第15話 「契約」の終了宣告
辺境に来てからの日々は、びっくりするほど忙しくて、そしてびっくりするほど幸せだった。
朝起きて、クライヴ様に「寒いだろう」と外套へ引き込まれ。
厨房で新しい料理を作れば、騎士団が胃袋から陥落し。
農地を【浄化】すれば、領民たちが泣いて巨大な私の石像を建てようとし。
温泉を見つければ、推しのセクシーすぎる浴衣姿で寿命が削られ。
こたつを作れば、帝国最強の辺境伯様がコタツムリと化してダメになった。
……うん。字面だけ見ると情報量の暴力だ。
でも、本当にそうなのだ。
王都では義妹が順調に蛙化し、ポンコツ王太子は相変わらず頭の悪い手紙を寄越し、ついには武装騎士団まで送り込んできたけれど、そのたびにクライヴ様が物理(氷漬けのクール便)できっちり蹴散らしてくれた。
そうして気づけば、私はすっかりこの領地に馴染んでいた。
朝、館の廊下ですれ違う侍女たちが笑顔で挨拶をしてくれる。厨房へ行けば「奥様、今日は何を作ります!?」と料理人たちが目を輝かせる。街へ出れば、子どもたちが「女神様ー!」と走ってくるので、そのたびに「ただの食いしん坊なオタク(伯爵令嬢)です」と訂正するのもお約束になっていた。
そして何より。
クライヴ様が、私の隣にいるのが当たり前になっていた。
食事の席で向かいにいる。執務の合間に当然のように膝の上へ乗せられる。外へ出れば手を引かれ、寒ければ抱き寄せられ、疲れたらこたつで膝枕を要求される。
最初は全部、「数十年の呪いが解けた反動のスキンシップバグなのかな」と思っていた。
【浄化】の余波で、私の体温や気配が落ち着くらしいから。だから距離がゼロなのも、そのせいなのだろうと。
……そう、思っていたのだけれど。
(最近、もうそういうレベルじゃなくない……?)
私は居間のこたつに入りながら、向かいで分厚い書類を読んでいるクライヴ様をチラリと盗み見た。
今日も今日とて圧倒的に顔がいい。しかも私が作ったどてら姿でこたつ。凄まじいギャップ萌えである。
その時、ふと彼が顔を上げた。
「何を見ている」
「ひゃいっ!?」
変な声が出た。
最近、盗み見の成功率が著しく低い。いや、成功しなくていいんだけど。むしろバレるの、心臓に悪すぎるんだけど。
「な、何でもありません!」
「そうか」
クライヴ様はそれだけ言うと、再び書類へ視線を戻した。
だが、その口元がほんの少しだけ緩んでいる。……絶対、何でもないとは思ってない顔だ。
私はこたつ布団の中で足先をもぞもぞさせながら、内心で頭を抱えた。
(だめだ……最近ほんとに、ただ“推し”として見てるだけじゃ、全然足りなくなってる……)
推しを遠くから拝んでいられれば、それで幸せだったはずなのに。
同じ屋敷に住めて、同じ食卓を囲めて、たまに笑ってくれるだけで福利厚生として十分だったはずなのに。
いつの間にか、それでは足りなくなっていた。
クライヴ様が忙しそうにしていると気になる。
怪我はないか、疲れていないか、ちゃんと食べているか気になる。
彼が他の誰かに冷たくされると腹が立つし、逆に誰かが彼へ無遠慮に近づくと、胸の奥がモヤッとする。
そして彼に優しくされるたび、甘やかされるたび、言葉にできないくらい嬉しくて、苦しくなる。
これはもう、どう考えても。
(……好き、なんだろうなあ)
今さらすぎる自覚に、私はこたつへ顔を埋めて爆発したくなった。
いや、前から好きだった。前世から、ずっと好きだった。
でもそれは“推し”としての好きだったのだ。尊い、幸せになってほしい、報われてほしい、遠くから見守りたい、そういう大きくて一方通行の感情。
けれど今のこれは違う。
触れられると心臓が跳ねる。自分のことで笑ってくれると嬉しい。他の誰にも見せない甘えた顔を見せてくれると、胸がいっぱいになる。
つまりこれは、オタクの推し活なんかじゃない。
ちゃんと一人の女としての、どうしようもない『恋』だ。
そう気づいた瞬間、胸の奥がキュッと痛くなった。
好きになってしまった。推しだから好きだったのではなく、目の前にいる不器用で優しいクライヴ様だから、好きになってしまった。
……でも。
(私たち、『契約』なんだよね)
私はこたつ布団の端をきゅっと握った。
そもそもの始まりは契約結婚だった。王都からの干渉を避けるための、便宜上の妻。
あの日、王城の広間で、クライヴ様ははっきり言った。「お前を愛することはない」と。
もちろんその時の私は限界オタクだったので、「無問題です! むしろ推しの隣にいられるだけで福利厚生が神です!」みたいな勢いだった。実際その通りだった。
でも今は、そう簡単に割り切れない。
本気で、好きになってしまったから。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
珍しく、クライヴ様の方から声をかけてきた。
「ルシアナ」
「はい?」
「あとで、少し時間をくれ」
私はパチパチと瞬きをする。
「もちろんですけど……何かありました?」
「話がある」
短い答え。
その声色はいつも通り落ち着いていたが、どこか重い決意めいたものが滲んでいた。
私は胸の奥に、小さなざわめきを覚えた。
話。改まって。しかも夜に。
(な、なに……?)
嫌な予感と、期待と、不安がマーブル模様に混ざる。
そして星がよく見える時間になった頃、私はクライヴ様に呼ばれてバルコニーへ向かった。
辺境伯邸の二階にあるそのバルコニーは、夜になるととても静かだ。遠くに街の灯りがチラチラと見え、空を見上げれば、王都とは比べものにならないくらい星が近い。
冷たい夜風に、私は薄手のショールを肩へかけていた。
バルコニーの手すりにもたれ、先に来ていたクライヴ様が振り返る。
月明かりを受けた横顔は、神々しいほど綺麗だった。こんな時でも、最初にそんなことを思ってしまうオタクな自分がちょっと嫌になる。
「来たか」
「はい」
私はそっと彼の隣へ立った。
しばらく沈黙が落ちる。
風が吹く。星が瞬く。
でも、いつもなら心地よいはずの静けさが、今日は妙に落ち着かなかった。
「……ルシアナ」
先に口を開いたのは、クライヴ様だった。
「お前には、随分と助けられた」
私は目を瞬く。
「え?」
「俺の数十年の呪いを解き、荒れ果てた館を立て直し、食事を変え、領地まで豊かに変えた」
低い声が、夜の中へ静かに溶けていく。
「お前が来てから、俺の周りの世界は一変した」
「そ、そんな、大げさですよ。私はちょっとチートでお掃除しただけで……」
「大げさじゃない」
即座に否定され、私は口をつぐんだ。
クライヴ様は真っ直ぐ前を見たまま続ける。
「お前がいなければ、今の辺境はない。今の俺もいない」
その言葉は、嬉しかった。嬉しかったのに。
どうしてだろう。胸の奥が、ひどくざわつく。
まるで、これが“別れの前の感謝”みたいで。
「クライヴ様……?」
私が恐る恐る名を呼ぶと、彼はゆっくりとこちらを見た。
黄金の瞳。その中にあるのは、揺るがない何か。
「だからこそ、終わりにしようと思う」
一瞬、意味がわからなかった。
「……終わり?」
「君との契約結婚は、今日で終わりにしよう」
世界が、音を失った気がした。
風の音も、遠くの街の灯りも、星の瞬きさえも、全部急に遠のいていく。
「……え」
やっと出た声は、情けないくらい掠れていた。
契約結婚は、今日で終わり。
それはつまり。
もう、彼の妻ではいられないということだ。
頭では言葉の意味を理解したはずなのに、感情が追いつかない。
だって、どうして。どうして今さら。
呪いは解けた。王都の騎士団も退けた。領地も驚くほど安定した。
たしかに“契約”としての私の役割は、もう終わったのかもしれない。
でも。
でも、そんな。
「……そう、ですか」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
言った瞬間、自分の声がひどく遠く感じた。
胸の奥が、ズキンッ、と激しく痛む。
これまでだって、前世からだって、ずっと“推し”は遠い存在だった。手が届かないのが当たり前だった。だから離れることには慣れているつもりだった。
……なのに、全然駄目だ。
こんなにも、息ができないくらい苦しい。
(ああ)
私はようやく理解する。
(本当に、好きになってたんだ)
推しとして尊いとか、隣にいられるだけで幸せとか、そんな綺麗な言葉では誤魔化せないくらい、私はクライヴ様を深く愛してしまっていた。
だから、終わりと言われてこんなに痛い。
「ルシアナ」
クライヴ様が何か言おうとする。
でも私は、その前に小さく首を振った。
「……大丈夫です」
全然大丈夫じゃない。
でも、ここで取り乱して、みっともなく泣き縋りたくなかった。
だって私は知っている。クライヴ様は最初から「愛することはない、これは契約だ」と言っていた。私が勝手に契約違反の恋をしただけだ。だったら、彼を困らせてはいけない。
私は必死に笑おうとした。たぶん、ひどく不格好に顔が引きつっていたと思うけれど。
「もともと、契約でしたものね。呪いも解けて、王都への牽制もできて、領地も安定してきて……でしたら、もう私がここにいる理由は――」
そこまで言って、駄目だった。
喉が詰まる。息が上手く吸えない。
私がここにいる理由。
そんなもの、いくらでもあった。
朝の温かい食事も、昼の執務室の膝の上も、夜の会話も、こたつも、温泉も、街も、畑も、全部が大事で、全部が幸せだった。
もう、ここが好きだった。
この領地が好きで、この館が好きで、そこにいる人たちが好きで。
そして何より、クライヴ様の隣が、腕の中が好きだった。
なのに、それを全部失うと思った瞬間、心臓が握り潰されるみたいに痛んだ。
「……っ」
まずい。泣きそうだ。
こんなところで、こんなふうに。好きだなんて言えないまま、みっともなく泣くなんて、絶対に嫌だ。
私は俯いて、ぎゅっと拳を握った。
「ご、ごめんなさい。少し、夜風に当たりすぎたみたいで……部屋に、戻ります」
逃げよう。今はそれしか考えられなかった。
でも、私が一歩引こうとした瞬間。
グイッ! と、強い力で手首を掴まれた。
「待て」
低い声。
振り払うほど痛くはない。でも、絶対に逃がさないという強烈な意志だけはハッキリと伝わってくる。
「……離してください」
「離さない」
「今は、ちょっと一人に……っ」
「駄目だ」
いつになく強い口調だった。
私はびっくりして顔を上げる。するとクライヴ様が、いつもよりずっと近い距離で私を見下ろしていた。
その表情は、さっきまでの静かな決意とは違う。
何かを必死に堪えるみたいに、ほんの少しだけ苦しげだった。
「最後まで聞け」
「最後、って……」
「勘違いするな」
そう言って、クライヴ様はさらに一歩、距離を詰めた。
月明かりの中、黄金の瞳が真っ直ぐに私を捉える。
「俺が終わらせたいのは、“契約”だ」
「……え?」
「お前との関係、そのものじゃない」
心臓が、ドクンッ、と大きく跳ねた。
頭が真っ白になる。
え。
それって、どういう。
私が言葉を失っている間に、クライヴ様はゆっくりと手を伸ばし、今度は私の頬へそっと触れた。
少し冷たい指先。でも触れ方は、ひどく熱くて優しい。
「……最初は、本当に契約のつもりだった」
低い声が、夜風よりも静かに落ちる。
「王都を牽制するための飾り。愛することはない、そう思っていた」
私は息を呑む。
「だが、お前は俺の想定を何もかも壊した」
クライヴ様の指先が、頬から耳のあたりを愛おしげに撫でる。
「呪いを解いた。館を変えた。領地を変えた。……俺の生活を、冷え切っていた心を、全部かき回した」
その声には責める響きなんてない。
あるのは、諦めにも似た、深く重い熱だけだ。
「今では、お前がいないと落ち着かない。隣にいないと腹が立つ。笑っていれば嬉しいし、他の男がお前に近づけば、そいつを氷漬けにして粉砕したくなる」
最後の方、だいぶ物騒だったけれど、今はそこに突っ込む余裕がなかった。
だって。それって、まるで。
「……クライヴ様」
かすれた声で名を呼ぶ。
すると彼は、ほんの一瞬だけ目を閉じ、それから低く、ハッキリと言った。
「だから、縛り付けるためだけの『契約』では駄目だ」
月明かりの中、漆黒の髪が風に揺れる。
黄金の瞳はもう、一切の迷いがなかった。
「ルシアナ。俺の、本当の妻になってほしい」
私は完全に息を止めた。
時間が止まる。
星も、風も、何もかも、どうでもよくなる。
「飾りではなく、便宜でもなく、契約でもなく」
クライヴ様の指先が、私の顎をそっと持ち上げる。
「俺の意志で。……君を一生、俺の腕の中に閉じ込めて愛し抜く」
それは、プロポーズだった。
今度こそ本当の。契約でも打算でもない、ただ一人の女性へ向けた、重すぎるほどの真っ直ぐな独占欲と願い。
胸がいっぱいになって、何も言えなくなる。
さっきまであんなに痛かった場所へ、今度は熱いものが一気に流れ込んできたみたいだった。
「……っ、ずるいです」
やっと出た言葉が、それだった。
クライヴ様がわずかに眉を上げる。
「何がだ」
「そんな言い方、ずるいに決まってるじゃないですか……!」
ボロボロと、涙が溢れる。今度は悲しい涙じゃない。
「私、さっき、すごく苦しくて……終わりって言われて、本当に、ここからいなくなるんだって思って……っ」
声が震える。
「そんなの絶対に嫌だって、初めて思ったんです。推しと離れるとかそういうオタクの寝言じゃなくて……クライヴ様と、離れたくないって」
もう誤魔化せない。
自分の気持ちも、何もかも。
「私も……好きです」
言ってしまった。
前世からの推しだから、ではない。今ここにいる、不器用で優しいクライヴ様だから。
「最初は、ただ推しとして大好きで、隣にいられるだけで幸せで……でも、もうそれだけじゃなくなってて」
私は涙を拭いながら、必死に言葉を紡ぐ。
「食べてるところを見たいし、笑ってほしいし、疲れてたら休んでほしいし、他の人にとられるのは絶対に嫌だし……それってもう、ちゃんと恋だと思うんです」
そこまで言って、顔がボンッと爆発しそうに熱くなる。
告白なんて前世の社畜時代でもしたことがない。なのに今、勢いで全部言ってしまった。
でも、不思議と後悔はなかった。
クライヴ様はじっと私を見つめ、それから、とても大事な宝物に触れるみたいな手つきで、私を強く抱き寄せた。
「……そうか」
低い声が、耳元で落ちる。
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
グイッ、とさらに腕の力が強まる。でも苦しくはない。むしろ、どうしようもなく安心した。
「なら、もう二度と離すつもりはない」
「それ、さらっと激重なこと言ってません?」
「今さらだろう」
確かに。
私は思わず泣き笑いになった。
するとクライヴ様は、私の額へそっと唇を落とし、続けて耳元で低く囁く。
「お前を一生、俺のそばに置く」
「それ、『檻に閉じ込める』って言いそうな空気を感じます」
「言うつもりだったが」
「やっぱり!!」
こんな感動的な時ですら重い。
でも、その重ささえ愛おしいと思ってしまう自分がいる。
クライヴ様は私の顔を覗き込み、ほんの少しだけ意地悪に目を細めた。
「嫌か」
そんなふうに聞かれたら、答えなんて一つしかない。
私は泣きそうなまま笑って、首を横に振った。
「……嫌じゃないです」
「そうか」
「でも、物理的な檻はちょっと考えます」
「検討はするのか」
「たとえです!!」
そのやりとりに、クライヴ様が声を立てずにフッと笑った。
ああ、本当に。この人のそういう顔を見るたび、好きになってよかったと思う。
そして次の瞬間。
今度こそ、ちゃんとしたキスが落ちてきた。
商人に見せつけるためでも、勢いでもない。
互いの熱を確かめ合うみたいな、優しくて、でもとろけるほど深い口づけ。
私は目を閉じ、そっと彼の軍服の胸元を掴んだ。
星空の下。辺境の冷たい夜風の中で。
でも、その腕の中だけは、世界で一番温かかった。
こうして。
偽りの契約結婚は終わった。
そして同時に、私たちは本当の意味で、心から愛し合う“夫婦”になったのだ。
◇ ◇ ◇
――その頃、王都では。
氷柱五十本入りで送り返された騎士団を見た王太子が盛大に白目を剥いてひっくり返り、リリアンは首元まで広がった蛙の斑点を隠そうとして、ドブ臭い泥水まみれになって発狂していたらしい。
でも、そんな泥沼の破滅ルートは今の私にはどうでもよかった。
だって今夜は、遠い最推しじゃなくて。
大好きな旦那様に、ちゃんと想いが届いた、世界で一番幸せな夜なのだから。




