第42話
アンの身体は、黒々とした肉に埋もれていく。そのまま魔物の一部でできた巨大な手を勢いよくこちらに伸ばしてきた。
「ナツさん!」
オリハ先輩が前に出て、その手を風の剣で弾く。私に魔力を提供しておきながら、まだそれだけの動きができるのか。彼の額には脂汗が滲んでいる。それでも、消耗を感じさせないほどに動きはしなやかだった。
……早く、終わらせないと。
「私の命令を聞け、全て!」
私は術式に自分の残った魔力を溶け込ませる。途端に、アンの幻想でできた本校舎が脈動した。
「崩れろっ!」
パリン、と構成された魔法が弾ける。私たちを包んでいた本校舎は全て薄いガラス片のように割れ、無数の棘となった。
「ぐ、っ……」
魔力の枯渇で頭が警鐘を鳴らしている。それでも、やめる訳にはいかない。
「いけっ!」
術式を全て消費して、掌握した全てのガラス片がアンに向かう。ジャリジャリ、と嫌な金属音がしてアンの黒い肉体に刺さり、白い繭となる。赤黒い血が飛び散って、ガラス片も、地面も染め上げる。
一瞬静まり返ったが、それらは中から現れた巨大な腕で一閃される。無数のガラス片は宙に舞い、跡形もなく消えていった。
「あははははははははは!」
アンが雄叫びを上げる。彼女は血塗れだった。全身から液体を垂れ流しながら、大きく口を開けて笑っている。マヤ・ナイラの模造品という舞台がなくなり、赤黒い魔物の腹が顕になる。その中で、アンは狂ったように両手を広げて上を見上げた。空ももはやなく、魔物の肉塊だけが空間を包んでいる。
ガラス片に傷付けられて剥がれた細胞の塊が、ぼと、ぼと、と落ちてくる。それをアンは面白がって見ていた。自身の傷であるはずなのに、彼女は悦びを得ているようだった。
「もっと!」
アンは血走った目をこちらに向け、踏み込んできた。化け物の腕が、私を狙っている。目の前のオリハ先輩は、迎え撃つべく風の剣を握っていた。
「……っ、お返しします!」
オリハ先輩から繋げられていた魔力のパスを切る。私と彼を繋いでいた術式が、ずるりと抜け落ちていく。私はその場で膝をついた。魔力の限界が近いようだ。
オリハ先輩の剣はアンの攻撃を受け止めた。でも、アンの攻撃の質量は圧倒的だ。魔力を消耗しているオリハ先輩に受け止めきれるのだろうか。ふと、嫌な想像をしてしまう。
「……ふ」
ふと、オリハ先輩が笑みを浮かべた。
「ナツさんは、何も心配しないでいい」
こちらの心を見透かすように、彼は言った。
「……僕も、化け物なんだよ」
自嘲すると共にぐっと手に力を込めて、風の剣が強化される。笑みを浮かべながらも、その手は白く、汗もどんどん滲んでいる。私を安心させるための軽口のつもりなんだろうが、なんてことない、オリハ先輩は人間だ。辛くない訳がない。でも、ここで力負けできないのも事実だった。
私は自分の無力さに歯噛みして、その様子を見守る。何かできないだろうか。私は彼の背中に言葉をかける。
「……私をこうやって守ってくれてるオリハ先輩が、化け物な訳ありません」
「……っ!」
オリハ先輩の微かな動揺に、一瞬アンの力が勝つ。だが、次の瞬間、風の威力が増して押し返す。
「う、あああっ!」
オリハ先輩は苦しそうに叫びながら、魔力を質量に変えていった。明らかに無理をしている。でも、私には止められない。だってこれは、負けられない戦いだから。
オリハ先輩は強く押し返して、アンはたまらず後ろに引いた。一際強い魔法を使ったオリハ先輩は膝をついて、はぁ、はぁ、と肩で息をしている。
「オリハ先輩!」
「大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫なはずないのにそう繰り返すオリハ先輩に、私は何も言えなかった。
アンはだらりと黒い腕を下げて、無感情に私たちを見ている。
本当に、勝てるのだろうか。私たちが犠牲にならず、アンを殺せる道は、あるのだろうか。……卒業のための道は、このままで本当に拓けるのだろうか。
彼の満身創痍な様子を見て、どうしても不安が押し寄せてくる。
「ナツさん」
オリハ先輩は荒い息をしながらも、目線をしっかりとこちらに向けて笑った。
「ありがとう」
「……オリハ先輩」
彼の声で、すっと気持ちが落ち着いていくのを感じる。私たちは不安になっている場合ではない。どれだけ限界でも、卒業を達成しなければいけない。
オリハ先輩を見返すと、彼は満足そうに口元を緩めた。
「勝つよ」
「……はい!」
オリハ先輩が立ち上がり、私はその隣に並ぶ。
魔力はどちらもカツカツで、ここは魔物の腹の中で、敵は強大だ。それでも、勝つしか選択肢がない。
「……」
アンは無言で私たちを見ている。だらりと垂れた黒く巨大な腕をもたげる。その様子を、注意深く観察する。
だが、アンはどろりと泥のように溶けて、地中に消えた。
「……っ!?」
動揺する気持ちを必死に抑えて、冷静に考える。
この局面で消えて、どこへ向かったのか。答えはすぐに辿り着いた。
「森に行きましょう」
「うん。そうだね」
オリハ先輩は頷く。ここはもう、マヤ・ナイラの校舎でもなんでもない。ただの肉塊の上を、二人並んで歩く。
交わす言葉はなかった。意思は同じで、ただ、濃い影を感じる方向へ進むのみ。
私たちは、深い闇の中をゆっくりと歩いていった。




