第37話 這うように逃げる元婚約者たち
元王太子アルフォンスと、元“奇跡の聖女”リリアンの逃避行は、控えめに言って地獄だった。
いや、地獄という表現すら生ぬるいかもしれない。
なにせ二人は、つい数日前まで王城の最奥で最高級の絹の寝具にくるまり、純銀の食器で美食を貪り、自分では指一本動かさずに侍女や従者へ偉そうに命令を飛ばしていた身なのだ。
そんな甘やかされた温室育ちの人間が突然、暴徒から逃れるために泥だらけの汚物用荷馬車で夜道を逃げ回り、明日の食事も寝床も命すら保証されないサバイバル生活へ落とされたらどうなるか。
答えは極めて簡単である。
ものすごく、惨めでみっともないことになる。
「ひぃぃぃッ、揺れる! お尻が痛いわよゲコォッ!!」
ガタンッ! とサスペンション皆無の荷馬車が石へ乗り上げるたびに、リリアンが甲高いカエルのような悲鳴を上げる。
「黙れ! 僕だって必死なんだ!!」
アルフォンスが半泣きで、血の滲んだ手で手綱を引く。
「この馬、まったく僕の言うことを聞かないじゃないか!」
「それは殿下の御者の才能が一ミクロンもないからゲコッ!!」
「うるさいッ!!」
ある意味、口喧嘩する元気だけはあった。
もっとも、その空元気も、極限の空腹と冬の寒さの前では長くは続かない。
王城を脱出して二日目。
荷馬車に積んでいた非常用のわずかな乾パンは、リリアンが「こんな硬くて不味いもの食べられないゲコ!」と文句を言いながらも結局ほとんど一人で貪り食い、残ったのはしなびた小さな林檎が一つだけだった。
三日目。
その林檎を巡って醜い奪い合いをし、結局半分こして消えた。
四日目。
ついに二人は、道端の『名もなき雑草』を真顔で見つめていた。
「…………」
「…………」
枯れかけた雑草が、冷たい風に虚しく揺れる。
アルフォンスが、ゆっくりとゴクリと喉を鳴らした。
「……これ、食べられると思うか」
リリアンが顔を引きつらせる。
「絶対いやよゲコ」
「でも他に口に入れるものがない」
「わ、私は高貴な伯爵令嬢で聖女よ!? 道端の草なんて――」
「じゃあ餓死するのか!? 何を食うんだ!?」
その情けない叫びが、空しく森に響く。
答えは、ない。
野宿の環境も最悪を極めていた。
初日はまだ街道脇の不気味な空き小屋を見つけられたが、それ以降は屋根すらない野ざらしの場所で火もろくにつけられず、薄汚れた毛布一枚に二人でくるまり、ガタガタと震えながら夜を明かすしかなかった。
王太子の上等だったマントはすでに泥と裂け目で原形をとどめず、リリアンの純白だったドレスに至っては、破れた裾を足へ巻きつけたせいで、もはや“ゴミ捨て場のぼろ布を体へ巻きつけた不審者”としか言えない状態だ。
しかも、食糧難と極度の疲労とストレスで、二人とも見事に恐ろしいほどやつれていた。
アルフォンスは目の下にドス黒い隈を作り、頬は完全にこけ、髪は――必死に隠そうとしているのが余計に悲惨さを際立たせる程度には――スダレのように薄くなっている。
一方のリリアンは、触れた化粧品がすべて泥へ変わる呪い返しのせいで顔面管理を完全に放棄しており、頬から首にかけて広がった『両生類特有の緑のまだら模様』が隠しようもなく露呈していた。
そして、語尾は今日も絶好調にカエルだった。
「うう……寒いゲコ……死にそうゲコ……」
焚き火の代わりにもならない小さな火種を前に、リリアンが膝を抱える。
「王城のふかふかの羽毛布団が恋しいゲコ……」
「僕だってそうだ!」
アルフォンスがダニだらけのぼろ毛布へくるまりながら吐き捨てる。
「どうして僕がこんな目に……! 僕は選ばれた人間だぞ! 本来なら今ごろ、王都の玉座で優雅にワインを――」
「全部、お姉様のせいよゲコ!!」
リリアンが泥まみれの顔で、グスッと鼻をすすった。
「お姉様がさっさと死なずに辺境へ行って、私に呪いを理不尽に返したから、全部こうなったのゲコォ……!」
「……そうだ」
アルフォンスの濁った目が、ギラリと暗い光を帯びる。
「そうだ、ルシアナだ」
出た。
追い詰められた無能特有の、見事な責任転嫁タイムである。
「ルシアナに会って、君の呪いを解かせれば……」
「お姉様なら絶対にできるゲコ!」
「そうだ! あいつは昔から、僕の命令には絶対に逆らえなかったし」
「私にも甘かったゲコ! 泣いてすがればイチコロよゲコ!」
「少し優しくしてやって、形だけ謝ればいい」
「そうよ、適当に謝ってやれば喜ぶのよゲコォ!」
「それで、僕たちはあの辺境の豊かな物資と共に保護される」
「お姉様はチョロいもの!」
「辺境伯だって、次期国王たる王太子の僕を無下にはできまい」
「そうよそうよゲコ! 全部元通りゲコ!」
ものすごく、宇宙レベルで都合のいい夢だった。
自分たちがルシアナを無実の罪で断罪し、死地に追いやったことなど完全に棚に上げている。なぜそこまで自分たちへ都合よく考えられるのか不思議なくらいだが、人は極限まで追い詰められると、最も自分に都合のいい幻想へしがみつく生き物らしい。
もっとも。
その哀れな幻想は、現実の強烈な空腹の前ではだいぶ無力だった。
「……殿下」
「なんだ」
「やっぱりあの草、食べないゲコ……?」
沈黙。
その数分後、二人は泥だらけの道端に這いつくばり、恐る恐る雑草の若葉をちぎっていた。
「これ、本当に毒はないのか?」
「知らないゲコ……でも他にないゲコ……」
「……」
「……」
「……苦い」
「まずいゲコ……」
「吐きそうだ」
「泥の味がするゲコォ……」
食レポの感想だけは完全に一致していた。
だがそれでも、腹の足しには一ミリもならない。
少し歩けば強烈に喉が渇き、見つけたわだちの浅い水たまりの前で、二人はまた絶望して立ち尽くした。
「……飲むか?」
「ただの泥水よゲコ」
「でも、水分だ」
「でも泥よゲコ。お腹壊すゲコ」
「飲まないと渇きで死ぬかもしれない」
「……」
「……」
「……飲むゲコ」
「だよな」
王城で純金の杯を使ってワインを飲んでいた二人が、今や地面へ惨めに這いつくばり、濁った泥水をすすっている。
人生、本当に何が起こるかわからない。因果応報とはよく言ったものだ。
◇ ◇ ◇
もちろん、逃避行の道中でまともな村へ入ろうとしたこともあった。
だが、そのたびに完全に裏目に出た。
最初の村では、リリアンが緑のまだら顔を布で隠しながら「私に食べ物を分けなさいゲコ!」と特大の上から目線で言ったせいで、即座に不審者として怪しまれた。
「な、なんだあの女……」
「顔を隠してコソコソしてるぞ。盗賊か?」
「しかも語尾がカエルだぞ……気持ち悪い」
「追い返せ! 今うちの村に余分な食い扶持はねえ!」
というわけで、石と野菜のクズを投げられて終わった。
二つ目の寂れた宿場では、アルフォンスが“自分は偉大なる王太子だ”と身分を明かそうとした。
結果は最悪だった。
「僕はこの国の王太子、アルフォンス――」
「ぶはっ」
宿の主人が盛大に吹き出す。
「はぁ? 王太子様だって?」
「し、失礼な! 頭が高いぞ!」
「その輝くバーコード頭でか!?」
「ッ!?」
「しかも王太子様が、そんな肥溜めみたいな臭いのするボロ馬車で来るかよ! ペテン師が、とっとと失せな!」
鼻で笑われた挙げ句、塩を撒かれて追い出された。
さらに悪いことに、その夜からアルフォンスはストレスでことあるごとに頭へ手をやるようになった。
やればやるほどスルスルと抜けるのに、不安でやめられない。完全な悪循環である。
「減ってる……」
「何がゲコ?」
「髪が」
「今さら!?」
リリアンが思わず素で叫んだ後、慌てて両手で口を押さえる。
だが遅い。
「今さらって何だ!? お前、やっぱり僕の髪が減っていると思っていたのか!?」
「い、いや、その、気のせいでは……ゲコ……」
「お前、今絶対『ハゲてる』って思っただろ!!」
「だって本当に前髪が危ないものゲコォッ!!」
「うわあああああッ!!」
静かな夜の森の中に、元王太子の悲痛な叫び声が虚しく響き渡った。
◇ ◇ ◇
そうして這うように進んだ五日目の夜。
二人はようやく、辺境へ続く街道の古い標識を見つけた。
“北東・辺境伯領”と刻まれた古びた道標を前に、リリアンの濁った目がパァッ! と輝く。
「み、見てゲコ殿下!」
「ああ……!」
「辺境よ! 辺境がもうすぐそこよ!」
「助かった……! やっと、やっとこの地獄から助かるぞ!」
その瞬間だけ、二人は本気で地獄から救われたような顔をした。
もちろん、その“救い”の内容は、あまりにも身勝手で愚かだ。
「お姉様に会えれば、きっと全部何とかなるゲコ!」
「ああ。君の呪いもすぐに解いてくれるはずだ」
「それに、お姉様は私に絶対に逆らえないもの!」
「僕だって元婚約者だぞ! 泣いて詫びるフリをすれば、あの女はさすがに放ってはおけまい!」
「そうよ! お姉様ってそういうところ、変にお人好しで甘いのよゲコ!」
いや、昔のゲームのシナリオ通りならまだしも、今の私は絶対にそんな甘い対応は一ミクロンもしない。
だが二人は知らない。
辺境へ追放された“哀れな悪役令嬢”が、今や圧倒的な力を持つ独立国の中心で、世界一幸せな結婚式の準備に忙殺されていることを。
そして何より。
その隣にいるのが、“お前を愛することはない”と宣言したはずなのに、今では息をするように公開キスをしてくる異常なほど溺愛の激重な最強辺境伯だということを。
知らないからこそ、彼らは滑稽な夢を見る。
この先にあるのは救済だと。
少し謝れば許されると。
泣きつけば無条件で受け入れてもらえると。
その夜、二人は久しぶりに少しだけ希望を取り戻していた。
もっとも、その希望すら、焚き火の代わりに集めた湿った枝がろくに燃えないという現実の前では、だいぶ頼りなかったのだが。
「寒いゲコ……」
「僕も寒い……凍え死にそうだ……」
「お腹空いたゲコ……」
「僕もだ……肉が食いたい……」
「辺境に着いたら、まずお姉様に温かい極上のスープを作らせるゲコ」
「僕は温かい風呂に入りたい」
「フカフカの天蓋付きベッドも用意させるゲコ」
「それから、髪に良い最高級の薬も探させよう」
「そこは殿下にとって一番大事なのね……」
会話の内容だけは、まだ完全に王城気分のままだった。
けれど見た目はもう、一ミリも笑えないくらい悲惨である。
リリアンの純白だったドレスは泥とほつれで原形を完全に失い、寒さをしのぐためにゴミ捨て場で拾ったぼろ布を肩へ巻いている。
アルフォンスの高級靴は底が完全に剥がれ、歩くたびに冷たい泥水が染み込む。
手も顔も真っ黒に汚れ、髪はボサボサ(一部バーコード)、匂いだって数日風呂に入っていないのでかなり危険だ。
それでも二人は、夜明けとともにまた汚物用の荷馬車へ乗り込んだ。
ギシギシと今にも壊れそうに軋む車輪。
弱々しく歩く痩せこけた馬。
雑草の苦い味と泥水の臭いが、まだ口の中にこびりついている。
でも、辺境の関所はもう近い。
「お姉様……」
リリアンがぼろ布の中で、泥だらけの顔を歪めて小さく呟く。
「待ってなさいゲコ……」
その声音には、姉を慕う可愛げなど一欠片もない。
あるのはただ、“自分を不快な状況から救う便利な道具”として都合よく利用しようとしているだけの醜い依存だ。
「ルシアナ……」
アルフォンスも同じように、濁った瞳で唇を歪めた。
「今度こそ、僕のためにちゃんと役に立ってもらうぞ……」
だからこそ、滑稽だった。
だって二人はまだ何も知らないのだ。
自分たちが見下していた不毛の辺境が、今や王都以上に圧倒的に豊かで、強く、黄金のように輝いていることを。
そして、そこにいるルシアナが、もう彼らの都合のいい妄想通りに動くような、哀れな少女ではないことを。
荷馬車は、みっともなくガタガタと揺れながら北東へ進む。
雑草を噛み、泥水をすすり、這うように逃げてきた元王太子と元偽聖女。
その惨めな旅路の終着点は、きっと彼らが夢見るような“温かい救い”ではない。
むしろ――。
そこからが、彼らにとっての『本当の絶望』の始まりだ。




