第39話 慰安旅行での極甘な夜
温泉宿の夜は、ひどく静かだった。
お祭り騒ぎの館にいる時のような人の気配も、広場から聞こえる狂乱の賑わいもない。
遠くで湯が岩を打つ音と、時折、冬の冷たい風が木々を揺らす音だけ。
その静けさが、逆に私の心臓へ悪かった。
だって私は今、大好きなクライヴ様と完全に二人きりで、火照った湯上がりで、しかも“今日が終わるのがもったいない”なんて乙女ゲーのヒロインみたいな台詞をうっかり口走ってしまったのだ。限界オタクの羞恥心が爆発しそうである。
客間の暖炉の火が、パチリ、と小さく爆ぜて鳴る。
私は座椅子へ腰かけたまま、隣に座るクライヴ様の広い肩へ、そっと頭を預けていた。
さっきは自然にできたことなのに、今さらになって急に意識してしまう。
近い。
とても近い。心音まで聞こえそうだ。
でも、絶対に離れたくない。
「……ルシアナ」
低く、甘く響く声が、すぐ上から落ちる。
「はい……」
「眠くないのか」
「少しだけ、温泉の余韻でぼんやりしてるだけです」
「そうか」
短い返事。
そのあと、クライヴ様の大きく少し硬い指先が、私の髪をそっと優しく梳いた。
ビクリ、と私の肩が揺れる。
「ッ」
「痛かったか」
「いえ、違います」
「ならいい」
よくない。
全然よくない。
不器用でやさしい手つきひとつで、こんなに簡単に限界オタクの心臓が限界突破するの、いまだにどうかと思う。
けれどクライヴ様は、そんな私のバクバクしている内心など完全に見透かしているみたいに、ゆっくりと髪へ触れ続けた。
撫でる、というほど大げさではない。
ただ、絡まった毛先を丁寧にほどくような、たまに耳の後ろへ流すような、そんな静かで熱を帯びた触れ方。
それが余計にだめだった。理性がトロトロに溶かされていく。
「……クライヴ様」
「なんだ」
「今日、すごくやさしいです」
「俺はいつだってお前に優しいつもりだが」
「それはそうなんですけど……」
私はモゴモゴと言葉を探す。
「いつもより、静かというか……過保護のベクトルが違います」
「お前を心身ともに休ませたいからな」
そのド直球の答えがあまりにも自然で、胸の奥がジンッと熱くなる。
私は少しだけ顔を上げ、彼を見上げた。
暖炉の赤い光を受けた国宝級の横顔は、昼間よりもずっと柔らかく、大人の色気を纏って見える。
いつも鋭い黄金の瞳も、今は少しだけトロンとしていて、真っ直ぐに見つめられると息が詰まりそうになる。
「……そんな無防備な顔で、俺を見上げるな」
クライヴ様が、一段と低く掠れた声で言った。
「本当に、ただ休ませるだけで済むか怪しくなる」
「ッ……!」
だめだ。火力がエグい。
私は反射的に茹でダコになって視線を逸らした。
でも逃げきれない。クライヴ様の腕の中にすっぽり収まっている時点で、もう距離は数ミリもないのだ。
「ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「その……あまりにも顔が良くて、見とれてしまって……」
「なら見ろ」
「え?」
「お前はもっと、ずっと俺だけを見ていろ」
その言い方がズルい。
絶対的な命令みたいなのに、声がとろけるように甘い。
拒めないように言うの、本当にこの人は上手すぎる。たぶん無自覚なんだろうけど、だから余計にタチが悪い。
私はおそるおそる、もう一度クライヴ様を見た。
熱い瞳と目が合う。
その瞬間、空気がスッ……と濃密に変わった気がした。
静かな夜。あたたかい部屋。完全に二人きり。
何もかもが、今さらみたいに胸へ押し寄せてくる。
クライヴ様の指先が、今度は髪から私の火照った頬へ移った。
輪郭をなぞるように、そっと、愛おしげに。
「最近は、だいぶ無理をさせた」
「そんなこと……」
「ある」
低い声が落ちる。
「お前は、起きている間ずっと、辺境と俺のために全力で動いていた」
私は何も言い返せなかった。
だって、その通りだからだ。
魔法のミシン開発。
ウェディングドレス製作。
極上の祝宴料理のメニュー決め。
街のイルミネーション装飾。
避難民の受け入れ調整。
全部、自分がやりたくてやっていた。オタクのサガで、楽しくて、幸せで、止まれなくて。
でも、気づかないうちにHPもMPもギリギリまで張りつめていたのかもしれない。
クライヴ様は私の頬を親指で撫でたまま、静かに続ける。
「温泉へ連れ出して正解だった。強引にでも休ませてよかった」
「……はい」
「少しは、肩の力が抜けた良い顔をしている」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
「クライヴ様のおかげです」
「俺だけじゃない。温泉の効能だ」
「でも、旦那様が連れてきてくれたのが一番大きいです。最高のプレハネムーンです」
するとクライヴ様の目が、ほんの少しだけ照れたようにやわらぐ。
「……お前はそういうことを、ド真顔で簡単に言うな」
「簡単じゃないです」
私は小さく首を振る。
「限界オタクの魂からの、ちゃんとした本気の言葉です」
沈黙。
でも、今度の沈黙は重くなかった。
あたたかくて、砂糖菓子みたいに甘くて、ゆっくりと底なし沼に沈んでいくみたいな心地よい沈黙だった。
その中で、クライヴ様が私の顎へそっと長い指をかける。
「ルシアナ」
「はい」
「……もう少し、近くに来い」
それ以上近づいたら、もう物理的に完全にくっついてしまう。
でも私は、断れなかった。というより、一ミリも断りたくなかった。
私は小さく頷いて、座椅子から少しだけ身体をずらした。
次の瞬間、グイッ! と強引に腰を抱かれて、完全にクライヴ様の『膝の上』へ引き寄せられる。
「きゃっ」
「静かに」
「無理です、急にだから……ッ!」
でも、逃がす気なんて最初からないみたいに、私の腰に回された腕の力はガッチリと強固だった。
膝の上。完全にホールドされた形。
近いなんてものじゃない。彼の体温が直に伝わってくる。
私は真っ赤になりながら、でも手を置く場所に困って、そっとクライヴ様の広い肩へ触れた。
「……クライヴ様」
「なんだ」
「今、たぶん私、すごく変な限界の顔してます」
「していない」
「してますよ! 茹でダコみたいに!」
「していない」
「どっちですか!」
「世界一可愛い」
終わった。
私はそのまま、羞恥で爆発して額を彼の肩へ押しつけたくなった。
可愛いって。こんな時に、そんな国宝級のド真顔で。
「だめです……」
「何がだ」
「褒め言葉の火力が、対軍用レベルで高すぎます……」
「なら、もっと言うか」
「やめてください、ほんとに心臓が止まります!」
でも、クライヴ様は「フッ……」と少しだけ楽しそうに笑っただけだった。
そのまま、大きな手で私の背をゆっくり撫でる。
肩から、背中へ。
それから腰のあたりまで、落ち着かせるように何度も往復する。
「……ッ」
思わず、甘い吐息が漏れた。
触れ方はやさしい。やさしいのに、妙に熱くてゾクゾクする。
「凝っているな」
「え?」
「肩と背中が、ガチガチだ」
「……わ、わかります?」
「触れば一瞬でわかる」
そう言いながら、クライヴ様は少しだけ体勢を変えた。
「こっちを向け」
「はい?」
「背中だ。俺がほぐしてやる」
私は一瞬、きょとんとした。
それから、やっと理解する。
「……マッサージ、ですか?」
「ああ」
「えっ、帝国最強の辺境伯様が!?」
「何か問題あるか」
「問題というか、畏れ多すぎて贅沢すぎません!?」
「俺の妻なのだ。お前はもっと俺の腕の中で贅沢を覚えろ」
サラッととんでもない特権階級の発言をする。
でも、今の私はもう彼の体温と匂いでだいぶトロケかけていたので、素直に従うしかなかった。
私は膝の上でモゾモゾと体勢を変え、彼へ背を向ける形で座り直す。
その直後、肩へ大きくて熱い手が触れた。
「ひゃ……っ」
「そんなに驚くことか」
「だって、急に熱い手が……」
「嫌ならやめるが」
「嫌じゃないです!!」
即答だった。
その光の速さの返事に、背後でクライヴ様がほんの少しだけ息を吐く気配がした。
たぶん笑った。悔しい。完全に弄ばれている。
けれど、その次の瞬間にはもう、そんなオタクの意地を考える余裕は完全に消え去っていた。
クライヴ様の指が、肩の限界までこわばった部分を、精密機械のように正確に捉えたからだ。
「ッ、あ……」
「ここか」
「そ、そこ、です……っ」
「やはりな」
グッ、と絶妙な力がこもる。
痛い一歩手前。でも、そこが悶絶するほどちょうどいい。プロの整体師か。
「いたっ……でも、すごく気持ちいい……」
「……ルシアナ。そういう声と顔をするな」
「どういう顔ですか……?」
「俺の理性を激しく煽る顔だ」
「えっ」
驚いて振り向きかけた私を、クライヴ様の手がそっと、だが強く制した。
「こっちを見るな」
「どうしてですか」
「本当に、俺の我慢が利かなくなる」
低く、切羽詰まったような声だった。
背中越しなのに、その強烈な熱と情欲がハッキリ伝わってきて、私は一瞬で息を呑んだ。
だめだ。
マッサージのはずなのに、心臓には全然優しくない。エロい。
それでもクライヴ様の手は止まらない。
肩。首の付け根。背中。
限界まで凝っていた場所をひとつずつ、丁寧に、魔法のようにほぐしていく。
そのたびに、身体の奥に溜まっていた過労の泥が、ゆっくりと心地よくほどけていくのがわかった。
「……すごい」
私は思わず漏らした。
「何がだ」
「マッサージ、上手すぎます……」
「当然だ」
「当然なんだ……」
「お前の身体の隅々のことくらい、夫として完全に把握している」
その言い方。
ほんとうにズルい。ズルすぎる。
でも、もう反論する気力もなかった。
気持ちよくて、あたたかくて、身体の力が極限まで抜けていく。
そうして肩の力が完全にトロトロにほどけた頃、クライヴ様の手が、そっと私の髪を片側へ流した。
無防備になった首筋に、夜の空気が触れる。
「ッ……」
「ルシアナ」
「は、はい……」
「もう少し、こっちへ」
次の瞬間、私はまた後ろから、今度は逃げ場のないほど強く抱き寄せられていた。
背中が彼の広い胸へピタリと密着する。
太い腕が腰を完全にホールドする。
逃げ道なんて最初からない。でも、その腕の中は宇宙で一番安心する。
安心するのに、火傷しそうに熱い。
「……結婚式まで待てない」
耳元へ落ちたその一言で、私の思考が完全に真っ白になった。
「ッ」
「今すぐお前を全部攫って、俺以外誰も来ない場所へ永遠に隠し通したい」
「ク、クライヴ様……っ」
「お前が俺以外のもののために忙しそうにしているのを見るたび、そう思う」
「そ、それは……」
「わかっている。お前が望んで、領地のためにやっていることだ」
腕の力が、少しだけ苦しいくらいに強くなる。
「だが、それでも俺の独占欲は満たされん。全然足りん」
低くて、少しかすれた、余裕のない声。
普段の冷徹で完璧なクライヴ様とは、少し違う。
理性で必死に押さえ込んでいるのに、それでも滲み出てしまう強烈な熱と執着が、今夜はまったく隠しきれていなかった。
「ルシアナ」
名前を甘く呼ばれる。
それだけで胸が震える。
「はい……」
「お前は、俺をどうしたい」
「え……?」
難しいことを聞かれた気がして、私は少しだけ戸惑った。
でも、考えるまでもなく、私のオタクとしての、そして一人の女としての答えは一つだった。
「……ずっと、私のそばにいてほしいです」
声は、小さかったと思う。
でもちゃんと届いた。
クライヴ様の腕が、さらに私を深く、一つに溶け合うように抱き込む。
「それだけか」
「そ、それだけじゃないです」
「言え」
「……世界で一番、大事にされたいです」
「しているつもりだが」
「知ってます。毎日致死量です」
「なら」
「もっと」
私は勇気を出して、本音を言った。
「もっと、私を好きだって、独占してるって、わかるように激しくしてほしいです」
たぶん、それは限界を超えた、とても欲張りで大胆な言葉だった。
でも今夜は、ちゃんと口にしたかった。
だってクライヴ様は、私へいつだって真っ直ぐに、火傷するほどの言葉と行動をくれるから。
だったら私も、ちゃんと欲しいものを言っていいはずだ。
しばらく、重い沈黙があった。
そしてその後、クライヴ様が私をゆっくりと強引に振り向かせる。
目が合う。
近い。ひどく近い。
「……そんな我儘を言うなら」
低く、捕食者のような声が落ちる。
「朝までいくらでも、身の程を教えてやる」
その直後、唇が重なった。
優しくて、でも圧倒的に深く、強引なキス。
さっきまでの静かなやわらかさとは違う、明確な熱と情欲を帯びた口づけ。
私は目を閉じ、気づけば彼のシャツをギュッと強く掴んでいた。
額へ。
頬へ。
耳元へ。
そして無防備な首筋へ。
ひとつひとつ、自分の所有印を刻み込むみたいに熱いキスが落ちる。
そのたびに、胸の奥が甘く痺れて、理性がパチパチとショートしていく。
「好きだ」
低く囁かれる。
「……はいっ」
「愛している」
「……ッ」
「お前が思っているよりずっと、俺はお前に狂っている」
そんな殺し文句を、こんな至近距離で言わないでほしい。
限界オタクの理性がもたない。
でも、彼の熱に完全に溶かされてしまうのは、一ミリも嫌じゃなかった。
むしろ、こんなふうに自分の輪郭が曖昧になるくらい激しく甘やかされるのが、どうしようもなく幸せだった。
私は息を乱しながら、やっとのことで言う。
「……クライヴ様」
「なんだ」
「私、たぶん今……」
「うん」
「すごく、だらしなくて、だめな顔してます……」
「していない」
「してます絶対!」
「宇宙で一番可愛いだけだ」
もう駄目だった。完全敗北だ。
私はたぶん、そのあとまともに何も言葉を返せなかったと思う。
ただ、あたたかい腕の中で、熱いキスと甘い囁きに少しずつ理性をほどかれて、ひたすら幸せの波に溺れていた。
最後にはクライヴ様が、私を壊れものみたいにそっと抱き上げて、フカフカの寝台へ押し倒すように座らせた。
でもそれ以上は急がない。
急がないくせに、私を見下ろす視線は完全に飢えた獣のように熱い。
触れ方はとてつもなく優しいのに、言葉は甘くて激重だ。
ズルい。
ほんとうに、大人の男はズルい。
私は彼の胸元へ額を預けたまま、ポツリと呟いた。
「……結婚式まで、ほんとに待てますか?」
するとクライヴ様は、私の髪へ深く唇を落としてから、低く掠れた声で答えた。
「待つ」
「本当ですか?」
「ああ」
「でも、さっき待てないって……」
「待てないと思うほど、今すぐお前をめちゃくちゃにしたいほど欲しい、という意味だ」
「……愛が重い」
「今さらだろう」
「はい、今さらでした」
私がクスッと笑うと、クライヴ様もごくわずかに口元を緩め、安心したように笑った。
そしてそのまま、二人でひとつの毛布へ深くくるまる。
静かな夜だった。
極上の温泉の余韻が身体に残っていて、外は雪が降るほど冷たいのに、この腕の中だけはひどくあたたかい。
クライヴ様の腕の中で、私はゆっくりと目を閉じた。
理性は、たしかに半分以上溶かされた。でも不安は一ミリもない。
だって、この人はちゃんと待ってくれる。
待てないと言いながら、ちゃんと私を一番大事にしてくれる。
そのことが骨の髄までわかるから、私は安心してこの人に甘えていられる。
「おやすみ、俺のルシアナ」
低い、世界一優しい声が落ちる。
「……おやすみなさい、私のクライヴ様」
結婚式まで、あと少し。
その“あと少し”の時間が、今夜はいっそう甘く、尊く感じられた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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