神を神たらしめるもの
このエッセイは、私の様々な考えを分析とマニフェストの形で表現することを目的としています。読者の皆様、どうぞご支援を賜りますようお願い申し上げます。この最初の部分を楽しんでいただけたら幸いです。
日本の文学と映画の「正統」と呼ばれる系譜を振り返ると、ある傾向がはっきりと見えてくる。
それは、産業革命以降、日本で高く評価され、国際的にも賞賛されてきた作品の多くが、写実主義に強いドラマ性を帯びた表現を中心に据えてきたという事実だ。
『羅生門』や『痴人の愛』のような作品は、日本国内にとどまらず、世界の映画史・文学史においても傑作として認識されている。
都市の現実、農村の現実、あるいは時代劇として再構築された過去の現実。
それらは変化し続けながらも、どこか堅固で、抑制され、日常に根ざした現実として描かれてきた。
そしていつしか、
「日本が最も得意とする表現は、写実的で、重厚な人間ドラマである」
という評価が、半ば定説のように語られるようになった。
それ自体は間違いではない。
むしろ、疑いようのない到達点ですらある。
しかし、日本のフィクションが持つ可能性は、そこに尽きるものではなかった。
その「正統」から静かに、しかし決定的に逸脱した場所に、漫画があった。
とりわけ、手塚治虫の作品群は、日本のフィクション史における一種の「異物」であり、同時に**至宝(crown jewel)**でもある。
それらは現実を写そうとはしなかった。
むしろ、現実とは異なる現実を、意図的に、執拗に提示した。
漫画、そして後にアニメやライトノベルへと連なるこの系譜は、
私たちが生きている世界とはあまりにもかけ離れた現実――
夢の中でしか垣間見ることのできないような、過剰で、歪で、想像的な世界――
を、最初から当然のものとして扱った。
それは逃避ではない。
現実を拒絶したのでもない。
現実とは別の座標を持つ世界を、思考の場として提示したのだ。
だからこそ、いわゆる「黄金時代」の漫画やアニメは、
単に完成度が高かったから黄金時代だったのではない。
その本質は、
誰も踏み込んだことのない領域を、ためらいなく探査したこと
前例のない表現を、恐れずに試みたこと
にある。
それぞれの作品が、それぞれ固有の振動数を持っていた。
互いに代替不可能で、比較できず、混ざり合わない。
だからこそ、同じジャンルに分類されていても、決して「同じもの」にはならなかった。
手塚治虫が「漫画の神様」と呼ばれる理由も、そこにある。
それは、彼の作品が優れていたからだけではない。
ましてや、完成されていたからでもない。
彼が神と呼ばれるのは、
日本のフィクションが一度も足を踏み入れたことのない領域に、次々と橋を架けたからだ。
科学、神話、倫理、死、転生、宇宙、進化。
それらを、写実の枠に閉じ込めることなく、
漫画という新しい器の中で、自由に衝突させた。
手塚治虫は、完成形を残したのではない。
可能性の地図を描いたのだ。
黄金時代が黄金だった理由は、過去にあったからではない。
未来を開こうとしていたからだ。
その精神こそが、漫画とアニメを、
日本の写実主義とは異なる、もう一つのフィクションの軸へと押し上げた。
そして、その軸は、今なお尽きてはいない。
この最初の部分を楽しんでいただけたら幸いです。次の部分を近日中にアップロードします。




