金魚の尻尾
太鼓の音、甘い匂い、人々の笑い声が橙色の光の中で溶け合い煌めいている。二人は呼吸を整えて、豊珠は虎蓮の掛紗を巻き直し母親譲りの柔らかいくせ毛を覆う。
自分だけでなく、虎蓮までも巻き込んでしまった。いや、巻き込まれたのだろうか。手が震えているのか、くせ毛の先が掛紗からぴょんぴょんと逃げ出す。やっとのことで毛先をしまい込んで掛紗の端を首の後ろでキュッと結んだ。
「ぐぇ」
「しっかり隠しておけよ」
肩に置いた手に力を込める。
───いざ、街へ
繰り返し見た案内紙のあの店はどこだろう。香辛料を雨のように振りかけているあの料理はどんな味がするんだろう。今なら全部、誰にも邪魔されず見ることができる。さっきの太鼓と笛の音色、独特の節回しだった。歩きたくて仕方ない。あの子が持ってる燈器、どこで売ってるんだろう。ねえ虎蓮、虎蓮はどこから見たい?
虎蓮?
しまった、はぐれた。
豊珠は人混みをかき分けて元来た道を急いだ。
───虎蓮が見つからなかったら洒落にならないぞ
水を被ったように心臓が冷たい。だけど首元は汗ばんで呼吸が上がる。どこだ、どこにいる。
行き交う人とぶつかりそうになりながら、視線は素早く辺りを見渡した。
ふと人混みが割れた街角の屋台に、見慣れた掛紗の端が見えた。ああ虎蓮、虎蓮。安堵で頭がのぼせそうだ。
虎蓮は屋台で腰を据えて“誰でもできる!源美石の彫刻体験”をやっていた。虎蓮の回りにも四人の子どもたちが集まって、皆小刀を握り熱心に源美石を削っている。削り方で源美石の光り方が変わるのだ。子どもたちは時折、波のように揺らぐ光を放ったり、星のように瞬いて光る源美石を見せ合って歓声を上げた。
「キミ、いい顔をしてる」
ハッとして声の方へ顔を向けた。彫刻の屋台の隣。
「少し描いてもいい?時間は取らせない」
そう言って、既に筆を走らせている。豊珠と同い年くらいの少年。咄嗟に顔を背けた先には絵が飾られていた。青一色で描かれた水墨画。夜の街の風景。なのに橙色の光を感じる。どうして?不思議だ。
描かれることを拒否するのも忘れる程、豊珠はその絵に魅せられた。
「その絵、気に入った?」
「これは君が描いたのか?」
「そうだよ。俺が描いた。藍泉晶を砕いた青だよ」
少年は鼻歌に乗せて軽やかに筆を走らせている。
「その掛紗の端、金魚みたいだな。ひらひらしてて」
豊珠は言葉に困って視線を落とした。
「もうすぐ描き終わる。俺は羅輝。名入れをしようか。キミ、名前は?」
───言える訳がない。
「いや、いい……好きに呼ぶといい」
「好きに?じゃあ金魚の尻尾って呼んでも?」
「……」
「それなら、紗尾にしよう」
豊珠でもない、第二王子でもない新しい名前。紗尾。
「はい完成。どーぞ」
丸まった画紙を受け取り指先でそっと開くと、自分の知らない横顔があった。
あの絵と同じ藍泉晶の青で描かれた、写実的でない、夢の輪郭。筆の強弱に滲んだ、額にかかる前髪。水を含ませ淡く溶かした影、動き出しそうな金魚の尾鰭。
───目を逸らせない、動けない。
「あれ?弟くんかな?」
彫刻体験を済ませた虎蓮が来た。虎蓮は小さく頷く。豊珠は虎蓮の背を押しながら言う。
「もう行かなければ。礼を言う」
「またな、紗尾。またな、小紗尾」
「コシャビ?」
虎蓮は首を傾げる。
「コシャビってなぁに?」
「……なんでもない」
宮廷に戻り、虎蓮を部屋に送り届けたあと、豊珠の足取りはふわふわしていた。着替えることも忘れ自室の壁にもたれて画紙を広げる。おかしい、あんなに目を逸らせなかったのに、今はこうして眺めることさえ難しい。あの時、こんな顔をしていたなんて。恥ずかしくて見ていられない。
豊珠は画紙を引き出しの奥に仕舞った。
忘れられないのは、あの青い街の風景画。そして
「……紗尾」
掛紗の端を指で撫でた。




