風と落ちる
「何度も言うけど初泉の舞の李汀様と虎蓮様の可愛さといったら!無垢な泉にぴったりで!!本物の精霊って感じで!!高い雨代だったけど思い切って良かった!!」
「うーん、もうわかったって。私も隣で観てたから」
待ちに待った晶刃の儀が始まった。どこもかしこも舞台の話で持ち切りだ。
普段は人もまばらな小料理屋も今日は満席で、羅輝はせわしなく料理を運んで回っていた。額に汗が滲むほどの忙しさだ。
「はい、お待ちどうさま。輝泉名物、餅魚の糖鮮揚げ」
串に刺さった魚は、まるで透き通る結晶の中で眠っているようだった。
光を受けるたびに、表面の飴が細かく反射してきらめく。揚げたての熱が、じんわりと指先に伝わる。
「わぁー!なにこれやばい!!本当に魚!?食べていい!?」
「お願いだから落ち着いて!」
(ぱきっ)
「外側はパリパリしてて、中の魚はもっちりしてて……」
「程良い甘辛さがある。深泉から来た甲斐があるわね。……お土産用に包んで貰えるのかしら」
「羅輝ちゃーん!七彩煮二皿!!出来たよー」
「はーい」
声に押されるように、羅輝は盆を持ち直してまた料理を運ぶ。
「いやぁもう王子様皆立派に成長されてね、おれは涙が出そうになっちまったよ」
「いいえ、あなた。結構序盤から泣いていらしてましたわ」
「……」
「特に翠玉様と雷焔様、まるで双子のようでしたわね。烈血舞の呼吸がぴったりで見惚れてしまいましたわ」
「お待ちどうさま!七彩煮ふたつ、熱いので気をつけて」
湯気の中で、色とりどりの具材がやわらかく揺れていた。
「羅輝ちゃーん!次ー!」
「はーい」
「やっぱ時風さん、やってくれたわ。あの鳳凰舞は反則でしょ。昼であの神々しさなら夜はどうなるの?本当に、夜の部取れなかったのが悔やまれる」
「まあまあ、昼の部観れただけでも」
「だってあの鳳凰の衣装がさ!昼は風に舞い上がって、聞いた話だと夜は───」
「お待ちどうさま。輝泉宝茶と泉潤豆腐、黒蜜はお好みでどうぞ」
羅輝は早口で言い終えるや否や、その卓を離れた。
なるべくネタばらしには遭いたくないものである。
客足が途切れたところで、羅輝は仕事を上がった。朝のうちに手に入れた立ち見券が、懐で確かな重みを持っている。
浮かれた足取りで家に戻るやいなや、隣の彫刻屋の叔母に呼び止められた。
「羅輝、あんたの大作、売れたよ」
「本当!?」
───数刻前、同じ街の別の場所で。
珠臣は豊珠に言われた通り、藍泉晶の風景画を買い付けに街に下りていた。
隣国、深泉国からの観光客の足も増え、街の人口は倍になったと思われる。人混みをかき分けて彫刻の屋台の前まで来ると、両手を広げても足りないほどの風景画の前で、人々は足を止めていた。
描かれていたのは、藍泉晶の青で描かれた、眼下に広がる街並みである。日が沈んで光虫が飛翔する頃、空と街が同じ温度の熱で灯されている。
風景画の傍らには小さな立て看板が置かれていて、作者による絵の説明が書かれていた。
───抱嵐崖の頂は、石脈争乱後、万泉守が身を休めた地と伝えられる。
ここから望む輝泉は静かで、風の中に時の流れを宿している。
本作は、その風景を写したものである。羅輝
珠臣の中で、抱嵐崖で指を深い青に染めていた少年が思い浮かんだ。
屋台の店主に尋ねる。
「この風景画の作者はどこに?」
「あらごめんね、小料理屋の手伝いに行っちゃってるのよ。もう少ししたら帰ってくると思うけど」
「そうですか、なら大丈夫です。ではこの絵をください。お代はここに」
珠臣は面食らった店主に見送られ、屋台を後にした。
布に包まれた大きな風景画を持ち上げては下ろし、持ち上げては下ろして、なんとか荷運びまで辿り付いた。
受付の印が押された伝票を受け取り、珠臣はそれを懐にしまった。
───翌日
珠臣の邸に風景画が届けられた。外で見た時よりもやけに大きく感じ、ひとまず玄関に置くことにした。
晶刃の儀、昼の部まではまだ時間があるからと、珠臣は豊珠の楽屋まで走った。珠臣の邸から仮設舞台の裏側まではすぐだった。
豊珠はどんな顔をするだろう。
二人は息を切らして玄関に飛び込んだ。
目の前に広がる青。
豊珠の横顔をちらりと見た。瞬きするのも忘れている。
「……本当にすごい。もしも私が飛べたら、こんなに美しい街の景色が見られるんだろうか。これは鳳凰が、万泉守が見た景色なんだ。守りたい景色」
豊珠は珠臣に向き直り
「珠臣、本当にありがとう。この絵を見ることができて、私は幸せだ。この絵と、藍泉晶の首飾りと、なんてお礼を言えば良いんだろう……」
「それだけ喜んでもらえたならお礼なんていりませんよ。作者も喜んでいるでしょう」
豊珠は清々しい気持ちで楽屋へ戻った。昼の舞台用の衣装に着替え、化粧を施す。
藍泉晶の首飾りは祈りを込めて宝石箱へ。
楽屋の外は、すでに人の気配で満ちていた。
布越しに聞こえるざわめきは、波のように寄せては返す。
豊珠は鏡の前に座り、最後にひとつ、呼吸を整える。
静かだ。不思議なほどに。胸の奥が、すう、と澄んでいく。
蛇のようにうねる入場列に羅輝の姿があった。列に並んでいる間にも、羅輝は小躍りしたい気持ちでいっぱいだった。
立ち見券も取れて、大作も売れる。こんなに嬉しいことが重なって良いのだろうか。
昨晩は胸の高鳴りが邪魔をして、なかなか寝付けなかった。
あの大作を買ってくれたのはどんな人なんだろう。どんなところを気に入ってくれたのだろう。
あんなに大きな絵を描くのも初めてだった。まさか本当に売れるなんて───
「入場をお待ちの間に、お手元に雨代をご用意くださーい」
観覧料は雨代と呼ばれている。集めた雨代は街や民のために使われる。一旦は手元から離れるが、やがて雨のように戻ってくることからそう呼ばれるようになった。
羅輝は絵が売れた臨時収入で雨代を奮発した。
正門を潜ると一気に胸が高鳴った。
舞台を半円状に囲むように、木造の段が幾重にも重なっている。
緩やかにせり上がる客席は、上へ行くほど空に近く、どの場所からでも舞台を見下ろせる造りだ。
羅輝はその中段の、手すりのある立ち見席へと案内された。
やがて重々しい太鼓の音が響き渡り、晶刃の儀の幕開けを告げる。
わぁっと静かな歓声と拍手の中、初泉の舞が始まった。
(見えるけど、見えない……!)
羅輝は思わず手すりに力を込めるけれど、王子の表情までは確認できない。
だが、見えない分だけ、他のものが鮮明だった。
鈴の音。
足が地を打つ乾いた音。
衣が空気を裂く、かすかな気配。
それらが重なって、舞の形を想像させる。
(……すごい)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
見えなくても分かる。そこに、確かに何かがある。
そのとき。
ふ、と。頬に、かすかな風が触れた。
思わず顔を上げる。
上段の布が、僅かに揺れている。
(風……?)
屋外の舞台だ。風が吹くこと自体は珍しくない。
ざわ、と客席のどこかが揺れる。
「今の、演出……?」
誰かの声が、半信半疑にこぼれた。
舞台の上では、なおも舞が続いている。だが、その動きに呼応するように、風が、ひとつ、集まり始めていた。
舞台の裏では翠玉と雷焔が剣を取り、互いの肩を叩いて舞台中央に走り出た。豊珠はその様子を袖から見守る。
(風が強いな……)
衣の裾が、想定よりも大きく持ち上がる。
踏み込む足に対して、僅かに遅れて空気が絡みつく。
翠玉の剣が振り下ろされる。
それに呼応するはずの雷焔の動きが、ほんの僅かにずれる。
観客には気づかれないほどの、ほんの一拍。
ばさり、と、舞台の上手側の幕が大きくはためいた。
「豊珠様、そろそろ準備を」
「ああ」
彩衣手が広げた鳳衣に豊珠が袖を通す。
淡い水色で、豊珠の身長の三倍はある薄衣だ。風を受けると鳳凰の尾羽のように裾が広がる。
豊珠は胸の内に、羅輝の風景画を想った。
あの絵を見た感動のまま、舞おうと思った。
戦火を表す激しい太鼓の音が、やがて一筋の笛の音に変わった時───
静かに豊珠が踏み出した。
淡い水色の鳳衣が、僅かな動きに応じてふわりと持ち上がる。
その裾は地を擦ることなく、まるで空気そのものに支えられているかのようだった。
しん、と静まり返った客席からさざ波のように拍手が広がった。
(……あれが)
羅輝は思わず息を呑む。
風に揺れる輪郭は、豊珠が舞の型を重ねる度に姿を変えた。風に溶けるように、豊珠はしなやかに腕を上げる。
───その時
咆哮のような風の唸りが舞台を包む。
客席のざわめきが一瞬で悲鳴に変わった。
つむじ風が、采配所――儀の進行を司る天幕と、救護所の天幕を巻き上げ───
(こっちに来る!)
「危ない!伏せて!」
誰かの叫びが飛ぶ。
巻き上げられた天幕が、空を切って翻る。
バキィッと木材が裂ける。
よろけた観客に肩を押され
(やばい……!)
足元が、ふっと軽くなる。
踏みしめていたはずの感覚が、消えた。
次の瞬間。
羅輝の身体は、風に引かれた。
「――っ!」
咄嗟に手を伸ばす。
だが、掴めるものは何もない。
背中の鈍い痛みと、埃っぽい空だけが、視界いっぱいに広がっていた。




