第30話 辺境伯領、王国からの完全独立宣言
王都で大規模な暴動が発生し、ついに無能な王太子とカエル顔の偽聖女が城を捨てて逃げ出した。
その急報が辺境へ届いた時、私はしばらく言葉を失っていた。
「……ついに、ですね」
静まり返った執務室で、ポツリとそう呟く。
窓の外は冬の薄曇り。けれど室内には、昨日の軍事演習を終えた直後とはまた違う、重く冷たい緊張が満ちていた。
クライヴ様は机の前に立ち、届けられた急報の束へ視線を落としている。
その完璧な横顔はいつも以上に冷静で、一切の感情を表へ出していない。だが、長く王家の理不尽な命令を受けてきたこの人が、この報せをただの対岸の火事として聞いているわけがないことくらい、もう私にもわかる。
レオンハルト団長が淡々と報告を続けた。
「王都では城門が完全に破られ、数万の民衆が王城内へ乱入。王太子アルフォンスおよびリリアン嬢は、暴徒に捕まる寸前で裏口から逃亡したとのこと」
「逃亡先は」
クライヴ様が低く問う。
「不明です。ただし、主要街道ではなく、荷馬車で名もなき脇道へ入ったとの情報があります」
「なるほど」
クロエが腕を組み、鼻で笑った。
「馬車も満足に用意できず、惨めに泥水すすって逃げてそうね」
「解像度高く想像できてしまうのが怖い」
私は思わず遠い目になる。自業自得の極みだ。
でも、それで「ざまぁみろ」で終わらないのが現実の国家運営だ。
王都の中枢が完全に崩壊した。
それはつまり、“この王国を国としてまとめる芯”が完全に折れ、腐り落ちたということでもある。
「他の都市の状況は?」
私が尋ねる。
「混乱が猛スピードで波及し始めています」
レオンハルトが地図へ目を落とした。
「すでに南方では徴税官の殺害と徴税拒否、東部では領主の館への焼き討ち、西の中継都市では食糧庫の略奪が同時多発的に起きている」
「早い……」
「王都が倒れたと知れば、堰を切ったように連鎖します」
クライヴ様の声は静かだった。
「今まで権力で押さえつけていた恐怖も怒りも、一気に表へ噴き出すからな」
私はギュッと手を握る。
王都ざまぁ、で片づけられる段階はもう終わった。ここから先は、本当に国そのものが分裂し、血みどろの内戦状態へ突入し始める。
すると、執務室の扉が叩かれた。
「閣下」
若い騎士が一礼する。
「領都の有力者、職人ギルド組合長、農地代表、各商会頭領たちが、一斉に面会を求めて揃っております」
「通せ」
クライヴ様が即答した。
やがて部屋へ入ってきたのは、この豊かな辺境を支える重鎮たちだった。
日焼けした年季の入った農夫代表。腕の太い鍛冶職人組合長。商会の顔役。街のまとめ役をしている年長者たち。
皆、表情は極めて真剣だが、その目には“怯え”ではなく、揺るがない『覚悟』があった。
「閣下」
代表して深く頭を下げたのは、以前畑の再生でお世話になった農夫長だった。
「王都崩壊の報せは、すでに街にも回っております」
クライヴ様が頷く。
「ああ」
「そこで、我々辺境の民の『総意』を申し上げたく参りました」
部屋の空気が、ピィンッ……と張り詰める。
私は思わず息を止めた。
農夫長は顔を上げ、真っ直ぐにクライヴ様を見た。
「もう、腐りきった王都の支配下に戻る必要は、どこにもございません」
静かだが、ハッキリとした声だった。
商会の頭領が続く。
「王都は我らを守らず、食も、道も、そして何より『信用』を完全に失いました」
鍛冶職人組合長が低く力強く言う。
「だがこの辺境は違う。豊かな食があり、働く場があり、そして昨日見せていただいた『絶対的に守り抜く力』がある」
「そして」
街のまとめ役の老婦人が、私の方をチラリと見て優しく微笑んだ。
「女神様……ではなく、奥様がもたらした数々の奇跡的な変化で、ここはもう『王国の田舎』などではなく、全く別の豊かな土地になりました」
「今、ちょっとナチュラルに女神って言いかけませんでした?」
「気のせいです」
「絶対違いますよね!?」
「気のせいです」
強引に押し切られた。
だが、そのやりとりに少しだけ張り詰めていた空気が和らぐ。
そして老婦人は、改めてクライヴ様へ向き直り、深く頭を下げた。
「閣下。どうか、我々のためにご決断を」
「……決断、か」
クライヴ様が低く繰り返す。
その時、私はふと気づいた。
この場にいる全員が、もうすでに『答え』を持っているのだ。
ただそれを、誰の口から正式な決定として告げるかを待っているだけ。
王都は崩れた。辺境は守らねばならない。
そして理不尽から完全に守り抜くためには、もう王都への曖昧な従属関係では足りないのだ。
クライヴ様が、ゆっくりと立ち上がる。
その長身の影が動いただけで、室内の全員が息を整えた。
「……広場へ出る」
彼は短く、絶対的な声で言った。
「領民全員へ告げる」
私の胸が、ドクンッ、と大きく鳴る。
来る。
いよいよ、歴史が動く瞬間が来るのだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、領都の巨大な大広場には人が溢れかえっていた。
農夫も、職人も、商人も、非番の騎士も、避難民たちも。
老いも若きも、皆が中央に設けられた高台を見上げている。冬の空気は冷たい。けれど広場の熱狂と期待の熱は異様なほど高かった。
「閣下が直々にお言葉を下さるそうだ」
「王都のこと、どうなるんだ……戦争か?」
「辺境は俺たちを守ってくれるんだろうか……」
「絶対に大丈夫だ。俺たちにはあの方が、辺境最強の軍がある」
そんな不安と期待の入り混じった囁きが、波のように広がっていく。
私は高台の裏手で、外套の襟をギュッと握りしめていた。
隣にはクロエ。少し離れた位置にレオンハルト団長。そして、目の前にはクライヴ様の広い背中。
漆黒の軍服と外套を纏ったその後ろ姿は、いつにも増してひどく大きく見えた。
「ルシアナ」
低い声で呼ばれ、私はハッと顔を上げる。
「はい」
「お前は、ここで俺の背中を見ていろ」
「……はい」
「終わったら、すぐ俺の隣へ来い」
「え?」
「この国の未来の話をする時、俺の愛する妻が隣にいないと始まらん」
その激甘な言葉に、胸の奥がカァッと熱くなる。
こんな歴史的な大きな場面でも、私をちゃんと“一番大切な存在”として含めてくれる。置いていかない。
それが嬉しくて、私はしっかり頷いた。
「はいっ!」
クライヴ様はほんの少しだけ口元を緩め、それから表情を引き締め、威風堂々と高台へ上がっていった。
ザワメキが、スッ……と完全に静まり返る。
広場を埋める何万もの視線が、ただ一人の男へ集まった。
クライヴ様は中央へ立ち、ゆっくりと広場全体を見渡す。
風が吹き、黒い外套がバサァッとはためく。その姿はひどく静かで、なのに誰よりも、世界の王よりも強かった。
「辺境の民よ」
地を這うような、低く、よく通る声が広場へ落ちた。
それだけで、空気が完全に支配される。
「お前たちも、すでに知っているだろう」
誰も言葉を挟まない。全員が息を呑んで聞いている。
「王都は崩れた。無能な王太子は城を捨てて逃げ、腐敗した王家はもはや国を治める力を完全に失った」
ザワッ、と人々の間に波が走る。
だがそれは恐怖というより、確認だった。どうしようもない現実を、改めて絶対者の言葉で突きつけられたことへのざわめきだ。
「この先、国の混乱は一気に広がる。飢えた者、奪う者、迷う者が、波のようにこちらへも流れてくるだろう」
クライヴ様の声は冷徹だった。
「だが、俺はお前たちを飢えさせるつもりは一ミリもない。この豊かな土地を誰かに奪わせるつもりもない。誰一人として、この辺境を泥足で踏みにじらせるつもりはない」
その力強い一言一言が、広場の不安を完全に払拭し、空気を引き締めていく。
私は高台の袖で、思わず両手を胸の前でギュッと組んだ。
強い。やっぱり、この人の言葉は圧倒的に強い。
「ゆえに、俺はここに宣言する」
クライヴ様が、ゆっくりと右手を上げた。
その瞬間、広場が完全に静まり返る。風の音すら止まった気がした。
「本日ただ今をもって、辺境伯領は『王国からの一切の従属』を完全に断つ」
ヒュッ、と息を呑む気配が、広場全体から上がった。
私の心臓も、同時に大きく跳ねる。
「これよりこの地は、王都とは無関係な『独立辺境国』として、自らの民と土地を絶対の武力をもって守り抜く」
言い切った。
ハッキリと。一切の揺らぎなく。世界の誰にも聞き間違えようのない、帝国最強の怪物としての声で。
「王都の腐敗にも、自業自得の崩壊にも、俺たちはもはや付き合わん。俺たちは、俺たちの豊かな国を創る」
一瞬の静寂。
それから――。
「ウオォォォォォォォォォォッ!!!」
広場が、物理的に揺れた。
地鳴りのような大歓声だった。爆発みたいな、希望の歓声。
「閣下ばんざい!!」
「独立だ! 俺たちの国だ!」
「辺境独立国、ばんざい!!」
「もう王都の腐った連中に振り回されなくていいんだ!」
「女神様ばんざーい!!」
「だから私は女神じゃ――」
言いかけて、私は途中でツッコミを諦めた。
今は、それどころではない。
領民たちは泣き、笑い、拳を天に突き上げ、見ず知らずの隣人と抱き合っている。
避難民たちでさえ、呆然としながらも「助かった」と顔を覆って号泣していた。
王都へ完全に見捨てられた人々にとって、“ここは絶対に崩れない”と最強の主に示されることが、どれだけ大きな希望か。
その熱狂の中心で、クライヴ様はさらに言葉を続ける。
「辺境は、閉ざさない」
割れんばかりの歓声の中でも、その声は真っ直ぐに届いた。
「我らを害し、奪おうとする愚か者は容赦なく塵にする。だが、我らと共にルールを守り、ここで生きようとする者は受け入れる」
その言葉に、避難民たちの間から安堵の嗚咽が漏れた。
ああ。この人は、やっぱりただ強いだけじゃない。不器用だけど、本当に優しい。
「食を耕し、技を磨き、土地を守り抜く。それが新たな辺境国の在り方だ」
そして、最後に。
クライヴ様はゆっくりと、袖にいる私のいる方へ視線を向けた。
ほんの一瞬。でも、確かに優しく熱い目が合った。
「この国は、俺一人の武力では決して成り立たん」
広場が静まる。
「ここに集う民、騎士、職人、商人――そして、この不毛だった地へ『数々の奇跡と新たな豊かさ』をもたらした者たちと共に築く」
その視線の意味に気づいた人々が、少しずつ私の方を振り向き始める。
やめて。ここで一斉にこっち見るのやめて。限界オタクの心臓が爆発する。
でも、クライヴ様は容赦がなかった。
「俺は、この国を絶対に守る」
低く、揺るがない声。
「お前たちは、この国を全力で生きろ」
そして歴史的な独立宣言は終わった。
次の瞬間、広場は完全に狂乱とも言える熱狂へ包まれた。
辺境の旗が振られ、帽子が宙に舞い、あちこちで抱き合って泣き笑う人がいる。
農夫たちは肩を叩き合い、職人たちは「俺たちの技術を見せてやるぞ!」と叫び、無傷のゴリラ騎士たちは剣を掲げて雄叫びを上げていた。
その大混乱の中で、クロエが私の肩をバシバシと力強く叩く。
「ちょっとルシアナ!」
「いっ、痛い! 痛いってば!」
「今の見た!? 完全に建国と開国の歴史的演説じゃない!」
「開国じゃなくて独立だけど!?」
「でも最高にカッコよかったわよあなたの旦那様!」
「うん、それは激しく同意する……!」
レオンハルト団長が珍しく、ほんの少しだけ誇らしげに口元を緩めていた。
「これで、少なくとも我々の内部は完全に一つにまとまりました」
「ええ」
私は頷く。
「すべては、ここからですね」
「はい」
その時、高台から降りてきたクライヴ様が、一直線にこちらへ歩いてくる。
人々がモーゼの海割りのように自然と道を開けた。誰もが、彼の行く先と目的を知っているみたいに。
そしてクライヴ様は、私の前で立ち止まる。
「来い」
「はいっ」
大きな手を差し出された。
私は少しだけ頬を赤くして、それからしっかりと手を取る。
次の瞬間、グイッ! と強引に引き寄せられ、そのまま高台の上へ連れて行かれた。
「えっ、ええっ!?」
「ク、クライヴ様!?」
「静かにしろ。俺の隣に立て」
無理です。
だって何万人もの熱狂的な視線が、一気に私へ刺さってきたのだから。
クライヴ様は私をピタリと隣へ立たせ、私の腰を抱き寄せると、広場へ向けてドヤ顔(無表情)で言った。
「この国の発展において、妻ルシアナの功績は極めて大きい」
ぎゃあああああああ。
私は内心で絶叫した。
やめて。そういう公開デレ、数万人の前でやらないで。死ぬ。
でも止める暇もなく、広場からは再び地鳴りのような歓声が上がる。
「奥様ばんざーい!」
「女神様だ! 我らが辺境の女神様だ!」
「この国の宝だ!」
「だから女神じゃ――」
もうツッコミと訂正が追いつかない。
クライヴ様はそんな私の肩を抱き、さらに低く、世界中にマウントを取るように続けた。
「俺の最愛の妻であり、この国の礎の一つだ。誰にも渡さん」
頭が完全に真っ白になった。
妻。国の礎。
その二つを、こんなにも堂々と並べて宣言されるなんて思わなかった。
広場の熱は最高潮だった。
「建国ばんざい!」
「辺境伯様! 奥様!」
「独立国ばんざーい!!」
誰かが陽気に太鼓を叩き始め、また別の誰かが大量の酒樽を持ち出し、さらに誰かが「建国の宴だァァァッ!」と叫ぶ。
そうして気づけば、厳粛な独立宣言は、そのまま『三日三晩の建国大宴会』へと光の速さで雪崩れ込んでいた。
早い。
辺境の民の切り替え、早すぎる。
「ちょ、ちょっと待ってください」
私は高台の上で呆然とする。
「もう宴会なんですか!?」
「こういう時の連中の動きは無駄に早いな」
クライヴ様が呟く。
「いやもう独立記念日が今この瞬間爆誕してるんですけど!?」
「いいことじゃない」
クロエが下から笑う。
「建国祝いよ、飲むわよルシアナ!」
「あなた絶対それ言うと思った!」
そして、本当に地獄の(楽しい)宴会が始まった。
広場には巨大な鍋が並び、ラーメン屋台が一斉稼働し、ハンバーガー用の肉が猛烈な勢いで焼かれ、酒樽が次々と開けられた。
職人たちはその場で即席の飾りを作り、子どもたちは新しい旗を振り回し、神獣シロはちゃっかり人混みの中で「わふっ♡」と愛嬌を振りまいて最高級の肉をもらいまくっていた。
辺境独立国、初日からゴリゴリのお祭り(飯テロ)国家である。
◇ ◇ ◇
夜になっても熱は一向に収まらなかった。
広場の魔導ランプの灯りが増え、歌が始まり、踊りが始まり、誰かが「新しい俺たちの国に!」と杯を掲げれば、全員が一斉にそれへ応じて飲み干す。
「辺境に!」
「我らが国に!」
「閣下に!」
「ルシアナ女神様に!」
「だから私はただのオタクで……」
もうツッコミは諦めた。
嬉しかった。
人々の目に、明日への恐怖だけではなく、確かな『希望』がある。
“終わる国(王都)”ではなく、“これから始まる国”を見ている力強い目だ。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
宴の合間、私は広場の端のベンチでようやく一息ついた。
そこへ、クライヴ様が湯気の立つカップを持って現れる。
「飲め」
「ありがとうございます……」
受け取ると、中身は甘いミルクと香辛料を温めたものだった。
「美味しい。甘くて落ち着きます」
「だろう」
そのまま並んで座り、熱狂する広場を見下ろす。
灯り。笑い声。歓声。新しい旗。そして、未来への熱。
「……すごいですね」
私がポツリと言う。
「本当に、国ができちゃった」
「できたな」
クライヴ様は静かに答えた。
その横顔を見て、私はふと小さく笑う。
「今日から、辺境伯様じゃなくなっちゃうんですか?」
「形式上は、辺境国の王ということになる」
「じゃあ、なんてお呼びすれば? 陛下?」
「好きにしろ」
「雑ですね」
「お前ならどう呼んでも俺の妻だとわかる」
そうド真顔で言われると、顔が熱くなって困る。
でも、少しだけ考えてから、私はいたずらっぽく言った。
「じゃあ、とりあえず今は、今まで通り“旦那様”で」
クライヴ様の目が、ほんの少しだけ甘く柔らかくなる。
「……それでいい」
その返事が、なんだかとても嬉しかった。
広場ではまだ大歓声が続いている。
三日三晩の宴になると聞いて、私は今の時点でもう少しだけ遠い目をした。
「……これ、絶対しばらく完全な寝不足になりますよね」
「なるだろうな」
「でも、まあ」
私は甘いミルクを一口飲んで、フッ……と笑う。
「悪くないです。最高です」
「ああ」
クライヴ様も深く頷く。
「悪くない」
その時、遠くの王都へ続く街道の方から、小さなみすぼらしい荷馬車の影が見えたような気がした。
泥だらけで、ボロボロで、みっともなくガタガタと揺れる、汚物運搬用の一台。
私はまだ知らない。
その最底辺の馬車に乗っているのが、王城を暴徒に追い出され、草と泥水をすすりながら這いつくばって辺境を目指すことになる“元王太子”と“元偽聖女”だということを。
でも、きっとそう遠くないうちに会うことになるのだろう。
そしてその時、私たちはもう“不遇な悪役令嬢”と“呪われた辺境伯”ではない。
圧倒的な力と豊かさで新しい独立国を築いた、世界の中心なのだ。




