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第27話 亡命貴族夫人たちのお茶会

 王都が本格的に泥船として沈み始めた頃、辺境伯邸には少しずつ“亡命希望者”が増え始めていた。


 最初は商人。次に職人。

 その後、身軽な若手貴族や、王都の終わっている空気に嫌気がさした優秀な学者たち。

 そしてついに、その波は――。


「……来たわね」


 私は応接間の窓から中庭を見下ろし、そっと呟いた。


 そこへ並んでいたのは、王都式の豪奢な馬車が三台。

 飾り金具は趣味が良く、従者の服装もきっちりしている。だが、その一方で車輪には長旅の泥がべっとりとこびりつき、馬たちもゼェハァと疲労困憊に見えた。


 つまり。

 体裁だけは必死に保っているけれど、中身は相当切羽詰まっているということだ。


「お茶会、ねえ」

 クロエが私の隣でニヤリと悪党のように笑う。

「プライドだけはエベレストより高い王都の奥様方が、わざわざこんな辺境まで」

「本当なら一生来たくないって思ってたでしょうね」

「でしょうねぇ。ついこの間まで“呪われた不毛の地”って嘲笑ってたんですもの」

「今となっては、その不毛の地に泣きつきに来てるわけだけど」

因果応報ブーメランって本当に美しいわね」

「ちょっと気持ちはわかる」


 今日の来訪者は、王都から逃れてきた上級貴族夫人たちである。

 表向きの理由は“辺境の現状視察と、今後の親睦のためのお茶会”。

 要するに、王都が物理的に沈みそうだから安全地帯へ真っ先に避難しつつ、できればこちらでもマウントを取って良い立場を確保したい、ということだ。


 気持ちはわかる。

 でも、こちらとしても簡単に「どうぞどうぞ」と尻尾を振るわけにはいかない。

 だってこの手のプライドの高い人たち、十中八九、最初は田舎者扱いして見下してくるから。


「ルシアナ」


 背後から、クライヴ様が低く呼んだ。


「あんな連中の相手を、お前が無理してする必要はない。追い返そうか」

「大丈夫です! 追い返さないでください!」


 私は笑って振り返った。


「こういう時は、武力(氷の槍)じゃなくて別の武器を使うんです」

「別の武器?」

「ええ」


 私はドヤ顔で豊満な胸を張った。


「『ケーキ』です」


 クライヴ様が数秒、黙った。


「……そう来たか」

「そう来ます」

 クロエが即座に乗る。

「こっちはこっちで、女の血みどろの戦場なのよ、閣下」

「怖い言い方をするな」

「でも間違ってないでしょ?」

「否定はできんな」


 その通りである。

 貴族夫人同士の腹の探り合いにおいて、言葉だけで勝とうとしてはいけない。必要なのは、空気、演出、そして相手を物理的に黙らせる圧倒的な“格”だ。

 つまり、本日のお茶会は『外交戦』である。


 私はすでに厨房で、完全勝利の準備を整えていた。


 今日の主役は――苺のショートケーキ。

 フワフワのスポンジ、濃厚な生クリーム、甘酸っぱい新鮮な苺。

 そして、前世の社畜知識を総動員して再現した最高級ダージリン風の紅茶。


 この異世界にも茶葉はある。だが蒸らし方、お湯の温度、香りの引き出し方までちゃんと理解して淹れる文化は、まだ薄い。そこへ前世の“ガチのアフタヌーンティー知識”を叩き込む。強い。無敵だ。


「奥様、スポンジの焼き上がり、完璧です」

 料理長が誇らしげに言う。

「ありがとうございます!」

「生クリームも、氷魔法でダレないよう最高の状態に冷やしております」

「素晴らしい……!」


 私は完成したケーキを見て、ウン、と力強く頷いた。

 雪のように白いクリームの層。宝石のように鮮やかな苺。切り分けた断面の美しさ。

 これは勝つ。見た目の時点で、もう完全に勝っている。


 そして紅茶。

 今回はクロエにも手伝ってもらい、魔導具で蒸らし時間や温度を1度単位で細かく調整した。


「香り、どう?」

「いい。かなりヤバい」

 クロエが真顔で頷く。

「これ、鼻に抜ける高貴な感じがエグいわね」

「でしょ?」

「王都の奥様方、一口飲んだらプライドへし折られて一回黙るわよ」

「狙い通り!」


 準備万端である。


 ◇ ◇ ◇


 やがて、応接間へ通された貴族夫人たちが姿を見せた。


 年の頃は三十代後半から五十代前半。

 どの人も上等なシルクのドレスに身を包み、宝石も控えめながら質がいい。背筋はピンと伸び、目線の運び方ひとつに“私は長年王都の社交界の中心で生きてきましたのよ”という強烈な自負が滲んでいる。


 そしてその自負は、辺境という土地への微妙な色眼鏡(侮り)を隠しきれていなかった。


「まあ……思ったよりは、ちゃんとしたお屋敷になっておりますのね」


 最初に口を開いたのは、青灰色のドレスを着た侯爵夫人だった。


「ええ、本当に。もっとこう……土埃まみれで荒れているかと」

「失礼がすぎませんこと?」


 別の夫人が扇子で口元を隠してたしなめるように言うが、その声音にも“でもおっしゃる通りですわね”が滲んでいる。


 うん、知ってた。テンプレ通りのマウントだ。

 私は完璧な営業スマイルを崩さなかった。


「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。辺境は王都より寒うございますから、まずは温かいお茶でもいかがでしょう」

「……お気遣い、ありがとうございます」


 侯爵夫人がツンと微笑む。微笑むが、目は完全にこちらを値踏みしている。

 クロエは私の後ろで、ものすごく楽しそうな悪い顔をしていた。あなた、後で絶対に酒のツマミにして感想会する気でしょう。


 夫人たちが優雅に席へ着く。

 背筋の伸ばし方、視線の流し方、どれも完璧だ。だがその一方で、王都から逃げてきた隠しきれない疲労も薄く見えていた。

 目元の隈。少し荒れた肌。そして、時折こちらを探るような不安げな目。


 余裕があるように見せてはいるが、本当は泥船から逃げ出して必死なのだ。

 だったら、やることは一つだ。胃袋からわからせてやる。


「お待たせいたしました」


 侍女たちがワゴンを押して入ってくる。


「本日は、辺境風のささやかなお茶菓子を少々」


 その瞬間。

 応接間の空気が、フワリと暴力的に変わった。


 まず広がったのは、焼き立てのスポンジと濃厚な生クリームの甘い香り。

 続いて、丁寧に淹れたダージリンの突き抜けるような芳香。

 そして最後に、運ばれてきた真っ白な皿の上の『ショートケーキ』を見た夫人たちの目が、揃って限界まで見開かれた。


「……まあ」

「これは……」

「なんて、美しい……宝石のようですわ……」


 よし、第一段階ビジュアル大成功。


 白い生クリームをたっぷりまとったケーキは、この世界ではまだ存在しない。

 しかもフワフワのスポンジ、果実の鮮やかさ、層の芸術的な美しさ。視覚だけで脳髄を殴る破壊力がある。


 私は女神のように穏やかに微笑んだ。


「『苺のショートケーキ』と申します」

「しょーとけーき……」

「初めて聞くお菓子ですわ」

「この不毛の辺境で、このようなものが……?」


 最後の一言には、やっぱり少しだけ驚きと侮りが混じっていた。

 だがもう遅い。逃げられない。

 侍女が紅茶を注ぐ。


 琥珀色の液体がティーカップへ満ち、香りがフワァッ……と立ちのぼる。

 その瞬間、夫人たちの目の色が変わった。


「……香りが、王都のものと全く違う」

 年長の伯爵夫人が震える声で小さく呟く。

「ええ。茶葉自体は同じはずなのに」

「淹れ方ですわ」

 私は静かに、ドヤ顔を隠して答えた。

「少しだけ、魔法と温度の工夫を」


 そして、いよいよ夫人たちが銀のフォークを手に取る。

 フワリ。

 スポンジへフォークが抵抗なく沈み込む感触だけで、何人かの目が真ん丸になった。


「柔らかい……」

「崩れないのに、雲のように軽い……」


 パクリ。

 応接間が、完全に静まり返った。


「……………………」

「……………………」

「……………………」


 私は内心でカウントダウンを数えた。

 一。二。三。

 そして四秒目で。


 一番気位の高かった青灰色のドレスの侯爵夫人が、ガクッ! と白目を剥きかけた。


「ッ、な……!?」


 隣の夫人が紅茶をひと口含み、そのまま「はぁぁぁぁ……」と恍惚の表情で天を仰いで昇天しそうになる。

 向かいの夫人は無言でケーキをもう一口。さらに紅茶。そしてまたケーキ。フォークの動きが残像を引いている。


 完全に入った。

 私の圧倒的勝利である。


「……何ですの、これ」


 侯爵夫人からようやく絞り出された声は、感動でブルブルと震えていた。


「なぜ、こんな……こんな至高のものが……!」

「お口に合いましたか?」

 私がワザとらしく穏やかに笑うと。

「美味しいどころの騒ぎではありませんわ……ッ!」


 別の夫人が、ほとんど取り乱して叫ぶように言った。


「この白いクリーム、口に入れた瞬間に雪のように消えますのに、苺の酸味と一緒にしっかりとした強烈な存在感がありますのよ!? しかもこの紅茶が……紅茶が甘さを全部完璧に受け止めて、高貴な香りだけを喉の奥に残していくなんて……ッ!」


 食レポの分析が細かすぎる。

 さすが普段から王都で高いものを食べている美食家は違う。


 すると、最も気位が高そうだった侯爵夫人が、ゆっくりとティーカップを置いた。

 その目は、来た時の“値踏みする目”から完全に変わっていた。


「……ルシアナ様」

「はい」

「先ほど、“思ったよりちゃんとしている”などと、田舎者を見下すような大変無礼なことを申し上げたのは、わたくしですわ」


 私は静かに微笑む。まあ、そうですね。


「謹んで、全力で訂正させていただきます」


 侯爵夫人はスッ……と居住まいを正し、深々と頭を下げた。


「辺境は、思った以上どころではなく……王都など比較にならないほど、完全に『格』が違いましたわ。わたくしたちが井の中の蛙でした」


 おおお。

 クロエが後ろで肩を震わせていた。絶対に爆笑を堪えている。


 そこから先は早かった。マウント合戦は終了し、狂乱のファンクラブ結成会へと移行した。


「このお茶、茶葉はどちらの商会のものですの!?」

「このケーキ、辺境に住めば毎日いただけます!?」

「王都へレシピを売るのではなく、ここでしか味わえない特産品にした方が絶対に良いですわ!」

「というか、ルシアナ奥様のお茶会、今後も定期的にございますの!?」

「わ、わたくし、這ってでも辺境へ移住したいのですけれど!!」


 夫人たちの温度が沸点に達した。

 さっきまでの探るような目はどこへやら、今や完全に“推し(神)を見つけた限界オタクの貴婦人たち”のそれである。


 私はちょっと引きながらも、ニコニコ答えた。


「お気に召していただけて何よりです」

「お気に召すどころではございません!」

「わたくしは今まで、何をありがたがって食べておりましたの!?」

「王都の菓子職人たち全員に、今すぐ慰謝料と謝罪を要求したいくらいですわ!」


 そこまで言う?

 いや、でもわかる。ショートケーキと完璧なダージリンの組み合わせは強すぎる。文明の暴力だ。


 クロエがついに堪えきれず、後ろからドヤ顔で割り込んできた。


「でしょう? だから言ったのよ。今の辺境はヤバいって」

「クロエ様!」

 夫人たちが一斉に彼女を見る。

「ああ、天才と名高いアシュフォード侯爵令嬢! やはりこちらへ亡命していらしたのね!」

「ええ、泥舟からは早めに飛び降りましたわ」

「そのご判断、今となっては大正解でしたわね……」


 夫人たちの目に、ほんの少しだけ暗く疲れた影が差す。

 ああ、やっぱり。王都はかなりひどい状況なのだ。


 最初に白目を剥きかけた伯爵夫人が、フォークを置き、深くため息をついた。


「……正直に申し上げますわ」

「はい」

「わたくしたち、最初は本当に辺境を舐め腐っておりましたの」

「でしょうね」

 クロエが容赦なく即答した。

「クロエ!?」

「でも事実でしょ」

「……ええ、ぐうの音も出ない事実ですわ」


 夫人たちは自嘲気味に苦笑し、それから静かに、重い言葉を続けた。


「王都は、もう終わりです」

「……」

「市場は空っぽ。物価は天文学的に高騰。神殿も王家もまったく当てにならない。夫たちは表向き平静を装っておりますけれど、家の中では皆、明日国が滅ぶ恐怖で胃を痛めておりますのよ」

「ですから」

 侯爵夫人が真っ直ぐ私を見た。

「辺境伯閣下とルシアナ様にすがるしかないと、ようやく骨の髄まで理解したのです」


 その悲痛な言葉に、私は静かに頷いた。

 お茶会の場である。けれど、ただの歓談では終わらない。終わらせない。

 私はティーカップを置き、穏やかだが凛とした声で言う。


「辺境は、助けを求める方を無下にはいたしません」

 夫人たちの表情がホッと安堵に緩む。

「ただし」

 私は続けた。

「ここはもう、“王都の都合で見下しながら、困った時だけ寄りかかれる都合のいい田舎”ではありません」


 応接間がシンッ……と静まり返る。


「この土地にはこの土地の誇りがあり、努力があり、守るべき領民たちがいます。ですから、こちらへ亡命して暮らされるのでしたら、辺境のルールに従い、辺境をちゃんと好きになってください」


 少しだけ強い、釘を刺す言葉だったかもしれない。でも、ここは絶対に譲れない。


 夫人たちは私を見つめ、やがて最初に侯爵夫人が深く、深く頷いた。


「……ええ。誓いますわ」

「約束できますか?」

「できますわ」


 今度のその返答は、最初の上辺だけのものよりずっと真っ直ぐで、力強かった。


「少なくとも、わたくしはもう」

 侯爵夫人が、空になった皿の上のケーキの残像を見てから、ほんの少しだけ乙女のように笑う。

「こんな奇跡のようなケーキとお茶がある土地を、嫌いにはなれそうにありませんもの」


 その瞬間、応接間の張り詰めていた空気がフワッ……とほどけた。


 クロエが横で小さく拍手する。

「はい、ここで完全に落ちたわね」

「人聞きが悪い」

「でも胃袋掴んで事実上の降伏宣言させたでしょ」

「……まあ」

 否定はできない。


 ◇ ◇ ◇


 その後のお茶会は、和やか(というか熱狂的)そのものだった。


「ルシアナ様、このケーキ、もう一切れだけ……っ!」

「もちろんです」

「紅茶もおかわりを……!」

「ありますよー!」

「ルシアナ様、今度ぜひわたくしにお菓子作りをご教授くださいませ!」

「えっ、侯爵夫人がご自分でですか?」

「ぜひ! わたくし、今まで“家の厨房は下の者に任せておけばいい”と傲慢に思っておりましたが、完全に認識を改めましたわ!」

「それはかなり大きな意識改革ですね……」


 気づけば夫人たちはすっかり上機嫌になり、あれこれと辺境の最新の暮らしに興味を示し始めていた。


 極楽の温泉。

 共同洗濯場(全自動洗濯機)。

 にんにく特濃ラーメン。

 肉汁たっぷりハンバーガー。

 人類を堕落させるこたつ。


 説明するたびに「まあ!」「なんて便利!」「信じられませんわ! 王都より進んでおります!」と大騒ぎである。

 そして最後には、私の手を両手でガシッと握って、目を潤ませながらこう言った。


「ルシアナ様……」

「はい?」

「わたくしたち、もう絶対に、死んでも王都へは戻りたくありませんの……!」

「それはだいぶ重い亡命宣言ですね」

「だって、あんな泥船に戻ったら、毎日泥水とゲコですもの!!」

「語感が最悪すぎる」

「王都では、もう優雅なお茶会どころではありませんのよ!」

「それは……お察しします」


 ゲコが日常に完全侵食している。地獄だ。


 夕方、お茶会がお開きになる頃には、夫人たちの目は完全に変わっていた。

 来た時の“辺境を視察する上から目線の貴婦人”ではない。

 “今すぐ辺境に永住したい。できればルシアナ様のお茶会ファンクラブの最前列に陣取りたい”という、熱狂的なオタクの目だ。


 恐ろしい。ショートケーキとダージリンの洗脳力、恐ろしい。


 帰り際、侯爵夫人が私の前で優雅に一礼した。


「ルシアナ様。本日は、本当にありがとうございました。目が覚めましたわ」

「いえ、お気をつけて」

「辺境で暮らす手続きを、至急夫に進めさせますわ」

「お待ちしております」


 すると、その隣の伯爵夫人がこっそりと耳打ちしてきた。


「それと」

「はい?」

「今後、ルシアナ様主催の定期的なお茶会が開催されるご予定は……?」

「そこ!?」

「死活問題ですわ!!」


 ものすごく重要らしい。

 私は半ば笑いながら答えた。


「機会があれば、ぜひ」

「まあっ!」

「次回は、王都の気の置けない友人たちも連れて来てよろしいかしら!?」

「もう完全にファンクラブの勧誘と布教活動になってますけど!?」


 でも、嫌ではない。むしろちょっと面白い。


 ◇ ◇ ◇


 そうして熱狂する夫人たちを見送り、応接間へ戻った私は、ドッとソファへ沈み込んだ。


「……つ、疲れた……」

「お疲れさま」

 クロエがニヤニヤしながら向かいへ座る。

「でも痛快だったわよ、ルシアナ。完全に落としてたわね」

「人聞きが悪いってば」

「だって事実だもの。辺境の二大女神に続いて、今度は『貴族夫人熱狂ファンクラブ』の会長候補じゃない?」

「いらないよそんな厄介な肩書き!」


 私が頭を抱えていると、不意に隣へ大きな気配が落ちた。

 見上げると、クライヴ様が立っていた。


「クライヴ様」

「よくやったな」


 低い声とともに、大きな手が私の頭へポンッと置かれる。

 そして、優しく、愛おしげに撫でられた。


「ッ」


 不意打ちでそういう甘やかしをされると、本当に心臓が困る。


「……旦那様、ズルいです」

「何がだ」

「疲れてる時に、そんなに優しくしないでください。甘えちゃうじゃないですか」

「疲れている時だからこそ、俺に甘えろと言っている」

「そういうところです!!」


 クロエが向かいで楽しそうに頬杖をついている。

 やめて、その「ごちそうさま」みたいな顔。


 クライヴ様は私の隣へ腰を下ろすと、当然のように私の腰へ腕を回してグイッと抱き寄せた。


「えっ、ちょ、クライヴ様」

「誰もいない」

「目の前にクロエいるよ!?」

「私は空気よ。壁のシミだと思って」

「嘘つかないで、めっちゃニヤニヤ見てるじゃない!」


 でも、クライヴ様の腕の中はたまらなく温かかった。

 応接間でずっと気を張っていたぶん、その大きな体温がやけに心地よくて、つい身を預けてしまう。


「……あの方たち」

 私はポツリと呟く。

「本当に、辺境を好きになってくれるでしょうか」

「なるさ」

 クロエが即答する。

「だって、もう胃袋も心も完全にルシアナが掴んだもの」

「食をそんな乙女ゲームの攻略法みたいに言わないで」

「でも正しいでしょ」

「まあ……」

 否定はできない。


 クライヴ様も小さく頷いた。


「お前がそう言ったなら、あいつらも簡単には裏切らんだろう」

「そうでしょうか」

「ああ」

 その声は静かで、揺るがなかった。

「お前が差し出したものは、ただの美味い食い物だけじゃない」

「え?」

「『居場所』だ」


 その言葉に、私は目を瞬いた。

 居場所。


 たしかに、そうかもしれない。

 お茶とケーキで強張った心をほぐし、辺境を見下したままではいられないとハッキリ伝え、それでも「ルールを守るなら受け入れる」と余地は示した。

 ただ甘やかすだけじゃない。でも突き放すだけでもない。


「……クライヴ様」

「なんだ」

「今日の私、辺境伯夫人としてちゃんとしてました?」

「ちゃんと、どころではないな。完璧だ」

「それ、褒めてます?」

「もちろんだ。俺の自慢の妻だ」


 サラッとド直球で言われて、私はまた顔から火が出そうになる。

 だめだ。最近、本当にこの人の“褒め”と“甘やかし”の火力が容赦ない。


 クロエが向かいで面白そうに言う。


「ねえルシアナ」

「なに」

「次のお茶会、もっと規模を大きくしてもいいんじゃない?」

「えっ」

「だって今の流れ、王都から絶対また大量に人が逃げて来るわよ」

「……来るかも」

「確実に来るわね」

「来るだろうな」

 クライヴ様まで同意した。


 私はソファにもたれ、天井を見上げた。


「……辺境、ますます賑やかになりそう」

「いいことじゃない」

 クロエが笑う。

「面白くなってきたってことでしょ?」

「それはそうなんだけど」


 その時だった。

 廊下の向こうから、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきた。


 嫌な予感しかしない。

 次の瞬間、バンッ! と扉が勢いよく開く。


「奥様! 閣下!」


 飛び込んできた若い騎士が、息を切らせて叫んだ。


「国境沿いの見張りより急報です! 王都方面から、馬車と徒歩の『大量の避難民』が、こちらへ向けて大移動しております!」


 応接間の空気が、一瞬で引き締まった。


 来た。

 とうとう、来てしまったのだ。


 王都の崩壊と混乱が、ただの噂でも、ただの貴族夫人のお茶会事情でもなく、“現実の人の波”となって辺境へ押し寄せ始めたのである。


 私はクライヴ様を見上げた。

 彼の黄金の瞳は、もう穏やかな色を完全に消していた。

 静かで、冷たく、そして帝国最強の領主として揺るがない。


 どうやら次に始まるのは、優雅なお茶会では済まない『本格的な国家規模の対処』らしい。



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