙に震えた。
「リリアン?」
「だ、大丈夫ですわ……ただ少し、喉が……」
言い終えた瞬間、喉の奥から、自分でも信じられない奇妙な音が漏れた。
「……ゲコッ」
部屋が静まり返った。
リリアン本人が一番固まった。
「い、今のなし! 今のは違いますわ!」
慌てて言い直そうとする。だが焦れば焦るほど、喉の痙攣は止まらない。
「わ、私、そんな変な声――ゲコッ」
「…………」
「ち、違いますの! これは、その、咳ですわ! ゲホ、ゲコッ!」
アルフォンスがひっ、と短い悲鳴を上げて後ずさった。
侍女たちは必死に顔を伏せているが、肩が小刻みに震えている。絶対に笑いを堪えている。
リリアンは真っ青になって口元を両手で塞いだ。
頬にはカエルのような緑の斑点。
高級化粧品はすべて悪臭を放つ泥水。
そして極めつけは、自分の口から漏れる「ゲコッ」。
最悪だ。最悪すぎる。こんなの聖女どころか、ただの気持ち悪いカエル女ではないか。
「ルシアナァァァァ……!!」
リリアンは鏡台に爪を立て、憎しみに顔を歪めた。
「お姉様のせいよ……! ゲコッ! 絶対に、絶対に許さない……ゲコォッ!」
しかし、鏡に映ったその顔は、もはや誰がどう見ても“可憐な聖女”ではなかった。
むしろ、これまで散々嘘をつき、人を呪ってきた報いを受けた醜い生き物そのもの。
王都に、いや、リリアンとアルフォンスの未来に、破滅という名の不吉な影が差し始める。
これがまだ『地獄の始まり』にすぎないことを、この時の二人は知る由もなかった。




