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第25話 ユリウスの口説き文句に、旦那様マジギレ

 辺境の広場に、凍りつくような沈黙が落ちた。


 ついさっきまで、焼きたてのパンと肉の暴力的な匂いに釣られた領民たちが、ワイワイとお祭り騒ぎでハンバーガーを頬張っていたというのに。

 今は全員が、息を呑んでピタリと動きを止めている。


 理由はもちろん、目の前の男だ。


 隣国ヴァルディア帝国皇帝、ユリウス・アスカニオ。


 しがない旅人を名乗っておきながら、実際はお忍びで辺境へやってきたバリバリの皇帝陛下。しかも現れた途端、初対面の私に向かって「皇帝の隣という選択肢もあるよ?」などと、とんでもない爆弾発言を投下した張本人である。


 いや、待って。


(皇帝ってそんな軽やかに野良の人間をスカウトするの!? ベンチャー企業の社長か何か!?)


 私のオタク脳は完全に処理落ちしていた。


 だって相手は一国の皇帝だ。しかも顔がいい。

 いや、私の旦那様(推し)の方が宇宙一顔がいいけれど、それでもユリウスは普通に国宝級の美形だし、何より『空気の支配の仕方』が巧すぎる。サラッと冗談みたいに言うくせに、青灰色の視線の奥はちゃんと本気で私の価値を値踏みしているのがわかる。


 怖い。こういう“笑いながら人の本質を量る男”は怖い。

 しかし今、この場で一番怖いのはもちろん――。


 私のすぐ背後にいる、大好きな旦那様である。


 クライヴ様は、静かだった。

 静かすぎて、逆にヤバい。


 普段から寡黙な人ではある。だが今のこの静けさは、そういう種類ではない。

 嵐の前。雷の前。巨大な氷河が割れる前。そういう、完全に『自然災害クラス』の静けさだ。


 私は冷や汗をかきながら、そろそろと口を開いた。


「ええと、ユリウス陛下」

「うん?」

「破格のお誘いは光栄の極みですが、私はすでにクライヴ様の妻ですので」


 まずは穏当に、営業スマイルで断ろう。そう思ったのだ。

 しかしユリウスは、ニッコリと人好きのする笑みを浮かべたままだった。


「知ってるよ」

「ですよね」

「でも、知った上でワンチャン狙って言ってる」


 駄目だ。この人、全然引かない。メンタルが鋼でできている。

 しかも、次の瞬間。

 ユリウスはごく自然な動作で、私の方へスッ……と一歩近づいてきた。


「君みたいな特級の人材を、辺境の片隅に置いておくのは世界の損失だって話さ」

「片隅って言わないでください。辺境はすごく豊かで良いところです」

「それも知ってる」


 軽やかな声音。でも、その青灰色の瞳はジッと私を射抜いていた。


「だからこそ、惜しいんだよ。君はもっと大きな舞台、帝国の中心でも絶対に輝ける」

「いや、私そんな大層な人間じゃ……ただの食いしん坊なオタクでして……」

「謙遜は美徳だけど、度が過ぎると損をするよ?」


 言いながら、ユリウスは私の手元へ視線を落とした。

 その流れるような動きに、私は特大の嫌な予感を覚える。

 だが止める間もなく、ユリウスの指先が、私の手へ伸びた。


 あっ、と思った時には遅かった。


「せっかくだし、もう少し正式に口説こうか」


 そう言って、彼が私の右手を取ろうとした、その瞬間。


 ――バキィィィィィィッッ!!!


 空が物理的に割れたみたいな、鼓膜を破る轟音が響いた。


「ひっ!?」

「うわああああッ!」

「な、何だ!? 敵襲か!?」


 広場中に領民たちの悲鳴が上がる。

 頭上の雲一つない青空に、目も眩むような『真っ白な雷光』が走ったのだ。


 ありえない。超快晴なのに。なのに、落雷じみた極大の魔力の閃光が、広場の上空を真っ二つに引き裂いた。


 その中心にいたのは、もちろん。

 我が旦那様、クライヴ・ヴァルツェインだった。


 彼はいつの間にか私の前へ立ち、ユリウスの手を完全に遮るように片腕を伸ばしていた。

 突風が巻き起こり、漆黒の軍服と外套がバサァッ! と翻る。黄金の瞳は完全に凍りつき、周囲の空気が一気にシベリアの永久凍土と化した。


「――触るな」


 地を這うような、低く、静かな声。

 けれどその一言だけで、広場の温度が物理的に十度は下がった。


 ユリウスは、差し出しかけていた手を止めたまま、口元だけで笑った。


「おお、怖い怖い。ご挨拶だね」

「俺の妻に、許可なく触れるな。塵にするぞ」

「ただ西方の礼儀として、美しい手の甲に口づけでもしようかと思っただけなんだけど?」


 その言葉に、私は「えっ」と素っ頓狂な声を漏らした。

 いや待って。口づけ!? 手の甲に!?

 皇帝、サラッと何を言ってるんですか!? それ乙女ゲームの重要スチルが発生するヤツ!!


 そして当然、それを聞いたクライヴ様の殺気がさらに一段階冷えた。


「……汚すな」

「はい?」


 ユリウスが片眉を上げる。

 クライヴ様は、一歩前へ出た。


「俺の天使を、貴様のその汚い口で汚すな」

「て、天使ッ!?」


 私が顔から火を噴いて固まった。

 周囲の領民たちも「閣下……!」と赤面して固まった。

 クロエは横で「うわぁ、激重」と小さく呟いた。たぶん私と同じくドン引きと尊さで語彙を失っている。


 ユリウスだけが、目を丸くした後、堪えきれないみたいに肩を震わせて吹き出した。


「ハハハッ! なるほど、そう来るか! 君の口から『天使』なんて単語が聞ける日が来るとはね!」

「笑っている場合か、万死に値するぞ」

「いやいや、面白すぎて」

「俺は一ミリも面白くない」


 ピシャリ、とクライヴ様が絶対零度で切り捨てる。

 その背後に、バチバチバチッ! と巨大な紫電と氷の魔力が渦巻き始めた。


 雷だ。いや、純粋な雷魔法ではない。氷も混ざっている。明らかに“対軍用”の殲滅魔法だ。

 国境防衛レベルの超絶魔力が、たった一人の皇帝へ向けてピンポイントで収束していく。


 まずい。

 これは、かなりまずい。


「ク、クライヴ様!!」


 私は慌てて彼の外套の裾を力いっぱい掴んだ。


「落ち着いてください! ここ、平和な広場です!!」

「知っている」

「知っていてその殲滅出力なんですか!?」

「かなり抑えている」

「抑えて空が割れるんですか!?」


 全然安心できない。基準がバグりすぎている。


 一方でユリウスも、ただの飄々としたナンパ皇帝ではなかったらしい。

 彼は「やれやれ」と肩をすくめつつ、一歩下がるどころか、逆に少しだけ重心を落とした。

 その瞬間、彼の周囲にも、薄い金色の強大な魔力膜がフワリと広がる。


 やめて。

 広場のど真ん中で、皇帝と帝国最強の辺境伯がガチの魔法戦の構えを取らないでほしい。


 クロエが横でド真顔になった。


「ルシアナ」

「なに!?」

「これ、マジでまずいわ」

「わかってる!」

「二人がぶつかったら、辺境の街が物理的に半壊するわ」

「規模がデカすぎるのよ!!」


 周囲の騎士たちも顔面蒼白で一斉に動き出した。


「領民を直ちに下がらせろ!」

「屋台を全力で避けろ!」

「子どもを絶対に前へ出すな!」


 レオンハルト団長は額に青筋を浮かべ、胃を押さえつつも、非常に冷静だった。


「閣下! ここで隣国皇帝と本気でやり合われると、外交上も地形上も最悪の事態になります!」


 地形上。

 そうだよね。物理的に広場がクレーターになるよね。


 しかしクライヴ様は一ミリも引かなかった。


「なら、その前にあの男をこの世から退かせろ」

「それは私ではなく、奥様の役目です!!」


 レオンハルトがピシャリと言い切った。

 えっ、私!? この超高火力の化け物二人の間に入るの!?


 でも、そうだ。やるしかない。

 というか、原因の半分(口説かれたの)は私だ。なら止めるのも私の仕事だろう。


 私は大きく深呼吸した。

 そして、グイッ! とクライヴ様の袖を強く引く。


「クライヴ様!」

「何だ」

「落ち着いてください!」

「俺は常に落ち着いている」

「落ち着いている人は、真昼間に空を真っ二つに割りません!!」


 ド正論だったと思う。

 クライヴ様は一瞬だけ口を噤んだ。


 そこへすかさず、ユリウスが楽しそうに口を挟む。


「いやあ、相変わらず独占欲がエグいね、君」

「黙れ」

「だって『昔から』君は、一度自分のものだと決めたら――」

「黙れと言った」


 ……ん?

 今、“昔から”って言った?


 私はピクリと反応した。

 クロエも同じだったらしく、目がキラッと光っている。


 えっ。もしかしてこの二人、初対面じゃない?

 そう思ったのだが、今はそこへ突っ込んでいる場合ではない。


 私は今度はユリウスの方へ向き直り、最高の営業スマイルを浮かべた。


「ユリウス陛下」

「うん?」

「破格のスカウトは大変ありがたいですが、私はここ(辺境)が大好きです」

「不毛の辺境が?」

「不毛じゃありません! 美味しいご飯も温泉も最高の仲間もいる、全部が最高の場所です!」


 私はハッキリと言い切った。


「ですので、私は絶対に帝国へは行きません」

「即答だね」

「即答です」


 ユリウスは数秒、私を見つめた後、フッ……と目を細めた。


「……なるほど。本当に、この場所が好きなんだ」

「はい」

「そして、その不器用な男のことも」


 その直球の問いに、私は少しだけ頬がカァッと熱くなるのを感じた。

 けれど、今さら誤魔化す気にはなれない。


「……はい」


 私はちゃんと頷き、クライヴ様の腕をキュッと掴んだ。


「クライヴ様の隣が、私のたった一つの居場所です」


 その一言が、広場に静かに落ちた。


 クライヴ様の背中越しでもわかる。ピタリと、空気が変わった。

 荒れ狂う寸前だった恐ろしい魔力が、嘘のようにスッ……と静まる。空を割った雷光も消え去った。チョロい。旦那様、私からの愛情表現に弱すぎる。


 一方のユリウスは、なぜかものすごく愉快そうな顔になった。


「ははっ、参ったな」

「……何がだ」


 クライヴ様が低く問う。


「いや、思った以上に君、奥さんにベタ惚れされてるじゃないか」

「当然だ。俺の妻だからな」

「堂々としてるなぁ」


 ユリウスは肩を揺らして笑った。

 そして、ようやく両手を軽く上げて降参のポーズをとる。


「わかったよ。今日のところは綺麗に引こう」

「今日のところは、だと?」

「冗談だって。さすがに旧友の愛する人妻を、本気で強奪するほど無粋じゃないさ」


 私はホッと息をつきかけた。

 だが次の言葉でまた固まる。


「でも、ルシアナを口説くのは最高に楽しかったよ」

「えっ」

「反応が素直で可愛いし。また口説きに来るかもね」

「なっ」


 それを聞いた瞬間、クライヴ様の空気がまたシベリアになった。

 やめて。もうやめて。広場が凍る。


 私は慌てて口を開く。


「私は全然楽しくないです! 心臓に悪すぎます!」

「それはすまない」

「一ミリもそう思ってない顔してません!?」

「してないね」


 この皇帝、メンタルが強すぎる。


 だが、そこでクライヴ様が動いた。

 グイッ! と私の腰を強く引き寄せ、そのまま完全に自分の腕の中へガッチリと囲い込む。逃げ場ゼロの『完全ホールド体勢』だ。


「ク、クライヴ様!?」

「黙って俺の腕の中にいろ」


 低い声が耳元へ落ちる。

 そして彼は、ユリウスを真正面から氷の瞳で見据えた。


「次に俺の妻に同じ真似をしたら、皇帝だろうと国ごと容赦はしない」

「こわいこわい」

「怖がる顔をしていないな、貴様」

「だって君、本気でキレてる時の方が、かえって話が早いからね」


 その言い方に、クライヴ様の眉がピクリと動いた。


 やっぱり。

 やっぱりこの二人、何かある。

 初対面ではない。むしろ、かなり気安い。気安すぎる。口調が完全に『悪友同士』だ。


 私がきょとんとしていると、クロエがそっと肘でつついてきた。


「ねえ、ルシアナ」

「なに?」

「あれ、絶対知り合いよね」

「やっぱりそう思う?」

「むしろ“ただの知り合い”じゃないわ。悪友って感じ」

「だよねぇ……」


 コソコソ話す私たちの前で、ようやくクライヴ様は完全に魔力を引っ込めた。

 空気がフワッと緩み、領民たちも少しずつ呼吸を取り戻す。


 助かった。あと一歩で広場が伝説の決闘場になるところだった。


 ユリウスはそれを見届けると、何事もなかったかのように上質な外套を払った。


「さて」


 彼はまた、いつもの飄々とした顔へ戻る。


「せっかくお忍びで来たんだ。君をからかって怒らせた詫びに、今夜はちゃんと美味い酒でも付き合ってくれないか、クライヴ」


 名前で呼んだ。

 はい、旧友確定です。


「断る」

「そう秒で言うと思った」

「さっさと自国へ帰れ」

「つれないなあ」


 言葉こそ軽いが、ユリウスの青灰色の瞳はどこか真面目な光を帯びていた。


「でも、本題もあるんだ」

「……」

「あっちの王都、もう長くないだろう?」


 その瞬間、クライヴ様の目つきがスッ……と鋭く変わった。


 軽口の応酬ではない。

 これは、別の話だ。

 私は思わず息を呑む。


 ユリウスはニッコリともせず、低い声で続けた。


「君も、そろそろ『動く』つもりじゃないのかい?」


 広場の喧騒が、また少し遠くなる。

 今度は恋愛の火花ではない。もっと大きな、もっと危うい、国の根幹に関わる話が始まりそうな気配だった。


 クライヴ様は数秒黙った後、静かに言う。


「……場所を変えるぞ」

「やった。やっとまともに話ができる」

「お前のまともは一ミリも信用ならんがな」

「君も相変わらず手厳しいね」


 そしてユリウスは、今度こそ本当に一歩引いた。


「じゃあ、夜に」


 そう言い残し、彼はヒラリと手を振って去っていく。

 その背中を見送りながら、私はようやく大きく息を吐いた。


「つ、疲れた……寿命が縮んだ……」


 するとクライヴ様の腕が、さらに私を強く抱き寄せる。


「すまなかった」

「いえ、クライヴ様は悪くありません。たぶん」

「たぶん?」

「ちょっと嫉妬で空を真っ二つに割ったくらいですし」

「かなり抑えていたんだがな」

「それをもう少し早く抑えてくださいね!?」


 そうツッコミを入れると、クライヴ様がほんの少しだけ口元を緩めた。

 だが、その穏やかさはほんの一瞬だった。

 すぐに彼の目は、去っていくユリウスの背へ戻る。


「……あの男、やっぱりただの食いしん坊なナンパ皇帝じゃなさそうですね」

「ただの食いしん坊ではないな。厄介な男だ」

「お知り合い、なんですか?」

「……夜になれば、すべてわかる」


 その返事は、否定ではなかった。


 私は胸の奥に、小さなざわめきを覚える。

 ユリウスの軽薄そうな笑顔。

 クライヴ様の本気の怒り。

 そして最後に交わされた、意味深な言葉。


 どうやら次に始まるのは、単なる口説き文句の続きではなく――国の行く末まで絡む、超ド級のスケールの話らしい。


 その夜。

 私は知らないうちに、辺境の未来を大きく左右する『極秘の密談』の幕が、静かに上がろうとしていた。



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