届かぬ声
音楽が止まった。
豊珠は騒然とした客席を前に立ち尽くしていた。
「来なさい」
時風に強く手を引かれ舞台裏へ戻る。
「皆さん、外の混乱が収まるまでここで待機してください。いいですね」
兄弟たちは顔を見合わせておずおずと椅子に腰掛けた。
「晶刃の儀、どうなっちゃうのかな」
李汀がぽつりと呟いた。
豊珠は鳳衣を脱いで、天幕の隙間から外を伺っている。
「救護幕は全壊だ。怪我人をこちらへ!珠臣、椅子を運べ。案内しなさい」
幕の外で珀暁が叫ぶ声がした。
怪我人が邸の中へ運び込まれていく。その中で見覚えのある少年が───
「羅輝?」
まさか、と思うより先に、胸の奥が冷えた。
次の瞬間には身体は跳ね上がり、天幕を潜り抜けていた。
「豊珠兄!?」
「お静かに。私が連れ戻します」
ざわつく兄弟たちを制して時風が後を追う。
「珠臣殿、この方が最後の怪我人です」
「大丈夫だから!大袈裟だから!下ろしてくれよー!」
「ちゃんと診てもらってくださいね。後はよろしくお願いします」
「ふぅ。やっと下ろしてもらえた……」
羅輝は衣服に着いた砂埃を払った。
羅輝を追って邸まで来たものの、豊珠は寸前で足を止めた。
そのまま飛び込むわけにはいかず、咄嗟に格子戸の外へ身を潜める。
(良かった……あの様子だと大きな怪我は無さそうだ)
そう思った途端、膝から力が抜けそうになった。
名を呼ぶことも、駆け寄ることもできない自分が、ひどくもどかしい。
壁に額を預けて呼吸を整える。
珠臣の声がする。
「中は既にいっぱいで。玄関で申し訳ないですが」
珠臣が早足で椅子を運んでくると、風景画の前で立ち尽くす少年の姿があった。
取り付かれたように動かない。
その姿には見覚えがあった。
「あなた、は……」
振り返った羅輝の瞳はきらきらと輝いていた。
「この絵は俺が描いたんだ。キミが買ったの?」
珠臣は言葉に詰まった。
本当は豊珠が買った。けれどそう言えば彼の身分を明かすことになる。
わからないと適当に流せば、作者の期待を前に失礼にあたるかもしれない。
違うと言わなければならない。
そう分かっているのに、その期待に満ちた瞳が珠臣の口を塞いだ。
「……そうです。私が買いました」
豊珠は思わず一歩、踏み出しかけた。
その絵の所有者は私だ、と。
けれども今の自分は紗尾ではない。豊珠として会うこともできない。
羅輝の、隠しきれない喜びの声がする。遠ざかってゆく。届かない。
冷たい水の底にゆっくり沈んでゆく感覚がした。
「……美しい」
時風は、物陰から豊珠の表情を眺めて呟いた。
豊珠様にあのような顔をさせるのは、一体どんな人物なのだろう。
「これは、良い舞台になりそうだ」
───
太陽が傾き、空が紫に包まれる頃。光虫の小さな光が漂い始めた。
会場のあちらこちらにある、源美石の巨大な彫刻が内側から光を滲ませ、じんわりと広がりながら鳳凰の形を照らし出した。
舞台の前にも、水面の波飛沫を模した彫刻が設置され、昼間の雰囲気とは幾分も違って見える。
昼間に起きたつむじ風の事故では、幸いにも大怪我を負った人はいなかった。
羅輝は、舞台の中央の最前列の席に座った。
手当てのために連れて行かれた先で、売れた大作と、抱嵐崖で出会った友人との再会。
それから
「これは、昼の公演でご迷惑とご不便をお掛けしたお詫びです。夜の部の観覧券。一番良い席をご用意しました」
そう言って観覧券を手渡して来たのは、いま都で最も時めく舞手───
「じじじ、時風さん!?」
西日を味方に付けた微笑み、観覧券から手を離す指のしなやかさ。
一瞬だけ、甘い香が肌をかすめた。
「時風さん、すごい人だ……」
溜め息を吐いて姿勢を正す。
こんなに舞台が近い席は、父と一緒に観に来て以来だ。
もうすぐ、幕が上がる。
豊珠は鏡の前で、化粧をした自分を見つめていた。
あの時、自分こそが真の持ち主であると言える道など、どこにもなかった。誰が悪いわけでもない。
ただ、羅輝の嬉しそうなあの声を、一番近くで聞きたかった。
考えを頭から振り払うように、衣装に袖を通す。
(集中しなければ)
楽屋を抜け舞台裏へと急ぐ。
(いつも通り、いつも通り)
心の中で拍を取りながら舞の足運びを復習する。
「豊珠様、間もなく出番ですので」
振り返ると、時風が鳳衣を持って立っていた。
「時風先生?」
「はい。たまには良いでしょう?」
促されるまま袖を通す。
太鼓の音はゆっくりになり、一筋の笛の音だけが残る。
出番だ。
「ちょっとした仕掛けを用意しました」
舞台袖で時風が妖しく笑った。すぐにその意味を理解した。
舞台裏で彫光師が放った光虫が、鳳衣に縫いつけられた源美石へ一斉に食いついた。
(重い……!)
肩が後ろへ引かれる。
裾が沈む。
一歩目が遅れる。
(落ち着け)
豊珠はそのまま舞台中央まで駆け抜け、構えの型で正面を射抜いた。
ドドン、と地を打つ太鼓。
袖を払う。
光虫が追う。
裾を返す。
また追う。
いつもの鳳衣なら、もっと軽い。
もっと鋭く、もっと高く、風を裂ける。
だが今夜の鳳衣は違った。
背に、腕に、足元に、遅れて重みが絡みつく。
(───ッ)
視界の端、最前列に見覚えのある顔が映った。
羅輝。
息が止まる。
次の一歩が、ほんのわずかに鈍る。
その隙を待っていたかのように、光虫の群れが裾へと殺到した。
(クソがッ)
強く踏み込む。
無理やり裾を引きはがす。
ひとつ、振りを飛ばした。
違う。
鳳凰はこんなんじゃない。
見ないで、羅輝───
裾を払った、その瞬間。
カン、と。
乾いた金属音が舞台の空気を裂いた。
舞台の端に、黒い影が立っている。
長い髪を夜のように揺らし、何ひとつ乱れぬ所作で舞台に立つその姿に、観客席の空気が一変した。
真明だ。
(───まだ兄上の出番ではないはず)
真明は構わず一歩、舞台へ踏み込む。
その足運びに迷いはなく、まるで最初からこの一拍が用意されていたかのようだった。
そのまま、切願の舞に入る。
(即興……!)
舞台袖からその様子を見ていた時風は、ぞくりと肩を震わせた。
「……すばらしい」
そのまま興奮した足取りで、調光師の織実のもとへ駆け寄る。
「織実殿、予備の光虫を放ってください」
「なっ!?これ以上は」
「いいから、早くして」
時風の声は静かなのに、有無を言わせぬ圧があった。
織実は息を呑み、それでも逆らいきれず、予備の光虫が入った壺の封を切ってしまった。
裾を蹴り上げる足も、力いっぱい床を打つたびに感覚が薄れていく。
そんな中、視界の隅に勢い良く向かってくる光虫の群れがあった。
(増えた。嘘だろ……)
あと二回、真明の回りを旋回すれば終わる。
やるしかない。
豊珠の舞は、例えば蛍のように、あるいは流星のような光の軌道を描いた。
光の大群を舞で捌きながら、羅輝を視界に捉えた。
───私を見て
私を見ないで
私を見て
───駄目だ。
舞台袖の暗幕へ飛び込む。目標を失った光虫たちは散り散りになり、そこらを漂っていた。
呼吸が乱れて激しく肩を揺らす。
豊珠の頬に、一筋の涙が伝っていた。
「豊珠兄さま……」
駆け寄ろうとする李汀を翠玉が無言で制した。
観客の拍手と声援が遠く聞こえた。




