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第20話 シロと旦那様の仁義なき膝上争奪戦

 空気が、ピリッ……と極限まで張り詰めた。


 片や、伝説の最強神獣フェンリル(サモエド犬サイズ)。

 片や、帝国最強の辺境伯クライヴ様(殺意マシマシ)。

 そしてその間に挟まれて座り込んでいるのが、私。


 どうしてこうなった。


「……そのクソ犬」


 クライヴ様が、地を這うようなひどく低い声で言った。


「だから犬ではなくフェンリルですってば! 神獣です!」

「同じだ」

「全然同じじゃありません!!」


 私が必死に訂正している間にも、白いモフモフ――もといフェンリルは、私の膝へグイグイと頭を押しつけてくる。

 しかも、さっきより露骨に態度がでかい。

 完全に「ここはぼくの特等席ですけど何か?」と言わんばかりのドヤ顔だ。


「くぅ〜ん♡」

「えっ、可愛い……ヤバい可愛い……」


 思わず漏れたオタクの純粋な本音に、クライヴ様の黄金の瞳がスッ……と氷のように細められた。


「可愛い、だと」

「い、いえ、その、大型犬っぽくて可愛いは可愛いですけど!」

「ほう」

「でも私にとってはクライヴ様が宇宙で一番ですから!!」


 私は反射的に叫んだ。

 だって明らかに巨大な地雷を踏み抜いた気配がしたから。ここで対応を誤ると、神獣相手に本気の氷の槍(百本)が飛ぶかもしれない。いや飛ぶ。確実に飛ぶ。


 だが、その光の速さのフォローに、クライヴ様はほんの少しだけピキッとしていた眉間を緩めた。

 よし、応急処置成功。


 一方で、フェンリルはそんな殺伐とした空気をまるで読まず、私の膝へズンッと前足をのせたまま「きゅう〜ん」と甘く鳴いた。

 完全に“もっと撫でて”の催促である。


「ルシアナ」


 クライヴ様が低く呼ぶ。


「はい」

「そいつをそこから退かせ」

「えっ」

「今すぐだ。三秒待つ」


 その口調は静かだった。静かだが、絶対に逆らってはいけない種類の『マジトーン』である。


 私は慌てて白いモフモフへ向き直った。


「ええと、フェンリルさん?」

「わふっ」

「今ちょっと、その、旦那様がご機嫌ナナメなので、場所を空けていただいても……」

「くぅぅ〜ん……」


 駄目だ。

 つぶらな瞳がウルウルしている。しかも耳までペタンと倒して、全身で「そんな……ぼく、捨てられちゃうの……?」みたいな悲壮感を出している。あざとい。自分の可愛さを完全に理解しているタイプの犬(神獣)だ。

 いや待って。神獣ってそんなあざとい顔するの?


 私がモフモフの誘惑に戸惑っている間に、クライヴ様がもう一歩、ズイッと近づいた。


「俺の声が聞こえなかったのか」

「キャウッ」


 フェンリルがピクリと耳を震わせた。でも退かない。

 むしろ「この人こわーい」とばかりに、さらに私へ体を密着させてくる。


 そして次の瞬間。

 クライヴ様とフェンリルが、至近距離で真正面から睨み合った。


「……………………」

「……………………」


 氷のように冷たい黄金の瞳と、野生味を帯びた蒼い瞳。

 重すぎる沈黙。バチバチと火花が散る魔力の圧。

 でも、やっていることは完全に『妻(私)の膝の上を巡る大人気ない睨み合い』である。


 あまりにも次元が低レベルすぎて、逆に感想が難しい。


 背後に控える騎士たちも、完全に困り果てていた。


「……あの、俺たち助けに入らなくていいんでしょうか」

「どちらをだ」

「それが問題なんだよな……」

「伝説の神獣と閣下が本気で殺気立ってる理由が、奥様の『膝』なんだが……俺はどういう顔をして見ていればいいんだ?」


 うん、わかる。激しく同意する。

 私も客観的に見たら「何この地獄のトライアングル」ってなる。


 レオンハルト団長だけが無表情で直立不動だったが、そのこめかみがピクピクと痙攣していた。この人もたぶん内心では「また閣下の奇行が始まった」と頭を抱えている。


「おい、そのクソ犬」


 クライヴ様が、先ほどよりさらに一段階低い声で凄んだ。


「だから犬では――」

「そこをどけ。秒で三枚におろすぞ」


 今度は、私ではなくフェンリルへ向けて明確な殺意を飛ばした。

 フェンリルは「グルルル……」と低く、神獣本来の威圧感で唸り返した。


 待って。

 神獣、普通に真っ向から張り合う気だ。


「や、やめてください!!」


 私は慌てて二人――正確には一人と一匹の間へ両手を出して割って入った。


「争わないでください! 平和的に! 平和的に解決しましょう!?」

「俺は常に平和的だ」


 クライヴ様がド真顔で言う。


「どこがですか! 右手に氷の槍が生成されかかってますけど!?」

「まだ刺してはいない」

「基準が物理的に怖すぎます!!」


 するとフェンリルが、すかさず私の腕へ頭をスリィッと擦りつけてきた。


「きゅうぅぅ〜ん♡」

「うっ……」


 かわいい。

 だめだ。これはズルい。

 神獣なのに、白くてふわふわで、シャンプーのCMに出られそうなほど毛並みが良くて、しかも懐いてくる。大型犬好きの限界オタクの心を直接殴ってくる完璧なビジュアルをしている。


 だが、私がデレた様子を見たクライヴ様の目が、さらに絶対零度へ冷え込んだ。


「……そのだらしない顔」

「はい?」

「こいつを気に入っているな」

「そ、それは、ちょっと……いやかなり……モフモフですし……」

「ほう」


 怖い。

 地を這うような“ほう”が怖い。


 私は反射的に全力で弁明した。


「でも! でもクライヴ様の方が一億倍大事で大好きですから!!」

「当然だ」


 即答だった。そこは一ミリも迷わないんだなこの人。


 しかしフェンリルは納得しなかったらしい。

 パタンッ、と完全にお腹を見せたかと思うと、そのまま私の足元へグイグイと体をねじ込み始めた。


「えっ、ちょ、重っ! 意外と筋肉質!」

「くぅ〜ん!」

「待って、そこに収まるつもりですか!?」

「わふっ♡」


 完全に“膝枕して撫でろ”の強要である。

 クライヴ様の眉間の皺が、見事なまでにマリアナ海溝より深くなった。


「そこは、俺の指定席だ」


 ポツリ、と。

 いやもう完全に言った。激重な独占欲が言語化されてしまった。


「ク、クライヴ様……」

「何だ」

「神獣相手に、本気で大人気なく張り合ってませんか……?」

「張り合うも何も、事実だろう。お前の膝は俺のものだ」

「事実なんだ……(諦め)」


 でも、そう真顔で言い切る辺境伯様は、ちょっとだけ大型犬みたいで可愛かった。口には出さないけれど。絶対に出さないけれど。


 だが、ここで私が笑ってはいけない。そんなことをしたらシベリアの永久凍土行きだ。

 私は真剣な顔を作り、パンッ! と両手を合わせた。


「はい、一旦整理します!」


 すると、なぜか二人とも――一人と一匹とも――ピタリと動きを止めた。聞くんだ。意外と素直だな。


「まず、クライヴ様は私の大好きな旦那様で、宇宙で一番大事な特等席です」

「うむ」


 返事が早い。辺境伯様なのに、こういう時だけめちゃくちゃ素直だな。


「そしてフェンリルさんは、おそらくずっとお腹が空いていて、私の【浄化】とチャーシューの匂いに引き寄せられた結果、懐いてくれたんですよね?」

「わふっ!」


 神獣の返事も早い。


「ですので、争う必要はどこにもありません!」

「必要は大いにある」

「くぅん!(ある!)」

「両方同時に反論しないでください!!」


 説得、即失敗である。

 しかもクライヴ様は本気で不機嫌そうに腕を組んでいるし、フェンリルはフェンリルで私の手の下へ頭を押し込んできて「早く撫でろ」の圧がすごい。


 私はもう、深く息を吸った。


「……この子に、名前をつけます」

「名前?」


 クライヴ様が怪訝そうに眉を上げる。


「はい。ずっと“フェンリル”だと長いですし、呼びにくいので」

「わふ?」

「白くて、もふもふで、綺麗で……だから、『シロ』」


 口にした瞬間、我ながら驚くほどしっくりきた。


「……シロ?」

「はい。どうでしょう」


 私が問うと、白い神獣――シロは、パッ! と顔を上げた。

 そして。


「きゃんっ!」


 プロペラのように尻尾をブンブン振った。


「うわっ、気に入ったんですか!?」

「きゃんっ! きゅ〜ん!」


 ものすごくよかったらしい。

 後ろで騎士たちがざわめく。


「伝説の神獣フェンリルに……『シロ』……」

「いや、見た目通りで可愛いけど……」

「でも伝説の威厳が完全に死んだ気がする……」

「奥様のネーミングセンス、だいぶド直球だな」


 わかる。自分でもそう思う。前世でも犬を飼ったら「ポチ」とか「シロ」にするタイプだったし。

 でもクライヴ様は、少しだけ目を細めた後、ポツリと呟いた。


「……悪くない」

「本当ですか?」

「ああ。犬にふさわしい」


 シロは嬉しそうに、また私の膝へ頭を乗せようとする。

 そしてクライヴ様は、その動きを無言で見下ろした。


「……だが、駄目だ」

「えっ」

「名前をもらったからといって、そこを使っていい理由にはならん。どけ」


 厳しい。ブレない。

 シロが「くぅぅぅん」と不満げに鳴いて抵抗する。クライヴ様は完全に譲る気がない。


 いや待って。

 このままだと、名前がついても根本が何も解決していない。


「じゃ、じゃあ、こうしましょう!」


 私は苦し紛れに提案した。


「シロは、私の『右側』!」

「くぅん?」

「クライヴ様は、私の『左側』!」

「…………」

「膝の上じゃなくて、両脇です! これなら平等です!」


 沈黙。

 クライヴ様は明らかに納得していない『無』の顔だった。シロはシロで、まだ私の膝への未練を隠しきれない顔をしている。


 しかしこのままでは本当に、神獣と辺境伯の仁義なき血みどろの戦いが始まりかねない。

 私は両手を合わせて拝んだ。


「お願いします! これが一番平和的解決です!」


 しばらくの重い静寂の後。

 クライヴ様が、ものすごく、宇宙一不本意そうに言った。


「……今日だけだ」


 おお! 譲歩した!


「きゃんっ!」

「シロもお返事してください!」

「わふっ!」


 というわけで、最終的には。


 私が中央にしゃがみ、右側にシロ(神獣)、左側にクライヴ様(帝国最強)が密着して座るという、とんでもなく奇妙でカオスな配置が成立した。


 絵面がすごい。

 片方はモフモフの伝説の神獣。

 片方は殺気を放つ帝国最強の辺境伯。

 その真ん中で、私が冷や汗をかきながら両方をなだめるように撫でている。


 周囲の騎士たちも、だいぶ理解を諦めた悟りの顔になっていた。


「……これ、王都への報告書にどう書けばいいんだ……」

「“神獣、奥様に懐いて犬化。閣下、奥様の膝を巡って犬と張り合い不機嫌”でいいんじゃないか」

「雑すぎるし、閣下の威厳が死ぬだろ」

「でも完全な事実だ」


 その通りである。


 私はシロのフカフカの首元を撫でながら、そっと問いかけた。


「シロ、森から降りてきたのは、お腹が空いたからだけですか?」

「くぅん」


 シロが私の手に甘えるように頬を押しつける。


「本来住むところは、森のずっと奥なんですよね?」

「わふ」

「……また、来ますか?」

「きゃんっ!」


 来るらしい。即答だった。


 あっ、これ駄目だ。

 完全にラーメン(チャーシュー)と私の【浄化】目当てで、毎日通ってくる気だ。


 その時、クライヴ様が静かに口を開いた。


「ルシアナ」

「はい」

「そいつを、俺の館へ入れる気か」


 私は一瞬だけ固まった。

 ええと。シロはたしかに超絶可愛い。モフモフの極みだし、賢そうだし、私には完全に懐いている。

 でも神獣だ。元のサイズは動く山である。館に入れたら物理的に色々と大変なことになりそうだ。


「……さすがに、今はまだ難しいかもしれません」

「だろうな」

「でも、餌付けは継続したいです」

「堂々と言うな」


 私はド真顔で頷いた。


「この子、絶対に良い子です」

「それは『今のところ』だ」

「くぅん!」


 シロがクライヴ様へ抗議するように鳴く。

 そしてなぜか、ペシッ! と前足で地面を叩き、クライヴ様へドヤ顔を向けた。


 クライヴ様の目がスッ……と細くなる。


「……随分と偉そうだな、駄犬」

「きゅるる」

「お前、今わざとやっただろう」


 あっ、やっぱりそうなんだ。

 シロ、かなり賢い。というか、完全にクライヴ様を煽って張り合っている。


「クライヴ様、落ち着いてください。大人気ないですよ!」

「お前はこっち(俺)だけを撫でろ」

「そこ張り合うところですか!?」

「くぅぅん!(こっちを撫でろ!)」

「シロまで鳴いてアピールしないでください!」


 結局また始まるのか。

 この一人と一匹、本当に大人気ない。


 私は半ば笑いそうになりながら、左右を順番にワシャワシャと撫でた。


「はい、平等です!」

「平等は不要だ」

「えっ」

「俺だけを優先しろ」

「堂々とズルいこと言わないでください!」

「わふっ!(そうだそうだ!)」


 シロも不満そうだ。

 もう駄目だ。完全に同レベルで張り合っている。


 だが、その時だった。

 グゥゥゥルルルルル……という、控えめとは言い難い盛大な音が響いた。


「……………………」

「……………………」

「……………………」


 全員が沈黙した。

 そして私は、ゆっくりと音のした方向へ振り返る。


 そこには、耳まで真っ赤にして気まずそうな顔をした若い騎士が立っていた。

 ものすごく、限界までお腹が空いているらしい。


「あ、あの……奥様……」

「はい」

「ら、ラーメンの麺は……まだでしょうか……ッ」

「……あっ」


 そうだった。

 私たち、騎士団への『大鍋ラーメン』の炊き出しの途中で、神獣騒ぎになって飛び出してきたのだ。


「まだ厨房です! 麺が伸びます! 戻ります!!」


 その瞬間、シロの真っ白な耳がピクリと立った。


「わふ?」


 ラーメン、という単語に完璧に反応した。


 私は嫌な予感に襲われた。

「まさか……」


 シロは、キラキラと星が飛んでいるようなつぶらな瞳で私を見た。

 そして次の瞬間、ブォンブォンッ!! とものすごい勢いで尻尾を振り始めた。


「きゃん! きゃんっ!」

「え、シロ……?」

「くぅーん!(ラーメン!)」

「……そうか」


 クライヴ様が、額を押さえて妙に納得したような声を出す。


「こいつ、まだ食う気だな」

「ええぇ……胃袋どうなってるの……」


 伝説の神獣フェンリル。

 今や“シロ”と名づけられた白いサモエドサイズのモフモフ。

 どうやら彼は、ラーメンとチャーシューの暴力的な魅力を、完全に魂に刻み込んでしまったらしい。


 そして私は、この時まだ知らなかった。

 この日を境に、辺境伯邸の厨房で『神獣シロ専用・特盛りチャーシュー麺』の開発まで始まってしまうことを。



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