第29話 王都での暴動発生
王都は、ついに限界を迎えていた。
それは、ある日突然すべてが壊れたわけではない。
中身が完全に腐った果実みたいに、外から見ればギリギリ形を保っているように見えて、内側ではずっと前からドロドロに崩壊し続けていたのだ。
市場からパンが消えた。
畑から実りが消えた。
神殿から奇跡が消えた。
そして王城から、民の信頼が完全に消え失せた。
そして今、最後に消えようとしているのは――飢えた民の『我慢の限界』だった。
「もう限界だ!!」
「俺たちの子どもに食わせるものがないんだぞ!!」
「偽聖女は何をしている!? なぜ祈らない!!」
「無能な王太子を引きずり出せェェェッ!!」
王城前の大広場を黒く埋め尽くした何万という民衆の怒号は、もはや“抗議”の域を完全に超え、“暴動”へと変貌していた。
男も女も、老人も若者も、誰もが骨と皮のように痩せこけていた。
頬はこけ、目は狂気でギラつき、怒りと飢えで顔つきが魔物のように変わっている。
手にしているのは錆びた農具だったり、薪割り用の斧だったり、重たい石だったり。正規の武器と呼ぶには頼りない代物だが、数が数万集まれば話は別だ。
何より彼らにはもう、失うものが命以外に何もない。それが一番恐ろしい。
城門の内側では、王城勤めの兵士たちが顔を土気色にして震えていた。
「ど、どうするんだ隊長!?」
「止まれと命じても一歩も止まりません! むしろ石が飛んできます!」
「神官長を呼べ! 聖女様を出して奇跡を見せろ!」
「その聖女様が、今朝から“ゲコッ”しか言ってないんだよォォォッ!!」
絶望しかない地獄みたいな報告である。
◇ ◇ ◇
一方その頃。
王城の最奥、豪華絢爛な私室では、当の“聖女”ことリリアン・フォン・ローゼンクロイツが、鏡の前で半狂乱になっていた。
「いやああああああっ!! また増えてるゲコォォォ!!」
鏡の中の自分の顔を見て、リリアンは喉が裂けんばかりの醜い悲鳴を上げた。
頬の緑のまだら模様は、もう化粧で隠すという次元を突破していた。
右から左へ、首から鎖骨へ、うっすらと苔のような緑が這い、両生類特有の湿った光沢まで帯びている。顔立ちそのものはまだ人間の形を保っているのに、遠目には完全に“直立歩行するカエルっぽい何か”だ。
しかも最悪なことに。
「ち、違うのよ! これは光の加減で――ゲコッ」
「…………」
「今のはなし! 聞かなかったことにしなさいゲコォッ!!」
語尾のゲコ化が、もう完全に制御不能だった。
控えていた侍女たちは全員、肩を震わせて顔を伏せていた。
優しさではない。目を合わせたら吹き出してしまうか、恐怖で泣いてしまうか、自分でもわからないからである。
「お化粧は!? 海外から取り寄せた新しいファンデーションは用意できたの!?」
「は、はい、こちらに……!」
侍女が震える手で差し出した超高級化粧品の小瓶を、リリアンは親の仇のように奪い取って蓋を開けた。
中身を指ですくう。
――ビチャリ。
「……………………」
また、ドブ臭い泥だった。
白くなめらかな高級ファンデーションだったはずの中身は、彼女が触れた瞬間にドロリと濁った泥水へ変わり、指の間から情けなくボトボトと滴り落ちる。
「いやああああああっ!!」
パリンッ! と瓶が床へ叩きつけられ、茶色い泥が高級絨毯へ無惨に飛び散った。
「なんでよぉぉぉぉ!! なんで私が触る化粧品は全部泥になるのよゲコォッ!!」
「り、リリアン様、お、お落ち着きください……!」
「こんな顔で落ち着けるわけないでしょゲコッ!!」
そこへ、ドタドタと無様な足音が響く。
バンッ! と扉を押し開けて飛び込んできたのは、王太子アルフォンスだった。
ただし、その姿に以前の“自信満々な王子様らしさ”は一ミクロンも残っていない。
顔色は死人のように悪い。目の下には濃いドス黒い隈。
衣装は上等なのにどこか着崩れていて、何より――『頭頂部』が極めて危ない。
以前は“光の加減で少し薄いかも?”で済んでいたものが、今ではもう“明確に地肌が輝いている”。本人は必死に横の髪をバーコード状に持ち上げて隠しているが、無駄な抵抗感が凄まじい。
「リリアン! 大変だ!」
「こっちだって大変よゲコォッ!!」
同レベルで余裕がなかった。
アルフォンスはそんなカエル顔のリリアンを見て一瞬だけ「ヒッ」と息を詰まらせたが、今はそれどころではないらしい。
「城門前に民衆が押し寄せている! もう何万といるかわからない!」
「はぁ!?」
「パンを出せ、偽聖女を火炙りにしろ、無能な王太子を引きずり出せと叫んでいる!」
「最悪じゃないゲコ!!」
その通りだった。
城の外ではもう、怒号が分厚い石壁を物理的に揺らし始めている。
『門を開けろォォォッ!』
『押せ! 壊せ! 叩き割れ!』
『王家を引きずり出して豚の餌にしろォォォッ!!』
ドゴォォォンッ!!
鈍く重い衝撃が響いた。城門だ。破城槌代わりに巨大な丸太か何かで叩き始めたらしい。
アルフォンスの顔がみるみる青ざめる。
「ど、どうすれば……っ」
「そんなの私に聞くなゲコォッ!!」
「き、君は奇跡の聖女だろう!? 光で民を鎮めるとか、そういうのは!?」
「できるわけないでしょゲコッ!!」
言ってから、部屋がシンッ……と静まり返った。
リリアン本人が先に「あっ」と固まり、侍女たちが目を見開き、アルフォンスがゆっくりと顔を上げる。
「……え?」
しまった。そういう顔だった。
今まで、誤魔化しに誤魔化してきた“聖女の力”。
今この瞬間、本人の口から完全に『私には何の力もない』と否定されたに等しい。
「ち、違うの! 今のはその、言葉の綾でゲコッ!」
「いや、でも君、今ハッキリと……」
「違うって言ってるでしょうがぁぁぁゲコォッ!!」
弁明になっていなかった。
その時だった。
――ドガァァァァァァンッッ!!!
これまでで一番大きな破壊音が、王城全体を地震のように激しく揺らした。
壁の豪華な絵画がガタガタと鳴り、天井のシャンデリアからパラパラとガラスが落ちる。
「ヒッ!?」
「城門が……!」
別の侍従が、文字通り転がるようにして部屋へ飛び込んできた。顔面蒼白、涙と鼻水でグチャグチャである。
「民衆が中へ雪崩れ込んできました! 兵が逃げ出しました! もう前庭まで暴徒が――ッ!」
「はあ!?」
「嘘でしょゲコォォォ!!」
嘘ではなかった。
窓の外から、人の狂乱した叫び声が一気に近づいてくる。
金属のぶつかる音。割れるガラス。怒号。泣き声。何かが燃える焦げ臭い匂いまで混じってきた。
ついに決壊したのだ。
飢えた民衆が、王城の正門を完全に打ち破った。
その瞬間、アルフォンスとリリアンの安い理性も綺麗に吹き飛んだ。
「に、逃げるぞ!!」
「は!?」
「ここにいたら群衆に殺される!!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよゲコッ! 私、まだお化粧も――」
「泥を塗ってる場合か馬鹿者!!」
王太子が悲鳴みたいに怒鳴った。
侍女たちは完全に腰が抜けて震え上がっていた。誰も無能な主君を助ける余裕などない。むしろ自分が一秒でも早く逃げたい。
「裏口だ! 使用人用の裏の隠し通路を使う!」
「わ、私の宝石箱! 高級ドレス! あと聖女の証の純金のティアラも!」
「持っていけるかそんな重いもの!」
「持っていくのよゲコォォ!!」
リリアンは泣き喚きながら引き出しを乱暴に漁り、宝石を両手いっぱいに掴み取った。
だが極度の焦りのせいで、首飾りは絡まり、ブローチは床へ落ち、箱ごとひっくり返って散らばる始末。
「いやぁぁっ! 拾って! 誰か拾いなさいよ!」
「自分でやれ!!」
王太子の余裕も、完全になくなっていた。
しかも悲惨なことに、極限まで焦れば焦るほど彼は『頭をかきむしる癖』が出る。
今も額のあたりを両手で乱暴に掻きむしったせいで、数本、いや数十本くらい貴重な髪が根本から抜けて床へハラリと落ちた。
「ヒッ」
侍女の一人が思わず息を呑む。
「見るなぁぁぁッ!!」
怒鳴っても無駄である。ハゲは隠せない。
◇ ◇ ◇
城の薄暗い裏廊下へ飛び出した頃には、もはや王太子の威厳も聖女の気高さも一ミクロンもなかった。
そこにいるのは、半泣きで逃げ惑うバーコード頭の男と、顔の半分がカエルで語尾がゲコの女だけだ。
「こっちよ! こっちが近道ゲコ!」
「そっちは行き止まりだ!」
「なんで知ってるのよ!」
「僕は王城育ちだぞ!」
そのわりに、三度も角を間違えた。
途中で絨毯へ足を取られてアルフォンスは派手にすっ転び、リリアンは重すぎる宝石袋を抱えたまま柱へ激突して「ゲコォッ!」とカエルが潰れたような変な声を上げる。
しかも背後からは、着実に民衆の怨嗟の怒号が迫ってきていた。
『無能な王太子はどこだ!!』
『偽聖女を引きずり出せ! 泥水を飲ませてやれ!』
『俺たちの食べ物を返せ!!』
『餓死した俺の子どもを返せェェェッ!!』
それはもう、“怒り”というより純粋な『殺意』だった。
アルフォンスは顔面蒼白になり、リリアンはついに重い宝石袋を抱えたまま泣き出した。
「どうして……どうしてこんなことにぃぃぃ……!」
「全部、全部ルシアナのせいだ!」
「そうよ! お姉様のせいゲコォッ!!」
他責思考と責任転嫁だけは、見事なまでに息ピッタリだった。
だが現実は、そんな愚かな言い訳を待ってはくれない。
裏手へ繋がる冷たい石階段を駆け下り、埃まみれの使用人用の通路を抜け、ようやく辿り着いた城の裏口の前で――二人はまた絶望して止まった。
そこに用意されていたのは、近衛の馬車でも強固な護衛でもなかった。
ただの馬車だ。
小さな、みすぼらしい、屋根すらない『汚物運搬用の荷馬車』。
しかも馬は痩せこけた一頭だけ。護衛の騎士も、従者も誰もいない。
「な、なんだこれは!?」
アルフォンスが叫ぶ。
「次期国王たる僕の逃走手段が、このゴミ車だけだと!?」
「知らないわよゲコッ!!」
「近衛兵はどうした! 僕の専用の黄金の馬車は!?」
「もう皆、暴徒を止めるために表へ行ったか、あんたを見捨てて逃げたんじゃないゲコ!?」
「役立たずどもめぇぇ!!」
いや、役立たずはどっちだという話である。
しかし今は文句を言って選り好みしている場合ではない。裏口の扉の向こうからも、すでに暴徒の足音が近づいていた。
「の、乗れ!」
「汚いゲコォ!」
「文句を言うな!! 殺されるぞ!!」
二人は泥だらけの豪華な裾を引きずりながら、汚物用の荷馬車へ這いつくばるようによじ登る。
王太子の上等なマントは車輪に引っかかって無惨に半分裂け、リリアンの純白のドレスの裾は完全に泥と馬糞にまみれた。宝石袋は重すぎて途中でいくつかこぼれ落ちたが、拾っている命の保証などない。
「出せ! 早く出せぇぇぇ!」
「誰が御者するのよゲコォ!?」
「お前やれ!」
「できるわけないでしょゲコッ!!」
結局、王太子自身が見よう見まねで震える手で手綱を掴んだ。
馬は当然、素人の言うことなどまともに聞かない。
「進め! 進めぇぇッ!!」
「ヒィィィン!!」
半ばパニックで暴走するように、荷馬車が動き出す。
石畳で大きくガタンッ! と跳ね、二人の身体が容赦なく荷台の床に打ち付けられた。
「ぎゃッ!」
「ゲコォッ!」
そのまま、王城の裏門から、情けない木組みの軋む音を立てながら逃げ去っていく。
それはとても、“王家の威厳ある戦略的退避”とは呼べなかった。
むしろ、“泥水をすする惨めな敗走”の方がよほどしっくりくる。
こうして。
食糧難と嘘と傲慢で極限まで膨れ上がった王都の怒りは、ついに泥船の王城を完全に飲み込んだ。
王太子と偽聖女は、民衆に引きずり出される寸前で城を捨て、身一つで泥まみれになって逃げ出したのである。
だが、逃げた先に安寧などあるはずもない。
なぜなら。
彼らが唯一“無条件で助けてくれるはずだ”と信じている都合のいい相手が、辺境で世界一幸せそうに、豊かに暮らしていることを、二人はまだ知らないのだから。
◇ ◇ ◇
そして今この瞬間、豊かな辺境では――。
クライヴ様が軍事演習後の私へ「魔力を使いすぎて疲れただろう。休め」と激甘な顔でホットミルクティーを差し出し、神獣シロがその横で「チャーシューのおかわり!」とおやつをねだって「わふっ♡」とあざとく鳴いていた。
……王都との落差(温度差)が、エグい。




