第17話 限界突破の甘やかしの朝
翌朝。
私は、ふわふわしていた。
体が、ではない。
頭が。心が。たぶん前世から持ち越した限界オタクの魂まで。
目が覚めた瞬間、まず最初に昨夜のバルコニーでの出来事を思い出してしまったのだ。
契約の終了宣告。
からの、激重な独占欲を伴う本当の意味でのプロポーズ。
好きだと言って、好きだと返されて、愛していると言われて、星空の下でとろけるようなキスまでして。
(…………ッ!)
天蓋付きのベッドの中で、私はバンッ! と布団を頭まで引き上げた。
(無理無理無理無理!!)
朝から無理だった。
思い出しただけで全身から火が出そうに熱い。胸の奥がじんわり甘くて苦しくて、どうしようもなく満たされている。
昨日まで“最推しと契約結婚中の悪役令嬢”だった私が、一夜にして“最推しであり大好きな旦那様と両想いになった正真正銘の愛妻”へジョブチェンジを果たしたのである。
落ち着けという方が無理だ。心臓のBPMが常時150を超えている。
「……好き」
誰もいない寝室で、思わず小さく呟いてしまう。
好きだ。本当に好きだ。
推しだから、ではない。不器用で、優しくて、たまに過激派なクライヴ様だから好き。
そう思った瞬間、また顔が茹でダコのように熱くなって、私はバフンッ! と枕へ顔を埋めた。
だが、いつまでも布団の妖精になっているわけにもいかない。
今日は今日でやることがある。生活は続く。夫婦になったからといって、辺境の領地運営が止まるわけではないのだ。
私はバンッ! と気合いを入れて起き上がり、身支度を整えた。
鏡の中の自分は、いつもより少しだけ表情が柔らかかった。いや、だいぶだらしなく緩んでいるかもしれない。これはまずい。侍女たちに見られたら一瞬で「昨夜何かありましたね?」と察される。
(平常心、平常心、私は誇り高き辺境伯夫人……)
そう念じながら自室の扉へ向かい、そっと開けた、その瞬間だった。
「おはよう」
「ひゃあッ!?」
扉のすぐ外に、クライヴ様が立っていた。
心臓が口から飛び出るかと思った。
「ク、ククククライヴ様!?」
「そんなに驚くことか」
「驚きますよ! だって扉を開けた瞬間に無言で立っていらっしゃるんですもの! ホラーですか!?」
しかも朝一番で圧倒的に顔がいい。
黒のシャツにゆったりした室内用の上着という少しラフな格好なのに、それでも国宝級に整っている。ズルい。
クライヴ様は怪訝そうに眉を寄せた。
「迎えに来ただけだ」
「迎え?」
「ああ。朝食だろう」
それだけなら、わざわざ妻の部屋の扉の前で微動だにせず待機する必要はない気がする。
でもクライヴ様の顔は至って大真面目だった。
私はなんだか猛烈にむずがゆい気持ちになりながら、小さく頭を下げる。
「……おはようございます、旦那様」
「おはよう、ルシアナ」
名前を呼ばれただけで胸が大きく跳ねる。
昨日からずっとそうだ。いや、昨日からというより今までだってそうだったのかもしれないけど、両想いを自覚した今はもう誤魔化しようがない。
クライヴ様は私の顔をしばらくジッと見て、それからフッ……と甘く目を細めた。
「……今日も可愛いな」
「ッッ!?」
唐突すぎる。
朝の挨拶みたいなナチュラルなテンションで何を言い出すの、この人は。
「な、なななな」
「どうした」
「ど、どうしたじゃありません!」
顔が一気に沸騰する。
朝からそんな高火力発言をノーモーションで投げつけられて、平然としていられるわけがない。
けれどクライヴ様は心底不思議そうだった。
「本当のことを言ったまでだが」
「それが一番困るんです!!」
私が半泣きで訴えると、クライヴ様はなぜか少し満足そうに口角を上げた。
だめだ。昨夜でこの人の『愛情表現のリミッター』が完全に外れている。
「行くぞ」
「は、はい……」
私は頬の熱を誤魔化すようにコホンと咳払いして、一歩踏み出した。
――のだが。
その瞬間。
フワッ、と視界が揺れた。
「…………はい?」
気づけば、私は宙に浮いていた。
いや、正確には浮いていない。抱え上げられていた。
しかも、横抱き。いわゆる、お姫様抱っこである。
「えっ!?」
私の脳が状況認識に追いつくより早く、クライヴ様は私を抱えたままスタスタと歩き出していた。
「ちょ、ちょっと待ってください!? 何ですかこれ!?」
「見ての通りだ」
「見ての通りすぎて脳の処理が追いつかないんですけど!?」
腕の中から見上げると、クライヴ様は「今日の天気は晴れだな」くらいのごく当たり前みたいな顔をしていた。
そんな真顔でお姫様抱っこしないでほしい。心臓がもたない。
「朝食へ行くのだろう」
「そうですけど! 歩けます! 私の足は健康です!」
「駄目だ」
「なんでですか!?」
するとクライヴ様は、私を抱えたまま少しだけ不満げに眉を寄せ、ひどく真面目な声で言った。
「歩かせたら、君の足が疲れるだろう」
私は三秒ほど黙った。
そして、ようやく理解した。
ああ。
これ、本気だ。
本気で“妻を歩かせると足が疲れるから俺が運ぶ”という、過保護が服を着て歩いているような理屈で動いている。
「いや、疲れませんよ!? 食堂まで館の中ですよ!? 徒歩三分ですよ!?」
「それでもだ」
「それでも!?」
「昨夜、お前を散々泣かせた」
その一言に、私は言葉を失った。
昨夜、たしかに少し泣いた。でもそれは途中で「捨てられる」と勘違いして絶望したからであって、その後はちゃんと幸せな嬉し涙に変わったのだ。
「だ、だからって、お姫様抱っこで移動する理由には……!」
「ある」
力強く断言された。
「今日からは一切の遠慮をやめ、俺の全霊でお前を甘やかすと決めた」
「決めたんだ……(絶望)」
しかも本人の中で『完全決定事項』らしい。
だめだ。この人、昨夜を経てますますタガが外れている。
廊下の角を曲がったところで、早起きの侍女二人と鉢合わせた。
「おはようござ――」
「きゃっ!?」
「えっ、えええっ!?」
そりゃそうなる。
だって朝っぱらから、あの鉄血の辺境伯様が奥様を当然のようにお姫様抱っこして運んでいるのだ。見た方が混乱してバグる。
侍女たちは真っ赤になって、壁際へピタリと張り付いた。
「お、おはようございます、閣下、奥様……!」
「お、お邪魔して大変申し訳ありません……ッ!?」
「邪魔してません! 悪いのはたぶんこの状況です!!」
私がわたわたと弁明すると、クライヴ様が低く呟く。
「悪くないだろう。俺の妻だ」
「私の羞恥心が死にます!!」
「その程度で死なない」
「死ぬんですってば!」
しかし抗議も虚しく、クライヴ様はそのまま食堂まで一直線だった。
バンッ。
扉が開く。
中にはすでに数名の騎士や使用人が朝食準備のため出入りしており、その中央でレオンハルト団長が書類を確認していた。
そして、全員の動きが完全に停止した。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が落ちる。
私はクライヴ様の腕の中で、いっそこのまま光の粒子になって蒸発したい気持ちになっていた。
だが、そんな私と違ってクライヴ様はどこまでも堂々としている。
「おはよう」
サラッと言った。
おはよう、じゃないんですよ。情報量が多すぎるんですよ。
レオンハルトが書類を持ったまま固まり、数秒かけてようやく口を開く。
「……閣下」
「なんだ」
「奥様は、怪我でもされたのですか」
「いや」
「では、状況の説明を」
「朝食へ連れてきた」
「運ぶ必要はございましたか」
「歩かせたら足が疲れる」
食堂の空気が、なんとも言えない『無』になった。
レオンハルトはスッ……と目を閉じた。その表情は「ついにこの日が来てしまったか」と語っていた。
「閣下」
「なんだ」
「限度というものを、少しはお考えになってください」
「熟考した結果だ」
「そうですか……(諦め)」
レオンハルトの返事がすでに悟りの境地に達していた。
私は恥ずかしさのあまり、クライヴ様の服の胸元をキュッと掴む。
「あの、もう下ろしてください……」
「嫌か」
「嫌というか、食堂なので! 皆さんガン見してるので!」
最終的には、クライヴ様が自分の席へ腰を下ろしてから、ようやく私も解放――されると思いきや。
グイッ。
「ひゃっ」
「やはりこっちだな」
「何がですか!?」
当然のように、クライヴ様の『膝の上』へ強制着席させられた。
食堂だよね? 朝食だよね? 人、いっぱいいるよね?
侍女たちは視線の置き場に困って天井を見つめ、若い騎士たちは明後日の方向を見始め、レオンハルトはとうとう懐から胃薬を取り出していた。
「閣下……」
「なんだ」
「昨日、告白が成就したからといって、朝から限界突破しないでください」
「何か問題があるか」
「あります。全方位にあります」
ものすごく正論だった。
けれどクライヴ様はまるで聞く耳を持たない。というか、昨夜よりむしろ表情が穏やかだ。機嫌が良すぎる。たぶん人生で一番くらい機嫌がいい。
それはわかる。嬉しい。
でも、朝食のたびに膝の上はどうかと思う。
「クライヴ様……」
「なんだ」
「せめて食事中だけは、自分の椅子に座りませんか」
「駄目だ」
「即答!!」
「今朝は特に、お前を離す気がしない」
サラッと恐ろしいことを言う。しかも声が低くて甘い。ほんとにやめてほしい。心臓に悪い。
そうこうしているうちに、朝食が運ばれてきた。
焼きたてのパン。温かなスープ。卵料理。
どれも良い香りで、普通なら朝から幸せな食卓のはずなのだ。ただし私は旦那様の膝の上にいる。状況がすべてをおかしくしている。
「食べるぞ」
「はい……」
私がスープに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
クライヴ様が先にスプーンを取り、当然のように一口すくってこちらへ差し出してきた。
「どうぞ」
「……………………え?」
「熱いから気をつけろ」
「そういう問題ではなく!」
朝から“あーん”である。
しかも昨日までは時々だったのに、今日は完全に“夫としての当然の責務”みたいな顔でやっている。
周囲の侍女たちが一斉に顔を伏せた。耳だけは完全にこっちを向いている。
私は真っ赤になりながら、小声で抗議した。
「クライヴ様、これはさすがに甘やかしすぎでは……!」
「足りない」
「足りないんですか!?」
「ああ。全然足りない」
「基準値バグってません!?」
だがクライヴ様は揺るがなかった。
「昨夜、お前を泣かせた」
「それ、ずっと気にしてますよね」
「当然だ。俺の不甲斐なさのせいだからな」
「最終的には私、嬉しくて泣いてたんですけど……」
「それでもだ」
うっ。
言い方は重い。でもその中にある不器用すぎる優しさと愛情が、嫌というほど伝わってくる。
私は観念して、そっと口を開いた。
「……あーん……っ」
食堂の隅で、誰かが「尊い」と小さく呟いた気がした。幻聴であってほしい。
クライヴ様は満足そうにスプーンを運び、私は恥ずかしさで爆発しそうになりながらスープを飲み込む。
美味しい。でも、それ以上に恥ずかしい。
「どうだ」
「お、おいしいです……」
「そうか」
そして次はパンをちぎって差し出し、卵料理も切り分けて食べさせてくる。
もう完全に『妻の朝食お世話係』である。
一方で、私もこのままやられっぱなしではなかった。限界オタクの意地がある。
「……クライヴ様」
「なんだ」
「クライヴ様も食べてください」
「俺はいい」
「よくないです。ちゃんと、です」
私は自分の前の皿からパンを少しちぎり、バターを塗って、彼の口元へ差し出した。
「はい、あーん」
すると、クライヴ様は一瞬だけ目を見開いた。
「俺に食べさせてくれるのか」
「そうですけど……嫌ですか?」
「嫌なわけがないだろう」
その返答が早すぎて、食い気味すぎて、私はむしろ恥ずかしくなる。
クライヴ様は本当に嬉しそうに、少しだけ照れたように口を開けた。
ぱくり。
そしてゆっくり咀嚼し、目を細める。
「……うまい」
「ただのパンですよ?」
「お前がくれた。それだけで極上の味だ」
だめだ。
こういうところだ。こういうところがズルい。
朝から互いに食べさせ合う夫婦とか、糖度が高すぎて胸焼けする。
レオンハルトが遠い目で本格的に胃薬を飲み始めている気配がする。
実際、彼は数分後に静かに口を開いた。
「……閣下」
「なんだ」
「本日の予定ですが」
「ああ」
「午前中に北方の備蓄確認、昼前に鍛錬場視察、午後に商会との書類整理がございます」
「減らせ」
「無理です(即答)」
「ルシアナとのいちゃつく時間を――」
「削れません(真顔)」
「強いな」
「閣下が奥様に骨抜きにされて弱くなっているだけです」
ものすごく切れ味のいい返しだった。
けれど、クライヴ様は不満そうにしながらも、私を抱いた腕は緩めない。
「……ルシアナも一緒に来るか」
「全部にですか!?」
「ああ」
「それはさすがにお仕事の邪魔では……」
「邪魔にならん」
「閣下がそう思っても、周囲がそうとは限りません」
レオンハルトが即座に私をフォロー(というか牽制)してくる。ありがたい。非常にありがたい。
しかしクライヴ様は納得していない顔だった。
「……では、昼までは俺に我慢しろと?」
「我慢というか、領主として普通の執務をしてください」
「難しいな」
「難しいんだ……」
私が思わず呟くと、クライヴ様はド真顔で頷いた。
「今のお前を置いて行くのは、どんな拷問より難しい」
またしても不意打ちである。
私は言葉に詰まり、結局顔を真っ赤にしてそれ以上何も言えなくなってしまった。
そうして朝食が終わる頃には、食堂にいた全員が“辺境伯様の甘やかしモードが完全に限界突破して手遅れになった”ことを悟っていた。
食後、ようやく私は膝の上から解放――されたかと思いきや。
「では行ってくる」
立ち上がったクライヴ様が、今度は私の額へごく自然に、チュッ、と音を立てて口づけを落とした。
静まり返る食堂。
私は完全に石化する。
「ク、クライヴ様!?」
「昼には必ず戻る」
「そういう問題では……!!」
だが彼は満足したように目を細めると、そのままレオンハルトを伴って颯爽と執務へ向かっていった。
取り残された私は、食堂のど真ん中で茹でダコのように真っ赤になったまま立ち尽くすしかない。
しばしの沈黙の後、若い侍女がポツリと呟いた。
「……奥様」
「は、はいっ」
「本日は、とても……お幸せそうで……」
「っ、そ、それは……!」
言い返そうとして、でも結局うまく言葉が出ない。
だって本当なのだ。
恥ずかしくて死にそうなくらい甘やかされて、心臓が持たないくらい振り回されて、それでも幸せでたまらない。
すると、後ろで年配の料理人がしみじみと言った。
「閣下、完全に愛情のタガが外れましたな」
「ええ……」
「これから毎朝あれなんでしょうか」
「それは……困ります……でも、少しだけ……嬉しい、です……」
最後の方、ものすごく小さな声になってしまったけれど、たぶん全員に聞こえていたと思う。
使用人たちは一斉に、なんとも言えない温かく生温かい目で私を見た。やめてほしい。恥ずかしい。けれど嫌ではない。
私は熱い頬を押さえながら、深く息を吐いた。
契約ではない、本物の夫婦になった翌朝。
そこで待っていたのは、想像以上に過保護で、想像以上に甘くて、そして想像以上に心臓に悪い限界突破の日常だった。
でも。
きっとこれも、悪くない。
いや、かなり良い。だいぶ良い。というか、ものすごく幸せだ。
……ただし、このまま行くとレオンハルト団長の胃に穴が開くのは、時間の問題かもしれない。




