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第10話 温泉の発見と、推しの浴衣姿

 王太子からの失礼極まりない手紙事件の翌日。

 私は辺境伯邸の一室で、広げた地図に覆いかぶさるようにしてウンウンと唸っていた。


「おかしい……絶対この辺りのどこかにあるはずなのよね……」


 机いっぱいに広げられているのは、辺境領の詳細な地形図だ。

 山脈、森、川、街道の位置が記されている。


 なぜ私が朝からこんなに真剣な顔で地図を睨みつけているのかというと――前世の知識と、ゲーム知識と、昨夜ふと思い出した『世界観設定』のせいである。


(この辺境領って、確か地下に巨大な『魔力脈』が通ってるのよね……? だったら地熱もかなり高いはず。つまり、温泉が湧いてても絶対におかしくない……!!)


 温泉。

 それは疲労回復、リラックス、美肌効果、そして何より『推しの健康増進』に最適な神の恵みである。


 呪いが解けたとはいえ、クライヴ様は数十年間ずっと身体に過酷な負担をかけ続けてきたのだ。

 ならば今こそ必要なのは、温かい湯に浸かって心身の強張りをほぐす時間。


 そう。これはただの娯楽ではない。

 推しの福利厚生(という名目の私の欲望)である。


「ルシアナ様?」


 控えめな声に顔を上げると、侍女のミリアが不思議そうにこちらを見ていた。


「朝から地図を睨みつけて、どうなさったのですか? また魔の森へ?」

「温泉を探しています」

「……おんせん?」


 やはり通じない。

 そうだろうとも。この異世界に“お湯に浸かる文化”は一応あるが、自然湧出の温泉を大々的に楽しむという発想は薄いらしい。


「地面から自然に湧く、あたたかくて気持ちいいお湯のことです」

「まあ……そんな魔法のようなものがあるのですか?」

「あるはずです!」


 私は力強く拳を握った。


「そしてそれを見つければ、クライヴ様のお疲れを極上の形で癒せます!」


 ミリアは一瞬きょとんとした後、尊いものを見るような目で深く頷いた。


「なるほど。奥様は本日も閣下第一なのですね。なんて素晴らしいご夫婦愛……」

「推し……いえ、夫の健康と笑顔は私の最優先事項ですので!」


 危ない危ない。

 最近うっかり“推し”が口から出る頻度が高すぎる。気をつけなければ。


 ちょうどその時、廊下の向こうから聞き慣れた足音が近づいてきた。

 私は反射的に背筋をピンと伸ばす。

 扉が開き、クライヴ様が姿を見せた。


 今日も今日とて圧倒的に顔が良い。

 漆黒の軍服姿に乱れはなく、黄金の瞳は朝の光を受けて凛としている。存在そのものが国宝級の目の保養である。


「ここにいたか」

「はい!」


 新兵のように元気よく返事をした私に、クライヴ様が目を細める。


「朝から随分と熱心だな。何をしている」

「温泉を探しています!」

「……おんせん?」


 またしても通じなかった。

 私は即座に立ち上がり、地図の上へ身を乗り出して力説する。


「この辺り、山脈から地下水が流れていて、しかも魔力脈が近いんです。だったら地熱の影響で、あたたかい湧き水が出る場所が絶対にあるはずなんです!」

「あたたかい湧き水」

「はい! そこへ浸かると、すっっっごく気持ちいいんです!」

「……お前、また面白いことを言い出したな」

「面白いではなく有益です!」


 私はビシッと指を立てた。


「クライヴ様はこれまでずっと無理をしてこられたんですから、ちゃんと身体を休めるべきです。あたたかいお湯に肩までゆっくり浸かれば、血行も良くなりますし、疲労回復にもなりますし、何より最高に気持ちいいんです!」

「最後が完全に主観だな」

「でも最重要項目です!」


 クライヴ様はしばらく私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……それで?」

「もしよろしければ、今日、一緒に探しに行きませんか?」


 言った瞬間、少しだけ緊張した。

 温泉探しという名目だが、要するに「また二人でお出かけ(デート)したい」と言っているようなものだ。


 しかしクライヴ様は、意外にも即座に頷いた。


「いいだろう」

「本当ですか!?」

「ああ。お前がそこまで言うなら、見てみる価値はある。……それに、お前と出かけるのは嫌いじゃない」


 後半の破壊力!!

 私の中の限界オタクが万歳三唱しながら阿波踊りを踊り始めた。推しと温泉探しデート。字面がもう強すぎる。


 ◇ ◇ ◇


 かくしてその日の午前、私たちは少数の護衛を連れて、山の麓へと向かった。

 街道を外れ、岩場と草地の入り混じる斜面を進んでいく。クライヴ様が隣にいるだけで安心感が段違いだし、何より私の歩幅に自然に合わせてくれるのが優しすぎる。


 レオンハルト団長も同行していたが、私が「ここ、ちょっと硫黄っぽい匂いがしませんか!?」とか「この辺、地面が微妙にあたたかいです!」とダウジングマシンのように騒ぐたび、だんだん表情が神妙(胃痛顔)になっていった。


「奥様……本当に、何かわかるのですか」

「なんとなくです!」

「なんとなくで、我々を山へ連れて来られたのか……」


 頭を抱えるレオンハルトの横で、クライヴ様の声はどこか面白がっているようだった。


「ルシアナ、なんとなくではないのだろう?」

「はい。(前世)知識とオタクの勘です」

「ますます曖昧だな」

「料理も温泉発掘も、最後は愛と勘がすべてなんです!」


 そう言い返しつつ、私は周囲を鋭く見渡す。

 岩場の隙間から、かすかに白い湯気みたいなものが立ち上っているのを見逃さなかった。耳を澄ますと、チョロチョロと水の流れる音もする。


(……あった!!)


 私は勢いよく駆け出しかけ――直後、クライヴ様にガシッと腕を掴まれた。


「走るな。転ぶぞ」

「すみません、でもあれ!」


 私が指差した先へ皆の視線が集まる。

 岩陰の裂け目から、透明な湯がこんこんと湧き出ていた。

 周囲には白い湯の花がうっすらと付着し、湯気がフワフワと立ち昇っている。指先で触れてみれば、確かにあたたかい。いや、ちょうどいい熱さだ。


「やっ……」


 私はぶるぶると震えた。


「やったぁぁぁぁぁ!! 温泉です!! 大勝利です!!」


 歓喜のあまり、ついその場でピョンピョン跳ねる。

 クライヴ様もレオンハルトも、護衛の騎士たちも、しばし湧き出る湯を黙って見つめていた。


「……本当に、あたたかいな」


 クライヴ様が低く呟く。


「だから言ったじゃないですか!」

「まさか本当に見つけるとは思わなかった。たいしたものだ」

「それ、褒めてます?」

「褒めている」


 推しに褒められた。勝った。本日も大勝利である。

 私はさっそく湯量を確認し、周囲の地形を見て、力強く拳を握った。


「いけます」

「何がだ」

「露天風呂、作れます!」

「……露天風呂?」

「お外で絶景を見ながら入る、最高のお風呂です!」


 クライヴ様が一瞬沈黙し、レオンハルトが「また始まった」と額に手を当てた。でも私は止まらない。


「ここを少し掘って岩を組めば、立派な湯舟にできます! 仕切りを作れば男女別にもできますし、休憩用の小屋も後で建てられます! さあ、やりましょう!」

「……本気か」

「もちろんです!!」


 クライヴ様は私の真剣な顔を見つめ、それから湧き出る湯を見て、やがて静かに、しかし力強く頷いた。


「なら、やるか」


 その一言で、辺境騎士団が即座に『温泉発掘部隊』へと変貌した。

 土魔法が得意な騎士が地面を均して湯舟の形を造り、クライヴ様が重機のようなパワーでサラリと巨大な岩を運んで組み上げ、私が【浄化】で周囲のぬめりや汚れをチート級の速度で消し去っていく。


 作業は驚くほどスムーズだった。

 何しろ、人外じみた戦力が揃っているのだ。


 一時間後。

 そこには、立派すぎる『即席・絶景露天風呂』が完成していた。


 湯気の立ち昇る風情ある岩風呂。

 少し高い場所からは辺境の山々の絶景が見渡せ、涼しい風が吹き抜け、湯は柔らかく肌を包む温度で満たされている。


「……完璧では?」


 私は感動のあまり、ほうっと息を吐いた。


「完璧だな」


 隣でクライヴ様がそう言ってくれた瞬間、もう今日の私の幸福値は上限突破である。


 ◇ ◇ ◇


 その後、さすがに男女同時入浴は私の心臓が爆発するので、時間をずらして入ることになった。

 まずは私が先に入らせてもらう。


 土魔法で作った簡易の衝立で囲まれた一角で、湯に浸かった私は思わず天を仰いだ。


「はぁぁぁぁぁ……」


 気持ちいい。

 じんわりと身体の芯まであたたまっていく。風はひんやりしているのに湯は柔らかくて、頬が自然とだらしなく緩んでしまう。


(温泉、最高……)


 前世でも温泉旅行は好きだった。でも今はそれ以上だ。この異世界で、自分で見つけた温泉なのだから。


 しばらく浸かっているうちに、私はふと思いついた。


(……浴衣、欲しい)


 湯上がりにさっと羽織れて、動きやすくて、しかも色気と風情のある服。

 この世界の寝間着やガウンも悪くはないが、温泉にはやはり浴衣だ。そして何より、推しの浴衣姿が見たい。絶対に見たい。


 私はカッ! と目を見開いて湯から上がると、同行していた侍女たちに布と裁縫道具を急ぎで用意してもらった。


「奥様、湯上がりに何をなさるのですか?」

「浴衣を作ります!」

「今からですか!?」

「今からです!!」


 幸い、直線縫いが多い浴衣は構造が比較的単純だ。

 異世界風に少しだけアレンジしつつ、ざっくりとした簡易版なら私の前世の家庭科の知識で十分いける。


 私はものすごい勢いで布を裁ち、仮縫いし、侍女たちの協力も得て二着を光の速さで仕上げた。

 一着は自分用。淡い藤色。

 そして、もう一着は――もちろんクライヴ様用だ。


 黒に近い濃紺の地に、銀糸で控えめな流水模様が入った生地。

 絶対似合う。国宝になる。断言できる。


「できました……!」


 私は息を切らしながら完成した浴衣を抱えた。

 その頃には、クライヴ様の入浴も終わる頃合いだった。


 私は湯上がり用の脱衣小屋の前で、浴衣を抱えてそわそわ待機した。

 心臓がうるさい。暴走機関車のようにうるさい。

 だってこれから、湯上がりの推しに、自作の浴衣を渡すのだ。そんな高火力イベント、前世のどの乙女ゲームでも見たことがない。


 やがて、木戸が静かに開いた。


「ルシアナ?」


 色気を含んだ低い声に、私はビクッと背筋を伸ばす。


「は、はいっ!」


 振り返った、その瞬間。

 私は本気で、呼吸の仕方を忘れた。


 湯上がりのクライヴ様が、そこに立っていた。


 濡れた漆黒の髪が額から首筋へ色っぽく落ち、湯気をまとった肌はほんのりと上気している。

 いつもの軍服では絶対に見えない鎖骨と喉元。軽く羽織ったシャツから覗く、鍛え抜かれた厚い胸板。

 帝国最強の体躯が、湯上がりの気だるさを帯びてなお、圧倒的すぎるフェロモンを放っていた。


 無理。

 破壊力が高すぎる。


(死ぬ)


 私の中の限界オタクが、真顔で死を覚悟した。


(待って待って待って!? 湯上がり濡れ髪+上気した肌+開いた胸元って何!? そんなの公式最大手にもほどがあるんですけど!? 視力が上がるどころか魂が天に還る!!)


「どうした。固まっているが」

「い、いえ、その、あの……! お似合いになりそうなものを……!」


 私はもはや自分が何を言っているのかわからないまま、濃紺の浴衣を両手で突き出した。


「湯上がりに羽織るお召し物です! 浴衣といって、ええと、楽で、涼しくて、その、とにかく着ていただけませんか!?」


 勢いだけで押し切った。

 クライヴ様は少しだけ不思議そうに布を受け取り、広げて眺める。


「これを俺に?」

「はい……!」

「お前が作ったのか」

「急ごしらえですが……っ」


 クライヴ様はしばらく浴衣を見ていたが、やがて静かに、そして嬉しそうに頷いた。


「なら、着る」


 私はその場で崩れ落ちそうになった。

 推しが。自分の作った服を。着てくれる。

 なんてご褒美だろう。今日も国民の休日に指定すべきだ。


 そして数分後。

 再び小屋の戸が開いた。


 私は、またしても言葉を失うことになる。

 濃紺の浴衣をまとったクライヴ様が、夜空の月でも背負ってきたみたいな神々しい顔で立っていたからだ。


 似合う、なんてものではない。

 あまりにも似合いすぎている。和装の直線的な美しさが、彼の長身と鋭い顔立ちを極限まで際立たせていた。

 濡れた黒髪との相性は抜群。銀糸の流水模様も、しっとりと色気を添えている。

 なのに、襟元は少しだけ開いていて――さっきよりもむしろ危険度セクシーさが爆増していた。


「…………」

「ルシアナ?」


 クライヴ様が怪訝そうに首を傾げる。

 だめだ。何か言わないと。でも語彙力が完全に死滅している。


「……お顔が、たいへんよろしいです」


 限界まで絞り出して出た言葉が、それだった。

 クライヴ様が一瞬だけ目を丸くする。背後で侍女たちが必死に笑いを堪えていた。


「それは感想としてどうなんだ」

「限界オタクの魂からの本音です」

「そうか」

「あと、とても、とても、ものすごぉぉぉく、お似合いです!!」


 私が鼻息荒く言うと、クライヴ様はわずかに目を細めた。


「お前も、似合っている」

「へっ」


 変な声が出た。

 自分用に作った藤色の浴衣は、侍女たちに着付けてもらってすでに身につけている。でもまさか、それに触れられるとは思わなかった。


「い、いえ私はその、急ごしらえですし寸胴ですし……」

「それでもだ」


 低い声でそう言われ、心臓がドクンと跳ねる。


「……とても、綺麗だ」

「…………ッッ」


 無理。これ以上は無理。

 私は慌てて顔を逸らしたが、たぶん耳の先から首まで茹でダコのように真っ赤だったと思う。鼻血が出なくて本当によかった。


 そんな私を見て、クライヴ様がふっと優しく笑った。

 最近この人、私に向けて笑う頻度が格段に増えていません? ありがとうございます、もっとください。


 ◇ ◇ ◇


 その後、私たちは湯上がりのまま、露天風呂の脇に作った休憩用の縁台へ並んで座った。


 夜風が気持ちいい。

 湯上がりの火照った身体を、やわらかな風が撫でていく。

 クライヴ様は隣で静かに目を閉じた。


「……悪くないな」

「温泉ですか?」

「ああ」

「でしょう!」


 私はドヤ顔で胸を張った。


「これ、ちゃんと整備したら絶対に人気の名所になりますよ! 領民の皆さんにも開放できますし、湯治場にしてもいいですし、温泉宿を作ってもいいかも……!」

「また頭の中が忙しく動き始めたな」

「開拓プランは無限大です!」


 クライヴ様は呆れたようでいて、声はどこか楽しそうだった。


「お前の頭の中は、いつも騒がしいな」

「いいことです!」

「そうだな」


 短いやり取りの後、ふと心地よい沈黙が落ちる。

 湯の音と風の音だけが静かに流れ、その隣に推しがいる。それだけで、胸がじんわりと温かく満たされる。


 やがてクライヴ様が、ぽつりと呟いた。


「お前が来てから、この領地は急に変わり始めた」

「そうでしょうか」

「館も、食事も、街も……今度は温泉だ」


 黄金の瞳が、まっすぐこちらを向く。


「お前は本当に、次から次へと俺の知らないものを持ち込んでくる」


 その声に責める響きはない。

 むしろ、どこか眩しい奇跡を見るような響きだった。


 私は少しだけ笑う。


「でも、嫌ではないのでしょう?」

「……ああ」


 クライヴ様は否定しなかった。


「嫌ではない」


 それどころか、と続けそうになって、彼は言葉を飲み込む。

 代わりに、大きな手がそっと私の髪へ触れた。湯上がりの指先はまだ少し温かい。


「むしろ、お前がいる方がいい。……ずっと俺のそばにいろ」


 さらりと、しかし独占欲を滲ませて落とされたその一言に、私の心臓は見事に撃ち抜かれた。


 危険だ。

 温泉の効能書きに“推しの色気による心臓への過負荷”は書いてなかったはずなんだけど。


 私は必死に平静を装いながら、小さく返す。


「……でしたら、もっと色々見つけて、辺境を最強のパラダイスにしますね」

「期待している」


 その返事が、ひどく嬉しかった。


 こうして、辺境に新たな癒やしの名所――温泉が誕生した。

 ただし。


 その帰り道、館へ戻る馬車の中で、浴衣姿のまま向かいに座るクライヴ様の色気が凄まじすぎて直視できず、私はずっと窓の外ばかり見ていた。

 だって仕方ないではないか。濡れ髪、浴衣、少し開いた胸元、そして時折こちらを見る熱のこもった黄金の瞳。

 そんなもの、平然と見られる方がおかしい。


 しかも。


「ルシアナ」

「は、はいっ」

「さっきから、鼻の下が伸びているぞ」

「伸びてません!!」

「いや、完全に伸びているな」


 ほんの少し、意地悪そうに楽しげな声だった。


 くっ。

 この人、絶対わかっていて私の反応を楽しんでる。

 呪いが解けてからのクライヴ様、確実に以前より手強くてタチが悪い。


 そして私はその事実に、嬉しいやら悔しいやらで、ますます顔を赤くして俯くしかなかったのだった。



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