第2話 馬車内の攻防と、あっけなすぎる【浄化】
王城を出た馬車の中は、びっくりするほど静かだった。
いや、正確には静かではない。車輪が石畳を転がる音もするし、馬の蹄の音もする。けれど、それら全部をまとめて押し潰すくらい、車内の空気が重かったのである。
私の真正面には、長い脚を組んで座るクライヴ様。
窓の外から差し込む月明かりに照らされた、完璧な造形の横顔。
(ちょっと待って。何この空間。密室? 推しと密室なの!? 距離近くない? 吸ってる空気同じじゃない? 供給過多で私の命のロウソクが燃え尽きそうなんだけど!!)
心の中ではオタクの私が十万人規模でペンライトを振り回し、阿波踊りを踊っていたが、外面だけはなんとか淑女の皮を被っていた。私は膝の上で両手をきゅっと握りしめ、できるだけ真顔を作って座る。
対するクライヴ様は、そんな私を一瞥すると、絶対零度の声で告げた。
「先ほども言ったが、これは契約だ」
「はいっ!!」
食い気味に、しかも腹から声を出して返事をしてしまった。
クライヴ様の形の良い眉がぴくりと動く。いけない。新兵の返事になってしまった。
「……随分と威勢がいいな。処刑を免れたからか?」
「ええ、まあ、そんなところです!(推しと同じ馬車に乗れてテンションが天元突破してるだけです!)」
クライヴ様はわずかに呆れたように息を吐き、窓の外へ目を向けたまま淡々と続けた。
「お前を妻として迎えるのは、王家への牽制と不要な縁談避けのためだ。辺境伯夫人として最低限の体裁は求めるが、それ以上は望まん。俺に媚びる必要もないし、期待もするな」
「承知しております!」
「……お前、本当に理解しているのか?」
「はい! 完璧に!」
私はドヤ顔で胸を張った。
「つまり私は、衣食住が完全保証された上で、クライヴ様と同じ屋敷に住めるわけですよね!」
「……そうなるな」
「最高です!!」
「最高……?」
「いえ、こちらの話です! お気になさらず!」
危ない。今のは危うく「推し活の環境として神すぎます、圧倒的感謝!」と叫びそうになった。
クライヴ様は怪訝そうに私を見たが、それ以上は追及しなかった。その沈黙すら絵になるのだから本当に罪深い男である。
(ああ……横顔まで完璧……。ゲームの立ち絵も最高だったけど、生は解像度が違いすぎる……。睫毛の一本一本に国宝指定を出したい……)
だが、見惚れた次の瞬間。
私は、ある異変に気づいた。
クライヴ様の周囲に漂う瘴気が、王城で見た時より明らかに濃い。
さっきまで細く揺れていた黒い靄が、今はまるで生き物のように彼の腕や首筋に絡みつき、じわじわと締め上げている。
その証拠に、彼の長い指先が微かに震えていた。
(えっ。待って。これ、もしかして……!)
ゲームの設定資料集の記述が脳裏をよぎる。
――『呪いは魔力を激しく消耗した時や、強い感情の揺れがあった時に活性化し、宿主に激痛をもたらす』。
さっきクライヴ様、王城の大扉を物理で吹き飛ばしたうえ、殺気と重力魔法で広間を完全制圧していた。あれで呪いの負荷が一気に跳ね上がったのだ。
(いやいやいや! 待って待って待って! 推しが今、目の前で呪いの発作起こしかけてる!?)
私の背筋を冷たいものが走る。
当のクライヴ様は平然を装っていたが、その美しい額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。
「クライヴ様、お加減が悪いのでは」
「気のせいだ」
「気のせいではありません。顔色が……」
「気のせいだと言っている」
即答だった。我慢強すぎる。
だが次の瞬間、彼の喉がひくりと上下した。
「っ……かはっ……」
短く息を呑んだかと思うと、クライヴ様は口元を激しく押さえた。
その指の隙間から、ぽたり、と赤い雫が落ちる。
血だ。
「クライヴ様ぁぁぁぁぁぁっ!?」
私は淑女の皮をかなぐり捨てて絶叫した。
推しが吐血した。大問題である。国家非常事態宣言である。私の中の緊急アラームがぶっ壊れた音量で鳴り響いている。
「騒ぐな……」
本人は低い声でそう言ったが、明らかな苦痛で声が掠れていた。
「いや無理です! 今、血吐きましたよね!? 全然大丈夫じゃないやつですよね!?」
「……呪いの発作だ。いつものことだ。気にするな」
「いつものこと!?」
駄目だ。この人、自分の不調に対して雑すぎる!!
ゲーム内でもそうだった。どんな激痛も負傷も、全部「問題ない」の一言で済ませようとして、最終的に限界を迎えて倒れるのがクライヴ・ヴァルツェインという男なのだ。
見ていられるわけがない。
私は座席から身を乗り出し、彼の顔を覗き込んだ。
「少し、失礼しますね」
「おい、何をする気だ……っ」
苦痛に歪む黄金の瞳が見開かれる。
彼の胸元から首筋にかけて、ドス黒い棘のような呪いの痣がびっしりと浮かび上がっていた。見るだけでぞわりとする、禍々しい気配。
でも、私にはわかる。
これ、いける。
前世の記憶を取り戻した時、一緒についてきた私の規格外チートスキル――【浄化】。
本来なら高位神官が十人がかりで何日も儀式をして、ようやく薄められる程度の呪いを、私だけは『お掃除感覚』で消し飛ばせるのだ。
悪目立ちしないようずっと隠してきた切り札だが、推しが苦しんでいるのに温存している場合ではない。
「正気か……。俺の呪いは、宮廷神官でも、最高位の聖女でも解けなかったんだぞ……っ」
「知ってます。でも、ちょっとお掃除するだけですから。じっとしていてくださいね」
「お前、何を――」
私は息を呑む彼のおでこに向かって、右手の指先を向けた。
そして、チートスキル【浄化】を指先に全力集中させる。
狙いを定めて。
「えいっ」
ピンッ☆
デコピン感覚で放たれたまばゆい白金の光が、馬車の中を昼間のように照らし出し、クライヴ様の全身を包み込んだ。
それは春先の日差しのように温かく、けれど圧倒的な力を持った光。
触れた場所から、彼を締め上げていた黒い瘴気が、「じゅっ」と音を立てて溶けていく。
「な――!?」
クライヴ様が信じられないものを見るように息を呑む。
黒い棘が砕け、ドス黒い靄が散り、何十年も彼の身に巣食い、骨の髄まで蝕んでいたはずの『絶対的で理不尽な呪い』が……。
パラパラと光の粒子になって、完全に消滅した。
時間に直して、たったの5秒。
カップ麺すらお湯を入れてフタを開ける前である。
馬車の中に、しん、と静寂が落ちた。
「……はい、終わりました! お疲れ様です!」
私が指を離してにっこり笑うと、クライヴ様は完全に石像のように固まっていた。
黄金の瞳が、限界まで見開かれている。
「もしかして、まだどこか痛みますか!?」
「…………いや」
地を這うような低い声が、微かに震えていた。
「痛く、ない……。体が、軽い……?」
クライヴ様は現実を疑うように、自分の手を見つめた。
ゆっくりと拳を握り、開く。魔力を巡らせてみる。そのたびに、彼の表情から「帝国最強の怪物」としての冷徹な仮面が剥がれ落ちていく。
驚愕。困惑。そして、圧倒的な理解の追いつかなさ。
長年彼を苦しめてきた重圧も、魔力を使うたびにまとわりついてきた激痛も、本当に『ゼロ』になってしまったのだ。
「……ありえん」
「ありえます!」
「俺の呪いだぞ」
「でも消えましたね!」
「……たった、5秒で……?」
クライヴ様が、ゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その視線の異様な熱量に、私は今さらながら、自分がとんでもないことをしでかした事実に気づく。
(あっ)
隠し切り札、勢い余ってノータイムで全開放してしまった。
これ、どう考えても「ただの追放された悪役令嬢」のやることじゃない。
あのインチキ聖女(義妹)が百万人束になってもできない神業を、デコピン一つでやってのけてしまったのだ。
馬車の中で、クライヴ様が静かに身を乗り出してきた。
長い脚が動き、距離が一気にゼロになる。
「ルシアナ」
「は、はいっ」
「お前は――いったい、何者なんだ?」
至近距離での、推しからの真顔の問い詰め。
顔面偏差値が高すぎて直視できない。心臓への負担がエグい。
だがそれ以上にまずいのは、この先の言い訳だった。
なにしろ私はたった今、世界最強の男のトラウマを物理で消し飛ばしてしまったのだ。
しかもその結果――。
呪いの重圧から解放された彼の心が、タガが外れたように『私への異常なまでの執着と溺愛』へとバグり始めていることに、この時の私はまだ気づいていなかったのである。




