それらの勇者たちも時代を先取りしていた
これはこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
一部の読者は、こう反論するかもしれない。
「漫画やアニメの中には、ジャンル的な革新を目指していなかったにもかかわらず、極めて優れた作品も存在するのではないか」と。
たとえば、『ベルサイユのばら』。
あるいは、より近年の作品である『へうげもの』。
確かに、これらの作品は、表面的には奇抜なジャンル実験を行っているようには見えない。
どちらも歴史を題材にし、いわゆる「重厚なドラマ」の文脈に位置づけることも可能だろう。
しかし、ここで重要なのは、革新とはジャンルの破壊だけを意味するものではないという点である。
『へうげもの』が提示した最大の革新は、時代設定や題材ではない。
それは、芸術を見る視線そのものを転倒させたことにある。
日本の正統的な文学・映画の系譜において、芸術はしばしば、
静謐で、荘厳で、崇高なものとして描かれてきた。
ゆっくりとした時間の流れの中で、距離を保ちながら鑑賞される対象である。
『へうげもの』は、その前提を拒否する。
この作品において芸術は、
混乱し、欲望にまみれ、矛盾だらけの人間たちによって作られ、
そして何より、同じく不完全な人間たちによって眺められる。
そこには、崇高さよりも滑稽さがあり、
厳粛さよりも執着があり、
理想よりも、生々しい現実がある。
この視線の転換こそが、『へうげもの』の革新性である。
歴史を描きながら、芸術そのものの位置づけを更新したのだ。
一方で、『ベルサイユのばら』が行った革新は、まったく別の次元にある。
この作品は、紛れもなくドラマであり、
フランス革命という歴史的題材を扱う、壮大な物語である。
しかし、その本質は、
登場人物の内面を、徹底的に可視化したことにある。
とりわけ、オスカルという人物は象徴的だ。
彼女(彼)の葛藤、恐怖、怒り、迷い、そして深い傷は、
暗示されるのではなく、隠されるのでもなく、
その中心に至るまで、余すことなく描かれる。
日本の写実主義的な物語では、
人物の複雑さはしばしば「語られないこと」によって表現される。
沈黙、間、抑制。
それが美徳とされてきた。
『ベルサイユのばら』は、その伝統を選ばなかった。
この作品は、心理を叫ぶ。
苦悩を覆い隠さない。
問いを示唆するのではなく、真正面から突きつける。
そして忘れてはならないのは、
『ベルサイユのばら』が少女漫画というフィールドにおいて成し遂げた、
革命的な意味である。
歴史劇という形式を用いながら、
運命、自由、正義といった、極めて哲学的な問いを扱い、
しかもそれを、遠回しにではなく、激しく、情熱的に描き切った。
この作品は決して繊細ではない。
むしろ、轟音のような物語である。
その騒々しさ、その過剰さこそが、
抑制と静謐を重んじてきた日本の正統的叙述と、
決定的な距離を生んだ。
『ベルサイユのばら』も『へうげもの』も、
後続作品の雛形にはならなかった。
模倣されず、量産されず、
代替可能なフォーマットにもならなかった。
それは、これらの作品が「完成された型」ではなく、
一度きりの決断として存在しているからである。
革新とは、常にこの形を取る。
安全な形式を残すのではなく、
取り返しのつかない選択を、作品の中に刻み込むこと。
この意味において、
『ベルサイユのばら』も『へうげもの』も、
黄金時代の精神を確かに継承している。
それは、過去を再現することではない。
過去が行わなかったことを、あえて引き受ける姿勢である
このエピソードを楽しんでいただければ幸いです。次のエピソードはすぐにアップロードします。




