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第21話 王国の飢餓と「ゲコ化」

 その頃、王都では。


「どうしてなのよおおおおおっ!!」


 王城の一角にある豪奢な私室で、リリアン・フォン・ローゼンクロイツは半狂乱で叫んでいた。

 いや、半どころではない。九割九分狂乱である。


 鏡台の前には、叩き割られた高級な化粧瓶。

 床には散乱したドレス。

 高価な絨毯の上には、またしてもドブ臭い泥水と化したファンデーションの成れの果てが、べしゃりと広がっている。


 そして、その中心で肩を震わせるリリアンの顔には――以前よりもはるかに増殖した、不気味な『緑色のまだら模様』が浮かんでいた。


 右頬だけだった斑点は、今や左頬へも侵食している。

 首筋にまでじわじわと広がり、光の加減では完全に“両生類カエル特有のぬめっとした質感”に見えるという最悪の進化まで遂げていた。


「いやよ……いや、いや、こんなの、いやゲコォッ!!」


 最後、盛大に混じった。

 リリアン本人も、叫んだ直後に硬直した。

 控えていた侍女たちも、息を呑んで硬直した。


 そして次の瞬間。


「今のなしっ! 今のは違うの! 違うゲコッ!」


 駄目だ。さらに悪化している。


 そう。

 ついにリリアンの『呪い返し』は、顔の皮膚だけでは飽き足らず、喉帯(声帯)にまで到達していた。


 最初は焦った時だけ、語尾に小さく「げこ」が混じる程度だった。

 だが日を追うごとに症状は悪化し、今では気を抜くと二言に一言は「ゲコ」が割り込んでくる。

 しかも、怒ったり焦ったりして感情が昂ぶるほど、頻度と音量が増す仕様だ。


 これはもはや呪いというより悪質なギャグだが、当人にとってはたまったものではない。


「神官はまだなの!? 早く呼びなさいゲコッ! あああもう違うって言ってるでしょおおおゲコォッ!!」


 侍女たちは半泣きで深く頭を下げた。


「も、申し訳ありませんリリアン様! すでに第五神殿まで使者を――」

「遅いのよ! 全部遅いの! この城の人間、誰も彼も無能ばかりゲコッ!!」


 もう会話の半分以上がカエルに侵略されている。

 侍女たちは必死に顔を伏せた。誰も彼女と目を合わせない。合わせられない。

 だって笑ったら不敬罪で殺されるし、同情するにも限度(と滑稽さ)がある。


 だが、リリアンの災難は自分の顔面と語尾の崩壊だけでは済まなかった。


 王都全体が、今や目に見えて『崩壊』し始めていたからである。


 発端は、作物だった。

 王都近郊の豊かな畑で育っていた麦が、収穫を前にして次々とドス黒く変色し始めたのだ。

 見た目は実っているように見える。けれど刈ってみれば中はスカスカの灰。あるいは触れた端から、どろりと泥のように腐り落ちる。


 野菜もひどかった。

 芋は土の中で腐臭を放ち、葉物は朝露を浴びた瞬間に黒く萎れ、果実は熟す前にブヨブヨと崩れて蛆が湧く。

 家畜たちも妙に怯えて落ち着かず、乳の出は悪くなり、卵を一切産まなくなった。


 最初は「たまたま天候不順で不作なのだろう」と楽観視されていた。

 だが、それが王都近郊だけでなく、国の主要な農地一帯で同時多発的に連続した時。

 そして、“奇跡の聖女”であるはずのリリアンが、祈っても祈っても何ひとつ事態を改善できなかった時。


 人々はようやく、うっすらと気づき始めたのだ。


 ――あれ? この聖女様、もしかして本物じゃなくない?


 と。


「違うわ! 私は本物の聖女ゲコッ!!」


 今日も今日とて、王城の謁見室ではリリアンがヒステリックに叫んでいた。

 その前には神官長、重臣たち、そして顔色の悪い王太子アルフォンス。


 皆、心底疲弊していた。


 農地は腐る。

 市場では食料価格が十倍に跳ね上がる。

 飢えた民衆の不満は日に日に膨らむ。


 そこへ追い打ちをかけるように、辺境へ送り込んだ五十名の精鋭騎士団が、全員『氷漬けのクール便』のまま大型荷車で返品されたのだ。

 しかも、着払いで。


 城門前にドォォン! と届けられた“氷柱詰め合わせ・王都騎士セット”を見た時の王城のパニックは、今でも兵士たちのトラウマとして語り草になっているらしい。


「は、辺境伯が明確な反逆の意を示したのだ!」


 アルフォンスは顔を真っ赤にして叫んだ。


「い、いや、しかし殿下……」


 老臣の一人が、冷や汗を拭いながら恐る恐る言う。


「先に『側室にしてやる』などという無礼極まりない書状と共に、五十騎もの武装した兵を送ったのはこちらですし……」

「だから何だ! 逆らうことの許されない絶対の王命だぞ!?」

「その王命に、帝国最強の武力を持つ国境防衛の要・辺境伯が一切従わないというのは……我が国の存亡に関わる大問題でして……」

「問題なのはそこじゃないでしょうゲコォッ!!」


 リリアンが空気を読まずに金切り声を上げた。


「私の顔よ! 私の顔がまだこんなに醜いなのよ! それなのに呑気に責任論なんてしてる場合じゃないゲコッ!!」


 その瞬間、謁見室にいた全員の視線が、スッ……とリリアンの顔へ向いた。


 今日の彼女は、厚塗りどころか壁画レベルの化粧で必死に斑点をごまかしていた。

 しかし、その化粧がひどかった。

 というか、彼女が触れた化粧品は塗ったそばからすべて『泥水』へ変わる呪いにかかっているので、もはや“自分の顔に自ら泥を塗りたくっている狂人”にしか見えないのだ。


 頬に透ける緑のまだら模様。

 首筋にまで伸びた、両生類特有の湿った光沢。

 そして焦るたびに飛び出す「ゲコッ」。


 謁見室の空気は、なんとも言えない『お察し』のものになっていた。


 神官長が、いかにも胃に穴が開きそうな声で言う。


「リリアン様……一つ、よろしいでしょうか」

「なによゲコッ!」

「いえ、その……やはり一度、大聖堂の魔導具で『正式な聖女の神託判定』をやり直すべきでは――」

「はぁ!? 私を疑うの!?」

「疑うというより、暴徒化しつつある民を納得させるためのポーズとして必要で――」

「私は聖女よ! 判定なんて絶対に必要ないゲコォッ!!」


 神官長が黙った。

 そりゃそうだ。どれだけ言葉をヒステリックに飾っても、最後に「ゲコォッ」がつく泥顔の聖女には、一ミクロンの説得力もない。


 そして、説得力を失っていたのはリリアンだけではなかった。

 王太子アルフォンスもまた、日に日に悲惨さを増していたのである。


 原因は、極度のストレス。

 食糧難、民衆の暴動への恐怖、重臣たちの冷ややかな視線、そして辺境伯からの明確な殺意と拒絶。

 それらを受け止め、国を導く器が、もともとこの甘やかされた王太子にあったかといえば、まあ、ない。ゼロだ。


 結果、彼の身体にどういう異変が起きたか。


 頭頂部が、急速に薄くなった。


 最初は「気のせいだ。光の加減だ」と言い張っていた。

 だが側近たちは知っている。朝より夜の方が、明らかに地肌が眩しく輝いていることを。

 しかも最近では、苛立って自分の髪を掻きむしる癖までついたせいで、進行がマッハで早い。


 本人は必死に横の髪を流してバーコード状にごまかしているが、無理なものは無理である。


「リリアン、君が本物の聖女なら、今すぐ奇跡を起こして何とかしてくれ!」


 アルフォンスが、半ば八つ当たりみたいに叫んだ。


「王都の民が騒ぎ始めているんだ! 市場じゃ暴動寸前だし、神殿前では“偽聖女を火炙りにしろ”と叫ぶ過激派まで出ている!」

「な、何よその言い方! 私だってこんなに困ってるゲコォッ!」

「じゃあ治せ! 畑の腐敗も、君の顔も、喉も、全部どうにかしろ!」

「できたら苦労しないゲコッ!!」


 謁見室の空気が、完全に終わっていた。泥船である。


 重臣たちは深くため息をついて目を伏せ、神官たちは咳払いで誤魔化し、側近たちはなるべく視界の端でだけ王太子の輝く頭頂部を気にしている。

 誰もこの国の未来に希望を持てない。


 その時、外から地鳴りのような怒鳴り声が響いた。


「陛下に直訴させろ!」

「王室の食料庫を開けろ!」

「俺たちの子どもに食わせるパンの欠片もないんだぞ!」


 窓の外。

 王城前の大広間に、何千という民衆が集まり始めていた。


 飢えた顔。怒った顔。絶望した顔。

 市場に食料がない。あっても天文学的な価格だ。神殿へ行っても何も解決しない。王太子は無能。聖女は泥顔で“ゲコ”しか言わない。

 そりゃ怒る。暴動も起きる。


 アルフォンスの顔が恐怖で引きつる。


「な、何だあの数は!?」

「朝から集まっておりましたが、今しがたさらに人数が膨れ上がり……」


 側近が青ざめた顔で絶望的な報告をする。


「“辺境ではあんなに豊かな豊穣祭が開かれているのに、王都はどうしてこうなんだ”と、民の不満が完全に爆発しておりまして……城門を突破されるのも時間の問題かと」

「辺境、だと!?」


 アルフォンスの顔が、醜く歪んだ。


「よりにもよって、あの呪われた不毛の地が豊穣祭などと……ふざけるな!」


 その言葉には、露骨な嫉妬と劣等感が滲んでいた。


 そう。悔しいのだ。

 王都では作物が腐り、民が怒り、城が物理的に揺らいでいる。

 なのに辺境では、追放したルシアナが畑を蘇らせ、豊かな祭りを開き、領民たちが腹一杯食べて笑っている。

 かつて自分たちが“呪われた不毛の田舎”と見下した場所が、今や自分たちの足元よりずっと豊かで、最強の軍事力を持ち、人が幸せそうに暮らしている。


 そんな現実、プライドの高い彼らが認められるはずがない。


「全部、あいつのせいだ……!」


 アルフォンスがギリッ! と歯を食いしばる。


「ルシアナが辺境へ行ったから、こうなったんだ! あの女が王都の豊かさを持ち逃げし、リリアンへ呪いをかけたから……!」

「そうよ! お姉様が全部悪いのゲコッ!!」


 リリアンが勢いよく、見事な責任転嫁に同意した。


「お姉様さえいなければ、私はこんな目に遭わなかったゲコ! お姉様さえ無理やり連れ戻せば、全部元通りになるはずゲコォッ!!」


 すごい理論である。論理の飛躍が宇宙レベルだ。

 自分が嘘で人を断罪したことは棚の上どころか、もはやブラックホールに投げ捨てている。

 だが追い詰められた無能な人間は、たいていこうなる。自分の責任を認めるより、誰かを悪者にした方が精神的に楽なのだ。


 問題は、その“楽なクソ理屈”に、国のトップである王太子まで全力で乗ってしまったことだが。


「そうだ……!」


 アルフォンスの目が、ギラリと狂気を含んで光る。


「ルシアナだ! あいつを連れ戻せばいい! 辺境伯が庇うなら、国軍の総力を挙げて、もっと大きな武力と圧力をかければいい!」

「殿下、それは正気の沙汰ではありません!」


 老臣が悲鳴を上げて止める。


「辺境へこれ以上の軍を向ければ、本格的な内戦になりますぞ! 帝国最強の辺境軍に勝てるわけが――」

「だから何だ!? 王都が飢えようとしているんだぞ!」

「それは王都の行政の失敗で――」

「黙れッ!!」


 アルフォンスが激昂し、バンッ! と机を叩いた瞬間。


 パラッ……。


 何かが、彼の頭から肩へ落ちた。

 いや、正確には、大事な『髪の毛の束』だった。


「……………………」


 場が、死んだように静まり返る。

 アルフォンス本人も固まった。

 ゆっくりと、自分の肩へ落ちた金色の束を見下ろす。


「……え?」


 もう一度、自分の頭をさわる。

 ペリッ、と嫌な感触がした。


「え?」


 必死に横から流していた前髪の一部が、ごっそりと指先に絡んで抜けた。


「えっ!?」

「殿下ァァァッ!?」


 側近が絶望の悲鳴を上げる。


「ち、違う! 今のは、ちょっと! たまたま抜け替わりの時期で!」

「そ、そうですとも殿下! 季節の変わり目で猫の毛が抜けるように――」

「王太子は猫じゃありません! 馬鹿者!」

「し、失礼しました!」


 謁見室が、別の意味で地獄絵図になっていた。

 リリアンはそれを見て、一瞬だけ自分の“ゲコ化”を忘れたらしい。


「で、殿下のお頭が……ツルツルに……」

「見るなぁぁぁぁぁっ!!」


 王太子の情けない金切り声が響いた。


 王都の未来を担うはずの王太子と、聖女と呼ばれるはずだった少女。

 その二人が、片や『蛙化』、片や『薄毛化』で現実逃避の大騒ぎをしている光景は、もはや三流の喜劇以外の何ものでもない。


 だが、笑えないのは城の外の民衆である。

 飢えは現実だ。腐った作物も、空の市場も、日々減っていく食卓も、全部痛いほどの現実。

 そして現実を前に、人はいつか暴走する怒りへ変わる。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。

 市場ではついに、パン屋の店先で血みどろの掴み合いが起きた。


「押すな!」

「うちの子が三日も食べてないんだ!」

「金貨なんか持ってても、パンの欠片がないんじゃ意味がないだろ!」


 怒号。悲鳴。泣き声。

 暴動を止めようとした兵士にまで石が飛ぶ。

 神殿では「偽聖女を出せ!」という叫びが上がり、城門前では“無能な王太子を引きずり下ろせ”という怒りの声が夜まで止まなかった。


 そして、その大混乱の中心にいるはずのリリアンはというと。


「いやああああっ! また増えてるゲコォォォ!!」


 安全な私室で鏡を見て絶叫していた。

 頬から首へ、首から鎖骨へ。

 蛙のような緑のまだら模様は、確実に下へ伸びている。


 化粧は全部泥。

 声はゲコ。

 喉はピクピク痙攣する。

 民衆は暴動を起こす。

 王太子はハゲる。


 最悪だ。人生で最悪の局面かもしれない。


「どうして……どうしてよぉ……!」


 リリアンは鏡台へ縋りつき、涙と泥をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせながら叫ぶ。


「私が何したっていうのゲコォ……!」


 いや、かなり色々したと思う。

 嘘をつき、人を陥れ、偽りの聖女として持ち上げられ、その座へ胡坐をかいて贅沢を貪ってきた。因果応報という言葉が、これほど似合う女もいない。


 だが当人にその自覚は一ミリもない。

 そして、だからこそ――まだ懲りていなかった。


「……お姉様」


 泥だらけのぐしゃぐしゃの顔のまま、リリアンの目がギラリとドス黒く歪む。


「お姉様のせいゲコ……全部、全部、お姉様のせいなのゲコッ……!」


 王都で誰も彼女を救えない今。

 残された“希望”は、ただ一人。

 辺境で幸せそうに暮らしている、あの憎き義姉だけだった。


 もちろんそれは希望ではない。ただの逆恨みの八つ当たりでしかない。

 だが、完全に追い詰められた愚かな人間は、最後まで都合のいい夢を見るものだ。


 そしてその夜。

 王城の中で、ついに一部の貴族たちが、暗がりでひそひそとこんな囁きを交わし始めた。


「……このままでは、暴動で王都がもたない」

「辺境伯に頭を下げて、食料の援助を乞うべきでは」

「いや、むしろあの無能な王太子と、あの泥顔の偽聖女を首魁として切り捨てた方が早いのでは?」


 国の中枢に、決定的なヒビが入る音がした。

 それはまだ小さく、けれど確実に広がり始めている。


 ◇ ◇ ◇


 一方その頃、辺境では。


 白いモフモフ神獣シロが、特製ラーメンのチャーシューをおかわりしたくて「わふっ♡」とあざとく鳴き、クライヴ様が「そのクソ犬にやる前に俺に寄こせ」とド真顔で張り合っていた。


 ……王都との温度差が、エグい。



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