第38話
「オリハ先輩」
痛む身体を抑えながら、呼びかける。オリハ先輩は迷子のように心もとない表情で、私を見ている。何か言葉を発しようとした唇が、すっと閉じた。
「オリハ先輩、今の」
「どうして来たの? まだ寝てないとダメだよ」
オリハ先輩は一転して、いつもの優しい表情に戻った。やけに楽しげなアンに背を向けて、私の元へ歩いてくる。私はそれを、見ることしかできない。
息が荒い。体内の魔力が薄くて、うまく思考がまとまらない。アンはオリハを同族だと言った。なぜ?
「ナツさん……」
柔らかく低い声が甘く響く。びくりと身体が反応して、拒絶の気持ちが強くなる。知っている。オリハ先輩が魅了をかけようとする時の声だ。私は歯を食いしばって、オリハ先輩を睨んだ。
「……怖い顔しないで。お願い」
オリハ先輩が手を伸ばしてくる。その表情も、声も、相変わらず優しくて、少しだけ寂しそうで、私はその手を取ってしまいたくなる。でも、だめだ。負ける訳にはいかない。魅了されないと約束したんだ。他ならない、オリハ先輩と。
「オリハ先輩!」
身体中から振り絞るように叫ぶ。オリハ先輩はびくりと肩を揺らして硬直した。
「説明してください。教えてください。オリハ先輩のこと。今日という今日は、逃がしません」
一息で言い切ると、膝をついた。頭がくらくらする。身体は満身創痍なのに、どうしようもなく怒りが湧いていた。辛うじて動かせる視線だけで、オリハ先輩を睨む。
オリハ先輩は、あからさまに動揺した様子で私を見ていた。伸ばされた手さえそのままで、固まっていた。ただ、その表情はさっきと同じような幼さを帯びている。本当は、こっちがオリハ先輩の本当の顔のような気がしていた。
「……魅了なんて……されません……っ」
息が切れる。空気が薄い。オリハ先輩は、そんな私を見て、急にスイッチが入ったかのように慌ててしゃがみ込み抱きしめてきた。それは魅了なんかじゃない。ただしがみつくような抱擁だった。
「待ってて、今、魔力を……!」
荒い息を繰り返す私に、オリハ先輩は簡単な魔力供給を施す。魔力切れに対する応急処置には限界がある。だがオリハ先輩は、丁寧に、優しく、これでもかというほど慎重に、私に魔力を注ぎ込んだ。可能な限り薄くなったオリハ先輩の魔力が、私の魔力に溶け込んでいく。そのうちに、少しずつ体の痛みが緩和されていった。同時に、体内に煮えたぎっていた熱も、少しずつ落ち着いていく。
「はぁ、は……」
「ごめん、ごめんね、ナツさん」
何に対してだろうか。オリハ先輩はか細い声で謝っていた。何度も、うわごとのように繰り返す。
「ごめん……」
「オリハ先輩」
私を抱きしめてうなだれるオリハ先輩の背中に、手を回す。一瞬、怯えるように震えた身体は、ゆっくりと私に委ねられていった。
「大丈夫ですから……」
「……ごめんね……」
何度目か分からない謝罪をして、オリハ先輩はきゅっと指に軽く力を込めた。その仕草が親にしがみつく子供のようで、私は何に怒っていたのかも分からなくなって、ただ彼の謝罪を受け止めていた。
「……行きましょう、オリハ先輩。ここじゃ……」
言いかけた時、ぞっと寒気が襲った。
実習室の扉がキィと音を立て、アンの顔が覗いた。
「ねぇ。ねぇ、お話は?」
「……っ」
「アンも。アンも混ぜて?」
にこにこと言うアンを睨みつける。アンとオリハ先輩が何を話していたのかは分からない。でも、私とオリハ先輩の話に混ぜるわけにはいかない。
もしかしたら、アンもある意味マヤ・ナイラの被害者なのかもしれない。でも、それでも私たちとは違う存在だ。アンの一存で、私たちは本気で殺されることだってありえるのだ。
「……アン。私はあなたと戦うつもりはない」
アンは表情を変えずに無言で私を見ている。その顔は今までよりは友好的に見えた。
「でも、信用することは難しい」
「……ふふ」
アンは薄く笑う。
「ここに。ここにいる限り、隠し事なんてできないのに」
「……どういうこと?」
「この空間が。この空間自体が、アンの腹の中」
そう言って、アンはニィと口角を上げた。
「……っ」
この異様な空間。闇の力で満たされた、マヤ・ナイラと似て非なるもの。太陽はなく、建物に影はない。無機質な空間。これが魔物の体内にできたものなら……納得はいく。
「どうして、ここが卒業試験の会場なの?」
「知らない。知らないけど、校長がそう言ったからそうしてるだけ。校長がデザインしたから、こんな形をしているだけ」
ぞ、と怖気が立つ。校長とは、何者なのだろう。魔物の腹の中を自在にデザインして、支配下に置いて、操っている。そんな芸当……どんな人物ならできるというのだ。
「逃げたいなら。逃げていいよ」
アンは実習室の扉を閉めていく。
「……全部、アンの中だけど」
アンは自嘲するように、ふっと笑って実習室に消えていった。




